キッチン協奏曲(コンチェルト)
12月23日、土曜日の朝。
春石家のキッチンには、いつも以上の緊張感が漂っていた。いや、正確に言えば、緊張しているのは春石樹、ただ一人だった。
ボウルはサイズ順に並べられ、ハンドミキサーのビーターは磨き上げられている。デジタルスケールは寸分の狂いもなくゼロ点を指し、冷蔵庫には出番を待つ最高級の生クリームとバターが完璧な温度で保管されている。準備は、万端のはずだった。それなのに、樹の心臓は、朝からずっと落ち着きなく鳴り続けている。
原因は、リビングから聞こえてくる家族の陽気な声だ。
「まさか、あの樹が女の子を家にねえ」
「お父さん、嬉しくて涙が出そうだ」
「どんな子かなー?写真ないの?」
母、父、そして女子大生の姉・碧までもが、完全に浮かれきっている。
樹はキッチンから顔だけ出して、忌々しげに言い放った。
「……やめてくれよ、恥ずかしい。ただ、ケーキ作るだけなんだからな!」
「はいはい、分かってるって。青春だねえ」
姉の碧が、面白がって茶化す。全く、やめる気配はない。樹は深いため息をつき、キッチンの静寂へと逃げ帰った。
そして、約束の午前10時。
軽やかな電子音のチャイムが、家中に響き渡った。
来た。
その音を聞いた瞬間、リビングの会話がぴたりと止み、三対の視線が樹に突き刺さる。樹は生唾を飲み込み、まるで戦場に向かう兵士のような面持ちで、玄関のドアノブに手をかけた。
ドアを開けると、ふわりと冬の澄んだ空気が流れ込んできた。
そして、そこに佇む夏山桃香の姿に、樹は一瞬、息をするのを忘れた。
ラベンダー色の、少し毛足の長いニット。裾がふわりと揺れる、くるぶし丈の白いティアードスカート。首元には、買い物の日と同じチェック柄のマフラーが、優しく巻かれている。
学校の制服姿とは全く違う、柔らかな色合いに包まれた彼女は、まるで砂糖菓子そのもののように、可憐で、甘い雰囲気をまとっていた。
その手に、老舗のお茶屋さんのものらしい、上品な紙袋を提げて。
「お、おはよう、春石くん」
少し緊張した面持ちで微笑む彼女に、樹の心臓が大きく跳ねる。
「……いらっしゃい」
なんとかそれだけを絞り出した、その瞬間だった。
「「いらっしゃーい!!」」
背後から、地の底から響くような、元気すぎる両親の声が轟いた。
ひょこっと顔を出した父と母が、満面の笑みで桃香に駆け寄る。
「あなたが夏山さん!よくぞ来てくれました!さあさあ、上がって!」
「まあ、可愛いお嬢さん!樹がいつもお世話になっております!」
あまりの勢いに、桃香は目をぱちくりさせている。しかし、その表情は驚きからすぐに安堵へと変わっていった。人懐っこい両親の笑顔に、彼女の緊張も解けていったのだろう。
「こ、こんにちは!夏山桃香です。今日はお邪魔します!」
ぺこりと頭を下げる彼女に、樹は
「だからやめろって言ったのに……」
と頭を抱えたくなる。
そこへ、腕を組んで様子を伺っていた姉の碧が、にこやかに歩み寄ってきた。
「私が姉の碧。よろしくね、桃香ちゃん」
そう言って、すっと右手を差し出す。
「あ、はい!よろしくお願いします!」
桃香が驚きながらもその手を握ると、碧は力強く一度だけ握手を交わし、にっと笑った。
「うちの不愛想な弟が、ごめんね。でも、根は悪いやつじゃないから。今日は、よろしく」
そのサバサバとした態度に、桃香もつられたように「はい!」と元気よく頷く。
春石家の、あまりにも賑やかで、温かい歓迎。
それは、これから始まる長い一日が、きっと素晴らしいものになるだろうという、幸福な予感に満ちていた。
◇
春石家のキッチンは、樹の聖域だった。
壁にかけられた調理器具は、まるで楽器のように整然と並び、ステンレスの作業台は一点の曇りもなく磨き上げられている。そのプロフェッショナルな空間に、桃香は改めて息を呑んだ。
「すごい……お店みたい」
「……まあ、趣味だから」
樹はぶっきらぼうに答えながら、棚から真新しいエプロンを二枚取り出す。一つを桃香に差し出すと、彼女は「ありがとう!」と受け取り、慣れない手つきで首にかけた。ラベンダー色のニットの袖が邪魔にならないよう、一生懸命まくり上げている。
「まず、夏山の『流れ星』から作る。中のソースと、土台のビスキュイは冷やす時間が必要だからな」
樹の言葉に、桃香はこくりと頷いた。その瞳は、デザイナーから、一人の生徒へと変わっている。
作業が始まると、キッチンの空気は一変した。
樹は、学校で見せる物静かな彼とは別人のようだった。その動きには一切の無駄がなく、卵を割り、粉をふるい、バターを溶かす一連の動作が、まるで美しい舞踊のように滑らかに進んでいく。
「夏山、そこの卵、卵黄と卵白に分けてくれるか」
「う、うん!」
桃香は意気込んで卵を手に取るが、焦りからか、コン、と割った瞬間に黄身が崩れてしまった。
「あ……!ご、ごめんなさい!」
「……気にすんな。予備はいくらでもある」
樹は少しも怒る素振りを見せず、新しい卵を手に取ると、桃香の手元に自分の手を重ねた。
「いいか。殻のエッジを使うんじゃなくて、平らな角に打ち付ける。ヒビが細かく入るから、綺麗に割れる」
骨張った、けれど温かい指先が、桃香の手に正しい角度と力加減を教える。ごく僅かな時間、触れただけなのに、桃香の心臓はきゅっと音を立てた。
彼の指示に従うと、今度は面白いように、つるりと黄身が白身から滑り落ちた。
「できた……!」
「ああ。上出来だ」
淡々と、しかし的確にフォローしてくれる樹の姿は、桃香にとって新鮮な驚きだった。そして、それ以上に彼女の心を奪ったのは、作業に没頭する彼の真剣な眼差しだった。
メレンゲを立てる時の、泡のきめ細かさを見極める鋭い瞳。
溶かしたチョコレートの温度を、唇を少しだけ尖らせて確認する横顔。
誰にも見せたことのない、隠された情熱が、その一つ一つの仕草から溢れ出している。
(……かっこいい)
不意に、心の奥底からそんな言葉が浮かび上がり、桃香は慌てて首を振った。頬に、熱が集まっていくのが分かる。
やがて、マンゴーとパッションフルーツの甘酸っぱい香りがキッチンを満たし、黄金色のビスキュイ・ジョコンドがオーブンの中でふっくらと焼き上がった。
「よし。ソースは冷凍庫へ。ビスキュイはここで粗熱を取る。……上出来だ、夏山」
作業台に焼き上がった生地を置きながら、樹がぽつりと呟いた。その声に含まれた微かな満足感が、桃香には何よりの褒め言葉に聞こえた。
二人で使ったボウルや泡立て器を洗い、一段落ついた、その時だった。
「お二人さーん、お昼ご飯にしないー? ピザ届いたわよー!」
ひょっこりとキッチンに顔を出した樹の母親が、明るい声で手招きをする。時計を見れば、針はとっくに正午を指していた。夢中になるあまり、時間があっという間に過ぎていたことに、二人は同時に気づく。
オーブンから漂う甘い香りと、リビングから届いた香ばしいピザの匂い。
その二つが混じり合い、幸せな昼の時間を告げていた。
「……行くか」
「うん!」
照れくさそうに促す樹に、桃香は満面の笑みで頷いた。頬についた一筋の小麦粉には、まだ気づかないままで。
春石家のダイニングは、キッチンの静寂が嘘のような、陽気な笑い声で満ちていた。
テーブルの中央には、湯気の立つデリバリーピザの箱がいくつも並んでいる。
碧が「桃香ちゃんはどれがいい?こっちのシーフード、おすすめだよ」と気さくに声をかけ、
父親は「いやあ、うちの樹がなあ」と、すっかり上機嫌だ。
最初は緊張していた桃香も、春石家の温かい雰囲気にすっかり馴染み、学校の話や好きなお菓子の話で盛り上がっていた。樹はそんな輪の中心にいる桃香を、少し離れた席から黙って見つめている。騒がしいのは苦手だが、彼女が楽しそうに笑っているのを見るのは、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
「あらまあ」
ふと、向かいに座っていた母親が、おかしそうに声を上げた。
「桃香ちゃん、ほっぺに小麦粉がついてるわよ。頑張った勲章ね」
「えっ、本当ですか?」
桃香は慌てて自分の頬に触れるが、どこについているのか分からない様子で、きょとんと首を傾げる。その仕草が、小動物のようで微笑ましい。
母親は、にやりと悪戯っぽく笑うと、隣にいる息子に肘で合図を送った。
「樹。あんた、とってあげなさいよ。男の子でしょ」
その言葉は、冗談めかしているのに、どこか本気の色を帯びていた。
リビングの空気が、一瞬だけ静止する。
「なっ……!」
樹の顔が、カッと音を立てて赤く染まった。
とってあげろ?俺が?夏山の、頬に?
無理だ。そんなこと、天地がひっくり返ってもできるわけがない。父親と姉が、ニヤニヤしながらこちらを見ているのが、視界の端で分かった。
桃香も、母親の言葉の意味を理解し、みるみるうちに頬を林檎のように赤く染めていく。
「だ、大丈夫です!自分でやります!」
彼女はあたふたと紙ナプキンを掴むと、ごしごしと頬を拭った。
「こ、これで、とれましたか……?」
「うん、きれいになったわよ」
母親は満足そうに頷いている。樹は心臓が口から飛び出しそうなのを必死にこらえ、目の前のピザを無心で口に詰め込んだ。
気まずい沈黙が流れるかと思われた、その時だった。
「それで、午後は樹のデザインしたケーキを作るんだって?」
姉の碧が、ナイスアシストとでも言うように、にこやかに話題を切り替えた。
その一言で、二人は救われたように顔を上げる。
「はい!『静寂』っていう、抹茶と黒豆のケーキなんです!」
「断面がすごく凝ってて、栗のブリュレが入ってて……」
先程までのぎこちなさが嘘のように、二人は再びケーキの話で目を輝かせ始めた。樹も、自分の得意分野に話が移ったことで、ようやく落ち着きを取り戻す。
「抹茶ムースの気泡をいかに均一にするかが、口溶けの鍵なんだ。あと、グラサージュの粘度も……」
専門的な話を、家族は「へえ」「すごいなあ」と興味深そうに聞いてくれる。
賑やかで、少しだけ心臓に悪いハプニングもあったけれど、とても楽しい一時だった。
熱いお茶を飲み干し、樹は静かに立ち上がる。
「……そろそろ、午後の作業、始めるか」
「うん!」
桃香も元気よく頷き、二人は再び聖域であるキッチンへと向かう。
リビングに残った家族は、その後ろ姿を、とても温かい眼差しで見送っていた。二人の間を流れる空気が、午前中とは少しだけ、甘く変化していることに気づきながら。
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