第21話『僕にも協力させてくれないか』
第21話『僕にも協力させてくれないか』
冬の川辺には、まだ薄く氷の名残があった。
陽射しは柔らかく、風は冷たい。けれど、信吾の心は以前より少しだけ穏やかだった。
カッピーを連れて外に出るのは、森田にカッピーの命が救われたたあの出来事以来、初めてだった。
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森田 光
自然保護活動家で環境保護団体のトップ。熱血で行動派、川や生き物を守る使命感が強い。
第12話でカートごと流されたカッピーを飛び込んで助けた恩人でもある。
純粋に自然と生き物を愛し、誠実な行動で周りからの信頼も厚い。
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――あの日からしばらく経つ。森田は何も言わなかった。本当に何も。
町の掲示板にも、SNSにも、噂ひとつ流れていない。それが、何よりの証だった。
信吾はカートを押しながら、美沙と並んで歩いていた。
カートの中では、カッピーが保湿対策人バレ防止策として保湿効果のある薄手のマイクロファイバータオルにくるまってうとうとしている。小さな寝息が、時折「クル」と漏れるたび、信吾は胸の奥が温かくなった。
「……ねえ、またあの人に会ったら、ちゃんとお礼言おうね」
美沙が言った。
「森田さんだっけ?うん。森田さんがいなかったら、たぶん……カッピーは助からなかったし」
信吾が言う。
「うん」
二人の間に、冬の空気が静かに流れる。言葉が少なくても、気持ちはちゃんと伝わっていた。
そして――。
「おや、また会ったね」
その声に振り向いた瞬間、信吾の心臓が一瞬跳ねた。
川の上流側の土手に、見覚えのある背中があった。肩から大きなカメラを下げ、帽子のつばを軽く上げて笑う男――森田光だった。
相変わらず風に負けない明るい笑顔。
だが、その笑顔の奥に、あの日の出来事をしっかりと覚えている眼差しがあった。
「森田さん……!」
信吾が思わず声をかけると、森田は手を振りながらゆっくり近づいてきた。
「よかった。また会えて。あれからどうしてるかなって気になってたんだ」
「いろいろ……ご迷惑をおかけしました」
信吾は頭を下げた。あの日の光景が脳裏に蘇る。冷たい水の中で、必死にカッピーを抱き上げた森田の姿――。
「いやいや、迷惑なんてとんでもない。むしろ、君たちが無事で何よりだよ」
森田は軽く笑ってみせた。その声には一切の詮索も、好奇心もなかった。
ただの“人としての温かさ”があった。
カッピーがタオルの中から顔を出し、「クゥ」と小さく鳴いた。
「お、覚えててくれたのか?」
森田はしゃがみ込み、優しく目線を合わせた。
カッピーは少し照れたように顔を隠し、それでも嬉しそうに手足を揺らした。
その光景を見て、美沙も思わず微笑む。
「本当に、あの時はありがとうございました。森田さんがいなかったら……」
「いいっていいって。助けるのは当然だよ」
森田は照れくさそうに笑った。
「それに、あれ以来……どうも僕の中で気持ちが落ち着かなくてね」
「落ち着かない?」
信吾が聞き返すと、森田は少し視線を川の方に向けた。
「そう。あの日、僕は確かに“見た”んだ。夢でも幻でもなく、確かにそこにいた。……だけど、カッパは恐れの対象なんかじゃない。生きてるんだ。ちゃんと、息をしてる」
言葉のひとつひとつに、静かな熱がこもっていた。
森田は、胸の奥から絞り出すように言葉を続けた。
「信吾くん、美沙さん。……僕にも協力させてくれないか」
風が一瞬止まった気がした。
信吾は思わず聞き返す。
「協力って……どういう意味ですか?」
「この辺りの川の調査をしているんだ。水質、生態系、環境の変化――。
ただのデータ収集じゃなくて、“生き物たちの居場所を守るため”の活動だ。
だから、もし可能なら……君たちと一緒にこの川を見て回りたい。
君たちの“友達”が安心して暮らせるようにするために」
森田の声は真剣だった。押しつけるような強さではなく、誠実な願いの響きだった。
「でも……」
信吾が言葉を詰まらせる。
カッピーの存在は、正直あまり知られていいものではない。軽々しく協力などと言える立場ではなかった。
森田はその逡巡を理解しているように、ゆっくりと微笑んだ。
「無理にとは言わないよ。ただ、あの日の約束は今も守る。誰にも話さないし、君たちのことを裏切らない」
そう言って、そっとポケットから手帳を取り出す。
ページには、手書きのスケッチや観察メモがびっしりと並んでいた。
「ここ数年で、川の中流域の生き物が減ってる。外来種や水質の変化、環境の影響もある。
このままだと、この川が“生きてる場所”じゃなくなってしまう。
僕たちが出会った“カッパ”――それが本当にこの川にいるなら、きっとこの環境の変化に苦しんでるはずなんだ」
静かに閉じられた手帳の音が、冬の風に小さく響いた。
美沙が信吾を見る。信吾は迷いながらも、森田の真っ直ぐな瞳を見返した。
そこには恐れも好奇心もなく、ただ“守りたい”という誠実な思いだけが宿っていた。
「……信吾、私はいいと思う」
美沙の言葉は穏やかで、それでいて強かった。
「この人は嘘をつかない。あの時の目、覚えてる。あんな寒い川に飛び込める人が、悪い人なわけないよ」
信吾は少し黙ったあと、小さく息を吐いた。
「……わかりました。ただ、約束してください」
「もちろん。何でも言ってくれ。」
森田は真剣な表情でうなずいた。
「カッピーのことは、絶対に誰にも言わないこと。それと……ぼくらを裏切らないこと」
森田はまっすぐに頷いた。
「約束する。君たちの仲間は、僕の仲間でもある」
その言葉に、カッピーがタオルの中から顔を出し、「クゥ!」と短く鳴いた。
まるでその約束を受け入れたかのように、小さな手をひらひらと動かした。
「よし、じゃあさっそく今度の日曜にでも調査に行こう。
下流にある湿地帯の辺りは、カッパ――いや、水辺の生き物が過ごすにはちょうどいい環境なんだ」
「湿地帯……?」
「うん。昔は“眠り沼”って呼ばれてた場所だよ。人の立ち入りが少なくて、自然がよく残ってる。
ただ、最近は開発の話も出てる。だからこそ、今のうちに調べておきたいんだ」
信吾と美沙は顔を見合わせた。
“眠り沼”――どこかで聞いたことのあるような名前だった。
「ありがとう、森田さん」
森田が手を差し出すと、信吾は力強く握り返した。
「こちらこそ。……僕の方こそ、ありがとう。信じてくれて」
風が吹いた。冬の木立がざわめき、川面が光を返す。
その中で、四人は新しい一歩を踏み出した。
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川は、静かに流れている。
人と生き物を隔てる境界は、本当はとてもあいまいだ。
守りたいという願いが交わるとき、そこに“絆”が生まれる。
森田光という男が再び現れたのは、偶然ではなかったのかもしれない。
彼の熱が、信吾たちの迷いをとかしていく。
冷たい冬の空の下、確かに――小さな希望が息づいていた。




