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バレンタイン狂想曲(カプリッチオ)

1月2日。約束の初詣を終えた、次の日の朝。


桃香のスマホが、ぽん、と軽快な音を立てた。画面には『春石樹:おはよう』の文字。その日から、二人の間には新しい習慣が生まれた。他愛もない、ごく短い挨拶だけのやりとり。けれど、そのささやかな繋がりが、冬休みの残りの日々を、温かい色で満たしていった。



1月8日。始業式。


久しぶりに袖を通す制服に、桃香は少しだけ胸を躍らせていた。教室のドアを開けると、そこには冬休み前と何も変わらない、日常の風景が広がっている。


窓際の席で、一人静かに本を読む春石樹。


学校での彼は、やはり分厚い氷の壁に覆われているかのようだ。桃香も、あえて彼に話しかけようとはしない。LINEでのやりとりが、まるで二人だけの秘密の暗号のように感じられた。


だが、恋する少女の纏う、ほんの僅かな空気の変化を、見逃さない人物がいた。



翌日の昼休み。


親友の相沢七海が、お弁当を食べながらニヤニヤと桃香の顔を覗き込む。


「冬休みの間、絶対なんかあったでしょ」


「えっ?」


「だって、あんた、ずーっとスマホ気にしてるし、なんか、ふわふわしてるもん。さては、春石くんと進展あったな?」


鋭い七海のことだ、どうせ隠し通せるはずもない。桃香は観念して、クリスマスからの出来事を洗いざらい白状した。目を輝かせて話を聞いていた七海だったが、やがて興奮を抑えきれないといった様子で、他の友人グループの元へと駆け寄っていく。


「ねえ、聞いて聞いて!桃香がね!」


その日の午後には、噂はあっという間にクラス中に広まっていた。


「夏山さん、春石くんと一緒にクリスマスケーキ作ったんだって!」


「え、マジで!?あの春石が!?」


樹の耳にも、当然その噂は届いていた。

ひそひそと交わされる会話。自分に向けられる、好奇の視線。


(……始まった)


樹は、ぎゅっと奥歯を噛み締めた。脳裏に蘇るのは、小学生の日の、あの嘲笑。伝染病のように広がっていく悪意。熱い鉄の杭のように、心を抉る言葉。


まただ。また、あの屈辱を味わうんだ。


次に誰かが自分に話しかけてきたら、殴ってしまうかもしれない。張り詰めた緊張感で、樹は全身を硬直させていた。


「なあ、春石!」


ついに、クラスの男子が数人、樹の机を取り囲んだ。一番体格のいい、サッカー部の男子が、面白そうな顔で樹を見下ろしている。


(……来た)


樹は、固く拳を握りしめ、覚悟を決めて顔を上げた。


「お前、ケーキ作れんの、マジかよ!すげーじゃん!」


「え……」


予想していた言葉とは、180度違う言葉。

サッカー部の男子は、感心したように続けた。


「俺の彼女、甘いもん好きなんだよな。今度教えてくれよ、マジで」


「いや、俺も。妹の誕生日に作ったら、絶対喜ぶわ」


嘲笑ではなかった。馬鹿にするような響きは、どこにもない。そこにあるのは、純粋な尊敬と、羨望の眼差し。

女子たちも、遠巻きにしながら「春石くん、すごいね」「夏山さん、いいなあ」と囁き合っている。


樹は、呆然としていた。

世界が、ひっくり返ったようだった。

あの頃、自分をあれほどまでに傷つけた世界は、もうどこにもなかった。周りも、自分と同じように、少しだけ大人になっていた。その当たり前の事実に、樹は今、初めて気づかされた。


「……で、どうなのよ」


七海が、桃香の肩を抱きながら、代表するように尋ねる。


「あんたたち、付き合ってんの?」


クラス全員の視線が、一斉に二人に突き刺さる。


「ち、違うよ!ただの友達!」


桃香が、顔を真っ赤にして叫ぶように否定する。


樹も、聞こえるか聞こえないかの声で「……違う」と呟くと、照れを隠すように、ぷいと顔を背けてしまった。


その、あまりにもシンクロした反応に、クラス中が「あやしいー!」と囃し立てる。

二人の否定も虚しく、その日から、樹と桃香は、クラス公認の「ケーキ作りペア」として、温かい目で見守られることになったのだった。



1月9日。


始業式を境に、春石樹と夏山桃香を取り巻く空気は、静かに、だが確実に変化していた。


桃香の朝は、スマホのアラームを止めることから始まる。そして、最初に開くのは、決まって樹から届いているLINEの通知だった。『おはよう』。たった4文字。でも、その通知が画面にあるだけで、まだ眠い朝も、少しだけ特別なものに思えた。


教室での樹は、冬休み前と何も変わらない。窓際の席で、一人静かに本を読んでいるか、イヤホンで音楽を聴いているか。その無愛想な横顔は、相変わらず人を寄せ付けないオーラを放っている。

桃香も、あえて学校で彼に話しかけようとはしない。LINEでのやりとりが、まるで二人だけの秘密の暗号のように感じられ、それが少しだけ、誇らしかった。


だが、秘密はいつまでも秘密のままではいられない。

クリスマスと初詣の一件がクラスに知れ渡ってから、二人は良くも悪くも注目の的となっていた。


その変化は、2月が近づくにつれて、より顕著になる。バレンタインという、一年で最も甘いイベントが、すぐそこまで迫っていたからだ。


「なあ、春石。悪いんだけど、ちょっと教えてくれ」


昼休み、クラスの男子が、少しばつの悪そうな顔で樹に尋ねた。


「俺の彼女が、チョコ作りに失敗して、めっちゃヘコんでんだよ。ガナッシュ?とかいうのが、どうしても分離するらしくて。なんかコツとか知らねえ?」


その、少しぶっきらぼうな口調の中にも、彼女を心配する優しさが滲んでいる。樹は、一瞬面倒くさそうな顔をしたが、ぽつりと答える。


「……生クリームを沸騰させるな。温度が高すぎると、チョコの油脂が分離する。60℃までだ」


「マジか!なるほどな……サンキュ!あいつに教えてやるわ!」


男子は、感謝の言葉を残して、嬉しそうにスマホをタップし始めた。


そのやりとりは、あっという間にクラスに広まった。「春石に聞けば間違いない」。いつしか、そんな空気が生まれていた。女子たちも、以前よりずっと気さくに彼に話しかけるようになった。


「春石くん、このレシピ、どう思う?」


「……悪くない。だが、カカオ分70%以上のチョコを使え。その方が香りが立つ」


的確なアドバイスをするその姿は、まるでパティシエそのものだ。


その光景を、桃香は少し離れた席から、誇らしいような、でも胸の奥がチクリと痛むような、複雑な気持ちで見つめていた。


(みんな、樹くんのすごさに気づき始めたんだ)


それは、とても嬉しいことだった。けれど同時に、自分だけが知っていたはずの彼の特別な才能が、遠くへ行ってしまうような気がして、少しだけ寂しかった。

そして、何よりも大きな問題が、桃香の心を重く支配していた。


(……今年のバレンタイン、どうしよう)


本命のチョコレートを、彼に渡したい。

でも、相手は、その道のプロフェッショナルだ。

半端なものは、渡せない。生半可な気持ちで、彼の聖域に足を踏み入れてはいけない。

そのプレッシャーが、鉛のように桃香の肩にのしかかっていた。



バレンタインを数日後に控えた、土曜日の午後。

春石家のキッチンでは、樹の姉のみどりが、大量のチョコレートと格闘していた。


「うわーっ!もう、なんで固まっちゃうのよ!」


湯煎で溶かしていたはずのチョコレートが、見るも無残な塊になっている。友人たちに配るための、大量生産のチョコクランチ。その工程は、早々に頓挫していた。


「……樹ー!ちょっと来て!」


リビングで本を読んでいた樹は、面倒くさそうに腰を上げた。


「なに」


「これ、どうにかならない?」


キッチンの惨状を一瞥した樹は、深いため息をつく。


「湯煎の湯が、ボウルの中に入ったんだろ。チョコレートに水分は厳禁だ」


「えー、そうなの!?」


「……貸せ」


樹は、慣れた手つきで新しいチョコレートを刻み始めると、完璧な温度管理で、艶やかな絹のような液体へと変えていく。その手際の良さに、碧は感心しきりだった。


「あんた、本当にすごいわねえ。これなら、バレンタインはトラック一台分くらい、チョコもらうんじゃない?」

「……もらうわけないだろ」


「あらそう?……じゃあ、せめて、桃香ちゃんからはもらえるといいわね」


碧が、にやりと笑いながら言う。

その名前に、樹の肩が、ぴくりと跳ねた。


「……っ、関係ないだろ」


「関係なくないでしょー。あんた、絶対待ってるくせに」


「待ってない!」


「あら、顔、真っ赤よ?」


図星を突かれた樹は、顔に集まる熱を感じながら、ぐっと言葉に詰まる。


「……うるさい。あとは自分でやれ」


そう言い捨てて、樹はキッチンから逃げ出した。その後ろ姿を見送りながら、碧は「素直じゃないんだから」と、楽しそうに笑うのだった。



「……というわけで、もう、どうしたらいいか、分からなくて」


翌日の日曜日。夏山家のリビングでは、桃香が親友の七海に、全てを打ち明けていた。ローテーブルの上には、製菓材料と、いくつかのレシピ本が広げられている。


「なるほどねえ。プロに贈るチョコ、ねえ」


腕を組んで唸る七海。そこへ、自分の部屋で宿題をしていたはずの妹・梨香が、楽しそうな雰囲気を嗅ぎつけてやってきた。


「何々?恋の悩み?」


「そう!お姉ちゃんが、春石くんにあげるチョコで、スランプなの!」


「あー、あのケーキの天才お兄さんね。そりゃ大変だ」


こうして、桃香の家の、決して広くはないけれど温かいリビングで、女子三人による緊急作戦会議が始まった。


「ねえ、その前にさ、ちょっと確認」と、七海がキラリと目を光らせる。


「桃香の、理想の男子像って、どんなんなわけ?」


「えっ、い、いきなり!?」


「いいからいいから!相手を知り、己を知れば、百戦危うからず!まずは、お互いの理想を語って、桃香の気持ちを解剖するの!」


七海は、半ば強引に「理想の男子トーク」を始めた。


「私はねー、やっぱり面白くて、クラスの人気者みたいな人がいいな!みんなを引っ張ってくれる、太陽みたいな人!」


「梨香は?」


振られた梨香は、少し考えてから答える。


「うーん、私は、ちょっと影がある人がいいな。クールで、あんまり喋らないんだけど、いざという時は、さりげなく助けてくれるような……」


「少女漫画の読みすぎね」と七海が茶化し、二人は「で、お姉ちゃんは?」と一斉に桃香を見た。


「え、えっと……私は……優しい、人、かな……」


ありきたりな答えを口にしながら、桃香は頭の中に、ある特定の人物を思い浮かべていた。


「……あんまり、口数は多くなくていいんだけど。でも、自分の好きなことには、すごく情熱的で。ちょっと不器用そうに見えるけど、何かを教える時は、すごく丁寧で、優しくて……。あと、その……手が、すごく綺麗で、何かを作ってる時の横顔が、かっこいい人……」


そこまで言って、桃香ははっと我に返った。

七海と梨香が、ニヤニヤしながら顔を見合わせている。


「……それ、理想のタイプじゃなくて、ただの春石樹じゃん」


「だねー。全部当てはまってる」


「ち、違うよ!」


真っ赤になって否定する桃香に、二人は大笑いした。


「よし、お姉ちゃんの気持ちはよーく分かった!じゃあ、実践あるのみ!」


梨香の号令で、三人のチョコレート作りが始まった。しかし、それはすぐに大混乱へと発展する。


「あーっ!七海、温度高すぎ!」


「梨香!つまみ食いしない!」


「お姉ちゃん、そんな怖い顔してたら、チョコも苦くなるよ!」


てんやわんやのキッチン。失敗しては、やり直す。その繰り返しに、完璧を求めていた桃香の表情は、どんどん硬くなっていく。


「……もう、無理。私には、完璧なチョコなんて、作れない……」


ぽつりと呟き、桃香がうつむいた、その時だった。


「お姉ちゃん」


梨香が、桃香の顔をじっと見つめて言った。


「クリスマスの時、すごく楽しそうだったのに。今は、なんか苦しそうだよ」


その、あまりにも純粋な一言に、桃香ははっとさせられる。

七海も、優しく頷いた。


「そうだよ、桃香。プレゼントなのに、あんたが楽しまなきゃ意味ないじゃん。春石くんだって、そんなの望んでないって」


一番大切な二人の言葉。

そうだ。私は、何のために作っているんだろう。

樹くんを、技術で驚かせたい?完璧なもので、認められたい?


――違う。


私がしたいのは、そんなことじゃない。


「二人とも、ありがとう。……私、決めた」


桃香は、顔を上げた。その瞳には、もう迷いの色はない。

彼女は、テーブルの上の失敗作ではなく、自分のクロッキー帳を手に取った。


「そっか……私は、技術で勝負するんじゃない。私の武器は、デザインとアイデアなんだ!」


完璧なチョコレートを作るパティシエは、樹くんでいい。

私は、世界でたった一つの物語を贈る、デザイナーになろう。

桃香は、鉛筆を握りしめ、新しいページの真っ白なキャンバスに、彼への想いを込めた、全く新しいチョコレートのデザインを、描き始めた。

その横顔は、悩みから解放され、創作の喜びに満ち溢れていた。

ご一読いただきありがとうございます!

思った以上に読んでくださる方がいて、とても嬉しいです。

もっと楽しんでもらえるように頑張りたいと思います。

今後の励みになりますので、ぜひページ下のいいねボタンで応援してください。

よろしくお願いします(^O^)/

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