メモワール〜わたしたちの宝箱〜
あの夏祭りの夜から、二人の間に流れる空気は、明らかに色を変えていた。
以前のような、どこか遠慮がちな、探り合うような緊張感はない。かといって、馴れ合いの気安さでもない。そこにあるのは、同じ夢を見つめ、同じ未来を信じる、最高のパートナーとしての、深く、そして穏やかな信頼感だった。
八月も半ばを過ぎた、ある日の午後。
春石家のキッチンは、ミンミンと鳴く蝉の声と、エアコンの低い唸り声に包まれている。
テーブルの上に広げられた、真っ白なクロッキー帳。
それは、数週間前、桃香が絶望的な気持ちで睨みつけていたものと、同じものだ。だが、今の彼女の瞳には、あの頃のような不安の色はなかった。むしろ、その瞳は、これから描かれる未来への期待に、キラキラと輝いている。
「私たちの『宝物』は、記憶なんだよね」
桃香が、確信に満ちた声で言った。
「形のあるものじゃない。今まで、二人で見てきた景色、感じてきた気持ち。その、一つ一つの『瞬間』が、私たちの宝物なんだって、この前の花火を見て、そう思ったの」
「……ああ」
樹は、静かに頷いた。彼の役割は、ここからだ。
「だが、問題はどうやってそれを形にするかだ。記憶は、味にも、色にもならない」
その、あまりにも現実的で、的確な問いかけ。それこそが、桃香が彼を信頼する、最大の理由だった。
「うん。だからね、一緒に、私たちの『宝物』を、一つずつ、探していきたいんだ。思い出してくれるかな、樹くんも」
桃香は、そう言うと、新しい鉛筆を手に取った。
二人の、宝物を探す旅が、静かに始まった。
「一番最初はね、やっぱり、あの雨の日かな。私が、デザイン画を雨でダメにしちゃって、途方に暮れてた時。樹くんが、傘を貸してくれた」
「……そんなこともあったな」
樹が、少しだけ、照れくさそうに呟く。
「うん。あの時の、灰色で、でも、どこかキラキラしてた雨粒の色。味にするなら、なんだろう。少しだけ切なくて、でも、優しい感じ……。例えば、アールグレイのムースとか、どうかな。形は、そう、涙みたいな、しずく型」
さらさらと、桃香の鉛筆が、クロッキー帳の上を滑る。そこに、小さな、美しいしずく型のケーキが生まれた。
「俺が、最初に、お前のデザインをすごいと思ったのは、クリスマスの時だ」
今度は、樹が、ぽつりと言った。
「……え?」
桃香が、驚いて顔を上げる。
「あの、夜空のケーキ。あんなデザイン、俺には、絶対に思いつかない」
彼が、そんな風に思っていてくれたなんて。桃香の胸が、じんと熱くなる。
「あの時の、吸い込まれそうな深い藍色。あれは、カシスやブルーベリーのジュレで表現できる。味のアクセントに、少しだけスパイスを効かせた、濃厚なチョコレートガナッシュを合わせたい。星の輝きは、銀箔で」
樹の言葉に合わせるように、桃香の指が、藍色の、小さな球体のケーキを描き出す。その表面には、天の川のように、銀の星屑が散りばめられていた。
「初詣の日の、生姜湯の味も、覚えてる」
桃香が、頬を染めながら言う。
「うん。あの、体の芯から温まるような、優しい甘さ。あれは、蜂蜜と生姜のコンフィチュールを、キャラメルムースの中に閉じ込めるの。色は、もちろん、温かい琥珀色」
「関東大会の、あの赤も、忘れられない」
樹が、真剣な瞳で言う。
「私がデザイン画に描いた、情熱の赤だね」
「ああ。あれは、桃香の本気の色だと思った。フランボワーズの、酸味の効いたクーリ。形は、炎みたいな、鋭い感じで」
一つ、また一つと、二人の記憶のかけらが、言葉となり、具体的な味と、色と、形を与えられていく。
そして、最後に。
「……夏祭りの、花火」
二人は、どちらからともなく、同じ言葉を口にしていた。
顔を見合わせ、ふっと、笑い合う。
「あれは、特別だね」
「ああ、特別だ」
「いろんな色が、一瞬で、ぱあって咲いて、そして、消えていく。あの輝きは、ケーキの主役にしなきゃ」
「多色の飴細工か、エアブラシを使ったチョコレート細工だな。下のムースは、花火の邪魔をしない、爽やかで、少しだけ華やかな味がいい。シャンパンとか、エルダーフラワーとか……」
会話が、止まらない。
アイデアが、溢れてくる。
クロッキー帳の白いページは、瞬く間に、色とりどりの、宝石のような、小さなケーキのデザインで埋め尽くされていった。
しずく型のアールグレイ。球体のカシスショコラ。琥珀色のキャラメルジンジャー。炎の形のフランボワーズ。
そして、それらの中心で、圧倒的な存在感を放つ、大輪の花火のデコレーション。
「……できた」
桃香が、全体のデッサンを終え、感嘆のため息を漏らした。
ケーキの土台は、まだ何も描かれていない未来を示す、純白のフロマージュブラン。その上に、二人が集めてきた、色とりどりの記憶の宝物が、まるで宝石箱の中身のように、美しく、配置されている。
「ケーキの名前は、『メモワール 〜私たちの宝箱〜』」
「……いいな、それ」
樹も、その完成されたデザイン画から、目を離せずにいた。
「この琥珀色のパーツは、イソマルトで作った飴でコーティングしよう。しずく型は、表面に水滴のようなジュレを飾れば、より雨粒らしく見える。夜空の球体は、ミラーグラサージュで完璧な艶を出す」
桃香のデザインを見て、樹の頭の中では、すでに、その実現のための、完璧な設計図が、何通りも組み立てられていた。
これだ。これこそが、私たちの、最強の形。
◇
八月が終わりを告げ、あれだけうるさかった蝉の声が、涼やかな虫の音へと変わる頃。
二人のケーキの設計図は、ほぼ、完璧に完成していた。
何度も試作を重ね、味のバランスも、作業工程も、すべてが、緻密に計算され尽くされている。
それに伴って、二人の間の空気も、夏祭りの夜を境に、ぐっと、親密なものへと変わっていた。
作業の合間に交わされる、他愛もない会話。
ふとした瞬間に、重なる視線。
材料を渡す時に、偶然、触れ合う指先。
その一つ一つが、桃香の心を、甘く、そして、少しだけ切なく、揺さぶる。
(……好きだなあ)
ある日の夕暮れ。
一人、自室の机で、完成したデザイン画を眺めながら、桃香は、胸の奥から込み上げてくる、そのどうしようもない気持ちに、深いため息をついた。
夏祭りの夜、恋人繋ぎをしてくれた、彼の手の感触。
今でも、はっきりと、思い出せる。
私たちの関係って、なんだろう。付き合っては、いない。でも、ただの友達、でもない。
(樹くんは、どう思ってるのかな……)
告白、してくれればいいのに。
そう、思った瞬間、桃香は、ぶんぶんと、頭を振った。
(ダメダメダメ!何、考えてるの、私!)
今は、そんなことを考えている場合じゃない。一ヶ月後には、全国大会。私たちの、最後の挑戦が待っている。
恋愛なんて、浮かれた気持ちは、邪魔になるだけだ。集中しなくちゃ。
そう、自分に言い聞かせれば、聞かせるほど。
「……でも、やっぱり」
もし、この大会が終わったら。
全部、終わったら。
彼は、何か、言ってくれるだろうか。
揺れ動く、乙女心。
桃香は、ぎゅっと、デザイン画を胸に抱きしめた。
そこに描かれているのは、二人の思い出の結晶。そして、まだ見ぬ未来への、設計図。
今は、ただ、この「宝物」を、世界で一番、美しい形にすることだけを考えよう。
桃香は、そう、心に誓うのだった。
◇
:樹の独白
あの夏祭りの日。
俺は、生まれて初めて、神様に感謝したかもしれない。
七海からの電話がなければ、俺は、彼女を誘う勇気なんて、一生持てなかっただろうから。
桜木町の改札前。
人混みの中に、あいつを見つけた瞬間、俺は、息をすることを忘れた。
水色の浴衣。
いつもと違う、結い上げた髪。
夕暮れの光に照らされた、白い、うなじ。
言葉なんて、出てくるはずがなかった。「綺麗だ」と、たったそれだけを口にするので、精一杯だった。本当は、心臓が、うるさくて、張り裂けそうだったのに。
人混みの中、彼女の手を掴んだのは、ほとんど無意識だった。
いや、違うな。
あれは、言い訳だ。
ただ、触れたかった。彼女が、誰かに押されて、俺の手の届かないところへ行ってしまうのが、怖かった。
春休みの時とは、違う。あの時は、ためらった。だが、今は、もう、ためらうことなんてできなかった。
繋いだ手は、思ったよりも、ずっと小さくて、柔らかかった。
俺なんかが、触れてもいいんだろうか。
そんなことを考えているうちに、花火が上がった。
夜空に咲く、光の花を見上げる、あいつの横顔。
その瞳に、色とりどりの光が映って、キラキラと輝いている。
その、あまりにも無防備な横顔を見ていたら、もう、ダメだった。
気づいた時には、俺の指は、あいつの指に、するりと滑り込んでいた。
恋人繋ぎ。
雑誌で読んだことがあるだけの、その繋ぎ方。
拒絶されたら、どうしよう。気持ち悪いと、思われたら。
心臓が、痛いくらいに鳴っていた。
でも、あいつは、応えるように、きゅっと、その手を握り返してくれた。
その瞬間、俺の中で、何かが、決まった気がした。
「宝物」
決勝のテーマを聞いた時から、俺の頭の中には、もう、答えはあった。
雨の日の、しずく。
クリスマスの、夜空。
初詣の、生姜湯。
関東大会の、情熱の赤。
そして、今、この瞬間の、花火。
夏山桃香と出会ってからの、全ての記憶。それこそが、俺の、たった一つの、宝物だ。
あいつは、俺の技術を褒めてくれる。だが、本当は、それすらも俺一人のものじゃないんだ。
俺が思いつく味の組み合わせも、食感も、全て、あいつとの記憶から生まれている。
俺一人では、何も、生み出すことなんてできない。
あいつがいて、初めて、俺は、本当の意味でパティシエになれるんだ。
『好きだ。』
その、たった一言が、どうしても、言えない。
言いたい。今すぐにでも、この気持ちを、全部、伝えてしまいたい。
でも、ダメだ。
今は、ダメだ。
俺たちの前には、全国大会がある。俺たちの、最初で最後の、夢の舞台だ。
俺の、個人的な感情で、あいつの集中を乱すわけにはいかない。
最高のパートナーとして、最高のケーキを作ること。それが、今の俺が、あいつのためにできる、唯一のことだ。
だから、今は、この気持ちに、蓋をする。
全部、終わったら。
俺たちの夢を、最高の形で、叶えられたら。
その時は、必ず、伝えよう。
俺の、本当の宝物は、お前なんだと。
LINEで送った、『手、温かかった』という、たった一言。
あれが、今の俺の、精一杯の、告白だった。
ご一読いただきありがとうございます!
思った以上に読んでくださる方がいて、とても嬉しいです。
もっと楽しんでもらえるように頑張りたいと思います。
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