第16話 『俺、カッパに会ったことあるぞ』
第16話 『俺、カッパに会ったことあるぞ』
桜小路邸から戻ったその夜、信吾のスマホが軽いバイブ音を立てた。
画面には「父さん」の文字が光っている。
「ん? 父さんからだ。なんだろう。」
信吾は通話ボタンを押した。
「──あぁ、信吾か。突然悪いな。」
「ちょっと待って、スピーカーモードにするから。」
ピッという音とともに、美沙の前にも父・茂夫の声が響いた。
「それにしても、急にどうしたの?」
信吾が尋ねる。
「母さんがな、久しぶりにお前達に帰ってこいって言っててな。」
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山之内 優子
信吾と美沙の母。茂夫の妻。
茂夫と喧嘩の末、家出状態だったが、ようやく帰ってきて、今は茂夫の動物病院を手伝っている。
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「へぇー、そうなんだ。確かに、お母さんが戻ってきてから一度も会ってないかも。」
美沙がうなずいた。
「俺は別にいつでもいいって言ったんだけどな。」
「まぁ、ぼくもそう思うけど……母さんと最後に会ったの、何年前だっけ。」
信吾が少し照れたように笑う。
「別にいいじゃん。こうやってお母さんがキッカケをくれてるわけだし。そうだ、カッピーを紹介しようよ。きっと喜ぶよ。」
美沙が軽い調子で言うと、信吾も「それもいいかもな」と頷いた。
そのとき、カッピーが眠そうに「クゥ」と鳴いた。
「……お前ら、ペット飼い始めたのか? なんか変な鳴き声だな。」
「カッパだよ。」
「は?」
「今、カッパと暮らしてるの。」
美沙が言った。
電話越しの沈黙が数秒続く。
「ちょっと美沙さん! その説明じゃ全然足りないって!」
信吾が慌てる。
向こうの茂夫は、くすっと笑ったようだった。
「まぁ、よく分からんけど……こっちは明日の夕方なら空いてるぞ。」
「分かった。じゃあ明日の夕方に行くよ。」
信吾が答える。
「おう。待ってる。」
そうして通話は切れた。
かくして信吾たちは、翌日、茂夫の動物病院へと向かうことになった。
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日曜の夕方。
信吾達が車で向かっていくと、見覚えのある白い外壁と青い看板が見えてきた。
動物病院の前には、冬の斜陽がやわらかく差し込んでいる。
受付の灯りは落とされていたが、扉の向こうには人の気配があった。
「休診日でも、やっぱり落ち着くね。」
美沙がつぶやく。
信吾はうなずき、ドアを押し開けた。
「おぉ、来たか。まぁ入れ。」
奥から現れたのは、白衣姿の茂夫だった。
無駄のない動きで近づくと、信吾の肩を軽く叩く。
「父さん。ただいま。」
信吾が笑う。
「母さんは?」
信吾が尋ねる。
「買い物行ってる。『カッパが来る』って言ったら、慌ててキュウリ買いに行ったぞ。」
茂夫が苦笑する。
「ああ、なんか母さんっぽいね。」
美沙が吹き出した。
信吾達は病院内の待合室に入り、腰を下ろす。
「それにしても……お前達が本当に“カッパ”を連れてくるとはな。」
茂夫は半信半疑の表情のまま、そっとカートの中を覗き込んだ。
そこには眠そうに目をこすっているカッピーがいた。
「クゥ……」
「ふむ……良い顔つきしてるな。」
茂夫の目がやさしく細まる。
その視線には、ただの動物好きではない、どこか深い記憶が滲んでいた。
信吾は首をかしげる。
「父さん、カッピー見て驚かないの? 普通、もっと『なんだこれ!』って反応しない?」
茂夫は小さく笑って肩をすくめた。
「あぁ、普通はそうなんだが、前にもドラゴンの“ゴンちゃん”を連れてきただろ? あの時で、変な免疫がついちまったのかもな。」
「あぁ……たしかに、あれもかなり衝撃的だったもんな。」
信吾は苦笑いしながら頷いた。
「父さん、カッピー見てる時、なんか表情が違うね。」
美沙が首をかしげる。
「……まぁな。」
茂夫はソファーに腰を下ろし、視線を落とした。
その横顔には、少年のような懐かしさが一瞬よぎる。
「実は俺な、昔──カッパに会ったことがあるぞ。」
その言葉に、信吾と美沙は同時に顔を見合わせた。
「えっ? 本当に?」
「もう半世紀以上前の話だけどな。
小学生の頃、夏休みに川で迷って……流されかけたんだ。
そのとき、緑色の頭をした小さな影が、俺を岸まで引っ張り上げてくれた。」
「……助けてくれた、ってこと?」
信吾が身を乗り出す。
「そうだ。誰も信じちゃくれなかったが、あの“手”の感触は今でも覚えてる。」
茂夫の声は穏やかで、どこか懐かしさを含んでいた。
カッピーはその話を聞いていたのか、「クゥ」と短く鳴き、茂夫の手に頬を寄せた。
「……もしかして、あの時の恩返しかもしれんな。」
茂夫がふと呟く。
「いやいや、半世紀も前なら、カッピーのご先祖様くらいの世代でしょ。」
信吾が笑いながら言うと、茂夫は肩をすくめた。
「そうかもしれんが──何となく、同じ“匂い”がするんだ。」
茂夫が優しく言う。
その言葉に、信吾は一瞬だけ息を止めた。
部屋の空気が、ほんのりと温かくなる。
信吾は思った。
カッピーがここに来たのは、ただの偶然じゃないのかもしれない──と。
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その時、院内に明るい声が開いた。
「ただいま〜。」
優子が買い物袋を抱えて帰ってきた。
「あっ、母さん。おかえりなさい。」
「お帰り。」
信吾と美沙が同時に声をかける。
「信吾も美沙も、久しぶりね。いろいろ心配させて、ごめんなさいね。」
優子が微笑む。
「ううん。別にいいよ。やっと家族が揃ったわけだし。」
信吾が答える。
優子は袋をソファーに置き、カッピーに目をやった。
「まあ、本当にカッパなのね。可愛い。」
その声に、カッピーが「クゥ」と鳴いた。
「カッピーって言うの。」
美沙が言う。
「カッピー。いい名前ね。──そうだ、カッピー、キュウリ食べる?」
優子が嬉しそうに袋をあさる。
だが、取り出したのは少し太めの緑の野菜。
「母さん……それ、ズッキーニじゃない?」
信吾が苦笑する。
「あらっ、私、間違えちゃったみたい。」
優子は頬を押さえて笑った。
その様子に美沙も吹き出す。
「なんかお母さんっぽくて、安心するなぁ。」
信吾がつぶやくと、茂夫はそんな家族を静かに見つめていた。
その目には、ようやく戻ってきた“日常”への感謝が宿っていた。
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──川の流れのように、時は過ぎても、
人と人の縁は、どこかでつながっている。
そして、思いがけない再会が、また新しい絆を生み出す。
カッピーは小さく「クゥ」と鳴き、
まるでその光景を祝福するかのように、小さな手をゆらした。




