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【完結】そのケーキのレシピ、俺が本物にするよ ~不器用な天才パティシエと、私だけの夢の設計図~  作者: 坂道 昇


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18/22

17 恋人繋ぎの夜

八月、第一土曜日。


暦の上では秋の始まりが近いというのに、横浜の街は、まるで巨大なオーブンの中にいるかのような、うだるような熱気に包まれていた。


全国大会決勝は、九月の下旬。 まだ一ヶ月以上の時間がある。だが、テーマである『宝物』が、あまりにも壮大で、あまりにも抽象的で、二人のアイデア出しは完全に行き詰まっていた。


「……宝物、宝物って言われてもなあ……」


春石家のキッチンで、冷たい麦茶の入ったグラスの表面を指でなぞりながら、桃香は深いため息をついた。

テーブルの上には、彼女のクロッキー帳が開かれている。だが、そのページは、ほとんど真っ白なままだった。

ダイヤモンド、王冠、宝石箱。そんな、ありきたりで、心のこもらないモチーフが、描いては消され、また描かれては消されている。


「焦るな。時間はまだある」


樹は、専門書をめくりながら、冷静に言う。だが、彼のページをめくる指も、どこか苛立ちを隠せないでいた。


そんな膠着状態を破ったのは、一本の電話だった。相手は、親友の七海から。


『もしもし、桃香?あんたたち、どうせまた二人で煮詰まってるんでしょ』


スピーカーフォンから聞こえてくる、快活な声。


『今夜、みなとみらいで花火大会があるんだけど、気分転換に二人で、行ってみたらどう?新しいもの見ないと、アイデアも枯渇するわよ』


花火大会。その言葉に、桃香の心が、ふわりと浮き立った。


「……樹くん」


おずおずと、隣に座る彼の横顔を伺う。


「行ってみ、ないかな……?何か、ヒントが見つかる、かも……しれないし」


それは、半分は本心で、もう半分は、ただ、彼と出かけたいという、ささやかな願望だった。

樹は、専門書から顔を上げると、一瞬だけ考え込むような素振りを見せ、そして、驚くほど、あっさりと頷いた。


「……分かった。行こう」


彼がそれほどすぐに頷くとは思っていなかった桃香は、思わず目を丸くした。



その日の夕方。


夏山家の、決して広くはないけれど、陽当たりの良いリビングでは、クローゼットの奥から引っ張り出された桐の箱を前に、母娘が真剣な顔で向かい合っていた。


「お母さん、本当にこれ、借りちゃっていいの……?」


「いいのよ。この浴衣は、お母さんがあなたくらいの年の頃に、おばあちゃんが仕立ててくれたものなの。今のあなたに、きっとよく似合うわ」


桃香の目の前には、淡い水色地に、白や紫の朝顔が、涼やかに咲き乱れる一枚の浴衣が、静かに広げられていた。それは、桃香がまだ幼い頃、母が一度だけ夏祭りで着ていた、思い出の浴衣だった。


「でも、帯が……結べないよ」


「ふふ、任せなさい。お父さんとの初デートで、おばあちゃんに特訓させられたんだから」


母は、懐かしそうに目を細めると、慣れた手つきで、深紫色の帯を、桃香の細い腰に巻いていく。きゅっ、きゅっ、と絹が擦れる心地よい音。


鏡の前に立った自分の姿に、桃香は息を呑んだ。


いつも見慣れている、子供っぽい自分が、そこにいない。少しだけ、知らない、大人びた女性が、戸惑ったように、こちらを見つめている。


母が、仕上げに、桃香の髪を、ふわりと夜会巻きに結い上げていく。白い、小さな花の簪かんざしが、数本差された。


「……綺麗よ、桃香」


母の、その心からの言葉に、桃香の胸が、熱くなる。


(樹くんは、どう思うかな……。変だって、思わないかな。子供っぽいって、笑わないかな)


期待と不安が、胸の中で、ぐるぐると渦を巻いていた。



一方、その頃。春石家では。


「……で?あんたは、そのTシャツとジーパンで行くつもり?」


自室で準備をする樹の背後から、呆れたような姉・碧の声が飛んできた。


「別にいいだろ。祭りなんだから、動きやすい方が」


「だーめ。桃香ちゃんは、きっと、浴衣で来るわよ。隣に立つ男が、そんな普段着じゃ、釣り合わないでしょ」


碧は、有無を言わさず、樹のクローゼットを開けると、中から、紺色の、涼しげな生地の甚平じんべいを引っ張り出した。


「ほら、これ着なさい。こっちの方が、百倍マシよ」


「……面倒くさい」


口ではそう言いながらも、樹は素直にそれに袖を通した。普段とは違う、少しだけ特別な服装に、落ち着かない心臓が、どきどきと鳴っている。


(……手、繋げるだろうか)


春休みの、あの日の記憶が蘇る。繋いだ手の、温かさ。彼女の、驚いたような、でも、嬉しそうな顔。

一度、経験したことがある。だからこそ、二度目は、もっと、勇気がいる。



約束の、午後六時。桜木町駅の改札前。


先に着いた樹は、壁に寄りかかり、意味もなくスマホの画面を眺めていた。


(……まだ、か)


人波の中から、彼女の姿を探す。その時だった。


カラン、コロン。


軽やかで、涼やかな音が、耳に届いた。

顔を上げると、そこに、彼女がいた。


夕暮れの光の中で、淡い水色の浴衣を纏った夏山桃香が、少しだけはにかむように、立っていた。

結い上げた髪から覗く、白い、華奢なうなじ。

いつもと違う、少しだけ伏せられた、長いまつげ。

鼻緒を慣れない様子で掴む、小さな足。


その、あまりの美しさに、樹は、時間が止まったかのような錯覚に陥った。言葉が、出ない。思考が、完全に停止する。


「……お待たせ。変、かな?やっぱり、派手だったかも……」


不安そうな彼女の声に、樹は、はっと我に返った。

そして、ほとんど無意識に、口を開いていた。


「……いや」


「すごく、綺麗だ」


それは、初詣の日のように、義務感から絞り出した言葉ではなかった。心の中から、何の抵抗もなく、自然に、こぼれ落ちた本心だった。

その、あまりにもストレートな言葉に、今度は、桃香が、顔を真っ赤にして固まってしまう番だった。


祭りの会場へと続く道は、すでに、たくさんの人々でごった返していた。

りんご飴の甘い匂い、イカ焼きの香ばしい香り。腹に響く、太鼓の音。


「わあ……すごい人……!」


桃香が、きょろきょろと周りを見回した、その瞬間。

ぐっ、と後ろから、人の波が押し寄せた。


「わっ!」


よろけた桃香の体が、誰かにぶつかる前に。

すっ、と隣から伸びてきた大きな手が、ためらいなく、彼女の小さな手を掴んでいた。

春休みの日のように、逡巡する時間はなかった。ほとんど、反射だった。彼女を守らなければ、という、本能的な衝動。


「……っ!」


桃香の肩が、驚きに小さく跳ねる。

でも、すぐに、その大きな手に、自分の指を、そっと絡めた。温かい。安心する。


「……ありがとう」


人混みの喧騒に紛れて、桃香が、小さな声で呟いた。樹は、何も言わずに、ただ、その手を、少しだけ、強く握り返した。


手を繋いだまま、二人は、祭りの喧騒の中を、ゆっくりと進んでいく。


桃香は、ふわふわとしたかき氷を、樹は、あまり乗り気ではなさそうに、でも、桃香に勧められるがままに、チョコバナナを。


射的の屋台の前で、桃香が「あれ、可愛い!」と、ガラス細工の小さな風鈴を指差した。

樹は、何も言わずに、店の主人からコルク銃を受け取ると、一度だけ、すうっと息を吸った。


パンッ、という乾いた音。


一発で、的のど真ん中を撃ち抜いた。驚く主人と、目をまんまるくしている桃香を尻目に、彼は、こともなげに、二発目、三発目と、的を倒していく。

彼の、あの神がかった集中力。ケーキ作りの時と同じ、鋭い瞳。


「……はい」


景品の風鈴を、少し照れくさそうに、桃香に差し出す。

チリン、と澄んだ音が、夏の夜に涼やかに響いた。桃香は、宝物を受け取るように、それを両手で、大切に受け取った。


やがて、花火の打ち上げ時間が近づき、人々が、ぞろぞろと港の見える丘公園の方へと移動し始める。

二人は、少しだけ喧騒から離れた、芝生の斜面を見つけ、そこに、並んで腰を下ろした。

眼下には、横浜港の、宝石をちりばめたような夜景が広がっている。


「……綺麗だね」


「ああ」


まだ、手は、繋いだままだった。


「……宝物って、なんだろうね」


桃香が、ぽつりと呟いた。手の中にある、ガラスの風鈴を、そっと撫でながら。


「ダイヤモンドとか、お金とか、そういうのじゃ、ないのはわかるんだけど……」


樹は、何も答えない。ただ、黙って、彼女の言葉に耳を傾けている。

その、時だった。


ヒュルルルル……


細い笛のような音と共に、夜空に、一筋の光が昇っていく。

そして。


ドンッ!!!


空いっぱいに、大きな、大きな、菊の花が咲いた。

一瞬の静寂。そして、遅れてやってくる、腹の底に響き渡る、重い音。


「わああ……!」


桃香が、歓声を上げる。

次々と、色とりどりの光の花が、夜空という名のキャンバスを彩っていく。赤、青、緑、金。その度に、二人の横顔が、幻想的な光に照らし出された。


繋いだままの、二人の手。

桃香は、ふと、その手に、微かな、しかし、確かな変化を感じた。

樹の指が、ゆっくりと、自分の指の間に、するりと、滑り込んでくる。そして、ためらいがちに、でも、確かに、ぎゅっと、指を絡めてきた。


恋人繋ぎ。


桃香の心臓が、今、打ち上がった花火よりも、ずっと、ずっと、大きな音を立てた。


顔が、熱い。


でも、暗くて、きっと、彼には見えていないはずだ。

桃香も、応えるように、その手に、きゅっと力を込めた。


花火が、上がるたびに、世界から、音が消える。

隣にいる、彼の体温と、繋がれた手のひらの感触だけが、世界の全てだった。


「……綺麗だけど」


ひときわ大きな、柳の花火が、空から降り注ぐのを見ながら、桃香が呟いた。


「……すぐ、消えちゃうね」


その、少しだけ寂しげな声に、樹が、静かに答えた。


「……消えるから、忘れないように、ちゃんと見ておくんだろ」


その言葉に、桃香は、はっとした。


そうだ。


消えてしまうから、美しい。

一瞬の輝きだからこそ、その記憶は、永遠に心に刻まれる。


手の中にある、ガラスの風鈴。

夜空に咲いては消える、光の花。

そして、今、この瞬間。

繋がれた手のひらの、温かさ。

隣にある、彼の横顔。


(……そっか)


桃香の頭の中に、今まで見えなかった、一つの答えが、確かな形となって、浮かび上がった。


(宝物って、形あるものじゃないんだ)


(この、一瞬一瞬の、キラキラした記憶。それこそが、私の……ううん、私たちの、宝物なんだ)


花火が終わる頃には、桃香の心は、不思議なほどの、静かな確信に満ちていた。


帰り道。


祭りの喧騒が、嘘のように遠ざかっていく。

二人は、黙って、駅までの道を歩いていた。


恋人繋ぎのままの、その手だけが、二人の間に流れる、甘い空気の、唯一の証拠だった。

改札で、名残惜しそうに、その手を解く。


「……ありがとう、今日。すごく、楽しかった」


「……ああ。俺もだ」


「風鈴、大事にするね」


「うん」


言葉は、少ない。でも、それで、十分だった。



その夜。


それぞれの部屋で、二人は、同じ夜空を見上げていた。

桃香のスマホに、樹から、短いメッセージが届く。


『樹:花火、綺麗だったな』


『桃香:うん。すごく。連れてきてくれて、ありがとう』


『樹:……手、温かかった』


その、最後のメッセージに、桃-香は、ベッドの上で、声を殺して、悶絶した。


そして、机に向かうと、真っ白なクロッキー帳を開く。


もう、迷いはなかった。


鉛筆を握りしめ、彼女は、一気にデザインを描き始めた。

夜空に咲く、儚く、そして、美しい、一瞬の輝き。

二人で見つけた、最高の「宝物」の、設計図を。


二人の、高校時代最後の夏は、まだ、始まったばかりだ。

ご一読いただきありがとうございます!

思った以上に読んでくださる方がいて、とても嬉しいです。

もっと楽しんでもらえるように頑張りたいと思います。

今後の励みになりますので、ぜひページ下のいいねボタンで応援してください。

よろしくお願いします(^O^)/

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