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6/22

ぎこちない初詣

1月1日。新しい年の朝。


空は雲一つなく晴れ渡り、冬の冷たい空気が清々しい。


桃香は、アラームが鳴るよりずっと早く、午前7時には目を覚ましていた。窓の外の澄み切った青空を確認して、まずはほっと胸をなでおろす。心臓が、期待と緊張で朝からずっとドキドキと鳴り響いていた。


特別な一日の始まりに、バスルームでいつもより時間をかけて肌を整える。化粧水が肌に吸い込まれていくのを確かめながら、今日のプランを頭の中で何度もなぞった。


自分の部屋に戻ると、ドレッサーの前に座る。今日のメイクのテーマは、「頑張りすぎていない、けど、いつもよりちょっとだけ可愛い」。


ベースは丁寧に薄く重ね、アイシャドウは肌なじみの良いブラウンゴールドで自然な陰影をつける。黒目の上にだけ、細かなラメを少しだけ乗せるのが、ささやかなおまじない。

ビューラーでしっかりとまつげを上げて、マスカラを一度だけすっと塗る。最後に、コーラルピンクのリップを唇に乗せると、鏡の中の自分が、少しだけ自信に満ちた顔になった気がした。


「……よし」


小さく呟き、クローゼットへ向かう。クリスマスイブの夜から、昨日の深夜まで、何度も悩んで決めたコーディネートに、そっと袖を通した。


深紅のニットワンピースは、肌触りが柔らかく、着るだけで心が華やぐ。丁寧にアイロンをかけたオフホワイトのダッフルコートを羽織り、仕上げに小さなパールのイヤリングを着けた。


全身が映る鏡の前で、くるりと一度だけ回ってみる。


「お、気合入ってるねー」


いつの間にか起きてきた梨香が、部屋のドアからひょっこり顔をのぞかせ、にやにやと笑った。


「う、うるさいな!別に、普通だよ!」


「ふーん。まあ、そのコート可愛いじゃん。頑張ってきなよ、お姉ちゃん」


妹なりのエールに背中を押され、リビングへ向かうと、母親が温かいお茶を淹れて待っていてくれた。


「いってらっしゃい、桃香。楽しんでくるのよ」


「うん、いってきます!」


玄関で靴を履いていると、母親が「あ、これ」と小さなポチ袋を差し出す。


「お年玉。これで、春石くんと美味しいものでも食べてきなさい」


「え、いいよ、そんな!」


「いいから。いつも我慢させてるんだから、今日くらいはね」


母親の優しい笑顔に胸が熱くなるのを感じながら、桃香は「ありがとう」と呟き、弾む心で家のドアを開けた。



一方、その頃。春石家の樹は、特に早く起きるでもなく、しかし落ち着かない気分で自室の椅子に座っていた。何をすればいいのか分からず、意味もなく本棚の漫画を並べ直したりしている。


約束の時間は、午前10時。まだ十分に時間はある。


シャワーを浴びてクローゼットの前に立つも、すぐに腕を組んで固まってしまった。そもそも、私服で女の子と会うという経験が、彼にはほとんどない。結局、一番無難だと思える黒のチェスターコートと、インナーのグレーのニットを手に取った。


その時だった。


「……ちょっと待ちなさい、樹」


背後に、静かな、しかし有無を言わさぬオーラをまとった姉のみどりが立っていた。


「な、なんだよ」


「その格好で行くつもり?黒とグレー?あんたはこれからお葬式にでも行くの?」


「別にいいだろ、いつも通りで」


「だーめ。初詣デートなのよ?相手の夏山さんは、きっとすっごくお洒落してくるわ。あんたも誠意を見せなさい」


碧はそう言うと、有無を言わさず樹のクローゼットを漁り始め、ネイビーのPコートと、オフホワイトのケーブルニットを引っ張り出した。


「ほら、こっちの方が清潔感があって若々しく見えるでしょ。あとその寝癖!座りなさい!」


抵抗する間もなく椅子に座らされ、ワックスで髪をセットされる。されるがままになりながら、樹の頭は別のことでいっぱいだった。


(会って、なんて言えばいいんだ……)


「……なあ」


「なあに?」


「会って、最初って、なんて言えばいいんだ?」


鏡越しに、碧がニヤリと笑った。


「やっとその気になったわね。いい、樹。元日に女の子と会うってことは、戦場に行くのと同じよ。相手はこの日のために、何日も前から服を選んで、朝早くから準備してくる。だから、会って最初に、何があっても、絶対に、その子の格好を褒めなさい。『可愛いね』とか『似合ってるね』とか、とにかく褒めるの。これは、義務よ!」


「ぎ、義務?!……」


「そうよ、法律だと思っておきなさい。これを怠った男に、未来はない!もし、私に会いに来た男がそうだったら、二度と会わないわ」


碧の圧に気圧されながら、樹は(そんなこと、言えるわけないだろ……)と心の中で悲鳴を上げる。


「健闘を祈る!」


と背中を叩かれ、半ば追い出されるように家を出た樹は、深くため息をついた。


けれど、元町・中華街駅へと向かう電車の中、窓の外を流れる景色を見ながら、彼女に会えることを考えている自分に気づく。自然と、心臓の鼓動が少しだけ速くなっていた。



そして、約束の午前10時。


改札を出て、待ち合わせ場所に指定した柱のそばに立つ樹の目に、華やかな人波の中から、探し求めていた姿が飛び込んできた。


その瞬間、樹は、息を呑んだ。


そこに立っていたのは、いつもの制服姿とも、ケーキを作った日のカジュアルな服装とも違う、特別な空気をまとった夏山桃香だった。


オフホワイトの、フードにファーのついたダッフルコート。その下からのぞくのは、深紅のニットワンピース。丁寧に巻かれたマフラーが、彼女の小さな顔をより一層引き立てている。いつもより少しだけ巻かれた髪が、冬の柔らかな日差しを浴びて、きらきらと輝いていた。


(……なんだ、これ)


可愛い、という言葉だけでは、到底足りない。


昨日までの彼女とは、まるで違う生き物のように、ますます魅力的になっていくその姿に、樹は完全に言葉を失っていた。


どうしよう。何を言えばいい。頭が真っ白になった、その時。

脳裏に、今朝、出かける前に姉の碧から叩き込まれた言葉が、雷鳴のように蘇った。


『いい?樹。……会って最初に、何があっても、絶対に、その子の格好を褒めなさい。……これは、義務よ!』


そうだ、義務。法律。


樹は、ごくりと喉を鳴らす。ここで言わなければ、姉に何をされるか分からない。そして何より、目の前の彼女は、褒められるに値する。勇気を振り絞り、口を開いた。


「……あ、えっと……」


声が、上擦る。桃香が、不思議そうに小首を傾げた。

もう、どうにでもなれ。


「ものすごく、かわいいよ。……その、服も、髪も……素敵だ」


言った。

言ってしまった。

言い切った瞬間、樹の思考は完全に停止した。


(やりすぎた!褒めすぎた!なんだ、「ものすごく」って!「素敵だ」って!キザすぎる!気持ち悪いと思われたに違いない!)


顔から、火が出るのを通り越して、蒸気が噴き出しそうだった。今すぐこの場から逃げ出したい。


一方、桃香も、あまりにストレートで、熱のこもった賛辞に、完全に面食らっていた。

学校での物静かな彼からは、到底想像もつかない言葉。その破壊力は、桃香のキャパシティを軽々と超えていた。


「え、あ、……あ、りがとう……」


みるみるうちに、桃香の顔が、着ているワンピースと同じくらい、真っ赤に染まっていく。


義務を果たした安堵と、やりすぎた後悔でテンパる樹。


不意打ちの褒め言葉に、心臓が爆発しそうな桃香。


二人の間に、甘くて、最高に気まずい沈黙が流れる。


「……行くか、中華街」


「……うん」


どちらからともなく歩き出す。けれど、その足取りはぎこちなく、互いの間には、見えない壁が1メートルほど存在しているかのようだった。


新しい年の幕開けは、なんとも言えない、ぎこちなさに満ちていた。中華街のメインストリートは、新年を祝う人々でごった返している。


ぎこちない距離を保って歩いていた二人だったが、そんな距離はすぐに人波に飲み込まれてしまう。ぐっと後ろから押された桃香の体が、不意に樹の背中にこつんとぶつかった。


「わっ、ごめん……!」


「……いや」


謝る桃香の声は、すぐ隣を通り過ぎる龍舞の賑やかな音楽にかき消される。人の流れは容赦なく、二人の体を押し合い、気づけば腕が触れ合うほどの距離にまでくっついていた。


樹のコート越しに、彼の体温が伝わってくる。桃香は、自分の心臓が大きく音を立てるのを感じた。


(近い……どうしよう……)


すぐ隣にある、骨張った大きな手。もし、この混乱に紛れて、そっと指を絡めたら。彼は、嫌がるだろうか。

時を同じくして、樹もまた、すぐそばにある桃香の存在に、全身の神経を集中させていた。シャンプーの、甘くて清潔な香り。触れ合う腕から伝わる、華奢な感触。


(……手、つないだら、怒るか、な)


全く同じことを考えているなんて、知る由もない。二人は、ただひたすら自分の心臓の音を鎮めることで、精一杯だった。


なんとか人混みを抜け、目的地の横浜媽祖廟よこはままそびょうにたどり着く。極彩色で彩られた壮麗な寺院は、幻想的な雰囲気に満ちていた。線香の煙が立ち込める中、二人は静かに参拝の列に並ぶ。

やがて順番がやってきて、賽銭を入れ、目を閉じて手を合わせた。


(今年一年、家族が健康でありますように。そして……もっと、もっとケーキを美味しく作れる技術が、手に入りますように)


樹が願うのは、どこまでも自分の技術の向上について。


(また、美味しいケーキを、樹くんと一緒に作ることができますように。あの時間が、また訪れますように)


桃香の願いは、いつの間にか、隣にいる彼との未来に繋がっていた。


参拝を終え、ほっと息をついた桃香が、境内に立てられた「おみくじ」の看板を見つける。


「ねえ、引いてみない?」


「……別に、いいけど」


乗り気ではなさそうな樹を引っ張って、おみくじ売り場へと向かう。そこで、桃香は一枚のポスターに気がついた。ピンク色の背景に、可愛らしい文字でこう書かれている。


『縁結びの神様・月下老人げっかろうじんが、あなたの恋を応援します!』


(……え、ここって、恋愛の神様だったの!?)


途端に、自分の心臓がどきりと跳ねるのを感じた。ただの初詣のつもりが、急に特別な意味を帯びてくる。樹に気づかれないように、そっと頬の熱を冷ましながら、二人で筒を振った。

出てきた棒を巫女さんに渡し、くじを受け取る。


同時に、そっと開いたその紙には。


樹のくじには、『願望:思わぬ好機訪れ、大願成就すべし』とあった。

そして桃香のくじには、『恋愛:信じる心あれば、思いは通づる』と。


「思わぬ好機、だって」


「思いが、通づる……」


二人は、顔を見合わせた。

その瞬間、朝からのぎこちない空気が、ふっと氷解していくのが分かった。


「『大願成就』って、なんだろうね?ケーキ作りかな?」


「かもな。もっとすごいケーキが作れる、とか」


「じゃあ、この『思いは通づる』っていうのは……!」


「美味しいケーキを作りたいっていう、俺たちの思いが通じるってことだろ」


少しずれている樹の解釈に、桃香は思わずくすりと笑ってしまった。

でも、その笑顔は、もう緊張に満ちたものではなかった。


おみくじの話から、自然とまたケーキの話へ。次に作るならどんなケーキがいいか、あのお店の新作が美味しそうだったとか。会話は途切れることなく弾んでいく。


気づけば、樹は、普段誰にも見せることのない、心からの笑顔を浮かべていた。

目元をくしゃりとさせ、楽しそうに話す彼の顔を、桃香は少しだけ見惚れるように見つめていた。


媽祖廟を出て、大きなせいろからもうもうと湯気が立ち上る肉まんの店先へ。


「ここは、私に出させて!」


桃香はそう言うと、クリスマスのお礼だから、と少しも譲らない。樹は照れくさそうに、でも素直に


「……ごちそうさま」


と呟いた。


湯気の向こうに見えたのは、桃香の顔と同じくらいあるのではないかと思うほど、大きくて立派な肉まんだった。


熱々のそれを二人で頬張りながら、他愛もない話で笑い合う。

いつの間にか、すっかり緊張はほぐれていた。

新年の澄みきった空の下、二人の距離は、確実に、そして温かく縮まっていた。


初詣の賑わいを背に、二人は夕暮れの道を並んで歩いていた。

あれほどぎこちなかった朝が嘘のように、今は穏やかで、心地よい沈黙が二人を包んでいる。

あっという間に、桃香のアパートの前まで着いてしまった。


「……送ってくれて、ありがとう」


「……ああ」


ここで、お別れ。そう思うと、途端に胸がきゅっと寂しくなる。もっと話したい。まだ、隣にいたい。


「あのっ!」


踵を返そうとする樹のコートの袖を、桃香は勇気を振り絞って、きゅっと掴んだ。

樹が、驚いて振り返る。


「最後に、その……握手、してもらっても、いいかな?今日の、全部のお礼!」


自分でも、顔が真っ赤になっているのが分かる。でも、どうしても、このまま別れたくなかった。

樹は一瞬目を見開いた後、ふっと、その表情を和らげた。

それは、今日一日の中で見た、どの笑顔よりも優しくて、温かい笑顔だった。


「……ああ」


そう言って、彼はゆっくりと、でも力強く、桃香の差し出した手を握り返した。

ごつごつとして、大きくて、温かい手。

その温もりが、桃香の心にじわりと広がっていく。


「また、一緒にケーキ作ろう」


握った手のひらを通して、樹の声が、直接心に響いたようだった。

それは、紛れもない、彼からのお誘い。


「……うんっ!」


桃香は、満面の笑みで、力強く頷いた。

名残惜しい気持ちを振り払うように、桃香は自分から手を離し、大きく、大きく手を振った。


「じゃあね!また学校で!」


遠ざかっていく樹の背中が見えなくなるまで、桃香はずっと、その場で手を振り続けていた。



家に着いた途端、二人を待っていたのは、家族からの質問攻めだった。


「お姉ちゃん、おかえり!どうだった!?どうだったの!?」


リビングのドアを開けるなり、妹の梨香が駆け寄ってくる。


「まあ、楽しかったみたいね、いい顔してるわ」


母親が、お茶を淹れながら微笑んだ。


「で?一番聞きたいのはそこなんだけど。……手、つないだの?」


梨香が、ニヤニヤしながら核心を突く。


「つ、つないでません!……最後に、握手しただけ」


「はあ!?握手ぉ!?お姉ちゃん、奥手すぎるにも程があるよ!」


梨香は、心底呆れたというように、ソファに崩れ落ちた。



時を同じくして、春石家。


何食わぬ顔でリビングに入ってきた樹に、待ち構えていた姉の碧が詰め寄る。


「おかえりなさい。どうだったのよ、初詣デートは」


「……別に、普通」


「その普通が聞きたいのよ。……で?手、つないだわけ?」


「……つないで、ない」


「はあああああ!?」


碧の、天を仰ぐようなため息が響き渡る。


「あんたって子は、本当に……!千載一遇のチャンスを!」


「握手はした」


「小学生かっ!」


奇しくも、同じ質問をされ、同じように呆れられている二人。

けれど、その胸の内は、呆れられる気まずさ以上に、幸福な余韻で満たされていた。



その夜。


それぞれの部屋のベッドの上で、二人は同じように、今日の出来事を思い出していた。

人混みの中で触れ合った腕の感触。

おみくじに書かれていた、未来を予感させる言葉。

熱々の肉まんを頬張った時の、隣にある笑顔。

そして、最後に交わした、温かい握手と、次の約束。


(今までとは、違う一年になりそうだな)


樹は、天井を見上げながら、静かに呟いた。


(うん。きっと、すごく素敵な一年になる)


桃香もまた、窓の外の月を見上げながら、確信していた。

二人の心には、同じ、甘くて輝かしい未来への予感が、確かに芽生えていた。

ご一読いただきありがとうございます!

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これからもよろしくお願いします(^O^)/

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