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【完結】そのケーキのレシピ、俺が本物にするよ ~不器用な天才パティシエと、私だけの夢の設計図~  作者: 坂道 昇


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22/22

エピローグ 約束の先にあった宝物

全国大会の熱狂から一週間が過ぎた、最初の日曜日。


九月の終わりを告げる空は、どこまでも高く、澄み渡っていた。


自室の机の上で、桃香は、銀色のメダルをぼんやりと眺めていた。ひんやりとした金属の重みが、あの夢のような三時間が、確かに現実だったのだと教えてくれる。


祭りが、終わってしまった。


心の中に、ぽっかりと穴が空いたような、不思議な寂しさ。これから、自分は何を目標にすればいいのだろう。樹くんとは、どうなってしまうのだろう。


そんな、少しだけ感傷的な気持ちに浸っていた、その時だった。

枕元のスマートフォンが、ぶぶ、と短く震えた。

画面に表示されたのは、『春石 樹』の名前。


『今日、空いてるか。お疲れ会、やらないか』


たった、それだけの、彼らしい、短いメッセージ。

だが、その十六文字が、桃香の心に空いていた穴を、一瞬で、温かい光で満たしていった。

桃香は、ベッドから飛び起きると、慌ててクローゼットを開けた。



待ち合わせ場所に現れた桃香の姿を見て、樹の動きが、ほんの少しだけ、止まった。

今日の彼女の装いは、ふわりとした、秋色のキャラメルブラウンのロングスカートに、袖口がレースになった、オフホワイトのニット。髪はゆるく巻かれ、肩のあたりで柔らかく揺れている。


それは、全国二位のパティシエールの顔ではなく、ただの、恋する十八歳の少女の顔だった。


「……お待たせ」


はにかむ彼女に、樹は、「……いや」と短く答えながらも、その視線を、なかなか彼女から外すことができなかった。


彼が連れてきてくれたのは、港の見える丘公園の近くにある、小さなイタリアンレストランだった。

窓から、きらきらと輝く横浜港の海が見える。


「わあ、素敵なお店……!」


「姉貴に、教えてもらった」


少しだけ、照れくさそうに言う彼が、なんだか、可愛らしい。

二人は、パスタのランチセットを注文した。運ばれてきた、魚介の旨味が凝縮されたペスカトーレと、濃厚なカルボナーラ。


「「いただきます」」


声を揃えて、フォークを手に取る。


「……美味しい!」


新鮮な魚介の香りが、口いっぱいに広がる。


「ああ、美味いな」


樹も、満足げに頷いている。


「この、トマトソースの酸味と甘みのバランス、絶妙だね。隠し味に、少しだけ、甲殻類の出汁を使ってるのかな」


「そっちのカルボナーラは?卵黄の火の通し加減が、難しそうだ」


「ああ。生クリームだけじゃなくて、少しだけ、パルミジャーノの出汁を加えてるかもしれない。コクの深さが、普通じゃない」


気づけば、二人は、いつものように、料理の味の構成について、夢中で語り合っていた。

そのことが、なんだか、おかしくて、そして、たまらなく嬉しくて、桃香は、ふふ、と笑ってしまった。


「私たち、どこにいても、結局、こういう話しちゃうね」


「……そうだな」


樹も、その口元に、柔らかな笑みを浮かべていた。


「……デザート、頼むか?」


「うん!」


桃香が、嬉しそうに頷く。

メニューを開くと、そこにはティラミスとパンナコッタ、二種類のドルチェが書かれていた。


「うーん、どっちも美味しそう……」


「じゃあ、一つずつ頼んで、半分こするか?」


樹からの、あまりにも自然な提案に、桃香の心臓が、きゅんと、小さく音を立てた。まるで、当たり前のように、ずっと一緒にいる恋人同士の会話みたいだ。


「……うん!」


やがて、運ばれてきた二つのデザート。

マスカルポーネクリームの上に、ほろ苦いココアパウダーが美しく振りかけられたティラミス。

お皿を揺らすと、ふるふると、頼りなげに震える、真っ白なパンナコッタ。


「じゃあ、ティラミスから……」


桃香が、そっとスプーンを入れる。スポンジに染み込んだエスプレッソの芳醇な香り。


「……美味しい……。クリームの口溶けも、リキュールの効かせ方も、すごく上品……」


「そっちのパンナコッタは?」


「うん」


樹は、一口食べると、静かに目を閉じて、その味を吟味した。


「……生クリームの質がいい。バニラビーンズの香りの立たせ方も、完璧だ。ゼラチンの量も、ギリギリまで抑えてるな、この食感は」


二人は、お互いの皿を交換して、もう一方の味も確かめる。

その時間は、ただの食事ではなく、二人にとって最高の、学びの時間でもあった。


「……私も、いつか、こんな風に、食べた人を幸せな気持ちにできるデザートが作りたいな」


桃香が、名残惜しそうに、最後の一口を運びながら、ぽつりと言った。

その言葉に、樹は、フォークを置くと、真っ直ぐに、桃香の顔を見つめた。


「……ああ」


彼は、ただ、短く、そう答えた。


でも、その一言には、「二人で、必ず、作ろう」という、力強い響きが、確かに、込められていた。


甘いデザートと、それ以上に甘い未来への期待が、二人の心を温かく満たしていた。



美味しいパスタとデザートでお腹を満たした二人は、食後の散歩に、山下公園へと向かった。

潮の香りを運ぶ、心地よい海風が、桃香の髪を優しく撫でる。

氷川丸が、悠然と海に浮かび、遠くには、ベイブリッジが見える。


「……終わっちゃったね、大会」


桃香が、手すりに寄りかかりながら、ぽつりと呟いた。


「ああ」


「なんだか、あっという間だったな。去年のクリスマスに、樹くんの家でケーキ作ったのが、ついこの間のことみたい」


「……もうすぐ、一年か。早いもんだな」


樹が、しみじみと言う。


「うん。一年だね。……色々、あったから、あっという間だったね」


雨の日の傘、図書室のスケッチブック、初詣の生姜湯、夏祭りの花火。

一つ一つの記憶が、昨日のことのように、鮮やかに蘇る。


「……なあ」


樹が、不意に、口を開いた。


「卒業したら、どうするんだ」


「え?」


「進路。決めてるのか」


その、真剣な問いかけに、桃香は、少しだけ、胸の鼓動が速くなるのを感じた。


「……うん。私ね、製菓の専門学校に行こうと思ってる。もっと、ちゃんと、勉強したいんだ。いつか、自分のお店、持ちたいから」


それは、ずっと胸に秘めていた、彼女の、ささやかで、大きな夢。

すると、樹は、少しだけ、驚いたような顔をして、そして、すぐに、ふっと、息を吐くように、笑った。


「……そうか」


「樹くんは?」


「……俺もだ」


「えっ」


「東京の、製菓専門学校。もう、決めてる」


同じ、道。

同じ、未来。


「……そっか。そっかあ……!」


桃香の顔が、ぱあっと、花が咲くように、明るくなる。

不安だった未来への道が、また、彼と、繋がった。

そのことが、たまらなく、嬉しかった。

二人は、顔を見合わせて、子供のように、笑い合った。



ふと、会話が、途切れた。

夕日が、空と海を、燃えるようなオレンジ色に染め上げている。


心地よい、沈黙。


隣に立つ、彼の横顔が、夕日に照らされて、いつもより、ずっと、大人びて見えた。

桃香は、自分の心臓が、どきん、どきんと、大きく鳴り始めるのを感じていた。


「……桃香」


不意に、彼が、名前を呼んだ。

いつになく、真剣で、それでいて、どこまでも、優しい声。


桃香は、ゆっくりと、彼の方へと向き直った。

そこには、今まで見たこともない、春石樹の顔があった。

もう、迷いも、照れも、何もない。ただ、一つの、確かな決意だけを宿した、男の顔。


「俺は、ずっと、一人だった」


彼は、静かに、語り始めた。

その声は、朴訥な、いつもの彼とは思えないほど、熱を帯びていた。


「ケーキを作るのは、好きだった。でも、その好きだという気持ちを、誰にも言えなかった。ずっと、暗い部屋の隅で、一人で、こそこそと、隠れてるみたいに、生きてきた。……でも、お前が、見つけてくれた」


彼の、真っ直ぐな瞳が、桃香を、射抜く。


「お前は、俺の情熱を、明るい場所に、連れ出してくれた。俺の、ただの技術に、『物語』という、命を吹き込んでくれた。お前と出会って、初めて、俺は、ケーキを作ることが、心の底から、楽しいと思えたんだ」


クリスマスの夜も、関東大会の時も、そして、全国大会の時も。

彼の隣には、いつも、桃香がいた。

彼女の笑顔が、彼の力になっていた。


「俺たちの作ったケーキの名前は、『メモワール』。記憶の宝箱だ。でもな、桃香。本当の宝物は、あのケーキじゃない」


彼の瞳が、夕日の光を反射して、きらりと、潤んで見えた。


「雨の日も、クリスマスの夜も、夏祭りの花火も……お前と過ごした、全ての時間が。その、全ての記憶が、俺の宝物なんだ。違う。今も、これからも、ずっと——」


彼は、そこで、一度、言葉を切った。

そして、今、この瞬間の、全ての想いを込めて、言った。


「お前が、俺の、宝物だ」


そして、彼は、そっと、右手を、桃香の前に、差し出した。

春休みの日のように、ためらいがちに。

でも、あの時よりも、ずっと、力強く、確かに。


「俺と、付き合ってくれ」


その、不器用で、でも、世界で一番、誠実な告白に。

桃香の瞳から、一筋、また一筋と、大粒の涙が、こぼれ落ちた。


ずっと、待っていた言葉。

ずっと、聞きたかった声。


彼女は、涙で濡れた顔を、くしゃくしゃにしながら、最高の笑顔で、頷いた。


「……はいっ……!」


その返事を聞いて、樹は、差し出した手で、優しく、彼女の手を取った。

そして、そのまま、ゆっくりと、彼女の華奢な体を、自分の腕の中へと、引き寄せた。


ぎゅっと、強く、抱きしめる。


彼の、少しだけ汗の匂いが混じった、甘い香りに包まれる。彼の、たくましい胸板。どくどくと、速い鼓動が、伝わってくる。


ああ、夢じゃないんだ。


やがて、樹は、ゆっくりと、体を離した。

そして、その大きな両手で、そっと、桃香の、涙で濡れた頬を、包み込んだ。

親指が、優しく、彼女の涙を、拭う。


夕日が、二人を、オレンジ色の光で、優しく、包み込む。

彼の顔が、ゆっくりと、近づいてくる。

桃香は、そっと、目を閉じた。


唇に、柔らかく、そして、少しだけ、戸惑うような、温かい感触。

それは、ほんの、一瞬。

でも、二人にとっては、永遠にも思えるほどの、長い、長い、時間。


しょっぱい、涙の味と、今まで、二人で作り上げてきた、どのケーキよりも、甘くて、優しい味がした。


キスの後、少しだけ唇が離れる。感極まって言葉にならない桃香に、樹が、まだ少し潤んだ瞳のまま、照れくさそうに言った。


「……すごい、緊張した」


「え…?」


「お前に、ちゃんと伝えられるか、自信なくて…。だから、本当は……これ、用意してたんだ」


そう言って、彼はジャケットのポケットから、少しだけ折り目のついた、一通の封筒を取り出した。


「もし、言葉に詰まって、何も言えなかったら、これを読んでもらおうと思ってた。……でも、ちゃんと言えて、よかった」


彼は、その手紙を、そっと桃香の手に握らせる。

便箋の、かさり、という乾いた音が、やけに、愛おしい。


「これも、俺の宝物だから。……お前に、もらってほしい」


桃香は、言葉もなく、ただ、こくりと頷いた。


その手紙の重みが、彼の心の重みのように感じられて、また、涙が溢れてくる。

不器用で、口下手で、でも、誰よりも、誠実で、優しい人。

そんな人が、今、自分の恋人になってくれた。

その、とてつもない幸福感に、桃香は、ただ、包まれていた。


横浜港に、汽笛が、長く、長く、響き渡る。


それは、二人の、新しい物語の始まりを、高らかに、祝福するファンファーレのようだった。


(了)

これにて、この物語はおしまいです。

最後まで、お読みくださいまして、ありがとうございました。

また次回作でお会いしましょう!

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