初めてのクリスマスプレゼント
午後のキッチンは、午前中とはまた違う、心地よい集中力に満たされていた。
昼食を経て、心の距離が少しだけ縮まった二人。その作業は、まるで息の合った二重奏のように、リズミカルに進んでいく。
樹のケーキ『静寂』のために、抹茶ムースを泡立てる桃香。午前中のぎこちなさは、もうどこにもない。ハンドミキサーの角度、ボウルの回し方、そして泡立てを止める完璧なタイミング。
「……良い加減だな」
隣で黒糖のビスキュイをカットしていた樹が、ぼそりと言った。
「え?」
桃香が驚いて手を止めると、樹は視線を落としたまま続けた。
「メレンゲの立て方。角の立ち具合、完璧だ。……覚えるのが早い」
人を褒めるなんてしなさそうな、彼からの、最大限の賛辞。
桃香の胸に、ぽっと温かい光が灯る。
「本当? 春石くんの教え方が上手だからだよ! 最初にどうしてそうするのか、理由もちゃんと教えてくれるから、すごく分かりやすい」
素直な言葉が、太陽のようにキッチンを明るくした。樹は「……別に」とそっぽを向きながらも、その口元がほんの少しだけ緩んでいるのを、桃香は見逃さなかった。
艶やかなグラサージュ・ショコラをコーティングし、二つのケーキの最後のデコレーションを施していく。
時間はあっという間に過ぎ去り、窓の外が藍色に染まり始めた午後6時。
ついに、二つのホールケーキが完成した。
作業台の上に並べられた、二つの奇跡。
一つは、樹が作った『静寂』。漆黒のグラサージュが鏡のように輝き、金箔をまとった黒豆が凜とした空気を放つ。静謐で、孤高で、そして完璧な美しさ。
もう一つは、桃香が夢見た『聖夜に降る流れ星』。雪のように真っ白なドームに、金と銀のアラザンが天の川を描く。可憐で、幻想的で、物語の始まりを予感させる佇まい。
「できた……」
どちらからともなく、ため息のような声が漏れた。
その気配を察してか、リビングから家族がぞろぞろと集まってくる。
「うわあ……!」
「すごい、お店で売ってるのより綺麗じゃないか!」
「こっちの黒いのも素敵だけど、この白いケーキ、すっごく可愛い!」
口々に上がる感嘆の声。そのすべてが、二人の胸を温かく満たしていく。
桃香は、ただじっと、自分がデザインした『流れ星』を見つめていた。
スケッチブックの中の、ただの線と色の集合体だった。お金がなくて作れないからと、指でなぞるだけだった空想。それが今、目の前にある。甘い香りを放ち、確かな存在として、そこに在る。
(……私の、ケーキ)
そう思った瞬間、視界が、ふいに滲んだ。
おかしいな、と瞬きをすると、熱い雫がぽろり、と頬を伝っていく。自分でも気づかないうちに、涙が溢れ出していたのだ。嬉しいのに、悲しくないのに、止め方が分からない。
その小さな変化を、姉の碧だけが見逃さなかった。
彼女はそっと自分のポケットから、ハンカチを取り出すと、固まっている弟の手に、それをぐっと握らせた。そして、有無を言わさぬ力で、その背中をぽん、と桃香のいる方へ押す。
(行け)
無言の圧力が、樹の背中を押す。
樹は、心臓が跳ね上がるのを感じた。どうすればいい。何を言えばいい。頭の中が真っ白になる。
でも、目の前で、静かに涙をこぼし続ける桃香の姿を見たら、もう逃げるという選択肢はなかった。
樹は、意を決して、一歩だけ前に進む。
そして、震える手で、そっと白いハンカチを彼女の前に差し出した。
「……これ、使えよ」
やっとの思いで絞り出した声は、自分でも驚くほど、少しだけ優しく響いていた。
桃香は、差し出された白いハンカチを、震える手で受け取った。
「……ありがとう」
その一言を口にするのが、やっとだった。
嬉しい涙をハンカチに吸わせながら、桃香は改めて完成した二つのケーキを見つめる。樹は、そんな彼女の隣で、どうすればいいのか分からないまま、ただ黙って立っていた。
「……これ、持って帰れよ。二つとも」
沈黙を破ったのは、樹だった。
「え?」
「だから、夏山の家に。……自分がデザインしたケーキじゃん。家族で食べなよ」
ぶっきらぼうな口調は、彼の最大限の照れ隠しだ。
「そ、そんな、とんでもないよ!」
桃香は慌てて首を横に振る。
「これは春石くんのケーキなのに!それに、材料費だって……!」
「いいから」
頑として譲らない樹と、恐縮して受け取れない桃香。その攻防を見かねて、にこにこと笑いながら樹の母親が間に入った。
「桃香ちゃん、これはね、樹からだけじゃないの。私たち春石家みんなからの、桃香ちゃんへのクリスマスプレゼント」
「そうよ。こんなに素敵なケーキを見せてもらったんだもの。お礼させて?」
姉の碧も、優しく微笑んでいる。
家族ぐるみでの、温かい申し出。それ以上、断ることはできなかった。
「……ありがとうございます」
桃香は、もう一度溢れそうになる涙をこらえ、深く、深く頭を下げた。
春石家の玄関で、桃香が大きなケーキの箱を二つ、なんとか抱えようとした、その時。
すっ、と隣から伸びてきた手が、ためらいなく片方の箱を持ち上げた。
「あ……」
見上げると、樹が何も言わずに、桃香が持つはずだった箱を片手に提げている。そして、そのまま先に立ってドアを開けた。
桃香は「ありがとう」と言うタイミングを逃したまま、慌てて彼の隣に並ぶ。
イルミネーションが街を彩る中、二人は並んで冬の夜道を歩き始めた。
右手には、桃香が持った『聖夜に降る流れ星』の箱。左手には、樹が持った『静寂』の箱。
会話はない。けれど、同じ重さの幸せを分かち合うように、一つの箱をそれぞれが大切に運んでいる。その事実が、どんな言葉よりも温かく桃香の胸を満たしていた。
冬の夜道は、しんと冷え込んでいる。
時折、ケーキが崩れないように、同じタイミングで足元を気遣う。そのリズムが、心地良い。
ふいに、樹がぽつりと呟いた。
「……楽しかった」
「え?」
桃香は思わず足を止め、振り返る。彼の横顔は街の灯りに照らされて、いつもより少しだけ柔らかく見えた。心臓が、とくん、と大きく鳴る。
「……別に、何でもない」
樹は慌ててそっぽを向き、再び歩き出す。その耳がほんのり赤いことに、桃香は気づいていた。彼の短い言葉が、冷たい空気の中で温かい響きとなって、桃香の胸にじんわりと広がっていく。
やがて、二人は樹の家の最寄り駅に着いた。
週末の夜の駅は、家路につく人々で賑わっている。二人は、大切なケーキを抱えながら、人混みを避けるようにして、慎重に改札を抜けた。
ホームで電車を待つ、数分間。
明るい蛍光灯の下では、お互いの顔がやけにはっきりと見えて、少しだけ照れくさい。二人は、言葉もなく、ただ並んで、滑り込んでくる電車を待っていた。
やがて到着した電車は、幸いにも空いていた。
二人は、ケーキの箱を膝の上にしっかりと乗せられるように、向かい合わせの席に座る。ガタン、と小さな揺れと共に、電車がゆっくりと動き出した。
たった一駅。数分にも満たない、短い旅路。
車窓の外を、街の灯りが、星のように流れていく。その光が、向かいに座る彼の顔を、照らしては、消えていく。
(……電車、一緒に乗るの、初めてだな)
桃香は、ガラス窓に映る自分たちの姿を、そっと見つめた。
並んで歩くのとは違う、向かい合って座る、という距離感。それが、なんだか、すごく特別なことのように思えた。
「―――家、隣の駅だったんだな」
窓の外を見ながら、樹が言った。
「うん」
桃香が頷くと、電車はゆっくりと、減速を始めた。
電車を降り、駅の改札を出ると、辺りは、先ほどまでの賑わいが嘘のような、静かな住宅街だった。
ここからは、桃香の家まで、あと少し。
やがて、桃香が住む、こぢんまりとしたアパートが見えてきた。
アパートの二階の、一つの部屋だけ、温かいオレンジ色の光が灯っている。母と、妹の梨香が待っている、私の家。
「ここまでで大丈夫。本当に、本当にありがとう」
自分の家の灯りを見上げ、桃香が振り返る。その笑顔は、今日一日で一番、穏やかに見えた。
「……ああ。じゃあな」
樹は、箱を片手で持ち直し、少しだけ、ぎこちなく手を上げた。
その姿を見送り、桃-香は、宝物を抱えるように、二つのケーキの箱を、ぎゅっと胸に抱きしめた。
冷たい夜の空気の中に、甘い、甘い、幸せの匂いがした。
樹はそれだけ言うと、すぐに踵を返して歩き出す。名残惜しさを振り払うように。
帰り道。一人になった途端、不意に思考が追いついてきた。
(……そういえば、あれ。俺が女子にあげた、初めてのクリスマスプレゼント、だったな)
その事実に思い至った瞬間、樹の顔から、ぶわりと血の気が引いた。全身が、急速に熱くなっていく。恥ずかしさが、時間差で津波のように押し寄せてきた。
「うわあああ……」
樹は誰に聞かせるともなくうめき声を上げ、冷たい夜気の中、駆け出すようにして家路を急いだ。
一方、桃香が家のドアを開けると、待っていたかのように妹の梨香が飛び出してきた。
「お姉ちゃん、おかえり!……って、何その箱!?」
「ふふふ、見て。クリスマスケーキだよ」
桃香がテーブルの上に、そっと二つの箱を置く。中から現れた芸術品のようなケーキに、梨香も、後から来た母親も、息を呑んだ。
「うそ……きれい……!」
梨香は目を輝かせ、すぐにスマホを構える。
「ちょっと待って、食べる前に絶対撮る!いろんな角度から撮る!ねえ、これインスタに載せてもいい!?」
「もちろんいいよ」
「すごいよお姉ちゃん!スケッチブックで見たまんまじゃん!ううん、それ以上だよ!」
母親も、うっとりとケーキを眺めながら、桃香の肩を優しく抱いた。
「本当に、あなたの夢が形になったのね……。こんなに素敵なケーキをデザインできるなんて、お母さん、誇らしいわ」
「ありがとう、お母さん。でもね、これは私一人の力じゃないの」
桃香は、少しはにかみながら言った。
「同じクラスの、春石樹くんっていう男の子が、作ってくれたの。彼の技術がなかったら、私のデザインはただの絵のままだった」
その初めて聞く名前に、梨香が興味津々といった様子で身を乗り出した。
「男の子が?え、誰その人!お姉ちゃんの彼氏!?」
「ち、違うよ!ただのクラスメイト!」
桃香が樹のことを話すときの、ほんのり熱を帯びた表情を見逃さず、母さんが穏やかに尋ねた。
「まあ、そうなの。桃香の夢を叶えてくれた、素敵な方なのね。どんな方なの?」
「え、どんなって……えっと、不愛想に見えるけど、すごく優しい、かな。あと……」
矢継ぎ早の質問に、桃香はしどろもどろになる。帰り道、黙ってケーキの箱を持ってくれたこと、不器用に「楽しかった」と呟いてくれたこと。彼の優しいところを挙げようとすると、今日の出来事が次々と思い出されて、顔が熱くなるのを感じた。
そんな姉の様子を見て、梨香がにやにやと笑う。
「へえー?優しいんだー?」
「な、何よその顔!」
「べっつにー?」
からかう妹と、それを微笑ましそうに見守る母さん。自分の大切な人のことを、自分のことのように喜んでくれる家族の存在。少し恥ずかしいけれど、胸の奥からじんわりと温かいものが込み上げてくる。
「明日のイブが、楽しみだね。その春石くんにも、ちゃんとお礼をしないと」
母親の言葉に、桃香は梨香と顔を見合わせ、幸せそうに深く頷いた。
◇
その夜。
それぞれの部屋で、二人は今日の出来事を反芻していた。
樹のスマホが、ぽん、と軽い音を立てる。桃香からの、LINEの通知だった。
『今日は本当にありがとうございました。夢が叶いました。春石くんのおかげです。ケーキ、家族みんなで明日大切に食べます』
その短い文章を、樹は何度も、何度も読み返した。
自分の、誰にも見せられなかった情熱が、技術が、一人の女の子の夢を叶え、その家族を笑顔にする。今まで感じたことのない、胸がじんわりと温かくなるような喜びが、全身を駆け巡った。
脳裏に浮かぶのは、ケーキのことだけではない。
真剣な眼差しでメレンゲを泡立てる横顔。
小麦粉を頬につけて、はにかんだ笑顔。
そして、自分の夢が形になったのを見て、静かに涙をこぼした、あの表情。
そのどれもが、頭から離れない。
同じ月を見上げているであろう彼女を思い、樹は、この特別な一日が、まだ終わってほしくないと、心から願っていた。
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