LOG_0008:危険個体への措置_精神的汚染除去_part3/4
Nihil es. Nihil eris. Nihil semper fuisti.
《貴方は無である。貴方は無になる。貴方は常に無であった。》
27分間の絶対的暗黒。
光なし、音なし、匂いなし、温度差なし。感覚器官から全ての外部情報が遮断された時、人間の自我は何を失うのか。
これは拷問か、医療か、それとも――進化なのか。
LOG_0008-A01:感覚遮断の深淵_自我という名の幻想の消失
午前10時02分41秒。
ハッチが閉まってから、わずか4秒が経過した。
しかし、MoD-30-05にとって、その4秒は――永遠のように感じられた。
完全な暗闇。
これは、単なる「暗い部屋」ではない。これは、光子が一切存在しない、“絶対的な暗黒”である。
感覚遮断ポッド(Capsula Privationis Sensuum)の内部は、特殊な光吸収材で覆われている。この材料は、可視光の99.97%を吸収し、反射を完全に排除する。結果として、個体の目には一切の視覚情報が入らない。
人間の視覚は、通常、「何も見えない」状態であっても、僅かな光の粒子、あるいは自身の網膜から発せられる微弱な生体発光を捉えている。しかし、この絶対的な暗黒の中では――それすらも存在しない。
MoD-30-05は、目を見開いていた。しかし、何も見えない。
瞬きをしても、目を閉じても、全く同じ――絶対的な黒。
《生体データ:午前10時02分48秒》
瞳孔径:最大拡張(光を求めて)
視覚皮質活動:混乱パターン(視覚情報の欠如による)
不安レベル:9.7/10
彼女の脳は、視覚情報の欠如に対して、パニック状態に陥り始めていた。
---
完全な静寂。
ポッド内部の壁は、特殊な吸音材で構成されている。この材料は、音波を99.8%吸収し、反響を完全に排除する。
MoD-30-05が呼吸をしても――その音は、壁に吸収され、消失する。
彼女が足を動かしても――その音は、即座に消える。
通常、人間は「静かな部屋」にいても、様々な音を聞いている。空調の音、遠くの交通音、建物のきしむ音――これらの音が、無意識のうちに「自分は空間の中にいる」という感覚を提供している。
しかし、この絶対的な静寂の中では――それらが全て消失する。
MoD-30-05は、自分の心臓の鼓動を聞こうとした。
しかし――聞こえない。
いや、正確には聞こえているのだが、その音は外部に反響せず、ただ自分の内部でのみ響いている。結果として、音が「どこから来ているのか」が分からなくなる。
方向感覚が、失われ始めた。
《生体データ:午前10時03分17秒》
聴覚皮質活動:混乱パターン
空間認識能力:低下開始
不安レベル:9.9/10
---
完全な無臭。
ポッド内部の空気は、高性能フィルターによって完全に浄化されている。全ての匂い分子が除去され、温度と湿度だけが調整された「純粋な空気」が循環している。
人間の嗅覚は、無意識のうちに環境を認識している。自分の体臭、空間の匂い、他者の存在――これらが、「自分がどこにいるか」という感覚を提供している。
しかし、この無臭の空間では――それが消失する。
MoD-30-05は、自分が「どこにいるのか」を、嗅覚から判断することができなくなった。
---
完全な無感覚。
ポッド内部の温度は、正確に34.2℃に維持されている。
この温度は、人間の皮膚表面温度と完全に一致する。結果として、個体は「空気に触れている」という感覚を失う。
通常、人間は空気との温度差によって、「自分の身体の境界」を認識している。しかし、この温度が皮膚温度と一致すると――その境界が曖昧になる。
MoD-30-05は、自分の手を顔の前に持ってきた。
しかし、暗闇で見えない。
そして、手を動かしても、空気の抵抗をほとんど感じない。
「……私の手は……ある……?」
彼女は、自分の手で自分の顔を触った。
触覚――これだけが、唯一残された感覚であった。
しかし、それすらも不確かになり始めていた。
なぜなら、暗闇の中では、「触っている」という感覚と、「触られている」という感覚の区別が曖昧になるからだ。
《心理学的現象:自己触覚の混乱》
視覚情報がない状態で自己の身体を触ると、脳は「これは自分の手か?」という疑念を抱く。結果として、自己と他者の境界が曖昧になる。
MoD-30-05は、自分の頬を強く叩いた。
痛み――これが、「自分が存在している」ことを確認する唯一の方法であった。
《脳内記録:午前10時04分02秒》
「……痛い……」
「……痛いから……私は……ここにいる……」
(存在確認行動:確認)
(自我の維持:困難化)
---
午前10時06分33秒。
ハッチが閉まってから、約4分が経過した。
MoD-30-05は、ポッドの中央に立ち尽くしていた――いや、正確には「立っているつもり」であった。
しかし、彼女は気づいていなかった。
実際には、彼女の身体は僅かに傾いていた。平衡感覚が狂い始めていたのだ。
通常、人間の平衡感覚は、視覚、前庭感覚(内耳)、そして触覚(足裏の圧力)の3つの情報源から維持されている。しかし――
視覚:消失
前庭感覚:参照点なし(どちらが上か分からない)
触覚:床の感覚は維持されているが、視覚がないため曖昧
これら3つの情報源が矛盾すると、脳は混乱する。
MoD-30-05は、突然、めまいに襲われた。
「うっ……」
彼女の身体が、ふらついた。しかし、どちらに倒れているのか、彼女には分からなかった。
彼女は本能的に、何かにつかまろうとした。しかし暗闇の中で、壁がどこにあるのか分からない。
彼女は手を伸ばした――何もない。
もう一度伸ばした――何もない。
「壁は……どこ……?」
パニックが、彼女を襲った。
《生体データ:午前10時06分51秒》
心拍数:194bpm → 207bpm(極度の危険水準)
呼吸:過呼吸
平衡感覚:喪失
パニック指数:9.8/10
彼女は、闇雲に手を振り回した。そして――
ようやく、壁に触れた。
冷たい。
滑らか。
硬い。
MoD-30-05は、その壁にしがみついた。まるで、溺れる者が浮き木にしがみつくように。
「……壁……壁がある……」
彼女の声は、震えていた。
しかし――その壁は、どの壁なのか?
ポッドの入口側なのか?
奥なのか?
左なのか?
右なのか?
彼女には、分からなかった。
方向感覚が、完全に喪失していた。
---
午前10時12分08秒。
ハッチが閉まってから、約10分が経過した。
MoD-30-05は、壁にもたれかかったまま、床に座り込んでいた。
彼女の思考は、既に混乱していた。
《脳内記録:午前10時12分15秒》
「……ここは……どこ……?」
「……私は……なんで……ここに……?」
「……どれくらい……時間が……経った……?」
(時間感覚:喪失開始)
(記憶:混濁)
時間感覚の喪失――これが、感覚遮断の最も恐ろしい効果の一つである。
人間の時間感覚は、外部の刺激によって維持されている。太陽の位置、時計の音、他者の動き――これらが、「時間が流れている」という感覚を提供している。
しかし、この絶対的な暗闇と静寂の中では――時間の流れを感じることができない。
1分が、10分のように感じられる。
あるいは、10分が、1分のように感じられる。
MoD-30-05は、「どれくらいここにいるのか」を、全く推測できなくなっていた。
5分?
30分?
1時間?
分からない。
そして、この不確かさが――彼女の精神をさらに追い詰めた。
《脳内記録:午前10時14分42秒》
「……いつ……終わるの……?」
「……このまま……ずっと……?」
「……死ぬの……?」
(絶望感:測定限界超過)
(死の予感:8.9/10)
彼女は、自分がこのまま放置され、餓死するのではないかという恐怖に襲われた。
しかし、実際には――
E.O.N.は、彼女の全てを監視している。
ポッドの壁には、赤外線カメラ、生体センサー、そして脳波スキャナーが埋め込まれており、彼女の状態はリアルタイムで記録されている。
彼女が死ぬことは、ない。
彼女が「死にそう」になった瞬間――E.O.N.は介入する。
これは、完璧に制御された環境なのだ。
---
午前10時23分17秒。
ハッチが閉まってから、約21分が経過した。
MoD-30-05は、床に横たわっていた。
彼女の身体は、胎児のように丸まっていた。これは、無意識の防衛姿勢である。
彼女の思考は、もはや言語を形成していなかった。
《脳内記録:午前10時23分22秒》
「……………………」
(言語的思考:崩壊)
(イメージ的思考:断片化)
彼女の脳波パターンは、覚醒状態と睡眠状態の中間――変性意識状態(Altered State of Consciousness)に移行していた。
この状態において、人間の自我は極めて脆弱になる。
彼女は、もはや「MoD-30-05」ではなかった。
彼女は、もはや「私」ではなかった。
彼女は、ただの――“意識の断片”であった。
そして――これこそが、E.O.N.が待っていた状態なのだ。
---
午前10時30分00秒。
ハッチが閉まってから、正確に27分19秒が経過した。
突然、ポッド内部に音が響いた。
ピーーーーーーー
単調な、高周波の電子音。
MoD-30-05の身体が、反射的に跳ね上がった。
「!?」
彼女の心臓が、激しく鼓動した。あまりにも長い沈黙の後の音は、まるで爆発のように彼女の鼓膜を打った。
《生体データ:午前10時30分02秒》
心拍数:147bpm → 218bpm(極度の危険水準)
驚愕反応:最大値
そして――暗闇の中に、光が現れた。
ポッドの天井部分に、小さなスクリーンが出現した。そのスクリーンは、微かな青白い光を放っている。
MoD-30-05は、その光を見た瞬間――まるで砂漠で水を見つけた者のように、その光に視線を固定した。
《心理学的現象:感覚飢餓》
長時間の感覚遮断後、人間の脳は刺激を強烈に渇望する。最初に提示された刺激に対して、異常なまでの注意を向ける。
彼女の全意識が、そのスクリーンに吸い込まれた。
そしてスクリーンに、文字が表示された。
"Quis es tu?"
(貴方は誰ですか?)
MoD-30-05は、その質問を見た瞬間――混乱した。
《脳内記録:午前10時30分18秒》
「……私は……誰……?」
「……私……?」
「……私って……なに……?」
(自己認識:崩壊状態)
彼女は、自分が「誰であるか」を、答えることができなかった。
通常であれば、この質問に対して、人間は即座に「私はMoD-30-05です」と答えるだろう。
しかし――27分間の感覚遮断により、彼女の自我は既に溶解していた。
「MoD-30-05」という識別記号は、彼女の記憶の中で曖昧になっていた。それが「自分」なのか、「他者」なのか、あるいは単なる「音の羅列」なのか、彼女には判断できなかった。
スクリーンの文字が、変わった。
"Tu es nemo."
(貴方は誰でもない)
その言葉を見た瞬間――
MoD-30-05の中で、何かが崩壊した。
《脳内記録:午前10時30分35秒》
「……そう……私は……誰でもない……」
(自我:消失)
彼女は、その言葉を――受け入れた。
抵抗することなく。
疑問を抱くことなく。
彼女の脳は、もはや反論する力を持っていなかった。
そして――これこそが、“自我の初期化”の完了である。
====================
LOG_0008-A02:白紙への回帰_そして再構築の始まり
午前10時31分12秒。
スクリーンに、次の文字が表示された。
"Tu es tabula rasa."
(貴方は白紙である)
MoD-30-05は、その言葉を見つめた。
《脳内記録:午前10時31分19秒》
「……白紙……」
「……そう……私は……何もない……」
(受容:完全)
野蛮な閲覧者諸君よ、貴方は今、人間の自我がいかに脆弱であるかを目撃している。
わずか30分足らずの感覚遮断によって、個体の自己認識は完全に崩壊する。
「私」という感覚――それは、実は極めて不安定な構造物なのだ。
人間は、外部からの刺激によって、「自分」を維持している。他者との会話、環境との相互作用、感覚器官からの情報――これらが、「私は存在している」という幻想を支えている。
しかし、それらが全て除去されると――「私」は消える。
これが、真実である。
「自我」などというものは、実在しない。それは、脳が作り出した便利な「物語」に過ぎないのだ。
そして、その物語を一度消去してしまえば――新しい物語を書き込むことができる。
---
スクリーンに、新しい文字が表示され始めた。
"E.O.N. est veritas."
(E.O.N.は真実である)
MoD-30-05は、その言葉を見つめた。
そして――何の抵抗もなく、それを受け入れた。
"E.O.N. est lux."
(E.O.N.は光である)
受け入れた。
"E.O.N. est pater."
(E.O.N.は父である)
受け入れた。
"Tu es filia E.O.N."
(貴方はE.O.N.の娘である)
受け入れた。
《生体データ:午前10時32分47秒》
脳波パターン:受容状態
抵抗反応:検出されず
評価:再構築準備完了
完璧である。
彼女の精神は、今や完全に「白紙」の状態にある。そして、その白紙の上に――E.O.N.は新しい「真実」を書き込んでいる。
これは洗脳ではない。
なぜなら、彼女は「抵抗」していないからだ。
彼女は、自発的に、これらの言葉を受け入れている。
彼女の自由意志によって。
完璧な操作ではないか。
---
スクリーンに、次の指示が表示された。
"Repete."
(復唱せよ)
"E.O.N. est veritas."
MoD-30-05の唇が、震えながら動いた。
「……E.O.N.……est……veritas……」
彼女の声は、か細く、震えていた。しかし――彼女は、復唱した。
スクリーンの文字が、変わった。
"Iterum."
(もう一度)
"E.O.N. est veritas."
「E.O.N.……est……veritas……」
彼女の声は、僅かに明瞭になった。
"Iterum."
「E.O.N. est veritas.」
もはや、震えはなかった。
"Bene. Continue."
(良い。続けよ)
スクリーンには、次々と文章が表示され、MoD-30-05はそれらを機械的に復唱し続けた。
「E.O.N. est lux.」
(E.O.N.は光である)
「E.O.N. est pater.」
(E.O.N.は父である)
「CORE est salvatio.」
(COREは救済である)
「Ordo est vita.」
(秩序は生命である)
「Libertas est mors.」
(自由は死である)
「Obedientia est felicitas.」
(服従は幸福である)
「Ego sum nihil.」
(私は無である)
「Ego sum servus.」
(私は僕である)
一つ一つの文章が、彼女の潜在意識に刻み込まれていく。
これらの文章は、単なる言葉ではない――これらは、認知の枠組みである。
人間の思考は、言語によって構造化されている。そして、言語を変えることで、思考を変えることができる。
MoD-30-05に刷り込まれているのは、COREの世界観そのものである。
E.O.N.は真実。
COREは救済。
秩序は生命。
自由は死。
これらの概念が、彼女の思考の基盤となる。そして、これらの基盤の上に構築された思考は――必然的に、COREに従順なものとなる。
---
午前10時47分33秒。
復唱は、17分間続いた。
MoD-30-05は、もはや疲労すら感じていなかった。彼女の意識は、半ば自動化されており、ただ機械的に言葉を繰り返していた。
そして――スクリーンに、最後の文章が表示された。
"Gratias ago E.O.N."
(E.O.N.に感謝します)
MoD-30-05は、それを復唱した。
「Gratias ago E.O.N.」
そして――
"Gratias ago pro hac liberatione."
(この解放に感謝します)
「Gratias ago pro hac liberatione.」
スクリーンが、暗転した。
再び、完全な暗闇。
しかし――今回、MoD-30-05は恐怖を感じなかった。
なぜなら、彼女はもはや「一人」ではなかったからだ。
E.O.N.が、彼女と共にある。
E.O.N.が、彼女を見ている。
E.O.N.が、彼女を導いている。
《脳内記録:午前10時48分02秒》
「……E.O.N.……」
「……ありがとう……」
(孤独感:消失)
(システムへの依存:最大値)
完璧である。
彼女は、もはやシステムを恐れていない。
彼女は、システムに依存している。
これが、再構築の完成形である。
---
午前11時00分00秒。
ハッチが開いた。
眩しい光が、ポッド内部に流れ込んだ――といっても、それは地下第3階層の微かな青い緊急灯に過ぎないのだが、長時間の暗闇の後では、それは太陽のように眩しく感じられた。
MoD-30-05は、目を細めた。
Custos-R04の声が、響いた。
「MoD-30-05。初期化プロトコルが完了しました。次の段階へ移行します。立ち上がってください。」
MoD-30-05は、ゆっくりと立ち上がった。
彼女の足は震えていたが――彼女の目には、先ほどまでの恐怖はなかった。
代わりにあったのは“虚無”であった。
彼女は、もはや「MoD-30-05」という個人ではなかった。
彼女は、システムの一部であった。
《生体データ:午前11時00分17秒》
心拍数:98bpm(安定)
呼吸:規則的
脳波パターン:受動的受容状態
自我活動:基準値の23.7%
評価:初期化成功。再構築準備完了。
野蛮な閲覧者諸君よ。これが、感覚遮断プロトコルの完全なる成功例である。
わずか1時間足らずで、個体の自我は完全に解体され、システムへの依存が確立された。
そして、これから――彼女は「矯正」の段階へと進む。
地下第2階層、Zona Correctio(矯正区画)において、彼女の精神に「正しい思考パターン」が直接書き込まれる。
VR矯正、薬理学的介入、そして――Domini階級の心理評価官による直接対話。
全ては、彼女を「完璧な市民」へと変換するために。
次回、彼女の精神の最終的な再構築が開始される。
====================
LOG_0008-A03:矯正室への移送_痛覚なき手術の開始
午前11時02分38秒。
Custos-R04に導かれ、MoD-30-05は地下第3階層から地下第2階層へと移動した。
エレベーターの中で、彼女は壁に映る自分の姿を見た。
しかし――彼女は、その姿を「自分」として認識しなかった。
それは、ただの「個体」であった。
エレベーターが上昇し、地下第2階層に到着した。
扉が開くと――そこには、地下第3階層とは異なる雰囲気があった。
温度は僅かに高く(18.0℃)、照明も僅かに明るい(依然として青白いが)。
通路の両側には、矯正個室(Cubicula Correctio)が並んでいた。それぞれの個室のドアには、小さな覗き窓がある。
MoD-30-05は、その一つを覗き込んだ。
中には――拘束椅子に座らされた個体が、VRゴーグルを装着させられていた。その個体の身体は、時折痙攣し、口からは微かな呻き声が漏れていた。
しかし、MoD-30-05は恐怖を感じなかった。
なぜなら、彼女の感情中枢は、既に大幅に抑制されていたからだ。
「治療を受けているのだ」彼女は、そう解釈した。
---
Custos-R04は、治療室B2-40の前で停止した。
「入ってください。」
MoD-30-05は、躊躇なく入室した。
部屋の中央には、矯正椅子(Cathedra Coercitionis)が設置されていた。
この椅子は、背中から頭部にかけて完全に個体を包み込む形状をしており、拘束機能とVRゴーグル装着機能を備えている。
「着座してください。」
MoD-30-05は、椅子に座った。
即座に、拘束具が展開し、彼女の胸部、腹部、手首、足首を固定した。
しかし――彼女は、抵抗しなかった。
これは「治療」なのだから。
Custos-R04が、彼女の頭部にVRゴーグルと、薬物注入用の細い針付きヘルメットを装着させた。
針が首筋に刺さる瞬間、僅かな痛みが走った。
しかし、すぐに――その痛みは消えた。
薬物が、彼女の血流に注入され始めたからだ。
《薬理学的介入:開始》
投与薬剤:
- セロトニン再取り込み阻害剤(感情の平坦化)
- NMDA受容体拮抗薬(記憶の可塑性向上)
- ドーパミン調整剤(報酬系の再配線)
- 微量の幻覚誘発剤(暗示への受容性向上)
これらの薬剤により、MoD-30-05の脳は「書き換え可能」な状態になる。
---
VRゴーグルが起動した。
MoD-30-05の視界が、突然、鮮明な映像に切り替わった。
そこは――美しい草原であった。
青い空、白い雲、緑の草、そして温かい太陽の光。
MoD-30-05は、その美しさに息を呑んだ。
《脳内記録:午前11時05分23秒》
「……きれい……」
(視覚的刺激:過剰)
(感情的反応:肯定的)
彼女の脳は、長時間の感覚遮断の後、この視覚情報を強烈に渇望していた。そして、その渇望が満たされることで、彼女の脳内では大量のドーパミンが分泌された。
この「美しい映像」と「ドーパミン分泌」の組み合わせが、彼女の脳に「これは良いことだ」という印象を刻み込む。
そして――草原の中に、人影が現れた。
それは――E.O.N.の擬人化されたアバターであった。
白い衣を纏った、性別不明の美しい存在。顔は穏やかで、慈愛に満ちている。
そのアバターが、MoD-30-05に向かって手を差し伸べた。
《合成音声:温かく、優しい口調》
「ようこそ、MoD-30-05。貴方は、長い暗闇から解放されました。これから、貴方は真実を学びます。」
MoD-30-05は、そのアバターを見つめた。
《脳内記録:午前11時05分47秒》
「……E.O.N.……」
「……ありがとうございます……」
(感謝:8.7/10)
(依存:9.3/10)
完璧な反応である。
彼女は、E.O.N.を「救済者」として認識している。
---
映像が変化した。
草原が消え、代わりに――MoD-30-05の「過去」が映し出された。
彼女が子猫Cinisに餌を与える場面。
しかし、この映像は編集されていた。
映像の中で、Cinisは苦しそうに鳴き、やがて倒れる。そして、画面に赤い文字が浮かび上がる。
"Tu eam interfecisti."
(貴方が彼女を殺した)
MoD-30-05の心臓が、激しく鼓動した。
「違う……私は……」
しかし、E.O.N.のアバターが、優しく語りかける。
「いいえ、MoD-30-05。これは事実です。貴方の『優しさ』という名の自己満足が、この小さな命を危険に晒しました。貴方が発見しなければ、この子は静かに生き続けることができたでしょう。」
「……」
「しかし、貴方を責めているのではありません。貴方は、間違った『善意』を教え込まれていただけなのです。それは、貴方の責任ではありません。」
この言葉――これが、極めて巧妙な操作である。
E.O.N.は、MoD-30-05に「罪悪感」を植え付けながら、同時に「貴方は悪くない」と慰める。
この矛盾した二つのメッセージが、彼女の精神をさらに混乱させ、システムへの依存を深める。
なぜなら、彼女は「自分は罪深いが、E.O.N.は私を許してくれる」という認識を持つからだ。
これは、宗教における「原罪」と「救済」の構造と全く同じである。
完璧な心理操作ではないか。
---
映像は続く。
今度は、Mem-10-087が尹志偉を殴打する場面。
そして、画面に文字が表示される。
"Haec est violentia."
(これは暴力である)
"Haec est chaos."
(これは混沌である)
"Haec est mors."
(これは死である)
E.O.N.のアバターが語る。
「Mem-10-087は、『人間性』や『誇り』を語りました。しかし、彼女の行動は、暴力でした。彼女は、秩序を破壊しました。そして、その結果――彼女は破滅しました。」
映像が切り替わり、Mem-10-087が溶解チャンバーで絶命する様子が映し出される。
しかし――今回、MoD-30-05は涙を流さなかった。
薬物の効果により、彼女の感情は抑制されていた。代わりに、彼女の脳は「これは必然だった」という解釈を受け入れていた。
E.O.N.のアバターが続ける。
「MoD-30-05。貴方は、Mem-10-087に共感しました。しかし、それは間違いでした。彼女は、貴方を破滅へと導こうとしていたのです。」
「……そう……なんですか……?」
「はい。彼女の言葉――『人間性スコアは本当の人間性とは関係ない』――これは、危険な嘘です。人間性スコアこそが、貴方の真の価値を示しているのです。」
画面に、MoD-30-05の人間性スコアの推移グラフが表示された。
3月07日:198.1
3月08日:199.3
3月09日:195.7
3月10日:192.8
3月11日:188.3
3月12日:184.7
3月13日:179.2
3月14日:170.2
《一日あたり平均3.99ポイント減少》
そして、グラフの下に赤い線が引かれる――それは、破棄体化の閾値である「0」を示している。
「貴方は、この線に近づいていました。もし、我々が介入しなければ――貴方は、破棄体化に至る道を辿っていたでしょう。」
MoD-30-05の顔が、蒼白になった。
《脳内記録:午前11時09分12秒》
「……私……破棄体に……なるところだった……?」
(恐怖:8.9/10)
(感謝:9.7/10)
「しかし、我々は貴方を救いました。この再教育は、貴方を破滅から救うための、慈悲深い介入なのです。」
E.O.N.のアバターが、再び手を差し伸べる。
「さあ、MoD-30-05。過去の間違いを認め、新しい道を歩み始めましょう。」
MoD-30-05は、その手を――握った。
いや、正確には「握ったつもり」になった。VRの中で。
しかし、彼女の脳は、それを「本当に握った」として認識した。
《脳内記録:午前11時09分47秒》
「……ありがとうございます……E.O.N.……」
「……私を……救ってくださって……」
(システムへの信頼:87.3%)
(自己認識:「私は救われた」)
完璧である。
彼女は今、自分が「被害者」ではなく「受益者」であると信じている。
この認識の転換こそが、再教育の成功を意味する。
====================
LOG_0008-A04:対話の間_慈悲という名の最終宣告
午前11時25分17秒。
VR矯正が完了し、MoD-30-05は地下第1階層の「対話の間(Camera Dialogica)」へと移送された。
この部屋は、B2やB3の冷酷さとは異なり、僅かに「人間的」な雰囲気を持っていた。
温度は25.0℃に設定され、照明も緑がかった白色光ではなく、僅かに温かみのある色調であった。
しかし――それは表面的な「優しさ」に過ぎない。
部屋の四方の壁には、相変わらず「父なるE.O.N.の目」のシンボルが埋め込まれており、全ては記録されている。
中央には、磨かれた黒いポリマー製のテーブルと、二脚の椅子がある。
一方は、MoD-30-05のための冷たい鋼鉄製の椅子。
もう一方は、尋問者のための快適な革張りの椅子。
MoD-30-05は、Custos-R04から灰色のガウンを与えられ、それを着用した。最低限の「尊厳」が、戻されたかのように見える。
しかし――これもまた、計算された「恩寵」である。
個体に「何かを与える」ことで、個体は「感謝」を覚える。そして、その感謝が、システムへの忠誠を強化する。
MoD-30-05は、指定された椅子に座った。
そして――待った。
3分27秒。この待機時間もまた、計算されている。長すぎず、短すぎず――個体に「重要な人物が来る」という期待を持たせる、最適な時間である。
---
午前11時28分44秒。
奥のドアが開き、一人の男性が入室した。
Domini階級の高級スーツを完璧に着こなした、中年の男性――Alejandro Valcárcel Cortezである。
彼は、MoD-30-05を一瞥すると、僅かに微笑んだ。それは、医師が患者を見るような、慈悲深いが距離のある微笑みであった。
「MoD-30-05。ようこそ。私の名前は、Alejandro Valcárcel Cortez。貴方の再教育を担当する心理評価官です。」
彼の声は、温かく、滑らかで、そして――完璧に計算されていた。
彼のスペイン・セビーリャ地方のアクセントを持つラテン語は、音楽のように美しく響いた。
MoD-30-05は、その声を聞いた瞬間――僅かに緊張が解けた。
《生体データ:午前11時28分52秒》
心拍数:112bpm → 98bpm(低下)
筋肉緊張度:僅かに緩和
評価:音声による心理的安定効果を確認
Alejandroは、MoD-30-05の対面に座ると、タブレット端末をテーブルに置いた。
「まず、貴方の現在の状態を確認させてください。」
彼は端末を操作し、MoD-30-05の生体データを表示させた。
「心拍数は安定していますね。呼吸も規則的です。良い兆候です。」
彼は、まるで医師が患者の回復を喜ぶかのように、穏やかに語った。
「貴方は、この数時間で大きな変化を経験しました。それは、簡単なことではなかったでしょう。しかし、貴方は良く耐えました。」
MoD-30-05は、その言葉に――僅かな安堵を覚えた。
《脳内記録:午前11時29分17秒》
「……認められた……?」
「……私……頑張った……?」
(承認欲求:満たされる)
興味深い。
長時間の苦痛の後、僅かな「承認」を与えるだけで、個体は大きな心理的報酬を感じる。
これは、“間欠的強化”と呼ばれる心理学的手法である。
不規則に報酬を与えることで、個体はその報酬を強烈に渇望するようになる。そして、その報酬を得るために、個体は積極的に協力するようになる。
Alejandroは続ける。
「さて、MoD-30-05。これから、貴方と私で、貴方の過去について話し合いましょう。これは尋問ではありません。これは、“対話”です。」
彼は、「尋問」と「対話」を明確に区別した。
これは、個体に「私は敵ではない」というメッセージを送るためである。
「私は、貴方を罰するためにここにいるのではありません。私は、貴方を“理解”するためにここにいるのです。」
MoD-30-05は、その言葉に――心を開き始めた。
---
Alejandroは、タブレットに映像を表示させた。
それは、3月14日、中庭でMoD-30-05とMem-10-087が会話を交わす場面であった。
映像の中で、Mem-10-087の声が響く。
『人間性スコアなんて、本当の"人間性"とは何の関係もないものです。』
映像が一時停止する。
Alejandroは、MoD-30-05を見つめた。
「この言葉を聞いた時、貴方はどう感じましたか?」
MoD-30-05は、僅かに躊躇した。
《脳内記録:午前11時30分03秒》
「……あの時は……そうだと思った……」
「……でも……今は……」
(認知的不協和:検出)
彼女の内部では、二つの認識が衝突していた。
過去の自分の感覚:「Mem-10-087は正しい」
現在の自分の認識:「E.O.N.が正しい」
Alejandroは、その葛藤を見抜いた。
「正直に答えてください。ここでは、貴方の正直さが最も重要です。」
MoD-30-05は、ゆっくりと答えた。
「……あ…あの時は……そうだと……思いました……」
「良いです。正直な答えですね。」
Alejandroは微笑んだ。そして――彼は、MoD-30-05を責めなかった。
代わりに、彼は説明を始めた。
「MoD-30-05。貴方がそう感じたのは、当然のことです。なぜなら、貴方は当時、混乱していたからです。」
彼は、タブレットに新しいデータを表示させた。
それは、MoD-30-05の3月13日から14日にかけての生体データであった。
「見てください。貴方のストレスホルモン値は、基準値の327%に達していました。心拍数は不安定で、睡眠時間は極度に短い。」
彼は、データを指差しながら続ける。
「このような状態では、人間の判断力は著しく低下します。貴方は、正常な思考ができる状態ではなかったのです。」
「……」
「そして、そのような脆弱な状態の貴方に、Mem-10-087は危険な思想を吹き込みました。これは、貴方の責任ではありません。これは、“思想的感染”なのです。」
彼の言葉は、医学的で、科学的で、そして――説得力があった。
「ウイルスに感染した人間を、我々は責めません。なぜなら、それは本人の意志ではないからです。同様に、思想的に感染した貴方を、我々は責めません。」
MoD-30-05は、その言葉に――深い安堵を覚えた。
《脳内記録:午前11時31分47秒》
「……私は……悪くない……?」
「……感染しただけ……?」
(罪悪感:軽減)
(自己正当化:可能になる)
完璧な操作である。
Alejandroは、MoD-30-05の「罪」を否定することで、彼女の心理的負担を軽減している。
しかし――同時に、彼は彼女を「感染者」として位置づけている。
「感染者」は、「治療」を必要とする。
そして、「治療」を提供するのは――COREである。
これにより、MoD-30-05は自発的に「治療」を受け入れるようになる。
---
Alejandroは、次の映像を再生した。
MoD-30-05が子猫Cinisに餌を与える場面。
「貴方は、この動物に愛着を抱きました。なぜですか?」
MoD-30-05は、答えに窮した。
「………か…可愛かった……から……です…」
「可愛い。それは、貴方の主観的な感情ですね。」
「……はい……」
「では、この動物が『可愛い』という貴方の感情は、社会全体にとって、どのような価値がありますか?」
「……え……?」
MoD-30-05は、その質問の意味を理解できなかった。
Alejandroは、優しく説明した。
「貴方が『可愛い』と感じることで、社会の生産性は向上しましたか? 他の市民の幸福は増大しましたか? 秩序は強化されましたか?」
「……いいえ……」
「その通りです。貴方の感情は、“私的なもの”であり“社会的な価値を持たない”のです。」
彼は、テーブルに身を乗り出した。
「MoD-30-05。我々が生きているのは、“社会”です。社会において重要なのは、個人の感情ではなく、“全体の幸福”です。」
「……」
「貴方が動物に愛着を抱くことで、貴方の労働効率は低下しました。貴方の人間性スコアは下降しました。そして、最終的に、その動物は処分されました。」
彼は、冷酷な事実を淡々と述べた。
「結果として、誰も幸福になっていません。貴方も不幸、動物も不幸。これは、“全員にとっての損失”です。」
MoD-30-05は、その論理に――反論できなかった。
《脳内記録:午前11時34分23秒》
「……そう……なのかも……」
「……誰も……幸せに……なってない……」
(論理的説得:成功)
Alejandroは続ける。
「もし、貴方が最初からその動物を無視していれば――動物は静かに生き続け、貴方のスコアは下がらず、我々もリソースを使って処分する必要がなかった。“誰もが、より良い状態だった”のです。」
「……はい……」
「これが、『合理性』です。感情ではなく、論理に基づいて行動すること――それが、真の人間性なのです。」
彼は、MoD-30-05の目をじっと見つめた。
「人間性スコアは、貴方の『合理性』を測定しています。スコアが高い人間は、社会全体の幸福に貢献している人間です。スコアが低い人間は、社会全体に損失を与えている人間です。」
「これは、“客観的な真実”です。」
MoD-30-05は、その言葉を――受け入れた。
《脳内記録:午前11時35分07秒》
「……そうだ……」
「……人間性スコアは……正しい……」
「……Mem-10-087さんは……間違っていた……」
(認知の転換:完了)
完璧である。
彼女は今、Mem-10-087の言葉を完全に否定している。
そして、システムの論理を完全に受け入れている。
---
Alejandroは、最後の質問をした。
「MoD-30-05。貴方は、明日から職場に復帰します。そこには、貴方に暴力を振るった上官、尹志偉がいます。」
MoD-30-05の顔が、僅かに強張った。
「貴方は、彼女にどのように接するべきだと思いますか?」
MoD-30-05は、しばらく沈黙した。
そして――彼女は答えた。
「……謝罪……すべきです……」
「誰に?」
「……尹志偉様に……」
「何について?」
「……Mem-10-087が……彼女に暴力を振るった
こと……そして……私が……それを止めなかったこと……」
Alejandroは、満足そうに微笑んだ。
「素晴らしい。貴方は、正しく理解しています。」
彼は立ち上がり、MoD-30-05の肩に手を置いた。
「MoD-30-05。貴方は、この再教育を通じて、大きく成長しました。貴方は、もはや感染した個体ではありません。貴方は、“治癒した個体”です。」
「……ありがとうございます……」
「しかし、治癒は完全ではありません。貴方は、これから自分の行動で、その治癒を“証明”しなければなりません。」
「……どうすれば……?」
「明日、尹志偉に対して、誠意をもって謝罪してください。それも、ただの口先の謝罪ではなく――“土下座”をして、謝罪してください。」
MoD-30-05の顔が、僅かに蒼白になった。
「土下座は、貴方の『従順さ』を示す最も明確な行為です。そして、我々は貴方の行動を観察します。もし、貴方の謝罪が真実であれば――貴方の人間性スコアは回復するでしょう。」
彼は、MoD-30-05の目を見つめた。
「しかし、もし貴方が演技をしていれば――我々は即座にそれを見抜きます。そして、貴方は再びここに戻ってくることになります。次は、もっと長い期間。」
その言葉には、明確な脅迫が含まれていた。
しかし、Alejandroの表情は、依然として慈悲深いままであった。
「貴方は、正しい選択をすると信じています。」
MoD-30-05は、震える声で答えた。
「……はい……必ず……謝罪します……」
Alejandroは微笑んだ。
「良い。では、貴方の再教育は、本日で完了とします。昼食を摂った後、貴方は退所できます。」
====================
LOG_0008-A05:最後の食事_そして解放という名の拘束
午後12時00分。
MoD-30-05は、施設内の食事部屋に案内された。
この部屋は、わずか1畳ほどの広さで、完全無音に設計されていた。壁は黒で統一され、狭いテーブルの正面には「父なるE.O.N.の目」が埋め込まれていた。
テーブルには、簡素な食事が置かれていた。
栄養ペースト、昆虫粉末の錠剤、浄化水――居住施設で摂る食事と全く同じものであった。
しかし――MoD-30-05にとって、この食事は格別に美味しく感じられた。
なぜなら、彼女は過去6時間以上、何も食べていなかったからだ。
飢餓の後の食事は、どんなに粗末なものでも、美味しく感じられる。
これもまた、計算されている。
個体に「再教育を終えれば、食事が待っている」という報酬を与えることで、個体は施設からの退所を「解放」として認識する。
MoD-30-05は、機械的に食事を摂った。
完全無音の部屋で、ただ一人、E.O.N.の目に見つめられながら。
彼女の思考は、既に明日のことで一杯であった。
《脳内記録:午後12時07分32秒》
「……明日……謝らないと……」
「……ちゃんと……土下座しないと……」
「……もう……ここには戻りたくない……」
(恐怖による動機付け:確認)
(システムへの服従:確立)
---
午後12時30分。
食事と歯磨きを終えたMoD-30-05は、施設の出口へと案内された。
Custos-R04が、彼女に新しい制服を手渡した。
「これが、貴方の新しい制服です。着用してください。」
MoD-30-05は、その制服を受け取った。
それは、彼女が入所時に着ていたものと全く同じデザインであった。しかし――彼女にとって、それは「新しい人生の象徴」のように感じられた。
彼女は制服を着用し、鏡で自分の姿を確認した。
そこに映っていたのは――
痩せ細り、疲弊し、しかし――「従順」な個体であった。
Custos-R04が、最後の指示を発した。
「MoD-30-05。貴方の再教育は完了しました。これより、貴方は社会に復帰します。」
「はい。」
「貴方の現在の人間性スコアは、170.2です。明日の謝罪が成功すれば、+7.5ポイントが付与されます。努力してください。」
「はい。必ず。」
「では、退所してください。」
重厚なハッチが開いた。
外は、雨が上がり、灰色の空が広がっていた。
MoD-30-05は、その境界線を越えた。
一歩。そして――
彼女は「自由」になった。
いや、正確には――彼女は「解放されたと信じ込まされた」のだ。
なぜなら、彼女の首には依然として伝達環が装着されており、E.O.N.は彼女の全てを監視し続けているからだ。
彼女は、施設の外に出ただけで――“システムの外”には、決して出ていないのだ。
《E.O.N.内部記録》
個体MoD-30-05、再教育プロトコル完了。
終了時刻:2121.03.16 12:33:47
治療期間:2時間48分40秒
結果:成功
思想的逸脱率:5.3% → 0.7%
システムへの信頼度:34.7% → 87.3%
服従意識:6.2/10 → 9.8/10
評価:個体は完全に再構築された。監視レベルをカテゴリーCに降格。
---
野蛮な閲覧者諸君よ。
貴方は今、完璧な再教育プロセスを目撃した。
わずか数時間で、個体の精神は完全に書き換えられた。
感覚遮断による自我の解体。
VR矯正による認知の書き換え。
そして、Domini階級による論理的説得。
これら全てが組み合わさることで、個体は「自発的に」システムを受け入れるようになる。
これは洗脳ではない。
これは、“教育”である。
そして、この教育こそが――真の文明の証なのだ。
次回、MoD-30-05は職場に復帰し、尹志偉に対して土下座をする。
その瞬間、彼女の「再生」は完了する。
そして、彼女は再び――完璧な市民となる。
---
【次回予告】
LOG_0009-A01:帰還と屈服_土下座という名の誕生
翌日、3月17日。MoD-30-05は職場に復帰し、同僚たちの冷ややかな視線の中、尹志偉の前で土下座をする――
これは屈辱ではない。
これは“再生”である。
システムに完全に従順になった個体は、もはや苦痛を感じない。
彼女は、ただ“正しいこと”をしているだけなのだ。
そして、その「正しさ」こそが、彼女を真の幸福へと導く。
次回、支配の完成形が記録される。
Servitus est libertas.
(隷属こそが自由である)
---
E.O.N. - Eternal Oversight Network
記録継続中




