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きらめきの材料たち

12月21日、木曜日。


終業式を終え、街が本格的に冬休みへと浮き足立つ日。


教室が「良いお年を!」なんていう、もう二度と会わないかのような挨拶で満たされる中、春石樹の心臓だけは、百メートル走を全力疾走した直後のように、ありえない速さで脈打っていた。


(どうする……どうやって夏山と合流する? クラスのやつらに見られたら、絶対に何か言われる。『春石、冬休み前に彼女できたってマジ?』とか、そういう軽薄な言葉で、この約束を汚されたくない……)


想像しただけで、耳まで熱くなる。樹はまるでスパイ映画の主人公のように周囲を警戒しながらスマホを取り出し、指が震えるのを感じながら、夏山桃香へ極秘任務の指令のような短いメッセージを送った。


『先に出る。横浜駅の、西口にある赤い靴履いてた女の子の像の前で』


既読がつくのを待たずに、脱兎のごとく教室を飛び出した。誰かに見咎められる前に、人混みに紛れなければ。そのあまりの必死さに、あとから自分で思い出して笑ってしまいそうだった。



冬の日差しが急速に力を失い、空が柔らかなオレンジ色に染まり始めた頃。


桃香は約束の像の前で、静かに樹を待っていた。息を小さく吐きながら、首に巻いた温かそうなチェック柄のマフラーに鼻先をうずめている。

ふわりと揺れる、ゆるく巻かれた栗色の髪。制服のブレザーの上から羽織ったダッフルコートの前はきちんと閉められ、スカートの下には寒さ対策の厚手の黒タイツ。

その佇まいは、まるで冬の妖精のようだった。スクールバッグの隣に置かれた、くったりとしたキャンバス地のトートバッグだけが、今日の買い出しという目的への静かな期待を物語っている。


「ご、ごめん、待ったか?」


息を切らし、マフラーが少し曲がっているのも構わずに駆け付けた樹に、桃香は「ううん、今来たとこ」と、待っていた素振りも見せずに優しく微笑んだ。その笑顔に、張り詰めていた緊張が一瞬で解けていくのを感じる。


横浜駅の地下街は、クリスマス前のきらびやかな狂騒に満ちている。二人はその喧騒を縫うようにして進み、目的の製菓材料専門店へと足を踏み入れた。



カラン、とドアベルが鳴った瞬間、桃香は息を呑んだ。


壁という壁、棚という棚に、世界中から集められた製菓材料がぎっしりと並んでいる。フランス産、北海道産と産地の違う小麦粉。宝石のようにきらめく、色とりどりのドライフルーツやナッツの瓶詰め。虹のように繊細なグラデーションを描く食用色素の小瓶。甘く香ばしい、砂糖とバターとスパイスが幾重にも混じり合った匂いが、彼女の心を一瞬で幸福で満たしていく。


「すごい……! なにここ……天国みたい……!」


普段はスーパーの小さな製菓コーナーで、限られた選択肢の中から材料を選んでいた桃香にとって、そこはまさに夢の国だった。


目をきらきらと輝かせ、商品を一つ一つ、愛おしそうに見つめている。樹はそんな彼女の横顔を、少しだけくすぐったいような、誇らしいような気持ちで見つめていた。自分の大切な秘密基地を、初めて誰かに見せた時のような感覚だった。


二人は『聖夜に降る流れ星』のレシピを元に、材料を選び始めた。

純生クリーム、冷凍のマンゴーとパッションフルーツのピューレを手際よくカゴに入れていく。そして、ケーキの味の要となるチョコレートの棚の前で、二人は並んで腕を組んだ。


「ホワイトチョコは、口溶け重視だから、カカオバターの含有率が高いやつがいいな……」


「ああ。フランスのヴァローナ社のが、香りも味もいい」


樹が指差した先にあった、プロ御用達のクーベルチュール・チョコレート。その白いタブレットに、二人の手が同時に、すっと伸びた。


指先が、ふわりと触れ合う。


「……っ!」


樹の心臓が、大きく跳ねた。触れたのはほんの一瞬。それでも、彼女の指先の柔らかな温度が、電気のように全身を駆け巡った。反射的にさっと手を引っこめると、自分の顔に一気に血が上っていくのが分かる。桃香は「あ、ごめん」と小さく言って、はにかむように微笑んだ。その笑顔が、樹の心臓をさらにうるさくさせた。


「……ビターチョコも、どれにするか。俺は、カカオ70%くらいのが好きだけど」


動揺を隠すように、樹が隣の棚を指差す。すると桃香は


「私も!甘すぎるのより、カカオの香りがしっかりする方が好き」


と嬉しそうに頷いた。


「え、本当か」


「うん!なんか意外。春石くん、ミルクチョコとか好きそうなのに」


「……なんでだよ」


「なんとなく」


少しだけ会話が弾んだことに勇気を得て、樹は思い切って口を開いた。


「……じゃあ、果物は。何が好きだ」


「え?果物?」


「夏山、だから……桃、とか」


言った後で、あまりに安直で、馬鹿な質問だったと後悔した。だが、桃香は目をまんまるくして、驚いたように樹を見つめた。


「え、なんでわかったの!?私、果物の中で桃が一番好きなんだよ!自分の名前だからってのもあるんだけどね」


「……そうか。俺もだ」


「えっ、春石くんも!?」


「ああ。一番、好きだ」


まさかの共通点に、二人は顔を見合わせて、どちらからともなく、ふふっと笑い合った。ただそれだけのことなのに、心の壁がまた一枚、音を立てて剥がれていくような気がした。


「これで、全部かな?」


桃香が満足そうに呟いた、その時だった。

樹が、ふいっと別の棚へ向かい、深い緑色が美しい宇治産の最高級抹茶パウダーと、艶やかな大粒の丹波産黒豆の甘露煮を手に取った。


「あれ? それ、流れ星のケーキには使わないよね?」


不思議そうに首を傾げる桃香に、樹は少し照れくさそうに、でもどこか誇らしげに答えた。


「……これは、元々俺がクリスマスに作ろうと思ってたケーキの材料」


「えっ、春石くんのケーキ!?」


桃香の声が、ぱっと弾んだ。


「すごい!どんなの?見たい!絶対見たい!後で見せて!」


そのあまりの食いつきに、樹はたじろぎながらも


「……別に、たいしたもんじゃない」


とぶっきらぼうに呟くのが精一杯だった。


買い物を終えた後、荷物を抱えた二人は、駅ビルの片隅にある、少しレトロな喫茶店に吸い込まれた。革張りのソファ、琥珀色の照明。女子と二人きりで喫茶店に入るなんて、樹の人生で初めての経験だった。緊張で、注文したコーラを持つ手が微かに震える。コーラがどんな味だったか、ほとんど覚えていない。


「……で、春石くんのデザイン、見せてくれる?」


桃香が、期待に満ちた瞳でテーブルの向こうから身を乗り出す。樹は意を決して、鞄からスケッチブックを取り出し、彼女の前にそっと開いた。


そこに描かれていたのは、桃香の幻想的なデザインとは対照的な、静かで、洗練された美しさを持つケーキだった。

濃厚な緑の抹茶ムースが、艶やかな黒のグラサージュで覆われ、頂上には金箔をあしらった黒豆が三粒、静かに鎮座している。断面図まで緻密に描かれており、中には栗のブリュレと黒糖のビスキュイが美しい層をなしていることが分かる。


「……『静寂しじま』っていう、ケーキ」


「すごい……!」


桃香は感嘆の息を漏らした。


「抹茶と栗と黒糖なんて、最高の組み合わせじゃない!この、凜とした佇まいが、すごくいいね。雪が降る静かな夜に、暖かい部屋で食べたい感じ。クリスマスに、こういう和のテイスト、すっごく新しいよ!ねえ、これ作るのも、私も手伝わせてくれないかな?」


「え?」


「だって、一人で二つもホールケーキ作るなんて、大変だよ!それに、私も春石くんのケーキ、作るの見てみたい!どうやってこんな綺麗な層を作るのか、知りたいもん!」


その真っ直ぐな言葉に、樹の心の中を覆っていた分厚い氷が、すうっと音を立てて溶けていくのを感じた。

自分の、誰にも見せたことのなかった秘密の世界。

それを、彼女はこんなにも無邪気に、そして真剣に、肯定してくれる。緊張していたのが嘘のように、ケーキの構造や、抹茶の風味を最大限に活かすための温度管理について、自然と口が動いていた。


気づけば、窓の外はすっかり夜の闇に包まれ、街のイルミネーションが輝きを増していた。


駅の改札で、「じゃあ、土曜日に」と別れる。ざわめきの中に消えていく桃香の後ろ姿を、樹は気づけば、見えなくなるまで目で追っていた。まだ自分の胸が、ぽかぽかと温かいことに気づく。



その夜。


自室で買ってきた材料を一つ一つ丁寧に並べながら、樹は考えていた。


(あんなに緊張しないで、女子と話せたのは、初めてだ……。それに、楽しかった)


それは、学校での当たり障りのない会話とは全く違う、心が通う時間だった。自分の好きなものを、同じ熱量で好きだと言ってくれる相手がいる。そのことが、こんなにも満たされた気持ちになるなんて、知らなかった。



一方、桃香も自分の部屋で、クロッキー帳に新しいページを開いていた。


(春石くんって、無口でちょっと怖い人なのかと思ってた。でも、全然違った。すごく情熱があって、優しくて……そして、少しだけ不器用な人)


彼のケーキ『静寂』のデザインを思い出し、ふふっと自然に笑みがこぼれる。あの静かなケーキは、まるで彼自身みたいだと思った。



12月23日。

二人の合作が、どんな奇跡を生み出すのか。

それぞれの胸には、最高のケーキを作り上げたいという期待と、そしてもう一つ、ビターチョコレートのようにほろ苦くて、桃のように甘い、まだ名前のつけられない新しい感情が、静かに芽生え始めていた。

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