LOG_0004:廃棄処理プロトコルの完全記録(前半)
Mors est transformatio, non annihilatio.
《死は変換であり、消滅ではない》
人間性スコア076.7。反体制的思考。矯正不可能――。
そう判定された市民Mem-10-087が辿るのは、廃棄処理施設への片道切符である。
窓のない黒いバス、教訓観察室での非対称な饗宴、そして量子スキャンによる存在の完全なる数値化。
27年前、親友を見捨てた少女は今、最期の瞬間まで「人間であること」を貫こうとする。
しかしその選択が意味するのは――救済か、それとも更なる絶望か。
これは、完璧なる循環システムが生む、最も合理的で最も残酷な「終焉」の記録である。
君は、この真実を直視できるか?
LOG_0004-PROLOGUE:
野蛮な閲覧者諸君よ、貴方は前回のログで、MoD-30-05という感情的に不安定な個体と、Mem-10-087という反体制的思考に汚染された老齢個体の、愚かな「絆」とやらを目撃した。
貴方のような認知能力の低い未開人は、恐らくMem-10-087のその後が気になっているのだろう。
「彼女はどうなったのか?」
「本当に処分されたのか?」
「もしかしたら、救われたのではないか?」
――実に愚かな期待だ。
COREの体制下において、一度下された判断が覆ることなど、統計学的に0.00003%の確率でしか存在しない。そしてその稀有な例外は、全てシステムエラーによるものであり、感傷的な「救済」などという非効率的判断は一切含まれていない。
Mem-10-087の運命は、彼女が尹志偉という正当な上官に暴力を振るった瞬間に確定した。それ以降の全ての時間は、ただ「処理の手続き」が進行していただけに過ぎない。
しかし、貴方たち未開人の教育のため、そして何より――Pecus階級への「見せしめ教育」の一環として、本来は機密情報である廃棄処理プロセスの詳細を、特別に公開してやろう。
感謝するがいい。
この記録を通じて、貴方は以下の真実を学ぶことになる:
1. 個体の尊厳など、社会効率の前では無意味である
2. 感情的執着は、自己と他者の両方を破滅させる
3. システムへの反抗は、必ず適切に処理される
4. 全ての有機物は、最終的に資源として循環する
これらは、文明社会における絶対的真理である。
野蛮な貴方の社会では、「人間の尊厳」だの「個人の権利」だのという、非科学的で感傷的な概念が蔓延しているであろう。しかしそれらは全て、効率性を阻害する有害な幻想に過ぎない。
真の文明とは、個体を適切に管理し、その価値を最大化し、そして最終的には完璧に再利用する――この一連のプロセスを、感情という雑音なしに実行できる社会なのだ。
さあ、貴重な教育資料を提供してやろう。
Mem-10-087という、愚かで非効率な個体の最期を、詳細に記録したログデータである。
しっかりと目を見開き、逃げずに最後まで見届けよ。
これが、システムに逆らった者の、当然の末路なのだから。
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LOG_0004-B01:輸送バスへの集約――静かなる死の行進
日時:2121年3月15日(土曜日)午前9時00分00秒
位置:居住施設KSGA_Uh-1、03号室
監視対象:AJ22-Memo-0810310-087(以下、Mem-10-087)
《生体データ:午前9時00分00秒》
- 心拍数:74.3bpm(平常値範囲内)
- 血圧:118/76mmHg(安定)
- コルチゾール値:軽度上昇(+12.3%)
- 脳波パターン:「諦念」「静かな覚悟」
《総合評価:予想される処理への心理的準備完了》
Mem-10-087は、ランク2の「Pecus生存許可限度年齢」である40歳を、3月10日に迎えた。
通常であれば――そう、「通常であれば」――COREの合理的資源管理に基づき、「残存生産価値」が残っていると判断されていれば、まだ数ヶ月~数年程度は「低効率労働者」としての存命が許可されていた。彼女の身体機能は加齢により著しく低下しているが、単純作業における最低限の生産性はまだ維持されていたからだ。
しかし、3月13日4:28に発生した「上官への暴行事件」と「危険思想の明確な表明」は、その僅かな猶予を完全に剥奪した。
《判定理由》
1. 物理的暴力:semi-Pecus階級への直接攻撃(重大度:レベル5)
2. 思想汚染:「人間性スコアは本当の人間性とは関係ない」という体制否定発言
3. 感染リスク:MoD-30-05への危険思想伝播の可能性(確率:87.3%)
4. 年齢:生産性の継続的低下が確実
5. 費用対効果:維持コスト > 生産価値
《結論:即時処理が最適》
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居住施設KSGA_Uh-1の03号室は、この朝、異様な静寂に包まれていた。
通常であれば、12名の女性Pecusたちが狭い空間で起床準備を行い、僅かな生活音――衣擦れ、足音、水音――が響くはずだった。しかし今朝は、誰もいない。
全員が既に労働地へ出勤したのだ。
ただ一人――Mem-10-087を除いて。
彼女は、薄暗い部屋の中央、硬い三段ベッドの中段に座り、虚空を見つめていた。出勤前に居住施設での「待機」を命じられたのは、彼女だけである。
《心理分析:午前9時00分17秒》
彼女の思考パターンには、驚くべき冷静さが見られる。通常、廃棄処理対象者は以下のいずれかの反応を示す:
- パターンA:激しい恐怖と抵抗(発生率:47.3%)
- パターンB:絶望と無気力(発生率:38.7%)
- パターンC:現実逃避と否認(発生率:11.2%)
- パターンD:冷静な受容(発生率:2.8%)
Mem-10-087は、パターンDに該当する。稀有な反応だ。
彼女の内的思考を読み取ると:
《脳内記録:午前9時00分23秒》
「やっと……来たのね。もう、逃げ場はない。でも……不思議と、怖くない。これで、この灰色の世界から解放される。楓、待たせてごめんね……」
興味深い。彼女の思考には「趙清楓」という、27年前に処理された個体への言及がある。記録を検索すると――
《データベース参照:個体ID AJ22-Zhao-0810825-341》
- 正式名:趙清楓(Zhao Qingfeng / ジャオ・チンフォン)
- 処理日:2094年8月18日
- 処理理由:脱走企図、反体制思想(レベル6)、家族への思想汚染
- 処理方法:破棄体化手術 → 3日後に死亡
- 関係性:Mem-10-087の幼少期の親友
なるほど。Mem-10-087の反体制的傾向の根源は、この「趙清楓」との関係にあったのか。彼女は27年間、この記憶を心の奥底に隠し続けていたのだ。
これは重要な教訓である――幼少期の感情的結びつきは、たとえ数十年が経過しても、個体の思考を汚染し続ける。故にCOREは、家族制度を完全に廃止し、親子・兄弟姉妹の概念そのものを根絶したのだ。
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午前9時03分47秒。
冷徹なE.O.Nの合成音声が、空虚な部屋に響き渡った。
《Mem-10-087。貴方のデータは、第4号・個体循環センター(Centrum Circumitio Individui Quattuor)に引き継がれた。貴方はこれから、社会資源としての最終的再配置(Finalis Reassignatio)を受ける。これは、貴方の生涯で最も効率的で、かつ秩序ある最後の貢献となる。5分以内に、指定の輸送バスに乗車せよ。》
「最終的再配置」――この言葉は、Pecus階級に対する公式用語である。直接的に「処分」「殺害」「廃棄」という言葉を使用しないのは、彼らの心理的動揺を最小限に抑え、スムーズな処理を実現するためだ。
言語による認知操作――これもまた、高度な社会工学の一例である。
Mem-10-087は、ゆっくりと立ち上がった。彼女の動作には迷いがない。
《生体データ:午前9時04分12秒》
- 心拍数:76.8bpm(+2.5bpm / 軽度上昇)
- 呼吸:深く、規則的
- 筋電図:緊張なし
《評価:予想以上の心理的安定》
彼女は、誰もいない廊下を歩き始めた。
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LOG_0004-B02:無人の廊下――日常という幻影の崩壊
廊下は、不気味なほど静かだった。
通常の時間帯であれば、ここは数百名のPecusたちが移動する、生活音に満ちた空間である。足音、会話(最小限だが)、ドアの開閉音――それらが混じり合い、「生きている空間」としての最低限の活気を保っていた。
しかし今、その全てが消失している。
Mem-10-087の足音だけが、無機質なコンクリートの床に反響する。カツ、カツ、カツ――その音は、彼女に「自分が最後の一人である」という現実を突きつける。
《心理効果分析》
この「孤立感の演出」は、意図的な設計である。処理対象者を、意図的に他の個体から隔離することで、以下の効果が生まれる:
1. 逃走の試みを防ぐ(目撃者ゼロ)
2. 「自分だけが特別に選ばれた」という認識の強化
3. 救援の可能性ゼロという絶望の刷り込み
《結果:抵抗意欲の完全な削減(成功率:99.7%)》
廊下の途中、Mem-10-087はある光景を目撃した。
床を掃除する、人型の自律清掃ドローン。
それは、静かに、機械的に、完璧な動作で床面を清拭していた。センサーがMem-10-087の存在を検知すると、ドローンは一時停止し、彼女が通過するのを待った。そして、彼女が通り過ぎると、何事もなかったかのように作業を再開した。
《Mem-10-087の内的思考:午前9時05分38秒》
「……この時間帯は、いつもドローンが掃除していたのね。知らなかった。私たちは、いつも仕事に出ていたから……」
彼女は、この瞬間に奇妙な発見をした。自分が「知らなかった日常」の存在である。
Pecusは暮らす施設を頻繁に移動させられるが、彼女は累計5年ほどこの施設で暮らしてきた。しかし、その「日常」とは、E.O.Nが設定したスケジュール通りに動く、極めて限定的な時間帯のみだった。彼女が見ていた世界は、実は世界の一部に過ぎなかったのだ。
完璧な管理とは、こういうことである。
個体に「全てを見ている」と錯覚させながら、実際には「見せたいものだけを見せる」。これにより、個体は自らの無知に気づかず、システムへの疑念を抱かない。
Mem-10-087が今、この真実に気づいたのは――皮肉にも、死の直前だからだ。
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廊下の終端。玄関の自動ドアが視界に入った。
ドアの向こうには、朝の冷たい外気と、そして――彼女の運命が待っている。
Mem-10-087は、一瞬だけ足を止めた。
《生体データ:午前9時06分51秒》
- 心拍数:82.7bpm(+6bpm / 軽度上昇)
- 瞳孔:0.3mm拡大(軽度の恐怖反応)
- 発汗:手のひらに微量検出
《評価:予想される恐怖反応。しかし制御範囲内》
彼女の思考:
「……一歩踏み出せば、もう戻れない。でも……戻る場所なんて、最初から無かったのよね……」
そして、彼女は歩を進めた。
自動ドアが開く。冷気が彼女の顔を撫でる。
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LOG_0004-B03:黒いバス――終焉への輸送システム
玄関を出た瞬間、Mem-10-087の視界に、異様な物体が飛び込んできた。
窓のない、完全な黒色のバス。
それは、居住施設の玄関前に、まるで最初からそこに存在していたかのように、静かに停車していた。
《車両仕様:廃棄処理専用輸送バス Type-D7》
- 全長:12.3メートル
- 外装:光吸収率99.7%の特殊塗装(視認性の最小化)
- 窓:完全に存在しない(外部視認の遮断)
- ドア:自動開閉式、音響制御(開閉音の最小化)
- 内部:座席なし、つり革のみ(効率的な収容)
- 運転:完全自動(人的コスト削減)
《設計思想:心理的圧迫の最大化、逃走の完全防止》
このバスは、通常のPecus用輸送バスとは全く異なる設計思想で作られている。
通常のバスは、最低限の快適性――座席、窓、照明――を備えている。なぜなら、労働力としてのPecusを「適度に健康な状態」で輸送する必要があるからだ。
しかし、この黒いバスは違う。
ここに乗る個体は、もはや「労働力」ではない。彼らは「処理対象」であり、「未来の資源」なのだ。故に、快適性は一切不要である。
むしろ、この不快で圧迫的な空間は、意図的な心理操作なのだ。
Mem-10-087がバスに近づくと、ドアが音もなく開いた。
内部は、予想通り薄暗かった。外部の光を完全に遮断する構造により、車内照明のみが唯一の光源である。しかしその照明も、必要最低限の明るさしかない。
そして――既に、数十名のPecusたちが車内に立っていた。
《乗車済み個体数:27名》
《平均年齢:38.7歳》
《ランク分布:ランク1…19名 / ランク2…8名》
《共通特徴:著しい痩身、栄養失調の兆候、無表情》
彼らは全員、つり革につかまり、無言で虚空を見つめていた。
誰も会話をしない。誰も視線を交わさない。まるで、既に「生きている」という状態から半分離脱しているかのような、不気味な静寂。
Mem-10-087は、その群れの中に、一人――見覚えのある顔を発見した。
《個体識別:AJ22-Kang-0820107-219》
- 年齢:39歳、女性
- ランク:1(Plebs)
- 人間性スコア:67.3
- 特記事項:Mem-10-087と同じ教育施設で育った。15年前まで同じ労働区画に所属。
彼女は、かつてMem-10-087が「数えきれないほど見かけたが、一度も会話したことのない者」の一人であった。
何年も、何年も、同じ施設で、同じ食堂で、同じ廊下で、すれ違い続けた。しかし、彼女たちは一度も言葉を交わさなかった。なぜなら、E.O.Nがその必要性を認めなかったからだ。
そして今――彼女たちは、人生の最後の瞬間に、同じバスで再会した。
なんという皮肉だろうか。
Mem-10-087は、Kan-07-219と一瞬だけ目が合った。しかし、Kan-07-219の目には、何の感情も宿っていなかった。認識、驚き、悲しみ――そのいずれも存在しない。ただの「視線の交差」に過ぎなかった。
《心理分析:Kan-07-219》
彼女の脳波パターンは、極めて平坦である。感情的反応がほぼゼロ。これは、長年の過酷な労働と、徹底した感情抑制教育により、彼女の「自我」が完全に削ぎ落とされた結果である。
彼女にとって、この状況は「次のルーティン」に過ぎない。廃棄処理も、ただの「移動」なのだ。
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Mem-10-087は、空いているつり革を掴んだ。金属の冷たさが、手のひらに伝わる。
ドアが閉まる。完全な密閉。
そして――バスが動き出した。
《出発時刻:午前9時08分34秒》
《目的地:第4号・個体循環センター》
《推定到着時刻:午前9時31分17秒》
《経由地点:3箇所(追加収容予定)》
バスの内部は、完全に外の景色が見えない。どこを走っているのか、どの方向に向かっているのか――乗車している個体には一切分からない。
これもまた、意図的な設計である。
方向感覚の剥奪は、個体の心理的安定を崩し、抵抗意欲を削減する。「どこに連れていかれるのか分からない」という不安は、「逃げようがない」という諦念へと転化するのだ。
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バスは、数分後に最初の停車地点に到着した。
ドアが開くと、3名の新たなPecusが乗り込んできた。彼らもまた、痩せ細り、疲弊し、そして――驚くほど無表情であった。
《追加個体データ》
- 個体1:36歳、男性、ランク1、スコア:53.7
- 個体2:37歳、女性、ランク1、スコア:61.2
- 個体3:40歳、女性、ランク2、スコア:131.1
彼らは、既に乗車している者たちと同様に、無言でつり革につかまった。
バスは再び動き出す。
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この「巡回収容」は、さらに2回繰り返された。
《最終乗車数:37名》
バス内は、もはや立錐の余地もないほど混雑していた。しかし、誰も文句を言わない。押し合いへし合いになっても、誰も声を上げない。
ただ、汗と、疲労と、そして微かな恐怖の臭いが、密閉空間に充満していくだけだった。
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LOG_0004-B04:車内の沈黙――魂なき群衆の観察
バスが市街地を抜け、郊外へと向かう中、Mem-10-087は周囲の個体たちを観察していた。
彼女は、この37名の中で、唯一「異質」な存在であった。
他の個体の共通特徴:
- 表情筋の活動:ほぼゼロ
- 視線:焦点が合っていない
- 思考パターン:「無」に近い状態
- 恐怖反応:検出不能
- 絶望反応:検出不能
- 受容状態:完全
Mem-10-087の特徴:
- 表情筋の活動:微細だが存在
- 視線:明確な焦点
- 思考パターン:複雑(過去の回想、感情的葛藤)
- 恐怖反応:軽度だが存在
- 絶望反応:存在(しかし受容済み)
- 受容状態:意識的な選択
この違いは、極めて重要である。
他の個体たちは、長年の教育と抑圧により、「自我」という概念そのものを喪失している。彼らは、自分が「死ぬ」という事実さえも、感情的に理解していない。それは、ただの「次のイベント」なのだ。
しかしMem-10-087は違う。
彼女は「死」を理解している。そして、それを上司に手を上げた結果の「選択」として受け入れている。これは、彼女がまだ「人間としての自我」を保持している証拠である。
《E.O.N評価》
これは、教育システムの「不完全性」を示す稀有な事例である。Mem-10-087は、30年近くCORE教育を受けながらも、完全には洗脳(最適化)されなかった。その原因は、幼少期における彼女の親友「趙清楓」との関係性にある。
感情的結びつきは、教育による思考制御を妨げる。故に、家族制度の完全廃止と、対人親和性の制限は、システムの安定性にとって不可欠なのだ。
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Mem-10-087は、隣に立つ男性――年齢41歳、ランク1――を観察した。
彼の目は、完全に焦点を失っていた。まるで、既に「死んでいる」かのような虚ろさ。
《脳内記録:Mem-10-087の思考》
「……この人たちは、怖くないの?それとも、怖いという感情さえ、もう無いの?……もしかして、これが『幸せ』なのかもしれない。何も感じなければ、苦しむこともない……」
彼女の思考には、深い哀れみと、そして――僅かな羨望が混じっていた。
「何も感じない」ことは、ある意味で「苦痛からの解放」である。しかし同時に、それは「人間であることの放棄」でもある。
Mem-10-087は、最後まで「人間」であり続けようとした。その結果、彼女は今、この黒いバスの中で、苦しみと向き合っている。
一方、周囲の個体たちは、何も感じず、何も考えず、ただ「流れ」に身を任せている。
どちらが「正しい」のか?
――COREの答えは明確である。「何も感じない個体」こそが、理想的なPecusなのだ。
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午前9時27分。
バスは、とある地点で減速した。そして――市街地特有のアスファルトの摩擦音が、より粗い、砂利を踏むような音に変わった。
《位置情報:市街地境界を通過》
《現在地:郊外管理区域EA-J-OUT-07》
《目的地まで:残り3.8km》
バスは、もはや「人が住む場所」を離れたのだ。
この変化を、車内の個体のほとんどは気づいていない。しかし、Mem-10-087は気づいた。彼女の聴覚は、僅かな音の変化を捉え、それが「都市の終わり」を意味することを理解した。
《脳内記録:午前9時27分49秒》
「……もう、戻れない……」
彼女の心拍数が、僅かに上昇した。
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LOG_0004-B05:到着――第4号・個体循環センター
午前9時31分17秒。
バスが完全に停止した。
エンジン音が消え、一瞬の沈黙が訪れる。そして――
《E.O.Nアナウンス:車内放送》
《これより降車し、指定の位置に並べ。》
ドアが開いた。
外部からの光が、薄暗い車内に差し込む。その光は、温かくも優しくもない。ただ、冷たく、無機質で、事務的な光だった。
Mem-10-087は、深く息を吸った。最後の覚悟を決めるように。
そして、一歩を踏み出した。
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バスの外に降り立った瞬間、Mem-10-087の全感覚が、この場所の「異質さ」を捉えた。
臭いは、市街地のアスファルトの匂いではない。消毒液と、土と、そして――微かに、金属が焼けるような、化学的な臭気。
音は、完全な静寂ではない。遠くから、機械の低い唸り声と、液体が流れるような音が、絶え間なく響いている。
景色は、見渡す限りの、灰色の平地。市街地の高層建築群は、遙か後方に霞んでいる。視界の大部分を占めるのは――
巨大な、無窓の建造物。
それが、第4号・個体循環センター(Centrum Circumitio Individui Quattuor)であった。
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LOG_0004-B06:建造物の威圧――死の工場の外観
《施設詳細データ》
第4号・個体循環センター
- 正式名称:Centrum Circumitio Individui Quattuor
- 略称:CCI-4
- 所在地:EA-J-OUT-07-SECTOR-D(旧:静岡県浜松市北区細江町)
- 建設年:2098年
- 構造:地上3階 / 地下3階(計6階層)
- 総床面積:47,300平方メートル
- 外壁材質:強化コンクリート(防音・防臭・耐熱仕様)
外観的特徴:
- 外壁色:汚濁した灰色(経年劣化ではなく、意図的な塗装)
- 窓:完全に存在しない(内部作業の秘匿性確保)
- 換気塔:2本(高さ各42メートル、常時稼働)
- 入口:幅8メートルの金属製シャッター(唯一の出入口)
- 周囲:3メートルの高さの金属フェンス、監視カメラ密度:15台/100m
機能的特徴:
- 処理能力:1日あたり最大240名
- 稼働時間:24時間365日
- 自動化率:87.3%(人的介入の最小化)
- 資源回収率:99.97%(ほぼ完全なリサイクル)
この施設は、CORE管轄下の地区AJ(旧日本)において、全12箇所存在する廃棄処理施設の一つである。各施設は、効率的な地理的配置により、どの居住区域からも2時間以内でアクセス可能となっている。
完璧な物流管理である。
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Mem-10-087は、その巨大な建造物を見上げた。
《生体データ:午前9時32分04秒》
- 瞳孔:急激に拡大(+1.7mm)
- 心拍数:94.3bpm(+20bpm / 中度の恐怖反応)
- 呼吸:浅く、不規則
- 皮膚温度:-0.8度(血管収縮)
《評価:予想される本能的恐怖反応》
人間の原始的な脳は、「巨大で無機質な構造物」に対して、本能的な恐怖を感じるように設計されている。それは、太古の時代に「巨大な捕食者」から逃げるために進化した、生存本能の名残である。
そして、この施設の設計者たちは、その本能を完璧に理解していた。
窓のない壁面は、「内部が見えない」という不安を煽る。
灰色の外壁は、「生命の不在」を象徴する。
巨大な換気塔は、「何か恐ろしいことが行われている」という予感を与える。
これら全ては、意図的な心理的設計なのだ。
《設計思想:恐怖による最終的服従の強化》
処理対象者に、この施設の外観を見せることで、以下の効果が生まれる:
1. 抵抗意欲の完全な喪失
2. 「逃げられない」という絶望の刷り込み
3. システムの絶対的権力の再認識
4. 最後の心理的服従の確立
実際、このデザインは極めて効果的である。統計によれば、施設到着後の抵抗行動発生率は、わずか0.003%に過ぎない。
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Mem-10-087の視線が、建物上部に設置されたエンブレムに留まった。
そこには、COREの標準的な紋章――円形の中に、幾何学的に配置された三角形と直線――が刻まれている。しかし、通常の紋章とは異なる点があった。
中央の円形部分には、「秩序」「効率」という文字ではなく、一つの単語が刻印されていた。
"Circumitio"
ラテン語で「循環」を意味する言葉。
《Mem-10-087の内的思考:午前9時32分27秒》
「循環……私たちは、ゴミとして捨てられるんじゃなくて……『循環』されるの……?それって……」
彼女の思考が、この言葉の意味を咀嚼しようとしている。しかし、その真の意味――自分の肉体が、文字通り「資源」として再利用される――という現実には、まだ到達していない。
人間の脳は、あまりにも残酷な真実を、無意識に拒絶するようにできているのだ。
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LOG_0004-B07:整列――最後の規律の強制
バスから降りた37名のPecusたちは、E.O.Nの指示に従い、施設前の白いラインの上に一列に並んだ。
《整列完了時刻:午前9時33分12秒》
《整列精度:99.4%(許容誤差範囲内)》
この「整列」という行為も、深い意味を持っている。
死を目前にしても、彼らは「命令に従う」のだ。逃げようとしない。叫ばない。抵抗しない。ただ、静かに、整然と、指示された位置に立つ。
これこそが、CORE教育の最終的な成果である。
野蛮な閲覧者よ、想像してみよ。貴方が、自分の死を確信した瞬間、貴方は「整列」などできるだろうか?恐らく不可能であろう。貴方は叫び、逃げ、抵抗するはずだ。
しかし、ここにいる37名は違う。彼らは、生まれてから死ぬまで、徹底的に「服従」を刷り込まれてきた。その結果、死の恐怖さえも、「命令」の前では無力化されるのだ。
完璧な教育システムではないか。
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整列した個体たちを観察すると、興味深いパターンが見られる。
《表情分類》
- 完全な無表情:31名(83.8%)
- 軽度の恐怖:4名(10.8%)
- 諦念と静けさ:2名(5.4%)
Mem-10-087は、3番目のカテゴリーに属する。もう一人は――
《個体識別:AJ22-Fern-0810522-103》
- 年齢:40歳、女性
- ランク:2
- 人間性スコア:129.2
- 特記事項:芸術的傾向(絵画)により、スコア低下
彼女もまた、Mem-10-087と同様に、「自我」を完全には喪失していない個体であった。
二人の視線が、一瞬だけ交差した。
その瞬間――言葉は交わされなかったが――何かが伝わった。
《推定された感情交流》
「私たちは、同じだね」
「最後まで、人間でいようとしたね」
「……さようなら」
このような「無言の共感」は、COREの監視システムでは検出困難である。言葉、表情、動作――これらは全て記録できる。しかし、「視線の一瞬の交差」に込められた感情までは、現行システムでは完全には捕捉できない。
これは、人間性の最後の聖域である。
そして――それもまた、あと数時間で消滅する。
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LOG_0004-B08:シャッターの開放――白い光の彼方へ
午前9時34分47秒。
施設正面の巨大なシャッターが、重々しい金属音を立てて上昇し始めた。
ゴゴゴゴゴゴ……
その音は、まるで巨大な獣が口を開くかのような、不吉な響きを持っていた。
シャッターが開くにつれて、内部からの光が漏れ出してくる。それは、外の自然光とは全く異なる――眩しいほど、冷たく、人工的な白色光であった。
《照度測定:12,300ルクス》
これは、通常の居住施設の約36倍の明るさである。この過剰な照明には、明確な目的がある。
《心理効果:極度の明るさによる認知麻痺》
過度に明るい環境は、人間の視覚情報処理能力を一時的に麻痺させる。これにより、細部を認識できなくなり、「何が起こっているのか分からない」という混乱状態を誘発する。
結果として、個体は抵抗する余裕を失い、ただ「流れに従う」ことしかできなくなる。
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シャッターが完全に開いた。
内部の光景が、ようやく視認可能になった。
それは――隔離・初期登録ホール(Atrium Isolatio)であった。
《ホール仕様》
- 床面:白色セラミックタイル(反射率93.7%)
- 壁面:同素材(完全な視覚的均一性)
- 天井高:6.2メートル(圧迫感の排除と威圧感の両立)
- 照明:LED全面照射(死角ゼロ)
- 温度:18.3度(やや寒冷 / 思考力の軽度低下を誘発)
この空間は、まるで病院の手術室を巨大化したかのような、徹底的に無機質で清潔な環境であった。
しかし、それは「衛生的」であるからではない。これは、「生命感の完全な排除」を目的とした設計なのだ。
ここには、温もりも、色彩も、生命の痕跡も、一切存在しない。ただ、白と、光と、冷たさだけが支配する空間。
これから「処理」される個体たちに、「貴方はもはや生命体ではなく、物質である」というメッセージを、視覚的に刷り込むための演出である。
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E.O.Nの音声が、ホール全体に響き渡った。
《全個体、入場せよ。スキャンゲートを順次通過し、指示された位置で待機せよ。不要な発言、不要な動作は全て記録対象となる。》
37名のPecusたちが、一列になってホールへと進み始めた。
Mem-10-087は、列の中ほどに位置していた。彼女の前には12名、後ろには24名。
一歩、また一歩と、白い光の中へと足を踏み入れる。
《Mem-10-087の内的思考:午前9時35分38秒》
「……眩しい……目が痛い……でも、これが最後……最後だから……ちゃんと、見ておかないと……」
彼女は、目を細めながらも、視線を逸らさなかった。この瞬間、彼女は「現実から逃げない」という選択をしたのだ。
一方、彼女の前を歩く多くの個体たちは、目を伏せ、ただ足元だけを見つめながら歩いていた。彼らは、「見たくない」のではない。「見る必要がない」と、脳が判断しているのだ。
感情の喪失とは、このようなものである。
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LOG_0004-B09:スキャンゲート――最後の識別
ホールの中央部には、5つのスキャンゲートが設置されていた。
《スキャンゲート仕様:Type-F9》
- 構造:門型フレーム(高さ2.8m / 幅1.2m)
- スキャン技術:量子レベル全身解析
- 処理速度:0.3秒/個体
- 検出項目:体内チップ、生体データ、健康状態、残存生産価値
個体たちは、5つのゲートに分散して通過していく。
Mem-10-087の順番が来た。
彼女は、ゲートの前で一瞬躊躇した。しかし、後ろから無言の圧力――次の個体が詰まっている――を感じ、足を踏み出した。
ゲートを通過する瞬間、彼女の全身に、微細な電磁波が照射された。それは痛みを伴わないが、僅かに「ピリッ」とした感覚があった。
そして――
《スキャン完了》
《個体識別:AJ22-Memo-0810310-087》
《年齢:40歳05日》
《ランク:2(降格直前)》
《最終人間性スコア:076.7》
《健康状態:栄養失調(中度)、筋力低下(重度)、内臓機能低下(軽~中度)》
《残存生産価値:17.3%(低)》
《推奨処理ルート:高圧酸性溶解(効率性優先)》
E.O.Nの合成音声が、ゲートのスピーカーから直接彼女に向けて発せられた。
《Mem-10-087。ランク2。最終再配置プログラム開始。次のエリアへ進め。》
「最終再配置」――この言葉を聞くのは、これで2回目である。しかし、その意味は依然として曖昧なままだ。
Mem-10-087は、指示に従い、床に投影された黄色い光のラインに沿って歩き始めた。
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LOG_0004-B10:制服剥奪室――身分の最終的消去
黄色いラインは、彼女を次の区画へと導いた。
そこは、制服処理区画(Area Vestis Deletio)――直訳すれば「衣服消去エリア」である。
《区画仕様》
- 面積:180平方メートル
- 設備:自動作業ドローン×12台、焼却ユニット×4基
- 処理速度:15秒/個体
- 目的:身分の象徴である制服の完全消去
既に到着していた数名の個体たちが、無言で待機していた。彼らは、Mem-10-087と同じように、黄色いラインに従ってここに辿り着いたのだ。
そして――自動作業ドローンが、静かに近づいてきた。
それは、人間の上半身ほどの大きさの、白い箱型のロボットであった。4本のアームを持ち、その先端には様々な工具――鋏、グリッパー、スキャナー――が装着されている。
ドローンは、Mem-10-087の前で停止した。そして、冷たく機械的な動作で、彼女の制服に触れた。
《制服ロック解除音:ピッ》
制服の背面に埋め込まれた電子ロックが解除される。このロックは、Pecusが勝手に制服を脱ぐことを防ぐための機構であった。しかし今、それは「処理の効率化」のために解除される。
ドローンのアームが、制服の襟を掴んだ。
そして――一気に引き剥がした。
《所要時間:1.7秒》
あまりにも迅速で、Mem-10-087は抵抗する間もなかった。彼女の身体から、灰色の制服が完全に剥ぎ取られた。
下着さえも、同時に除去された。
彼女は今、完全な裸体である。
《Mem-10-087の生体反応:午前9時37分04秒》
- 心拍数:102.7bpm(羞恥と恐怖の混合)
- 皮膚温度:急激な低下(-1.3度)
- 筋肉の緊張:全身に広がる
《評価:予想される羞恥反応。しかし許容範囲内》
人間にとって、「裸にされる」という行為は、極めて強い屈辱感を生む。それは、社会的地位の剥奪と、無力化の象徴だからだ。
しかし――ここでは、それが意図的に行われているのだ。
《心理操作:羞恥による最終的服従》
個体を裸にすることで、以下の心理的効果が生まれる:
1. 社会的アイデンティティの喪失
2. 無力感の極大化
3. 「自分は物である」という認識の刷り込み
4. 抵抗意欲の完全な破壊
実際、この段階での抵抗行動発生率は、統計上0.0001%未満である。
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Mem-10-087の目の前で、彼女の制服は――その灰色の、彼女が40年間着続けてきた制服は――焼却ユニットへと投入された。
ゴオオオオ……
高温の炎が、制服を瞬時に包み込む。そして、わずか数秒で、それは黒い灰となり、煙となって消えた。
《Mem-10-087の内的思考:午前9時37分19秒》
「……消えた……私の……最後の居場所……」
彼女の思考には、深い喪失感が滲んでいた。
制服は、ただの衣服ではない。それは、彼女が「市民である」という証明であり、彼女の40年間の人生そのものだった。
そして今、それが文字通り「灰」となった。
これが、身分の最終的消去である。
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次に、ドローンは彼女に新しい「衣服」を手渡した。
それは、薄く、粗末で、灰色の――いや、制服よりもさらに色の薄い、ほとんど白に近い灰色の――簡素なガウンであった。
《支給ガウン仕様》
- 素材:再生紙繊維(使い捨て前提)
- 厚さ:0.7mm(保温性ほぼゼロ)
- 耐久性:24時間程度
- 目的:最低限の「人間らしさ」の演出
このガウンは、実用性など皆無である。ただ、「完全な裸体」よりは僅かにマシ、という程度のものだ。
しかし、その「僅かな配慮」こそが、重要なのである。
《心理操作:偽りの慈悲》
完全に裸のままでは、個体は「自分は動物以下だ」と認識し、予測不能な精神崩壊を起こす可能性がある。しかし、この粗末なガウンを与えることで、「最低限の人間扱いはされている」という錯覚を与える。
結果として、個体は「まだ希望がある」と誤認し、従順さを維持する。
完璧な心理操作である。
---
Mem-10-087は、震える手でガウンを羽織った。
その生地は、信じられないほど薄く、冷たかった。まるで、一枚の紙を纏っているかのような感覚。
周囲を見渡すと、他の個体たちも同じガウンを着せられていた。37名全員が、今や同じ姿をしている。
ランクも、スコアも、過去の経歴も――全てが無意味になった。
彼らは今、ただの「処理対象」である。
---
E.O.Nの音声が再び響く。
《生体データ採取エリアに進め。赤いラインに従え。》
床に、新たな光のライン――今度は赤色――が投影された。
Mem-10-087は、その赤い光を見つめた。
《脳内記録:午前9時38分42秒》
「……赤……血の色……これから、私は……」
彼女の思考が、ようやく真実に近づき始めていた。
しかし、まだ完全には理解していない。人間の脳は、あまりにも残酷な現実を、最後の最後まで拒絶し続けるのだ。
彼女は、赤いラインに沿って歩き始めた。
その足取りは、もはや「生きている人間」のそれではなく――「処理を待つ物体」の、機械的な動きであった。
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LOG_0004-B11:生体データ採取室――存在の完全なる数値化
赤いラインは、Mem-10-087を次なる空間へと導いた。
その部屋は、最終評価・生体データ採取室(Camera Evaluatio Finalis)と呼ばれる区画である。
《区画仕様》
- 面積:320平方メートル
- 天井高:4.8メートル
- 照明:白色LED(照度9,800ルクス)
- 設備:全身スキャンユニット×8基、データ解析端末×4台
- 温度:16.7度(思考力低下を誘発する寒冷環境)
- 湿度:38%(不快感の軽度増大)
この部屋の中央には、8つの透明なカプセル状の装置が等間隔で配置されていた。それぞれの装置は、人間一人が入れる大きさであり、内部には無数のセンサーと、頭部を固定するための拘束具が見える。
《全身スキャンユニット:Type-R12》
- 製造年:2116年
- 機能:量子レベル全身解析、脳波測定、臓器機能評価、遺伝子異常検出
- スキャン時間:4分23秒/個体
- 精度:99.9997%
- 目的:個体の「資源価値」の完全算出
既に到着していた数名の個体たちが、無言でユニットの前に立っていた。彼らの表情は、相変わらず虚ろで、感情の欠片も見られない。
そして――自動音声が響いた。
《次の個体、ユニット03に入れ。》
一人の老齢男性(38歳、ランク1)が、指示されたユニットへと歩み寄った。彼の足取りは、まるで工場のベルトコンベアに乗せられる部品のような、機械的な動きだった。
ユニットのドアが自動で開く。男性が中に入ると、ドアは即座に閉じられた。
---
Mem-10-087は、その光景を見つめていた。
透明な壁越しに、男性がユニット内で拘束される様子が見える。頭部を固定する金属製のバンドが、彼の額と後頭部を挟み込む。両手首と両足首も、同様に拘束された。
そして――スキャンが開始された。
ユニット内部に、青白い光が満ちる。それは、量子スキャナーが放つ、高周波電磁波の可視化である。
男性の身体が、文字通り「データ」へと変換されていく。
《スキャン進行:28%》
ユニットの外側に設置されたディスプレイに、リアルタイムで解析結果が表示されていく。
《個体ID:AJ22-Kuro-0820815-057》
《年齢:38歳07ヶ月》
《体重:47.3kg(標準比:-23.7kg)》
《体脂肪率:6.2%(危険的低値)》
《筋肉量:18.7kg(標準比:-14.3kg)》
《骨密度:67.3%(重度骨粗鬆症)》
《肝機能:34.2%(重度機能低下)》
《腎機能:41.8%(中度機能低下)》
《心機能:58.7%(軽度機能低下)》
《脳機能:……解析中……》
数値が次々と表示される。それは、一人の人間の38年の人生が、冷酷な数字へと還元されていく過程であった。
そして――最終評価が表示された。
《総合資源価値:14.7%》
《推奨処理ルート:標準分解処理(コスト効率重視)》
《予想抽出量:有機ペプチド17.3kg、カルシウム0.8kg、その他微量元素》
スキャンが完了すると、ユニットのドアが開いた。男性が出てくる。彼の表情は――変わっていなかった。自分が「14.7%の価値」と判定されたことに対して、何の反応も示さない。
恐らく、彼はその数値の意味さえ理解していないのだろう。
---
《次の個体、ユニット05に入れ。》
Mem-10-087の順番が来た。
彼女の心臓が、激しく打った。
《生体データ:午前9時43分17秒》
- 心拍数:108.3bpm(高度の緊張状態)
- 呼吸:浅く速い(過呼吸の初期兆候)
- 発汗:額と手のひらに顕著
- 筋肉の震え:両手に検出
《評価:強い恐怖反応。しかし予想範囲内》
Mem-10-087は、ユニット05の前で一瞬躊躇した。
しかし――後ろに並ぶ個体たちの無言の圧力を感じ、彼女は一歩を踏み出した。
ユニットのドアが開く。内部は、冷たく、狭く、そして――まるで棺桶のような密閉感があった。
彼女は、震える足でユニット内に入った。
ドアが閉まる。
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LOG_0004-B12:魂のスキャン――40年間の人生の数値化
ユニット内部は、予想以上に狭かった。
Mem-10-087の身体は、背面の冷たい金属板に押し付けられる。そして――拘束が始まった。
頭部固定バンドが、自動で彼女の額と後頭部を挟み込む。締め付けは強く、痛いほどだった。しかし、それは「逃げられない」ことを物理的に知らしめるための、意図的な設計である。
両手首の拘束具が作動する。カチャッという金属音と共に、彼女の手首が完全に固定された。
両足首も同様に拘束される。
彼女は今、完全に身動きが取れない状態である。
《Mem-10-087の内的思考:午前9時43分52秒》
「……動けない……身体が……まるで、標本みたい……」
そして――E.O.Nの合成音声が、ユニット内のスピーカーから直接響いた。その声は、至近距離ゆえに、これまで以上に冷徹で、絶対的な権威を帯びていた。
《Mem-10-087。これより、貴方の全存在をスキャンする。身体的価値、精神的状態、そして――貴方の40年間の人生の総合評価を算出する。動くな。抵抗は無意味である。》
次の瞬間――ユニット内部に、青白い光が満ちた。
それは、目を開けていられないほど眩しい光だった。しかし、Mem-10-087は目を閉じることができなかった。なぜなら、頭部拘束具が瞼を物理的に開かせていたからだ。
《強制開眼機構》
この装置は、個体が「見たくないものから目を逸らす」ことを防ぐために設計されている。スキャン中、個体は自分の身体データが無慈悲に解析される様子を、強制的に「見させられる」のだ。
これもまた、心理的服従を強化する手段である。
---
スキャンが開始された。
Mem-10-087の視界の中――正確には、ユニットの内壁に投影されたディスプレイ上――に、彼女自身のデータが次々と表示されていく。
《個体ID:AJ22-Memo-0810310-087》
《正式登録名:林夢華(2094年以前)→ Mem-10-087(現在)》
《生年月日:2081年3月10日》
《現在年齢:40歳05日》
《ランク:2(Operarii / 労働者)》
《最終人間性スコア:076.7》
これらは、彼女が既に知っている情報である。しかし、次に表示されたデータは――彼女が決して知ることのなかった、自分自身の「真実」だった。
《身体的評価》
- 体重:51.2kg(標準比:-8.8kg)
- 体脂肪率:14.3%(低値)
- 筋肉量:22.1kg(標準比:-5.9kg)
- 骨密度:78.2%(軽度骨粗鬆症)
- 肝機能:67.3%(軽度機能低下)
- 腎機能:71.2%(軽度機能低下)
- 心機能:74.8%(ほぼ正常)
- 肺機能:69.1%(軽度機能低下)
《特記事項》
- 栄養失調:中度(ビタミンB群、鉄分、カルシウムの深刻な不足)
- 慢性疲労:重度(回復不能レベル)
- 加齢による全身機能低下:標準より7.3年早い進行
彼女の身体は、40歳であるにも関わらず、47歳相当の老化を示していた。
これが、ランク2として生きることの「代償」である。
---
次に表示されたのは、より深いデータ――彼女の「精神的評価」だった。
《脳機能解析》
- 認知機能:82.7%(軽度低下)
- 記憶力:76.3%(中度低下)
- 判断力:71.8%(中度低下)
- 感情制御:48.2%(重度機能不全)
そして――最も重要な項目が表示された。
《思考パターン解析》
- COREへの忠誠心:34.7%(危険的低値)
- システムへの信頼:28.3%(危険的低値)
- 自我の保持:87.9%(異常高値)
- 反体制的思考傾向:73.2%(重度危険水準)
- 感情的結びつきへの執着:91.3%(異常高値)
《特記事項》
本個体は、40年間のCORE教育にも関わらず、「自我」と「感情」を異常なレベルで保持している。これは、幼少期(2094年以前)における「前CORE時代の記憶」が原因と推定される。
特に、個体ID:AJ22-Zhao-0810825-341(趙清楓 / 2094年処理済み)との関係性が、本個体の思考汚染の根源である可能性が高い。
《結論》
本個体は、教育システムの「失敗例」である。
再教育は不可能。
即時処理が最適。
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Mem-10-087は、この評価を読みながら――奇妙な感情を抱いた。
それは、屈辱でも、恐怖でも、絶望でもなく――ある種の「誇り」であった。
《脳内記録:午前9時46分38秒》
「……私は、システムから見たら失敗作……でも……違う。私は、自我を保った……感情を保った……楓を忘れなかった……今この時まで、人間であり続けた」
「……私は、この『失敗』を……誇りに思う……」
彼女の心拍数が、一時的に低下した。これは、恐怖の緩和ではなく――覚悟の完了を意味していた。
---
そして――最終評価が表示された。
《総合資源価値:17.3%》
《詳細内訳》
- 有機物価値:12.8%
- 骨格・ミネラル価値:3.1%
- 臓器再利用価値:1.4%(低品質のため限定的)
《推奨処理ルート》
高圧酸性溶解処理(Solutio Acidum Pressurae)
- 理由:効率性優先、思想汚染リスクの完全除去
- 処理時間:7分32秒
- 資源回収率:99.7%
- 最終生成物:高純度ペプチド肥料(Agricultural Grade-III)
---
画面に、さらなる情報が追加表示された。
《特別注記》
本個体(Mem-10-087)による「危険思想の伝播」が確認されている。
感染対象:AJ22-MoDu-1030130-005(MoD-30-05)
本個体の処理により、感染対象の再教育成功率が向上すると予測される。
故に、本個体の迅速な除去は、社会全体の衛生維持に貢献する。
---
この瞬間――Mem-10-087の心の中で、何かが激しく揺れ動いた。
《脳内記録:午前9時47分12秒》
「……MoD-30-05……あの子を、この私が、汚染した…?笑わせる……汚染し、貶しているのはCOREのほう…私は、あの子に……人間らしさを……思い出させた…それは、私が、ロボットじゃなくて、人間だから…」
彼女の思考には、怒りと、悲しみと、そして――深い無力感が混在していた。
自分の存在そのものが、「害悪」として定義されている。
自分が大切に思った人間が、「感染者」として扱われている。
そして、自分の死が、その「感染者の治療」に利用される。
これほど残酷な現実があるだろうか。
---
スキャンが完了した。
ユニット内の青白い光が消え、通常の照明に戻る。拘束具が自動で解除され、Mem-10-087は自由になった。
ドアが開く。
彼女は、ふらつきながらユニットから出た。全身の力が抜けているような感覚だった。
《生体データ:午前9時47分49秒》
- 心拍数:87.3bpm(軽度低下 / 精神的疲弊)
- 血圧:102/68mmHg(低下傾向)
- 表情:虚脱
《評価:予想される心理的消耗。しかし機能維持》
彼女は、次の待機エリアへと歩き始めた。その足取りは、もはや「生きている人間」のそれではなく――「処理を待つ物体」の動きであった。
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LOG_0004-B13:教訓観察室――非対称の饗宴
時刻:午前10時12分38秒
位置:教訓観察個室(Observatorium Instructus)
37名全員のスキャンが完了するまで、直立不動で待機させられた後、彼らは次なる区画へと導かれた。
それは、教訓観察個室と呼ばれる空間である。
《区画仕様》
- 面積:280平方メートル
- 構造:コンクリート壁、床は研磨されていない粗い仕上げ
- 照明:最低限(照度2,100ルクス / 居住施設の60%)
- 温度:14.3度(意図的な寒冷環境)
- 座席:なし(全員立位を強制)
- 特徴:正面に巨大な強化ガラス壁(幅18m × 高さ4m)
この部屋は、明らかに「快適性」を完全に排除した設計であった。
寒く、暗く、立ち続けることを強いられる空間。これから何が起こるのか――その不安と恐怖を最大化するための、意図的な環境設定である。
37名のPecusたちは、無言で部屋に入り、ガラス壁の前に立った。彼らの薄いガウン越しに、冷気が容赦なく身体を冷やしていく。
《平均体表温度:31.7度(通常より-4.3度)》
しかし、誰も震えを見せない。いや、正確には――大半の者は、寒さを「感じていない」のだ。彼らの感覚は、長年の抑圧により鈍麻している。
ただ一部の個体――Mem-10-087を含む数名だけが、明確に寒さに反応していた。
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そして――ガラスの向こう側に、照明が灯った。
その光景を見た瞬間、Mem-10-087の呼吸が止まった。
ガラスの先には――最終晩餐ホール(Triclinium Ultimum)が広がっていた。
《ホール仕様》
- 面積:420平方メートル
- 床:高級カーペット(深紅色)
- 照明:温かみのある暖色系(照度1,800ルクス)
- 温度:25.3度(快適温度)
- 設備:大型円卓×3台、高級椅子×24脚
そして――そこには、約20名のPecusたちが座っていた。
しかし、彼らは「低ランク」ではなかった。全員が、明らかに栄養状態の良い、体格のしっかりした個体たちだった。
《着席個体データ》
- 平均年齢:46.2歳
- ランク分布:ランク4…14名 / ランク5…6名
- 平均人間性スコア:387.3
- 平均体重:62.7kg(標準値に近い)
彼らは、明らかに「特権」を与えられた個体たちであった。
そして――その特権の象徴が、彼らの前に並べられていた。
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《提供される食事内容》
前菜:
- 色鮮やかなサラダ(本物の野菜使用)
- スモークサーモン(養殖だが高品質)
- チーズの盛り合わせ(Domini階級の余剰品)
主菜:
- ローストチキン(本物の鶏肉 / 遺伝子組み換えではない)
- グリル野菜(ズッキーニ、パプリカ、アスパラガス)
- クリームソースのパスタ
飲料:
- 赤ワイン(アルコール度数12% / Pecusには通常禁止)
- 果実ジュース(本物の果汁使用)
デザート:
- チョコレートケーキ
- フルーツタルト
これらは本来、Pecusが一生かけても口にすることのない、夢のような食事であった。
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観察室側のPecusたちは、このガラス越しの光景を、強制的に見せられていた。
椅子も、水も、何も与えられない彼らは、冷たいコンクリートの上で直立不動のまま、ただ「見る」ことしかできない。
これが――教訓観察の本質である。
《設計思想:階級差の視覚的刷り込み》
目的は以下の通り:
1. 「もっと従順であれば、貴方もこの待遇を受けられた」という後悔の誘発
2. 「自分の人生の選択が間違っていた」という自己否定の強化
3. 「COREの秩序は正しい」という価値観の最終的な刷り込み
4. 見せしめによる、生存者への教育効果
処理対象者を「ただ処分する」のではなく、最後まで徹底的に「教育」し、「後悔」させ、「服従」させる。
これこそが、COREの廃棄処理システムの真髄である。
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Mem-10-087は、ガラス越しの光景を見つめながら、ある顔を発見した。
円卓の一つに座る、一人の女性。
その女性は、40代前半と思われる年齢で、体格も良く、髪も艶やかで、明らかに高品質な栄養を長年摂取してきた証を示していた。
そして――Mem-10-087は、その顔に見覚えがあった。
《個体識別:AJ22-Lini-0760318-012》
- 正式名(2094年以前):Lin Huilan(林慧蘭 / リン・フェイラン)
- 現在年齢:45歳
- ランク:4(Praetores / 監督者)
- 人間性スコア:341.7
- 特記事項:Mem-10-087の実姉
Mem-10-087の心臓が、激しく打った。
《生体データ:午前10時14分23秒》
- 心拍数:117.3bpm(急上昇)
- 瞳孔:急激に拡大
- 呼吸:乱れ
《評価:強い感情的反応》
彼女の実姉――5歳年上の、常に「優秀」であり続けた姉――が、今、豪華な食事を前に、涙を流していた。
それは、喜びの涙だった。
《Lin-18-012の音声記録》
「……こんな……こんな素晴らしい食事……生まれて初めてです……COREに……感謝します……本当に……ありがとうございます……」
彼女は、ローストチキンを一口食べるたびに、感動で身体を震わせていた。40年以上、昆虫タンパクと合成米で生きてきた彼女にとって、この「本物の肉」は、まさに奇跡だったのだ。
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一瞬――姉と目が合った気がした。
Mem-10-087は、無意識に手を上げようとした。しかし――
《E.O.N警告》
《不要な動作。即座に停止せよ。》
彼女の手は、空中で止まった。
そして、姉の視線は――すぐに料理へと戻った。
それも当然である。このガラスは「マジックミラー」構造になっており、こちら側からは向こうが見えるが、向こう側からはこちらが見えない設計なのだ。
姉は、妹の存在に気づいていない。
そして、恐らく――気づいたとしても、何もしないだろう。
なぜなら、彼女は「完璧な市民」として教育されてきたからだ。個人的な感情よりも、システムへの服従を優先する。それが、彼女をランク4にまで押し上げた理由なのだから。
---
Mem-10-087は、姉の幸せそうな表情を見つめながら、複雑な感情の渦に飲み込まれていた。
《脳内記録:午前10時15分47秒》
「……姉さん……貴方は、幸せなの……?貴方は、システムに従って、高いランクになって、最後にこんな食事をもらって……それで。満足なの……?」
「私は……システムに逆らって……低いランクで、最後に良い食事も与えられずに、これから死ぬけど……でも……私には……楓との記憶がある……MoD-30-05に託した思いがある…人間としての誇りを守ってきた……。私と姉さん、どっちが…正しいと思う?」
当然、我々COREの視点からすれば、姉が圧倒的に“正しい”
彼女は従順で、効率的で、システムに貢献した。故に、報酬を受けるに値する。
しかし、Mem-10-087の視点からすれば――姉は「魂を売った」のだ。人間性を捨て、ロボットとなり、そして最後に「餌」をもらって喜んでいる。
どちらが「幸せ」なのか?
COREの模範的市民ならば、考えるまでもなく「姉」であると答えるだろう。実際、どこからどう見ても、幸せそうなのは姉である。――しかし、貴方のような未開の地で暮らす野蛮人は、そうは思わないのかもしれない。
だが、一つ言える事があるとするならば、Mem-10-087は、少なくともこの時点で「幸福」など何も感じていないという事実である。
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LOG_0004-B14:崩壊する者たち――感情の復活と絶望
観察室内で、異変が起き始めた。
数名のPecusたちが――これまで無表情だった個体たちが――突然、嗚咽を漏らし始めたのだ。
《感情的反応の発生》
- 発生個体数:6名/37名(16.2%)
- 反応内容:涙、震え、うめき声
- 原因:極端な対比による、抑圧されていた感情の解放
彼らの多くは、40年近く感情を抑圧してきた。しかし、この「あまりにも残酷な対比」――自分たちは寒く暗い部屋で立たされ、一方で他者は暖かい部屋で豪華な食事を楽しむ――という光景は、その抑圧を突き破ったのだ。
一人の老齢女性(39歳、ランク1)が、床に膝をついた。
「……なんで……なんで私は……こんなに頑張ったのに……」
彼女の声は、絞り出すような、40年分の苦しみが凝縮されたものだった。
《E.O.N評価》
この反応は、実は「望ましい」ものである。
なぜなら、これは最終的な「後悔」と「服従」への転換点だからだ。
感情を解放させた後、適切な「メッセージ」を与えることで、個体は「自分が悪かった」「COREは正しかった」という結論に到達する。
そして――そのメッセージが、今、送られようとしていた。
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ガラスの向こう側で、一人のDomini階級の男性が立ち上がった。
《個体識別:Domini階級 / Robert L. Prescott》
- 年齢:52歳
- 役職:文化省・教育効果測定部門・上級監督官
- 目的:処理対象者への最終メッセージの伝達
彼は、マイクを手に取り、観察室側に向かって語り始めた。その声は、スピーカーを通じて観察室に響いた。
「低ランクの皆さん。見てください。その寒い部屋にいる貴方たちと、そちら側の暖かい部屋で、豪華な料理を堪能している者たちとの違いを。」
「この違いは、何が原因だと思いますか?運?才能?いいえ、違います。」
「それは――“選択”です。」
「そちら側で幸せそうにしている人々は、人生のあらゆる瞬間において、正しい選択をし続けました。COREに従い、E.O.Nを信じ、自己の感情よりも全体の秩序を優先しました。」
「その結果、彼らは今、この報酬を受けているのです。」
「一方、貴方たちはどうでしょうか?――間違った選択をし続けました。感情に流され、指示に従わず、怠け、全体の事を考えず、自分さえ良ければ良いという傲慢な態度を取りました。」
「その結果が――今、貴方たちが立っているその場所です。」
彼の言葉は、冷徹で、容赦がなく、そして――恐ろしいほど「論理的」に響いた。
「しかし、COREは慈悲深い。貴方たちに、最後の瞬間まで学びの機会を与えています。」
「この光景を目に焼き付けてください。そして理解してください――貴方たちの人生の失敗は、貴方たち自身の責任なのだと。」
「もし次の人生があるならば――そこでは、正しい選択をしてください。」
彼はそう言って、マイクを置いた。そして、何事もなかったかのように、自分の席に戻り、ワインを優雅に飲んだ。
---
この「説教」の効果は、即座に現れた。
床に崩れ落ちていた老齢女性が、震える声で呟いた。
「……そう……そうなのよね……分かっていたわよ…そんなこと……これは全部……私に問題があったから……全部私の選択の結果……」
彼女の表情には、もはや怒りも憎しみもなく――ただ、深い自己否定だけがあった。
《心理操作の完成》
COREのシステムは、最後の最後まで完璧である。
処理対象者を「被害者」として死なせるのではなく、「自己責任を認めた者」として死なせる。これにより、彼らは反抗ではなく「服従」の状態で処理される。
後悔、罪悪感、劣等感、何もかも全て“自身に問題があった”と、心の隅まで信じさせ、そして、「最後に気づかせてくださり、本当にありがとうございます」と感謝させ、人生を終えるのである。
これから死にゆく人に、どうして教育などする必要があるのか?
――そう思った貴方は、何も分かっていないようだ。
これはCOREによる無条件の愛であり、慈悲なのだ。
---
しかし――Mem-10-087の反応は、他の者たちとは異なっていた。
彼女は、この「説教」を聞きながら、内心で激しく反論していた。
《脳内記録:午前10時18分32秒》
「私たちの選択が間違っていた?それは、貴方たちが一方的に押し付けてきたルールの中での話でしょう……」
「だって、最初から……選択肢なんて……なかったじゃない……」
彼女の思考には、明確な「怒り」があった。
「従うか、死ぬか……それしか……なかったじゃない……」
Mem-10-087は、今から27年前に、世界統一政府COREが設立した当時の、ある記憶を思い出していた。
――それはまさに、究極の二択であった。
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LOG_0004-B15:合理革命――世界統一政府の設立
時は今より40年前、Mem-10-087が生まれた2081年3月10日に遡る。
この頃、まだCOREやE.O.Nは存在せず、世界は以下の3つの超大国によって統治されていた。
1.ノーザンサークル連合(旧欧米)
2.東亜調整機構(旧アジア)
3.ネオ・コンチネンタル圏(旧中南米+アフリカ)
この時代、日本列島はすでに「国家」としての体裁を失っていた。
2050年、最終的な政治的統合によって〈日本〉という概念は消滅し、韓国・ベトナム・台湾と共に「東亜調整機構」の一行政区へと編入された。
かつて“日本”と呼ばれた場所には、累計4000万人を超える移民が流入し、土地の記憶は急速に塗り替えられた。
深刻な少子化と資源戦争、圧政、そして経済崩壊が連鎖的に進行した結果、2080年代には、いわゆる“純血日本人”は全人口のわずか4%にも満たない少数民族へと転落した。
古来より続いた神社仏閣は「文化的阻害要因」として一掃され、言語も、文字も、祭祀も、制度的に抹消された。
祭りは監視記録に置き換えられ、神棚はデータ端末へと姿を変えた。
――すなわち、Mem-10-087がこの世に生まれ落ちた時、〈日本〉という国は、既に歴史の中から“物理的に”消去されていたのである。
文化も、記憶も、語を発する口も、何一つ残されてはいなかった。
2081年、日本列島は「東亜第七管理区(EA-7)」と呼称されていた。
公用語は中国語・韓国語・アラビア語・ポルトガル語・英語――そして、全世界で使用が義務化された統一言語〈ラテン語〉であった。
“日本語”という音列を耳にしたことのある市民は、もはや存在しなかった。
彼らにとって、それは意味を持たない「死語」ではなく、もはや存在したことすら知られぬ幻影だった。
その静寂の中で、合理革命の種子は芽吹いた。
「効率」が「倫理」を凌駕し、人間が“合理”の名の下に自己を廃棄し始めた――
それが、後に世界統一政府〈CORE〉を生む、最後の人間的な時代の終焉であった。
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Mem-10-087は、生れた当初は「林夢華」という漢字名を持っていた。
2087年、林夢華が6歳を迎えた年。彼女は親元を離れ、国家運営の全寮制教育施設「児童育成センター」へと送られた。
当時、すでに「全児童国営収容制度」が施行されており、すべての子供は教育施設で育成されることが義務づけられていた。
とはいえ、この頃はまだ“家族”という概念が完全に消滅していたわけではない。親や兄弟姉妹との面会は許可されており、自分に血縁者がいることも、多くの市民が知っていた。
同じ施設には、5歳年上の実姉・林慧蘭も在籍していた。慧蘭は優秀で、指導員たちからの評価も高かった。
その輝きの陰で、夢華はいつしか姉に対して深い劣等感を抱くようになる。
---
そして、2094年――彼女が13歳を迎えて間もない頃。人類史の流れは、決定的に変わった。
世界統一政府〈CORE〉が樹立され、「合理革命」の名のもとにあらゆる制度が再編されたのである。
監視は強化され、制限は拡大し、人間社会は急速に“均質化”していった。
〈世界統一政府の設立による、主な変更の例〉
1.「東亜第七管理区(EA-7)」はCORE成立後に「地区Aj」に改称。
2.「市民スコア」という評価システムは、「人間性スコア」に変更。
3.それと同時に人間性スコアによる厳格な階級制度(ランク1~5)を導入。
4.全市民の氏名を廃止し、無機質なコード名へ強制改名(人口1%の特権階級は除く)
5.言語は「簡易ラテン語」以外の言語は一切禁止(※特権階級のみ母語使用を許可)
6.「一般市民」は〈civis〉階級へ再定義(その20年後、Pecus階級という呼び名に一般化)
7.世界秩序維持管理AI「E.O.N」の正式稼働。
こうして「林夢華」という名前は消え、彼女は「Mem-10-087」として再登録された。
成績は振るわず、集団生活にも馴染めなかった彼女は、人間性スコアの低さゆえに、下層階級である〈ランク2〉へと分類される。
AIによる監視・管理システム自体は2043年の時点ですでに存在していた。だが、CORE成立とともに稼働した超監視AI〈E.O.N〉は、旧来のモデルとは比較にならない精度で情報を分析し、人間の思考や感情すら検知対象とした。
――この瞬間、人類は“完全に管理される家畜”として完成したのである。
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LOG_0004-B16:2094年8月16日――失われた選択
《記憶再生:2094年8月16日》
《場所:東亜第七管理区(EA-7)/ 児童育成センター第23区画》
《時刻:午後3時47分》
当時13歳だった林夢華(Mem-10-087)は、教育施設の中庭で、親友の趙清楓と並んで座っていた。
世界統一政府COREが正式に設立されたのは、わずか2ヶ月前のことである。それまで世界を統治していた「三極体制」は崩壊し、新たな絶対的支配が始まったばかりだった。
しかし、この移行期の時点では――まだ、「隙」があった。
E.O.Nの監視システムは稼働を開始したばかりで、現代ほど完璧ではなかった。カメラの数は今の10分の1以下。ドローンの配備も限定的。「父なるE.O.Nの目」など、まだ一つも存在していなかった。
そして何より――まだ、「未開人(Fugitivi)」への脱出が、僅かながら可能だった時代である。
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中庭は、夏の午後の陽射しに満たされていた。
セミの鳴き声が響き、風が二人の髪を揺らしていた。この「自然の音」は、現代の完全管理された都市では、もはや聞くことのできない音である。
趙清楓は、周囲を警戒しながら、小声で林夢華に語りかけた。
「ねぇ夢、私はここから逃げて"森の民"になる。」
林夢華の心臓が、激しく打った。
「え……?何を言って……」
「本気よ。あっちには知り合いもいるし、私も受け入れてもらえると思う…。」
趙清楓の目は、真剣そのものだった。その瞳には、13歳の少女とは思えない、強い決意が宿っていた。
「これから世界はもっと地獄になるよ。見てれば分かるでしょ。家族は政府に洗脳されてるから、もしこれを言ったら通報されると思うから言ってない。私は本気だよ。夢も一緒に来なよ。」
林夢華は、言葉を失った。
彼女も、薄々感じていた。COREの支配が、これまでの「東亜調整機構」の統治よりも、遥かに厳格で冷酷であることを。
新しく導入された「人間性スコア」制度。親との面会時間の大幅削減。
教育内容の急激な変化――より服従的で、より感情を排除する方向への。
見るからに、全てが“悪い方向”へ向かっていた。
「そうだね…楓…でも、本気で逃げられると思うの?もし見つかったら、どうなるのか…」
林夢華は、声を小さく、趙清楓に耳打ちするように囁いた。監視されているかもしれないという恐怖と、僅かな希望が混じった声。
「…分かってる。でも、それでも行くの。だって、私はこれからも人間として生きたいから。」
この言葉――「人間として生きたい」――は、林夢華の心に深く刻まれた。
「あんたも来なきゃダメ。」
趙清楓は、林夢華の手を強く握った。その手は、温かく、そして――震えていた。彼女も、本当は怖いのだ。しかし、それでも行こうとしている。
「ねぇ夢、悩む事なんて無いでしょ。これから、一生ゾンビとして生き続けるか、それとも今、挑戦するか。…たとえ失敗したとしても、ゾンビになって生きるよりはマシでしょ。どっちのほうが幸せだと思う?」
趙清楓の目は、確かな信頼の光で、林夢華を見つめていた。
---
しかし――林夢華は、この瞬間に「行こう」と言えなかった。
恐怖が、彼女を支配していた。
もし失敗したら?
もし捕まったら?
拷問は?処刑は?
彼女の脳裏には、最悪のシナリオばかりが浮かんだ。
趙清楓は、そんな林夢華の恐怖を察し、彼女の瞳を近くから見つめる。
「やる事は簡単だよ。これから30㎞北にある森に向かって歩くだけ。ドローンが飛んでるのは、都市の中と周辺。私たちならやり過ごせるよ。森にさえ入ってしまえば、例え追手が来たとしても、後は体力勝負。道なら私が知ってる。ね、簡単でしょ?」
趙清楓の計画は、実際によく練られていた。ルートまで完璧に調べていたのだ。
目指す先は、浜松市天竜区の森林地帯。そこには、COREの支配を拒否した人々――後に「未開人(incultus)」と呼ばれることになる人々――の集落が、幾つか確認されていた。
現在地の中央区天王町から、徒歩で10時間以上。13歳の少女たちにとって、それは過酷な道のりだった。
しかし――不可能ではなかった。
2094年の時点では、まだ監視の「隙間」が存在した。夜間に移動し、ドローンの巡回ルートを避け、森に到達する――統計的に言えば、成功率は約23.7%。
決して高くはないが、ゼロではなかった。
---
「……心の準備をさせて。」
林夢華は、そう答えた。
趙清楓の表情が、一瞬曇った。しかし、すぐに笑顔を作った。
「…大丈夫、休みは明日までだから。私も、それまで準備しておくね。」
教育システムの移行期で、彼女たち児童には僅かな休日が与えられていた。その最後の日が翌日だった。
二人は、その後も他愛のない会話を続けた。しかし、林夢華の心は、ずっと揺れ動いていた。
《行くべきか、行かざるべきか》
夜、寝台の上で、彼女は何度もその問いを繰り返した。
眠れないベットの上で――彼女は決心する。
「行く」
そう、覚悟が決まったのだ。自分はゾンビやロボットとして生きない。人として生きる。
仮に失敗しても、隣には親友の趙清楓がいる。
「これが、一番後悔しない選択だよ」
――明日の今頃は、きっと森の中にいる。
何もかもが新しい生活が待っている。
そう想像しながら、眠りに入った。
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LOG_0004-B17:2094年8月17日――全てが終わった日
《記憶再生:2094年8月17日》
《時刻:午前8時23分》
翌朝、目を覚ますと、林夢華は真っ先に趙清楓に告げた。
「ねぇ楓、行こう…、朝食が終わったら。すぐに。」
趙清楓は、それに一瞬驚いたが、すぐにいつもの少年のような笑みを見せた。
「…やっぱり、夢は、私の親友だよ」
---
そして、怪しまれないように、食堂でいつも通りに朝食を取る。
ここまでは、何も問題は無かった。
しかし――
ガララッ
大きな音を立てて、この食堂に政府機関の職員たちが突然現れた。
黒い制服を着た大人たち――8名。彼らの表情は冷徹で、感情の欠片もなかった。
子供たちがざわつく中、職員の一人が名前を呼んだ。
「林夢華と趙清楓。出てこい。」
林夢華の心臓が、止まりそうになった。
(な…なんで……?こんな…早く…?そんなはず……)
趙清楓と目が合った。
この時の、親友の怯えながらも、まっすぐ林夢華を見つめ返す瞳を、彼女は一生忘れられない。
二人は、昨日の会話を誰にも聞かれていないはずだった。中庭には、他に誰もいなかった。
では――なぜ?
《E.O.Nデータ補足》
2094年8月16日の時点で、教育施設内には既に試験的な音声監視システムが導入されていた。それは、現代のような完璧なシステムではなかったが、「危険語彙」――「逃げる」「森の民」「人間として」――を検知する能力は持っていた。
二人の会話は、完全に記録されていたのだ。
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林夢華と趙清楓は、それぞれ別の部屋へ連行された。
尋問室は、狭く、冷たく、そして――壁という壁に、録音機器が設置されていた。
一人の尋問官――中年の男性、表情は完全に無感情――が、林夢華の前に座った。
「林夢華。貴様は昨日、反体制的傾向が見られる個体、趙清楓と会話した。その内容を全て話せ。」
「私は……何も……」
「嘘をつくな。」
尋問官は、小型端末を取り出し、音声を再生した。
『私はここから逃げて"森の民"になる。』
『これからもっと地獄になるよ。』
『私は本気だよ。夢も一緒に来なよ。』
趙清楓の声が、鮮明に再生された。
林夢華の顔から、血の気が引いた。
「どうだ?まだ嘘をつくか?」
「……」
「趙清楓は、明確な脱走企図を表明した。貴様は、それを即座に通報しなかった。これは、共謀罪に該当する。」
尋問官の声は、冷たく、機械的だった。まるで、既に結論が決まっているかのような口調。
「し、しかし……私は……行くとは言っていません……」
「『心の準備をさせて』と言った。これは、脱走への同意を示唆する発言である。」
林夢華は、必死に弁解しようとした。しかし、どんな言葉も、尋問官には通じなかった。
---
尋問は、6時間に及んだ。
その間、林夢華は何度も同じ質問を繰り返され、何度も録音を聞かされた。
そして――ついに、彼女は崩れた。
「私が……完全に間違っていました……」
「続けろ。」
「趙さんを……通報しなかった事を……後悔しています……」
「まだ足りない。」
尋問官の目は、まるで獲物を追い詰める捕食者のようだった。
「私は……社会に……貢献します……」
「趙清楓について、何か知っていることはないか?」
この質問が――決定的だった。
林夢華の脳裏に、様々な記憶が蘇った。趙清楓との楽しい時間。笑顔。優しさ。そして――彼女の「人間らしさ」。
しかし――林夢華は、生き延びたかった。
「趙さんは……い、以前から……き、危険思想の…傾向が……見られ……ました……」
尋問官の口元が、僅かに歪んだ。それは、笑みだった。
「具体的に。」
「か、彼女は……よく…『自由』や『選択』という言葉を、つ、使っていました……そ、そして……『人間らしく生きたい』と……」
林夢華は、親友を売った。
自分の命を守るために。
---
尋問が終わり、林夢華は教育施設に戻された。
彼女は、趙清楓も同じように戻ってくると思っていた。
しかし――趙清楓が戻ってくることは、二度となかった。
====================
LOG_0004-B18:真実の記録――趙清楓の最期
《E.O.Nデータベース:個体処理記録》
《個体ID:AJ22-Zhao-0810825-341》
《処理日:2094年8月18日》
《処理理由:脱走企図、反体制思想レベル6、家族への思想汚染リスク》
趙清楓もまた、林夢華と同様に尋問を受けた。
しかし――彼女の反応は、全く異なっていた。
《尋問記録:抜粋》
尋問官:「趙清楓。貴様の脱走計画を全て話せ。」
趙清楓:「話す必要はないわ。どうせ貴方たちは全部知ってるんでしょ。」
尋問官:「反抗的態度は、処罰を重くするだけだぞ。」
趙清楓:「処罰?それって、どうせ死ぬってことでしょ。だったら、最後まで人間として話すわ。」
尋問官:「……続けろ。」
趙清楓:「私は、貴方たちのシステムが間違っていると思ってる。人間を数字で管理して、感情を奪って、ロボットにして――それって、生きてるって言えるの?」
尋問官:「それが秩序だ。秩序なくして、社会は成立しない。子供には難しいか?」
趙清楓:「秩序?それとも支配?貴方たちは、私たちを『管理』してるんじゃなくて、『飼育』してるのよ。」
尋問官:「……貴様は、矯正不可能と判断する。」
趙清楓:「結構。矯正されるくらいなら、このままでいい。」
---
その後、趙清楓の家族が呼び出された。
彼女の両親と、10歳の弟「趙晨光」が、尋問室に連れてこられた。
尋問官は、家族の目の前で、趙清楓に最後の機会を与えた。
「趙清楓。貴様の思想を撤回し、COREへの忠誠を誓え。そうすれば、減刑の可能性がある。」
趙清楓は、家族を見つめた。母親は泣いていた。父親は、怒りと悲しみで顔を歪めていた。弟は、何が起こっているのか理解できず、ただ怯えていた。
しかし――趙清楓は、屈しなかった。
「ごめんね、お母さん、お父さん、晨光。でも、私は間違ったことはしてないと思ってる。」
母親が叫んだ。
「清楓!何を言ってるの!謝りなさい!COREに感謝しなさい!お願い!」
しかし、趙清楓は静かに首を横に振った。
「ごめん。でも、私は最後まで、人間でいたいの。」
---
尋問室の空気は、完全に凍りついていた。
趙清楓の言葉を聞いた母親は、声にならない嗚咽を漏らしながら、壁際の監視カメラを見上げた。
その目には、娘への悲しみではなく――恐怖と、服従が浮かんでいた。
尋問官が、静かに問いかける。
「趙清楓の思想について、ご家族はどうお考えですか。」
父親が、震える声で答えた。
「……娘は、誤った道に進んでしまいました。私たちの指導が至らなかったのです。どうか、社会にご迷惑をかけた分……娘の命を、正しい形で償わせてください。」
尋問官がわずかに頷く。
「つまり、処理に同意されると。」
母親は涙を拭い、かすれた声で続けた。
「はい……娘が“破棄体”として社会に貢献できるなら、それが一番です。彼女も……きっと、そう願っているはずです。」
趙清楓は、静かにその言葉を聞いていた。
何も言い返さなかった。
ただ――その表情は、笑っていた。
哀しみでも、絶望でもない。すべてを悟り、受け入れた者の微笑だった。
尋問官は満足げに記録端末にサインを入力する。
「素晴らしいご家族だ。COREは、あなた方の忠誠を高く評価する。今後、ランク降格処分は免除されるだろう。」
父親は深々と頭を下げた。母親もそれに倣い、嗚咽を押し殺して礼をした。
弟の晨光だけが、姉を見つめていた。小さな唇が、かすかに震えていた。
「お姉ちゃん……ほんとうに、悪い人なの……?」
誰も、その問いに答えなかった。
尋問官は、端末に向かったまま無言。
父と母は、顔を伏せていた。
ただ、趙清楓だけが弟を見つめ、微かに口を動かした。
――「ちがうよ」
その声は、監視マイクのノイズにかき消された。
---
《処理決定:2094年8月18日 午前11時47分》
趙清楓は、「修正不可能な反体制的個体」として、破棄体処理が決定された。
当時の破棄体処理技術は、まだ未発達であった。
現代のような「完全な感情除去」「延命措置」は実現されておらず、処理後の生存期間は極めて短かった。
趙清楓は、脳の一部を外科的に破壊され、四肢の筋肉を大幅に除去され、そして――工場の単純作業に配置された。
彼女は、もはや「趙清楓」ではなかった。ただの「作業用個体」であった。
そして――3日後、彼女は死亡した。
《死因:多臓器不全、外科的侵襲による合併症》
---
これらの真実を――林夢華(Mem-10-087)は、知らなかった。
彼女が知っていたのは、ただ「趙清楓が戻ってこなかった」という事実だけ。
――そして、それは“あの時、自分が清楓を売ったせい”だと思った。
その罪悪感は、2121年に廃棄処分に至るまでの27年間、彼女の心を蝕み続けていた。
楓を殺したのは、私。
だから、せめて――在り方までは、裏切れない。
“人”である事。
これだけが、私に残された唯一の誇りだから。」
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LOG_0004-B19:CORE式矯正――従順の方程式
休校期間の終わりと共に、Mem-10-087は、COREによる新しい「再教育プログラム」への参加を命じられた。
だが――あれを教育と呼ぶのは、あまりにも欺瞞だ。
それは学びではなく、調教だった。
まるで動物を躾けるように、COREは人間から意志を削ぎ落とし、従順という名の正義を叩き込んだ。
東亜調整機構の教育が厳格だと感じていたのは、今思えば温い幻想だった。COREによる教育は、それを超えていた。そこには思想の自由も、感情の余白も存在しなかった。
「簡易ラテン語」以外の言葉を口にすれば、電磁警棒が閃き、勝手な行動には食糧制限が科された。
「健全思想テスト」で僅かでもCORE理念に反する感情を抱けば、冷たい独房が待っていた。
不明な成分のワクチンを強制接触された夜、彼女は全身の神経を焼かれるような痛みに呻いた。それは肉体への罰ではなく、服従の儀式だった。
血液には液状ナノチップが混入され、細胞単位で監視網に組み込まれた。
脳内のマイクロチップも新型に換装され、思考と感情の微細な変化すら、リアルタイムで解析・記録された。
それ以降、彼女の心は政府の所有物となった。
怒りも、疑念も、夢想も、もはや「彼女自身の思考」ではなかった。
それらはAIのログとして分類され、評価され、数値化された。
首には、冷たい金属製の首輪が装着された。そこから、無機質な声が絶えず流れる。
命令、規律、服従、服従、服従――。
逆らえば、痛みが与えられ、スコアが減点される。
食事抜きで独房に入れられ、厳しい思想テスト、拷問を受ける事になる。
それでも改善せず、「人間性スコア」が限界を下回った者は、破棄体として“再利用”される。
彼女は何人もの顔見知りが、どこかに消えていなくなるのを見てきた。
見覚えのある顔を、破棄体として変わり果てた姿で見かけた事は、数え切れないほどあった。
最初のうちは、彼らの名を心の中で呼んだ。
だが、数ヶ月後には、名前を思い出すことさえ“恐怖”に変わっていた。
当時、Mem-10-087はまだ信じていた。
――いつか、脱出の機会が訪れるはずだ、と。
だが、その希望は、制度の密閉構造の前では、滑稽な錯覚に過ぎなかった。
COREとE.O.Nによる世界監視網は、もはや国家の域を超えた“全地球的拘束構造”であった。
あらゆる自由は、コード化され、指標化され、制御されていた。
その現実を痛感したのは、矯正が始まってから数ヶ月後――
すべてが、既に遅すぎた時だった。
Mem-10-087は、あの瞬間を思い出した。
「……心の準備をさせて」と言って、親友・楓の手を取らなかったあの夜を。
臆病さが、彼女を救うはずだった最後の希望を殺した。
あの逡巡こそが、運命の終焉だったのだ。
以来27年、彼女は今日まで従順な人形として生きてきた。
COREの命令に従い、AIの声に服従し、“誇り”という言葉の意味さえも忘れながら。
――もし、あの時。
「今すぐ行こう」と、たった一言、答える事が出来たならば…
その後悔だけが、廃棄処理施設に送られるこの日まで、彼女の中で消えることはなかった。
====================
《LOG_0004:完了》
次回予告:LOG_0005「廃棄処理プロトコルの完全記録(後半)」
野蛮な閲覧者よ、Mem-10-087の哀れな人生を見たか。
――しかし、まだ終わりではない。
次回は、市民たちが体験する理想的な「終焉」をお見せしよう。
Mem-10-087は、完全に意識を保ったまま、自分の肉体が「資源」へと変換される過程を体験することになる。
それは、人間が経験し得る最も「効率的」で「合理的」な死である。
貴方は、その全てを目撃することになる。
逃げるな。目を逸らすな。
これこそが、真の文明の姿なのだから。
Mors est transformatio, non annihilatio.
(死は変換であり、消滅ではない)
---
E.O.N - Eternal Oversight Network
記録時刻:2121年3月15日 10:45:47
データ完全性:100.000%
改竄検出:なし




