第14話『カッピー、ルネを怖がる』
第14話『カッピー、ルネを怖がる』
冬の陽射しが、街を静かに包んでいた。
冷たい風が吹くたび、木々の枝がかすかに鳴り、枯葉がころころと転がっていく。
信吾は赤荻さんからの連絡を受けた。
桜小路さんが「カッピーの様子を気にしている」とのこと。
近況報告も兼ねて、一度顔を見せてはどうか――そんな提案だった。
信吾と美沙は、週末を選び、カッピーを連れて桜小路邸を訪れることにした。
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「相変わらず、すごい家だよね……。もう何度か来てるけど、全然慣れない」
門の前に立ち、美沙は息を呑む。白い外壁と蔦の絡まる門扉。その奥に広がる庭園には、冬の草花が手入れされ、静かな気品を放っている。
「そうだね。カッピーも緊張してるのかな」
信吾は微笑みながら、足元のカートを覗き込んだ。
中では、カッピーが小さく丸くなって眠っていた。
ふにゃりとした表情で、水気を帯びた肌が光を反射している。
「大丈夫。寝てる」
美沙はそっと声を落とし、安心したように微笑んだ。
「そっか、それなら安心だね。乾燥するから霧吹きで少し水をかけておいて」
信吾が言うと、美沙は頷き、小さな霧吹きを取り出した。
美沙はカッピーの身体と頭の上にやさしく霧を吹きかける。
霧の粒が光を受けてきらりと揺れ、その静かな光景に、信吾も自然と頬を緩めた。
しばらくして、黒い制服を着たメイドが門の内側から現れ、丁寧に頭を下げた。
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
二人は礼を言い、敷地内へと足を踏み入れる。
冬枯れの庭に差す陽光が、白い息を淡く照らしていた。
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玄関前に差しかかると、そこに桜小路さんとルネの姿があった。
ルネはふわふわの毛並みをなびかせ、相変わらず堂々とした佇まい。
桜小路さんはその横で優しく微笑んでいた。
「今日はわざわざ来てくださってありがとう」
穏やかな声が冬の空気に溶ける。
「いえいえ、とんでもないです。呼んでいただき、こちらこそありがとうございます」
信吾が深く頭を下げ、美沙も同じように挨拶を添える。
桜小路さんはうなずき、目を細めた。
「あれからカッピーは元気にしているかしら?」
「はい。すごく元気です。兄弟みたいな友達もできて、毎日楽しそうです」
信吾は笑顔で答える。
「あらっ、それは良かったわ。本当に……。一緒にいられる時間は少なくても、良い経験になるわね」
桜小路さんは嬉しそうに微笑んだ。
その言葉に、信吾は笑みを返し、カートの中を覗き込んだ。
「カッピー……寝てますね」
「ふふ、わざわざ起こす必要はないわ。寒いですもの。室内に入りましょう」
桜小路さんはそう言って、玄関の方を手で示した。
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案内されたのは、広々としたゲストルームだった。
壁際には暖炉があり、ゆらゆらと揺れる炎が部屋全体を暖めている。
香ばしい薪の匂いと、静かなクラシックの旋律が重なり合う。
桜小路さんは椅子に腰かけながら、にこやかに言った。
「今日はね、私よりもルネのほうが楽しみにしていたの」
その隣で、ルネが礼儀正しく床に伏せている。大きな尻尾をゆっくりと揺らしていた。
信吾は微笑み、頷いた。
「ゴンちゃんの時はすぐに仲良くなりましたもんね」
「うん、二人のあの雰囲気、好きでした」
美沙も懐かしむように言った。
「そうなの。でも少し心配でね。家にお邪魔した時にも言ったけれど……カッピーは、ルネを怖がるんじゃないかしらって」
桜小路さんが小さく息をついた。
その言葉に、信吾は少し苦笑しながらカートを覗き込む。
ちょうどそのタイミングで、カッピーが「クゥ……」と小さく身を動かした。
まぶたがゆっくりと開き、柔らかい光を映す。
「起きたみたいだね」
信吾はそっと抱き上げ、床の上に降ろす。
カッピーは初めて見る豪華な部屋にきょとんとした様子で周囲を見渡した。
壁にかかった絵画、天井のシャンデリア、暖炉の揺らめき――。
そのすべてが不思議で、少し怖くもあるようだった。
その時だった。
ルネが嬉しそうに「ゥワンッ!」と鳴き、尻尾を勢いよく振りながら駆け寄ってきた。
「わっ……!」
信吾の足元で、カッピーの体がびくりと震えた。
目を丸くして、ルネを見つめる。
次の瞬間、「クゥッ!」と短く鳴き、小さな手で自分の顔を隠すようにして、再び信吾の足元へ逃げ込んだ。
「やっぱり怖いか。まぁ、自然界じゃルネみたいな大きな犬に出会うことなんてないもんな……」
信吾は苦笑混じりに言いながら、カッピーの背をそっと撫でた。
「残念ね……」
桜小路さんが少し寂しそうに呟く。
その言葉を聞いたルネは、しゅんと耳を伏せ、低く「ウォン……」と鳴いて静かに伏せた。
大きな瞳が、少しだけ悲しげに揺れている。
「大丈夫だよ、ルネ。またチャレンジしてみようね」
美沙が優しく微笑み、ルネの頭を撫でた。
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それからしばらく、信吾たちは暖炉の前で近況を語り合った。
カッピーと正人のこと、新聞記者の小林や川辺で出会った森田のこと、最近覚えた仕草――。
桜小路さんは穏やかに頷きながら、何度も「そうなのね」と口にした。
だがその間も、カッピーはルネのほうをちらりと見ては、すぐに目を逸らした。
ルネもまた、近づくことなく静かに床に伏せていた。
その距離は、ほんの数メートル。けれど、越えられない壁のように静かだった。
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帰り際、桜小路さんは小さな籠を抱えて戻ってきた。
「これ、持っていって。カッピーのお料理の時に使えるお野菜と、ちょっとした保存食。それに――カッピーに似合いそうなアイテムも少し」
「えっ、こんなにたくさん……ありがとうございます」
美沙が目を丸くし、信吾も慌てて受け取る。
「いいのよ。今日は本当に楽しかったわ。また来てね。ルネのためにも」
桜小路さんが微笑むと、ルネは静かに「ウォフ」と短く鳴き、尻尾を揺らした。
信吾が玄関の方へ向かうと、カートの上でカッピーがゆっくりと振り返り、ルネのほうを見た。
その視線に気づいたルネは、低く優しく「ウォン」と鳴く。
それは、まるで「またね」と言っているようだった。
カッピーはしばらく見つめたあと、小さく「クゥ……」と鳴き、再びカートの中で体を丸めた。
その様子を見て、桜小路さんは静かに微笑んだ。
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車に乗り込むと、信吾はハンドルを握りながらぽつりと呟いた。
「……少し時間がかかるかもな。あんまり時間も無いんだけどな」
「うん。でも、きっと大丈夫だよ」
美沙の声が柔らかく響く。
冬の夕陽が、屋敷の屋根を赤く染めていく。
車の窓の外、冷たい風の中で、桜小路さんとルネが静かに見送っていた。
カッピーとルネ。
それは、恐れと興味の狭間に生まれた小さな物語の始まりだった。
少しずつでいい。
時間は無いが、一歩ずつ心を通わせていけばいい。
近い日、二つの瞳がまっすぐに重なるその時を信じて――。




