クリスマスイブ
夏山家のリビングは、朝からかつてないほどの興奮に包まれていた。
テーブルの中央には、昨日桃香が持ち帰った二つのホールケーキが、王様のように鎮座している。
「すごい……!ホールケーキが二つもあるクリスマスなんて、初めてだよ……!」
中学三年生で、受験勉強の合間の休息を楽しみにしていた妹の梨香が、目を爛々と輝かせる。食卓の主役であるはずのフライドチキンやグラタンが、完全に脇役になっていた。
パーティーが始まると、まずはケーキの撮影会になった。
「お姉ちゃん、こっちの角度から撮って!」
「待って、私も!このキラキラしたのが全部入るように!」
母娘三人、スマホを構えてあらゆる角度から芸術品のようなケーキを写真に収めていく。その光景は、いつもの慎ましやかな食卓からは想像もつかないほど華やいでいた。
そして、いよいよ入刀の時。
桃香がデザインした『聖夜に降る流れ星』にナイフを入れると、中からとろりとした黄金色のソースが、本当に流れ星のように溢れ出した。
「うわあああっ!」と、歓声が上がる。
一口食べた瞬間、全員の動きが止まった。濃厚なホワイトチョコムースに、マンゴーとパッションフルーツの爽やかな酸味。計算され尽くした味のハーモニーに、三人ともに言葉を失う。
「……むちゃくちゃ、美味しい……!」
梨香が、絞り出すように呟いた。
樹の作った『静寂』に至っては、さらに衝撃的だった。濃厚な抹茶の苦みと香り、栗のブリュレの優しい甘さ、そして黒糖ビスキュイの香ばしさ。大人びた、深く、そして完璧な味わい。
娘たちの幸せそうな歓声を聞きながら、母親はテーブルの向こうで、そっと目頭を押さえた。
(これまで、この子たちにどれだけ我慢をさせてきただろう。桃香がケーキを作りたいと、あの古いスケッチブックに夢中でデザイン画を描いていた時も、材料一つ満足に買ってあげられなかった……)
目の前で輝く、娘の夢の結晶。それを頬張る姉妹の、満面の笑み。その光景が、母親にとって何よりのクリスマスプレゼントだった。
「お母さん?どうしたの?」
気づいた梨香が尋ねると、母親は慌てて涙を拭い、優しく微笑んだ。
「なんでもないの。あまりにもケーキが美味しくて、嬉しくて」
食後、母親は改まった声で桃香に向き直った。
「桃香。春石くんには、ちゃんと、きちんとお礼をしなさい。これは、本当に心のこもった贈り物よ」
その真剣な眼差しに、桃香は深く頷いた。
◇
その夜。桃香は自分の部屋のベッドの上で、クッションを抱きしめながらスマホの画面と向き合っていた。
もこもこのルームウェアに身を包み、もう一時間近く、同じ画面を開いては閉じている。
トーク画面には、今日のパーティーで撮った、家族の満面の笑みとケーキの写真が並んでいる。
お礼を、伝えたい。でも、どうやって?
スマホのメモ帳アプリには、この一時間で生まれた無数のメッセージの残骸が眠っていた。
『春石くんへ。今日は本当にありがとうございました。家族みんな、すごく喜んでいました』
…これじゃ、あまりにも事務的すぎるかな。
『春石くんのケーキは魔法みたいだね。私の夢を叶えてくれて、本当にありがとう!』
…なんだか、ポエムみたいで恥ずかしいかも。
『やっほー!ケーキ最高だったよ!マジ感謝!』
…これは、絶対に違う。
書いては消し、消しては書いて。感謝の気持ちは溢れるほどあるのに、言葉にしようとすると、途端に陳腐になる気がした。ただのお礼なのに、どうしてこんなに緊張するんだろう。
そこへ、呆れた顔の梨香が部屋に入ってきた。
「お姉ちゃん、まだ送ってないの?」
「だ、だって、なんて送ればいいか……」
「写真見返してみなよ。お母さんのあんな嬉しそうな顔、久しぶりに見たよ。それって、その春石くんのおかげでもあるんでしょ?ちゃんと言わなきゃ失礼だよ」
梨香の真っ直ぐな言葉が、桃香の胸に刺さる。そうだ、伝えなきゃ。私の気持ちだけじゃなくて、家族の気持ちも。
桃香は意を決して、もう一度メッセージを打ち始めた。
『今日は本当にありがとう。春石くんのおかげで、人生で一番素敵なクリスマスイブになりました。家族も、本当に本当に喜んでて……』
そこまで打って、また指が止まる。直接会って、お礼を言いたい。その口実が、欲しい。
『……もし、よかったらなんだけど、初詣、一緒に行きませんか……?』
打った瞬間、心臓が大きく跳ねた。
初めて、男の子を誘う。その事実が、急に現実味を帯びて桃香を襲った。
(もし、嫌われたらどうしよう)
(迷惑だって、思われたらどうしよう)
ネガティブな思考が、頭の中をぐるぐると駆け巡る。緑色の送信ボタンが、まるでとてつもなく重たい鉄の塊のように見えて、どうしても押せない。
「……何やってんの、お姉ちゃん」
背後から覗き込んでいた梨香が、深いため息をついた。
「ふーん、初詣ねえ。……えいっ」
「あっ!」
躊躇う姉に業を煮やしたのか、梨香がひょいと手を伸ばし、無情にもその送信ボタンを押してしまった。
「ちょっと!何やってんのよ!」
「だって、お姉ちゃん、一生押しそうになかったんだもん!」
涙目になって怒る桃香と、「そんなんじゃ、いつまで経っても彼氏できないよー」と舌を出す梨香。姉妹のじゃれ合いが、部屋に響いた。
◇
その頃、春石家。
樹は、桃香に渡した二つのケーキとは別に、家族のためにシンプルなショートケーキをちゃんと用意していた。そのささやかなパーティーも終わり、リビングのソファでくつろいでいた時、ポケットのスマホが短く震えた。
画面に表示された「夏山桃香」の名前に、心臓が小さく音を立てる。
LINEを開くと、温かい光に満ちた写真が目に飛び込んできた。食卓を囲む、三人の満面の笑み。その中心で、自分の作ったケーキが誇らしげに輝いている。そして、少しはにかむように笑っている桃香の顔。
樹は、誰にも見られないよう、そっとその写真を指で拡大した。
自分の作ったものが、誰かをこれほど幸せにできる。その実感が、静かな衝撃となって胸に広がった。
そして、メッセージの最後。
『初詣、一緒に行きませんか……?』
そのメッセージを見た瞬間、時間が止まった気がした。
(なんで、俺を?)
戸惑いが、まず頭をよぎる。けれど、そのすぐ後、胸の奥から小さな声がした。
(行きたい)
自分でも予期せぬ心の声に、驚いて固まる。どう返信すればいい?そもそも、俺が行っていいのか?
「へえ、写真付きでお礼だって。可愛いじゃない。……で?初詣のお誘い、だってさ」
いつの間にか隣にいた姉の碧が、スマホを覗き込みニヤニヤと実況する。
「う、うるさいな、見るなよ!」
「はいはい。で、なんて返すの?『少し考えさせてください』とか言って、三日くらい悩むつもり?」
「……」
「いいから、今すぐ『行く』って返事しなさい!女の子を待たせるんじゃないの!」
「わ、分かってるよ!」
半ば強制的に、姉の監視下で返信をさせられた樹。
ぽん、と桃香のスマホが短く鳴った。
あまりの速さに、梨香との言い争いがぴたりと止まる。恐る恐る画面に視線を落とすと、そこには新しいメッセージが表示されていた。
『美味くて良かった。初詣、行く』
絵文字も、感嘆符もない。あまりにも、そっけない文面。
けれど、その最後の四文字を読んだ瞬間、桃香の顔に、ぱあっと花が咲いたような笑顔が広がった。
「……行くって」
「ほら、言ったでしょ!」
梨香とハイタッチを交わし、ベッドの上で喜びを爆発させる。
だが、喜びも束の間、新たな問題が浮上した。「行く」としか書かれていない。時間は?場所は?
「うーん、どうしよう。またLINEするのも、なんか催促してるみたいで……」
「もう、めんどくさいなあ!電話しちゃいなよ!」
「無理無理無理!絶対無理!」
桃香がぶんぶんと首を横に振った、まさにその時。
ぶるるる、とスマホが震え、画面に信じられない名前が表示された。
『春石樹』
「え、え、うそ、電話!?」
パニックになる桃香の背中を、梨香が「早く出なよ!」とバンバン叩く。桃香は数回、大きく深呼吸をしてから、震える指で通話ボタンをスライドさせた。
「……もしもし」
「……夏山?」
聞こえてきたのは、LINEの文字よりも少し低い、想像していた通りの彼の声だった。それだけで、耳が熱くなる。
「う、うん!春石くん?電話、ありがとう」
「……いや。LINE打つの、面倒だから」
「そ、そっか。あの、本当に、ケーキありがとう!家族もすっごく喜んでて……!」
「……そうか。ケーキ、美味かったみたいで良かった」
少しだけ、声が和らいだ気がした。その一言に、彼のケーキへの愛情が詰まっているように感じて、桃香の胸が温かくなる。
「うん、本当に美味しかった!それで、初詣なんだけど……」
「ああ。いつにする」
「えっと……三が日の間なら、いつでも大丈夫だよ。春石くんの都合のいい日で……」
「……じゃあ、元日」
「うん、元日ね!あのね、それで、場所なんだけど……」
桃香はぎゅっと拳を握りしめ、勇気を振り絞った。
「もし、よかったらなんだけど……行きたい神社があって。横浜の中華街にあるところなんだけど……だから、待ち合わせ、元町・中華街駅でもいい、かな?」
おずおずと尋ねると、電話の向こうでわずかな沈黙が流れた。
(だめだったかな、わがままだったかな……)
不安が胸をよぎった、その時。
「……別にいいよ。時間は、十時でいいか」
ぶっきらぼうな口調に隠された、優しい承諾。
「うん!大丈夫!元町・中華街駅の改札口に、十時ね!」
桃香の声が、自分でも驚くほど弾んでいるのがわかった。
「……うん。じゃあ、切るぞ」
「あ、待って!その…」
「なんだ?」
「ううん、なんでもない!じゃあ、おやすみ!」
桃香が慌ててそう言うと、一瞬の沈黙があった。そして、電話の向こうから、今までで一番小さな声が聞こえた。
「……ああ。……メリークリスマス」
「えっ」
桃香が聞き返すより先に、プツン、と通話は切れていた。
静かになった部屋で、桃香はスマホを握りしめたまま固まる。今の、最後の言葉。空耳じゃ、ないよね……?
じわじわと顔が熱くなり、やてベッドに突っ伏して「……今の、反則だよ」と呟くのだった。
ラインでの約束は、あっという間に現実になった。
喜びで、もう到底眠れそうにない。桃香はベッドから飛び起きると、クローゼットの扉を開けた。
「初詣って、どんな服を着ていけばいいんだろう……?」
特別な日。彼に会う、自分から誘った、初めての約束。
(彼に、可愛いって、思われたい)
その純粋で切実な願いが、桃香を突き動かす。
まず手に取ったのは、お気に入りの、少し背伸びして買ったアイボリーのチェスターコート。羽織ってみると、いつもよりぐっと大人びて見える。
「……ちょっと、大人っぽすぎるかな。でも、こういうのが好きなのかも」。
次は、高校生らしくキャメル色のダッフルコート。制服以外で着るのは久しぶりだ。
「こっちの方が、元気に見えるかな。親しみやすいかも」。
中に着るニットは? 淡いラベンダー色の、ふわふわしたシャギーニットを手に取り、「あざといって思われたらどうしよう……」と一人で赤面する。
清楚な白のリブニットを合わせてみて、「うん、これなら間違いないかも」と頷く。
小さなドレッサーの前に座り、揺れるタイプのパールのイヤリングを耳に当ててみる。ほんの少し、顔周りが華やいで見える気がした。
鏡の前で一人、服を合わせ、くるりと回ってみる。その隣に、ぶっきらぼうな顔で、でもきっと少しだけ優しくこちらを見ている樹の姿を想像する。
その想像だけで、胸がいっぱいで、幸せで、泣きそうになった。
まだ明けきらないクリスマスの夜。一人の少女の部屋では、新しい恋の始まりを告げる、甘くて切ないファッションショーが、静かに繰り広げられていた。
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