メモワール 〜私たちの宝箱〜
九月、秋分の日。
空は高く澄み渡り、秋の爽やかな風が吹くその日、二人の高校最後の戦いの舞台は、愛知県名古屋市にあった。
全国高校生パティシエ選手権、ケーキ甲子園決勝大会。
会場となったのは、テレビ局に併設された巨大なイベントホール。関東大会とは比べ物にならないほどの数のテレビカメラと、眩いばかりの照明。そして、審査員席には、委員長の柏木遼平をはじめ、日本のスイーツ界を牽引するトップパティシエたちが、厳しい表情でずらりと並んでいる。
空気に含まれる緊張の濃度が、まるで違っていた。
「……すごいね、やっぱり」
桃香は、自分たちのブースに立ち、ごくりと喉を鳴らした。
糊のきいた、真っ白なコックコート。その胸元には、誇らしげに横浜海星高校の校章が輝いている。そして、首元には——約束のエメラルドグリーンのスカーフ。
隣に立つ樹もまた、揃いのサファイアブルーのスカーフを、きりりと結んでいた。
彼の表情は、いつになく穏やかだった。それは諦めや無気力からくるものではない。やれることは、すべてやった。あとは、自分たちの全てを、この三時間の大舞台にぶつけるだけだという、静かな覚悟に満たた表情だった。
周りを見渡せば、全国のブロック予選を勝ち抜いてきた、他の八校の精鋭たちが、静かにその時を待っている。
そのほとんどが、誰もがその名を知る、超名門の調理専門学校や、製菓コースを持つ私立高校ばかり。
中でも、ひときわ異質なオーラを放っているのが、大会二連覇中の超強豪校、福島県代表・会津松陽調理学校のペアだった。彼らは、ただ静かに、目を閉じて精神を集中させているだけなのに、その佇まいからは、決して揺らぐことのない絶対的な自信と、王者の風格が、ひしひしと伝わってくる。
その、息が詰まるような緊張感を、最初に打ち破ったのは、二階の観客席から響き渡った、場違いなほどに陽気な声援だった。
「もーもーかー!こっち向けー!テレビ映ってるぞー!」
「春石ー!無愛想な顔も全国デビューだぞー!」
はっと視線を送ると、そこには、九校の応援団の中で、ひときわ巨大な横断幕が掲げられていた。
『目指せ全国制覇!俺たちの夢をのせて!横浜海星高校』
その下には、七海や碧、梨香をはじめ、関東大会の時よりもさらに多くのクラスメイトや生徒たちが、メガホン片手に応援うちわを振っている。声援のボリュームも、間違いなく、ここが一番大きかった。
「……なんか、うちだけ文化祭みたいだね」
桃香が、思わずくすりと笑う。
「……ああ。馬鹿ばっかりだ」
樹も、呆れたように、でも、その口元は確かに緩んでいた。
二人の肩から、すっと力が抜けていく。
『——それでは、これより、決勝大会を開始いたします!制限時間は、三時間!選手の皆さん、スタートです!』
けたたましいブザーの音と共に、二人の、そして、全ての高校生パティシエたちの、最後の戦いが始まった。
スタート直後から、樹と桃香の動きは、観客席の誰もが息を呑むほどに、滑らかで、そして美しかった。
関東大会の時のような、司令塔と実行役という、明確な役割分担ではない。
桃香が次の工程を口にする前に、樹の手はすでにその準備のために動き出している。樹が使うであろう器具を、桃香は、彼が手を伸ばすよりもコンマ一秒早く、その場所に差し出す。
まるで、一つの体を、二つの心が共有しているかのようだった。長きに渡って練習を重ねた、デュエットダンサーの完璧な演舞。そこに、言葉が介在する余地はなかった。
会場の視線が、無名の公立高校である彼らのブースに、少しずつ、集まり始めていることに、二人は気づいていない。
彼らの心は、今、この瞬間の、純粋な創作の喜びに満たされていた。
(楽しい……)
桃香は、しずく型のアールグレイのムースを型から外しながら、心の底からそう思った。
(私たちの思い出が、一つずつ、形になっていく。樹くんが、それを本物にしてくれる。こんなに嬉しいことって、ないかもしれない)
一時間が経過する頃には、会場の空気は、完全に横浜海星高校の二人に支配されていた。
他のチームが、大きな飴細工のオブジェや、複雑なチョコレートのピエスモンテといった、派手な大技で観客を魅了しようとする中、二人が作っているものは、あまりにも地味で、そして、あまりにも異質だった。
彼らは、大きなパーツを一つも作っていない。
ただ、ひたすらに、直径数センチの、小さな、小さな、パーツを、一つ、また一つと、狂気的とも言えるほどの精度で、作り続けていた。
(終わりたくない)
樹は、カシスのジュレで夜空を表現した球体に、完璧なミラーグラサージュをかけながら、不意にそう思った。
(この時間が、永遠に続けばいい。こいつと二人で、ただ、こうしてケーキを作っていられたら、他に何もいらない)
初めて感じた、穏やかで、満ち足りた幸福感。それは、彼がずっと一人で追い求めてきた、完璧なケーキを完成させる喜びとは、まったく質の違う、温かい感情だった。
涙のしずくの形をした、アールグレイのムース。
夜空を模した、藍色の球体ショコラ。
琥珀色に輝く、キャラメルジンジャーのジュエル。
情熱の炎をかたどった、真紅のフランボワーズ。
(時間よ、止まれ)
二人の願いは、一つだった。この、最高に幸せな時間が、終わってしまうことが、今は、何よりも怖かった。
会場の大型スクリーンに、二人の手元がアップで映し出された時、観客席から、ため息のような声が漏れた。
「……なんて、繊細な作業なの」
「一つ一つが、まるで宝石みたい……」
テレビ中継の解説者が、興奮した声で実況する。
『これは面白いですね!横浜海星高校、テーマは「宝物」ですが、彼らは宝物を一つの大きな形で表現するのではなく、小さな記憶の断片こそが宝物なのだと、そう言いたいのかもしれません!』
その解説を聞き、二人のひたむきな作業風景を見つめるうちに、横浜海星高校の応援席で、静かに涙を流す女子生徒たちの姿があった。
親友である七海は、もう、メガホンを握ることも忘れ、ただ、溢れる涙を何度も手の甲で拭っている。樹の姉の碧も、その隣で、静かに目を伏せ、ハンカチを目元に当てていた。
彼女たちには、見えていたのだ。
スクリーンに映る、あの二人が共有してきた、全ての時間が。
誰にも言えずに、一人でケーキ作りに打ち込んでいた不器用な少年と、夢を描くだけで、形にすることのできなかった少女。そんな二人が出会い、支え合い、そして今、最高の舞台で、最高の笑顔で、自分たちの物語を紡いでいる。
お揃いのスカーフを揺らしながら、お互いのことだけを信じて、一つの作品を、慈しむように、作り上げていく。その、あまりにも純粋で、美しい物語。
その姿が、彼女たちの心を、強く、揺さぶっていた。
◇
二時間半が経過。
いよいよ、組み立ての作業に入る。
純白のフロマージュブランでコーティングされた、円形の土台。それは、これから描かれる、二人の未来のキャンバス。
その上に、桃香の指示のもと、樹の、寸分の狂いもない指先が、一つ、また一つと、記憶の宝物を、配置していく。
しずくが、置かれ。
夜空が、置かれ。
琥珀と、炎が、置かれる。
まるで、宝石箱に、一つずつ、大切な宝物を収めていくような、神聖な作業。
そして、クライマックス。
全てのパーツが置かれた、その中央に。
樹が、ピンセットで、そっと、最後の宝物を置いた。
夏祭りの夜に二人で見つけた、儚く、そして、美しい、一瞬の輝き。
極限まで薄く伸ばしたチョコレートで作られた、色とりどりの、大輪の花火。
『残り時間、あと一分です!』
司会者の、声が響く。
桃香が、最後の仕上げに、銀箔のアラザンを、数粒、そっと、散りばめた。
まるで、花火の、最後の名残の光のように。
『5、4、3、2、1……』
『終了です!!!』
けたたましいブザーが、三時間の終わりを告げた。
樹と、桃香は、どちらからともなく、顔を見合わせた。
その瞬間、二人の脳裏に、これまでの全ての記憶が、走馬灯のように駆け巡った。
雨の日に貸してくれた、一本の傘。
図書室で、初めて見せ合った、秘密のスケッチブック。
二人きりのキッチンで、はにかみながら作った、クリスマスケーキ。
凍えるほど寒い日に、二人で飲んだ、温かい生姜湯。
絶望の淵で、鬼神のように戦ってくれた、彼の背中。
夜空に咲いた、儚く、美しい、夏の花火。
そして、今日、この場所で、最高の笑顔で、隣にいてくれる、君の姿。
言葉は、ない。
ただ、お互いの瞳が、すべてを語っていた。
(最高の、宝物を、ありがとう)
その、声にならない感謝の気持ちが、確かに、二人の間で交わされた。
気づけば、他の八校のことも、審査員の厳しい視線も、鳴り響く歓声も、完全に頭の中から消え去っていた。世界の全てが、目の前にいる、パートナーの姿だけに、集約されていく。
やがて、二人は、ゆっくりと、自分たちの目の前にある、完成したケーキへと、視線を落とした。
『メモワール 〜私たちの宝箱〜』
ミスは、一つもなかった。
関東大会の時のような、焦りも、動揺も、一切なかった。
そこにあるのは、今の自分たちが持てる、技術と、感性と、そして、全ての想いを注ぎ込んだ、完璧な作品。
二人の、過去最高傑作だった。
「……できたね、樹くん」
「……ああ」
桃香の瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。
それは、安堵の涙であり、そして、最高の達成感に満ちた、何よりも、甘い、涙だった。
樹は、そんな彼女の肩を、ただ、そっと、抱き寄せた。
結果は、まだ、分からない。
だが、二人には、確かな確信があった。
私たちの宝物は、世界で一番、美しく、輝いている、と。
◇
全チームの作業が終了し、選手たちは一度、ステージ裏の控室へと誘導された。
張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れたように、どのチームの生徒たちも、椅子に深く沈み込んでいる。
桃香と樹も、隣に並んで座り、ただ、黙って、ステージの方から聞こえてくる、かすかな物音に耳を澄ませていた。
ステージ上では、審査員たちによる、厳正な審査が始まっていた。
委員長の柏木遼平をはじめとする五人の審査員が、各校のブースを、ゆっくりと巡回していく。
彼らの表情は、一切変わらない。
絶対王者・会津松陽の、完璧な飴細工の城を前にしても。
京都代表の、芸術的な抹茶のオペラを前にしても。
そして、横浜海星の、物語が詰まった宝箱を前にしても。
ただ、静かにメモを取り、フォークを口に運び、そして、次のブースへと移動していく。その、あまりにも静かな時間が、選手たちの不安を、より一層、掻き立てていた。
長い、長い、沈黙の時間。
やがて、審査員たちが、協議のために別室へと姿を消した。
それから、どれくらいの時間が経っただろうか。
控室の扉が開き、スタッフが、選手たちにステージへ上がるよう、指示を出した。
再び、あの眩い照明の下へと戻る。
ステージの上には、九校の代表選手たちが、横一列に並んでいた。
その中央には、先程まで自分たちが死闘を繰り広げた、九台の美しいケーキが、誇らしげに並べられている。
桃香は、隣に立つ樹の気配を、すぐそばに感じていた。そっと、後ろ手で、彼の手に触れる。ぎゅっと、力強い感触が、返ってきた。
司会者が、マイクを手に、ステージの中央へと進み出る。
会場の全ての視線が、その一点に、集中する。
応援席の七海たちが、祈るように、手を組んでいるのが見えた。
「皆様、大変長らくお待たせいたしました」
司会者の、張りのある声が、静まり返ったホールに、響き渡った。
「ただいま、全ての審査が、終了いたしました」
ごくり、と、誰かが喉を鳴らす音が、やけに大きく聞こえる。
「それではこれより、結果を発表いたします!」
司会者の、張りのある声が、静まり返ったホールに、響き渡った。
「まずは、審査員特別賞の発表です!」
司会者の声。スクリーンに、文字が映し出される。
「審査員特別賞は——京都府代表、京都雅製菓技術専門学校!」
わっ、と控えめな歓声が上がる。和の素材を革新的なアイデアで表現した、美しいケーキ。受賞に、誰もが頷いていた。
「続きまして、第三位の発表です!」
ドラムロールが、鳴り響く。桃香は、ぎゅっと目を瞑った。
(お願い、お願い、お願い……!)
「第三位は——東京都代表、自由が丘調理学校!」
その名が呼ばれた瞬間、会場から、どよめきにも似た声が上がった。関東大会を制した、あの優勝候補が、三位。
桃香の背筋を、冷たい汗が伝う。
(レベルが、違う……。全国の壁は、こんなにも、厚いんだ……)
残るは、二校。
優勝か、準優勝。そのどちらか。
「さあ、いよいよ、残すは二校となりました!二連覇中の絶対王者か、それとも、彗星の如く現れた、無名の公立高校か!はたまた……」
司会者が、巧みに、会場の興奮を煽る。
スクリーンが二分割され、片方には、静かに佇む会津松陽のペアが、そして、もう片方には、固い表情の樹と桃香の姿が、映し出された。
応援席の七海たちが、祈るように、手を組んでいるのが見えた。
「それでは、発表いたします!準優勝は——!」
心臓が、止まる。
息が、できない。
もう、何も、考えられない。
「準優勝は——神奈川県代表、横浜海星高等学校!!」
その名前が、ホールに轟いた瞬間。
桃香の頭の中は、一瞬、真っ白になった。
(……準優勝……?……そっか、優勝、じゃ、なかったんだ……)
ほんの、コンマ一秒。胸をよぎった、小さな、小さな、悔しさ。
だが、それは、すぐに、別の、もっと、ずっと、大きくて、温かい感情の波に、飲み込まれていった。
(……全国で、二位……?私たちが……?嘘……夢、みたい……!)
じわり、と視界が滲む。
隣に立つ樹の方を、勢いよく振り返った。
「樹くん、私たち……!」
そして、桃香は、言葉を失った。
樹が、泣いていた。
いつも、どんな時も、冷静で、感情を表に出すことのなかった彼が。
関東大会で、絶望的なトラブルに見舞われた時でさえ、氷のように冷たい集中力で、戦い抜いた彼が。
今、その両方の瞳から、大粒の涙を、はらはらと、こぼしていた。
声を、殺している。唇を、ぐっと、引き結んでいる。だが、その肩は、確かに、小刻みに震えていた。
それは、優勝を逃した、悔し涙ではなかった。
桃香には、わかった。
彼の涙に込められた、その、全ての意味が。
幼い頃から、たった一人で、情熱を隠し続けてきた、孤独。
誰にも理解されなかった、苦悩。
自分と出会って、初めて、分かち合えた、創作の喜び。
最高の舞台で、自分たちの全てを出し切れた、達成感。
そして、この、夢のような時間が、もう、終わってしまうという、一抹の、寂しさ。
その、全ての感情が、今、彼の瞳から、溢れ出していた。
桃香は、何も言わずに、ただ、後ろ手で繋いでいた彼の手を、ありったけの力で、強く、強く、握りしめた。
それだけで、十分だった。
「そして、栄えある本大会の優勝は——福島県代表、会津松陽調理学校!三連覇達成です!」
割れんばかりの拍手と歓声が、ホールを包み込む。
だが、桃香の耳には、もう、何も入っていなかった。
ただ、隣で、静かに涙を流す、不器用で、優しくて、世界で一番、大切なパートナーの、その温もりだけを感じていた。
◇
表彰式が終わり、二人は、銀色のメダルと、準優勝の大きなトロフィーを手に、応援団の元へと戻った。
「桃香ー!樹ー!おめでとおおおおお!!!」
七海や碧たちが、泣き笑いの顔で、二人を迎え入れる。
「すごかった!本当に、すごかったよ!」
「あんたたち、日本で二番目よ!誇りに思いなさい!」
クラスメイトたちに、もみくちゃにされながら、桃香は、何度も「ありがとう」と繰り返した。
樹も、まだ少しだけ赤い目元を、照れくさそうに逸らしながら、仲間たちの祝福を受けていた。
「——横浜海星高校のお二人」
ふと、穏やかな声に呼ばれ、振り返ると、そこに、審査員長の柏木遼平が、優しい笑みを浮かべて立っていた。
「素晴らしい、ケーキでした」
「!ありがとうございます!」
二人は、深々と、頭を下げる。
「優勝した会津松陽の作品は、完璧な『技術』の結晶でした。しかし、あなたたちのケーキは、完璧な『物語』の結晶だった。正直に言えば、審査員の心に、より深く、響いたのは、あなたたちのケーキだったかもしれません」
その、あまりにも、温かい言葉。
「金メダルには届かなかったかもしれない。だが、君たちが見せてくれた、あのひたむきな姿、そして、あの美しい物語は、今日の、この会場にいた全ての者の、記憶という『宝物』になったはずだ。胸を張りなさい。君たちは、最高のパティシエだ」
柏木が、温かい手で、二人の肩を、それぞれ、ぽん、と叩いて、去っていく。
桃香は、もう、涙を堪えることができなかった。
今度こそ、嬉し涙で、顔が、ぐしゃぐしゃになった。
大会の、全てが終わった。
二人の、高校最後の、甘くて、熱い戦いが、終わった。
胸にあるのは、ほんの少しの悔しさと、それよりも、ずっと、ずっと大きな、達成感と、感謝。
そして、桃香は、ふと思った。
私たちの、ケーキ作りの旅は、ここで、一つの終わりを迎えた。
でも。
隣に立つ、彼の横顔を、そっと、盗み見る。
彼との、物語は。
きっと、まだ、始まったばかりだ——。
ご一読いただきありがとうございます!
思った以上に読んでくださる方がいて、とても嬉しいです。
もっと楽しんでもらえるように頑張りたいと思います。
今後の励みになりますので、ぜひページ下のいいねボタンで応援してください。
よろしくお願いします(^O^)/




