二色の約束 二色の宝物
長かった夏休みが終わりを告げ、九月一日、二学期の始業式の日。
肌にまとわりつくような湿気はまだ残っているものの、空の青さはどこか秋の気配を帯びて、高く、澄み渡っていた。
「……うわ」
「……マジか」
横浜海星高校の校門をくぐった瞬間、桃香と樹は、どちらからともなく、まったく同じタイミングで呆然とした声を漏らした。
校舎の、一番目立つ壁面に、巨大な垂れ幕が、これでもかと掲げられている。
『祝・全国高校生パティシエ選手権大会出場! 3年3組 春石樹・夏山桃香ペア』
白地に、極太の明朝体で書かれた、力強いその文字。風に揺れるたびに、二人の名前が、全校生徒に向けて高らかに宣言されているかのようだ。
「……恥ずかしい……」
桃香が、手で顔を覆うようにして呟く。
「……ああ」
樹も、居心地が悪そうに、さっと視線を逸らした。
こそこそと、目立たないように昇降口へ向かおうとする二人だったが、その企みは、無情にも打ち砕かれる。
「あ、夏山さんと春石くんだ!」
「全国大会、頑張ってください!」
「応援してます!」
すれ違う後輩や、他クラスの生徒たちから、次々にかけられる、温かい声援。その度に、二人は「あ、ありがとう」「……どうも」と、ぎこちなく頭を下げることしかできない。
教室に入っても、その喧騒は続いた。
「よお、日本のエース!」
「サイン、今のうちにもらっとこうかな?」
クラスメイトたちの、愛情のこもったからかいに、桃香は「もう、やめてよー!」と顔を真っ赤にし、樹は、完全に貝のように心を閉ざして、窓の外を眺めていた。
隠してきた情熱が、公のものになる。
それは、誇らしくもあり、同時に、慣れない光の中に全身を晒されるような、むず痒さを伴うものだった。
◇
そんな、少しだけ騒がしい日常が始まった、二日後の、九月三日。
その日は、春石樹の、十八歳の誕生日だった。
放課後。いつものように、家庭科準備室で、全国大会に向けた作業工程の最終確認をしていた時だった。
「……あの、樹くん」
桃香が、おずおずと、スクールバッグから、小さな紙袋を取り出した。綺麗に、でも、少しだけ緊張が伝わってくるような、不器用なリボンが結ばれている。
「ちょっと早いけど……ううん、もう当日だけど。お誕生日、おめでとう」
そう言って、彼女は、そっと、その紙袋を樹の前に差し出した。
樹は、一瞬、きょとんとした顔で、桃香と、その紙袋を交互に見つめた。自分の誕生日を、誰かから、こんな風に、面と向かって祝われた経験が、彼にはほとんどない。
「……なんで、知って」
「碧さんに、こっそり聞いちゃった」
桃香は、悪戯っぽく、ぺろりと舌を出した。
樹は、何も言えずに、ただ、その小さな贈り物を受け取った。カサリ、と軽い音がする。リボンを解き、中から出てきたものを見て、彼は、再び、言葉を失った。
それは、一枚の、コックタイ(スカーフ)だった。
彼の誕生石であるサファイアを思わせる、深く、そして気品のある、美しい藍色。滑らかで、上質な手触りの生地。
そして、そのスカーフの端に、樹は気づいた。
銀色の刺繍糸で、小さく、しかし、丁寧に、『I . H』という、彼のイニシャルが、縫い付けられている。
機械刺繍ではない。一針一針、心を込めて縫われたであろう、その温かいステッチ。
ただ、その刺繍を、何度も、何度も、指先でなぞった。
沈黙が、少しだけ、怖い。桃香が、何か言わなければ、と思った、その時だった。
樹が、ふっと顔を上げた。
そして、真っ直ぐに、桃香の瞳を見つめて、静かに、でも、はっきりとした声で言った。
「……ありがとう」
いつもの、ぶっきらぼうな響きはない。少しだけ照れたような、でも、心の底からこぼれ落ちたような、温かい声。
桃香の心臓が、どきりと、大きく跳ねた。
「……宝物にする」
続けられたその言葉に、桃香は、息を呑んだ。
宝物。
今、二人が、必死で向き合っている、そのテーマと同じ言葉。
その一言が、どんなに心のこもった「ありがとう」よりも、深く、強く、桃香の胸に突き刺さった。
顔に、じわりと熱が集まるのが分かる。樹の、あまりにも素直な、その眼差しから逃れるように、桃香は、慌てて言葉を続けた。
「あ、あの!ごめんね、私、こういうのしか、思いつかなくて!」
桃香が、早口でまくし立てる。
「でも、ほら、全国大会は、コックコートも、自分たちで用意していいって書いてあったから。何か、二人だけの、お揃いのものが欲しくて……」
そう言うと、彼女は、自分のバッグから、もう一枚、色違いのスカーフを取り出した。
それは、桃香の誕生石であるエメラルドを思わせる、鮮やかで、生命力に満ちた、美しい緑色だった。その端にも、同じように、『M . N』という、彼女のイニシャルが刺繍されている。
「だから、私の分も、買っちゃった」
彼女は、少しだけ頬を染めながら、最高の笑顔で言った。
「ねえ、樹くん。これ、全国大会で、一緒につけない?私たちだけの、お守り」
その、あまりにも真っ直ぐな瞳と、あまりにも健気な提案に、樹の胸の奥が、ぎゅっと、締め付けられた。
嬉しい、という言葉だけでは、到底足りない。
自分のために、時間をかけて、選んで、作ってくれた、世界でたった一つの贈り物。
そして、それは、ただのプレゼントではない。これからも、一緒に戦おう、という、彼女からの、何よりも力強い「約束」の証。
「……ああ、そうしよう」
樹は、こみ上げてくる熱いものを必死にこらえ、ただ、一度だけ、力強く、頷いた。
◇
九月に入り、大会本番が近づくにつれて、二人の準備も、最終段階へと入っていった。
そんなある日、藤沢先生から、嬉しい知らせがもたらされる。
「二人とも、朗報よ。あなたたちが全国大会に出場するということで、学校とPTAのOB会が、特別に予算を組んでくれることになったわ。決勝で使う材料費は、全額、学校が負担してくださるそうよ」
その言葉に、桃香は、思わず「本当ですか!?」と声を上げた。
ずっと、心のどこかで、重荷になっていた、材料費の問題。高価な食材を使えば使うほど、母への申し訳なさが、胸を締め付けていた。その呪縛から、ようやく、解放されたのだ。
その週末。二人は、再び、横浜元町にある、あの製菓材料の専門店を訪れていた。
初めてここに来た、去年の冬。あの時とは、何もかもが違っていた。
ぎこちなく距離を置いて歩いていた二人は、今、ごく自然に、隣に並んで歩いている。
ショーケースに並ぶ高価なチョコレートを、遠慮がちに眺めていた桃香は、今、堂々と、その最高級品を指差した。
「樹くん、やっぱり、花火のデコレーションに使うチョコレートは、フランス産の、このカカオ72%のやつがいいと思うの。香りが、全然違うから」
「ああ、それがいい。中の琥珀色のムースに使う蜂蜜も、国産のレンゲじゃなくて、こっちの、ハンガリー産のアカシア蜂蜜にしよう。癖がなくて、キレがいい」
まるで、熟練の職人同士のように、二人の会話は、専門的で、澱みない。
そこにはもう、金銭的な不安に揺れる、か弱い少女の姿はなかった。最高のパートナーと共に、最高の作品を作るためだけに、一切の妥協を許さない、一人のデザイナーの顔があった。
その、自信に満ちた横顔を、樹は、誇らしい気持ちで、そっと見つめていた。
緊張感は、ある。
全国大会という、とてつもないプレッシャーが、すぐそこまで迫っている。
だが、それ以上に、二人でいることの、絶対的な安心感が、彼らの心を、強く、支えていた。
キッチンに戻り、買い込んできた、最高級の材料を並べる。
大会の最終要項が、メールで届いていた。
樹が、そのメールを眺めながら、ぽつりと呟いた。
「……全国大会は、名古屋か…」
開催地は、何か月も前から要項に記載されていた。だが、最高級の材料を目の前にし、本番までの日にちを指折り数える今になって、「名古屋」という地名が、最後の戦いの舞台として、急にずしりとした現実味を帯びてきたのだ。
「うん。全国の、6ブロックを勝ち抜いてきた、代表校が全部集まるんだね……」
画面には、北海道・東北(1校)、関東(2校)、中部(2校)、近畿(2校)、中国・四国(1校)、九州・沖縄(1校)。それぞれのブロックを勝ち抜いてきた、いずれ劣らぬ強豪校、全9校の名前が並んでいる。
その中には、もちろん、あの絶対王者、福島県代表・会津松陽調理学校の名前もあった。
彼らと、同じ舞台で、戦う。
桃香は、ごくり、と喉を鳴らした。
樹は、そんな彼女の緊張を察したように、テーブルの上に、そっと、二枚のスカーフを並べた。
サファイアの青と、エメラルドの緑。
二人の、決意の証。
「……行こう、桃香」
樹が、静かに言った。
「俺たちの、宝物を、作りにな」
「うん!」
桃香は、力強く頷いた。
その瞳には、もう、何の迷いもなかった。
高校最後の、甘くて、熱い戦い。
その幕が上がる、運命の日まで、あと、二週間。
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