箱の中の夜空
2月14日、バレンタイン当日。
その日の朝、夏山家の玄関では、高校生が一人、まるで精密機器か何かを運ぶかのように、慎重にスクールバッグを肩にかけていた。夏山桃香である。
バッグの中には、昨日、リボンをかける指が震えるほど緊張しながらラッピングした、小さな箱が一つ。それが気になって、歩き方までぎこちなくなってしまう。
(大丈夫、ちゃんとハンカチで包んで、教科書でガードしたから、潰れたりしないはず……。でも、もし満員電車で押されたら……?ううん、それより、教室で目を離した隙に、盗まれたりしたら……!?)
そこまで考えて、桃香はぶんぶんと首を振った。ありえない。考えすぎだ。でも、不安は次から次へと湧いてくる。
学校に着き、昇降口で親友の七海と合流するなり、桃香は悲壮な顔で訴えた。
「七海……どうしよう、チョコ、無事に渡せるかな……」
「あんた、朝から顔が死んでるけど、どしたの」
「だ、だって、このバッグ、絶対死守しないと……誰かにぶつかって中身が崩れたりしたら……」
必死に鞄を抱える桃香の姿に、七海は盛大なため息をついた。
「はぁ……。あんたねえ、それ、ただのチョコよ?金塊じゃないんだから。誰があんたの本命チョコ、盗むっていうのよ。過保護すぎ!」
「だって!」
桃香は、思わず声が大きくなる。
「……すごく、大変だったんだから……」
七海の呆れた顔を見ながら、桃香の脳裏に、数日前の夜の光景が鮮やかに蘇った。
―—―
(回想)
それは、バレンタイン二日前の、深夜だった。
キッチンには、桃香が一人。テーブルの上には、クロッキー帳に描かれた最終デザインと、テンパリングを終えた、艶やかなチョコレートのキャンバス。
(……やるしかない)
デザイン画は完璧だった。でも、それをチョコレートで再現するのは、想像を絶するほどに困難な作業だった。
湯煎で溶かしたホワイトチョコレートを、極細のコルネに詰める。息を止め、震える指先で、三日月のラインを描き始めた。だが、ほんの少し力が入りすぎ、線が滲んでしまう。
「……っ!」
声にならない悲鳴を上げ、パレットナイフでそっと滲んだ部分を削り取る。やり直し。もう一度。
流れ星の、繊細な尾を描く。そして、ピンセットでつまんだ一粒の銀色のアラザンを、星に見立ててそっと配置する。
高価な金箔なんて買えないけれど、この一粒に、自分の精一杯の気持ちを込める。
集中力は、とっくに限界を超えていた。眠気と、プレッシャーで、何度も諦めそうになる。
そのたびに、思い浮かべるのは、樹の横顔だった。
黙々と、でもどこか楽しそうに、完璧な作業をこなしていく、あの真剣な眼差し。美しい、大きな手。
(彼に、私の世界を見てほしい)
技術では敵わない。だからこそ、自分の全てを、この小さな四角形に注ぎ込む。その一心で、桃香は再びコルネを握りしめた。
そして、最後の一粒を乗せ終えた時、窓の外は、白み始めていた。
―—―
「……香!桃香ってば!」
七海の声に、はっと我に返る。
「ごめん、ぼーっとしてた」
「そりゃ、ぼーっともするわよ。あんたのそのチョコ、魂こもってるもんね」
七海は、呆れ顔から一転、優しく笑った。
「大丈夫。絶対、喜んでくれるって」
その言葉に、桃香は少しだけ勇気をもらった。
教室は、朝から甘い香りと、どこか浮き足立った熱気に包まれていた。
休み時間になるたびに、可愛らしいラッピングの交換会が始まる。そして、今年は例年と少しだけ様子が違った。
「見てみて、この生チョコ!昨日、春石くんに聞いた通り60℃でやったら、めっちゃ滑らかになった!」
「私のクッキーも、焼き時間のアドバイスもらったら、全然違うの!」
樹の的確な「コンサルティング」のおかげで、女子生徒たちが作るお菓子のクオリティが、全体的に格段に上がっていたのだ。その結果、クラス中の注目は、自然と一人の少女に集まっていた。
(夏山さんは、いったい、どんなのをあげるんだろう?)
そんな無言のプレッシャーを全身に浴びながら、一日中、渡すタイミングを見つけられないまま、無情にも放課後を告げるチャイムが鳴り響く。
今しかない。桃香は意を決して席を立った。クラスメイトたちが、息を殺してこちらを見守っていることなど、今の彼女には全く気づく余裕はなかった。
「……は、春石くん」
声をかけると、樹の肩が、ぴくりと揺れた。
「あの、これ……」
桃香は、震える手で、リボンのかかった小さな箱を彼の机の上にそっと置いた。
「よかったら、食べてください……!」
言うが早いか、桃香は逃げ出すように自分の席に戻ろうとする。だが、その瞬間を、クラスメイトたちが見逃すはずがなかった。
「待ってましたー!」
誰かの声を合図に、帰り支度をしていたはずの生徒たちが、わっと樹の机に殺到した。
「見たい!見たい!」「春石!開けろー!」
あっという間に、樹の周りは黒山の人だかり。樹は、困惑したように桃香を見たが、彼自身、この箱の中に何が入っているのか、見たくてたまらなかったのだ。
「……分かった。一瞬だけだぞ」
樹が、ゆっくりと箱のリボンを解く。
蓋が開けられた瞬間、取り囲んでいたクラスメイトたちから、感嘆のため息が漏れた。
箱の中に鎮座していたのは、一つの芸術品だった。
艶やかな漆黒のチョコレート。その表面には、繊細なホワイトチョコレートで、一つの情景が描かれている。
静かな夜空に浮かぶ、美しい三日月。
そこから、一本の、きらめく流れ星が、すうっと尾を引いている。
それは、樹のケーキ『静寂』と、桃香のケーキ『聖夜に降る流れ星』。二人が出会った、あのクリスマスの奇跡の物語だった。
樹の視線が、チョコレートの下に、ほんの僅かに見える、小さく折り畳まれた紙の角を捉える。
(……手紙)
心臓が、どきりと音を立てた。これは、今、ここで、開けていいものではない。
樹は、瞬時にそう判断した。彼は、手紙の存在には一切気づかないふりをして、その視線を、ただひたすらチョコレートのデザインの上だけに集中させた。その表情は、純粋な感嘆の仮面を完璧に保っている。
彼の意図を察する者など、いるはずもない。取り囲んでいたクラスメイトたちから、ワンテンポ遅れて、感嘆のため息が爆発した。
「す……すごい……」
「これ、チョコなの……?宝石じゃなくて?」
誰もが、そのあまりの美しさに言葉を失う。
樹は、誰よりも、そのチョコレートに込められた意味を、正確に理解していた。技術を誇示するのではない。これは、彼女にしか作れない、彼女だけの「物語」。自分への、最大限のリスペクトと、あたたかな想いが詰まった、紛れもない「本命」の証。
樹は、箱の中の小さな夜空と、教室の隅で顔を真っ赤にしてうつむいている桃香を、ただ交互に見つめることしかできなかった。
胸の奥から、今までに感じたことのない、熱い感情が、じわりと込み上げてくるのを感じながら。
◇
その日の夜。
春石家の玄関のドアが開く音を、リビングにいた三人は聞き逃さなかった。
「「「おかえりなさーい」」」
どこか探るような、妙に揃った家族の声に、樹は「……ただいま」とだけ返して、さっさと自室に行こうとする。だが、その進路は、ソファからすっくと立ち上がった姉の碧によって、完璧に塞がれていた。
「はい、樹。お母さんと私から。いつもお世話になっておりますー」
碧が、小さなラッピング袋を二つ、半ば押し付けるように樹に渡す。それは、建前だった。本題は、その次に続く言葉にある。
「で?本日の成果は?」
にやにやと笑う姉と、期待に満ちた瞳の母。その視線は、樹のスクールバッグに突き刺さっている。
「まさかとは思うけど……収穫ゼロ、だったりして?」
「……」
樹が黙っていると、碧はわざとらしく「あららー、残念!」と肩をすくめた。
「……もらってる」
ぼそりと、樹が呟く。
その一言で、母と姉の目の色が変わった。
「え、ホントに!?」「見せなさい、早く!」
リビングのローテーブルに、有無を言わさず座らされる。観念した樹が、バッグからそっと例の箱を取り出すと、三つの頭が、テーブルの中央にぐっと寄せられた。
樹が、ゆっくりと箱を開ける。
中に鎮座する、芸術品のようなチョコレートを見た瞬間、母と姉は息を呑んだ。
「まあ……きれい……」
「三日月から、流れ星……。これって……」
二人は、瞬時にそのデザインに込められた意図を察知し、顔を見合わせて、優しく微笑んだ。
一方、父親は「おお、すごいな!これはプロの仕事だ!」と、見当違いな感心をしている。
そんな夫を見て、母親は「男の人なんて、そんなものよね」とでも言うように、少しだけ呆れた、でも愛情のこもった眼差しを向けた。
「……よかったわね、樹。本当に、素敵な子」
母親のその言葉が、何よりもうるさく感じて、樹は「もういいだろ」と箱を閉じると、足早に自分の部屋へと引っ込んだ。
自室の机に、そっと箱を置く。
一人になった空間で、樹は改めて蓋を開けた。美しいチョコレートの下に隠されていた、あの小さな紙片。クラスメイトたちの前では、気づかないふりを貫き通した、彼女からの秘密のメッセージ。
指先が、微かに震えるのを感じながら、樹は、そっとその手紙を広げた。
【手紙の内容】
『春石 樹くんへ
突然、こんな手紙をつけちゃって、驚かせてたらごめんなさい。
今日のチョコレートは、私の、今までの「ありがとう」の気持ちです。
クリスマスに、私の夢だったケーキを一緒に作ってくれて、本当にありがとう。
初詣に、一緒に行ってくれて、ありがとう。
学校で、みんなにケーキのことを褒められて、樹くんがどんなにすごい人か、みんなが知ってくれたのが、自分のことみたいに嬉しかったです。
このチョコレートは、あの日の夜空をイメージしました。
樹くんの『静寂』と、私の『流れ星』。
二つが並んでいた、あの奇跡みたいな夜のことを、どうしても形にしたかったんです。
最後に、一つだけ、お願いがあります。
もし、よかったら… これからは「桃香」って呼んでくれたら、すごく嬉しいです。
夏山 桃香より』
手紙を読み終えた瞬間、樹の顔に、カッと熱が集まった。
(……桃香、って、呼べ、だと……?)
その名前を、声に出すどころか、頭の中で反芻するだけで、心臓が馬鹿みたいに跳ね上がる。無理だ。そんなこと、できるわけがない。
樹は、手紙を机に置くと、意味もなく部屋の中をうろうろと歩き回った。照れくささと、嬉しさと、どうしようもない戸惑いが、ぐちゃぐちゃに心の中をかき乱す。
だが、返事をしないわけにはいかない。
これは、彼女が勇気を振り絞って書いた手紙だ。それに、応えないなんて選択肢は、なかった。
樹は、覚悟を決め、スマホを手に取った。
◇
一方、その頃。夏山桃香は、自室のベッドの上で、クッションに顔をうずめていた。
「あああああ、何で私、あんなこと書いちゃったのーーーっ!」
じたばたと足をばたつかせる。
「『桃香って呼んで』!?大胆すぎる!絶対、引かれてる!重いって思われてる!もう、学校行けない……!」
完全に、後悔の嵐が吹き荒れていた。自分の、人生最大級の勇気は、ただの暴走だったのではないか。既読になってから、もうずいぶん経つのに、樹からの返信はない。
沈黙が、桃香のネガティブな想像を、どこまでも加速させていく。
もうダメだ。終わった。私の恋は、今日、終わったんだ。
そう思った、まさにその時だった。
ぽん、と。
スマホが、静かに、でも確かに、新しいメッセージの受信を告げた。
桃香は、恐る恐る、震える手で、画面をタップする。
そこに表示されていたのは。
『桃香へ
今日のチョコ、ありがとう。
すごく綺麗で、食べるのがもったいなかった。
でも、食べた。無茶苦茶、美味しかった』
自分の名前が、そこにあった。
漢字二文字の、自分の名前が。
その事実を認識した瞬間、桃香の瞳から、ぽろり、と大粒の涙がこぼれ落ちた。
後悔の涙ではない。嬉しくて、温かくて、どうしようもなく幸せな、涙だった。
ご一読いただきありがとうございます!
思った以上に読んでくださる方がいて、とても嬉しいです。
もっと楽しんでもらえるように頑張りたいと思います。
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