約束の花、咲く
三時間に及ぶ死闘が終わり、清掃と審査のために設けられた一時間のインターバルの後。
再びホールに集められた二十校の選手たちは、誰もが固い表情で、ステージの壇上を見つめていた。
あれだけ熱気に満ちていた会場は、今は水を打ったように静まり返り、張り詰めた緊張感が支配している。
選手たちのコックコートには、戦いの跡である疲労の色が滲んでいた。
桃香は、ぎゅっと強く手を握りしめ、必死に平静を装っていた。隣に立つ樹は、先程の激闘が嘘のように、静かな表情で正面を見据えている。
ステージ脇のテーブルには、各チームが三時間の全てを注ぎ込んで作り上げた二十台のホールケーキが、照明を浴びて並べられている。
自分たちの『約束 〜茨の道の先に〜』は、他のケーキと比べると、少しだけ形が不格好に見えた。トラブルのせいで、ムースのエッジには僅かな乱れがある。
完璧なシンメトリーを描く自由が丘調理学校のケーキの隣では、まるで乱雑に咲く、野花のようだった。
(……ダメ、かな)
弱気な心が、鎌首をもたげる。
あれだけ頑張った。樹くんが、あんなにすごい力を見せてくれた。でも、結果が伴わなければ、意味がない。
祈るような気持ちで、桃香は壇上を見つめた。
やがて、審査員長の柏木遼平が、マイクの前に立った。
「皆さん、三時間、本当にお疲れ様でした。どの作品も、皆さんの情熱が伝わってくる、素晴らしいものでした。ですが、勝負は勝負。これより、結果を発表します」
静かな声が、ホールに響き渡る。
「まずは、各賞の発表です」
司会者が、柏木から受け取った封筒を、ゆっくりと開封した。
「敢闘賞は、埼玉県代表、川越農業高校!」
名前を呼ばれたペアが、驚いたように顔を上げ、深々と頭を下げた。会場から、温かい拍手が送られる。
「続きまして、努力賞は、千葉県代表、成田国際調理専門学校!」
「審査員特別賞は、栃木県代表……」
次々と、賞が発表されていく。だが、その中に、『横浜海星高校』の名前は、一度も呼ばれることはなかった。
賞が発表されるたびに、桃香の心臓は、氷水に浸されたように冷たくなっていく。
(……もう、ダメかも)
賞にも、何も入らなかった。私たちのケーキは、やっぱり、評価されなかったんだ。トラブルを乗り越えたなんて、ただの自己満足で、審査員には、ただの出来の悪いケーキにしか見えなかったんだ。
ぎゅっと、目を瞑る。込み上げてくる涙を、必死に堪えた。隣に立つ樹の、固く握られた拳が、視界の端に映る。
「……それでは、いよいよ、全国大会への出場権が与えられる、上位二校の発表に移ります」
司会者の声に、会場の緊張が、最高潮に達した。
桃香は、もう、顔を上げることができなかった。ただ、俯いて、床の一点を見つめる。
(お願い、お願い、お願い……!)
誰にともなく、心の中で、何度も、何度も、祈った。
「まず、準優勝の発表です!全国大会、一つ目の席は……!」
ドラムロールが、心臓を直接叩くように、大きく響き渡る。
もう、桃香の耳には、何も入ってこなかった。ただ、自分の心臓の音だけが、うるさいくらいに響いている。
(ダメだ……準優勝でも、呼ばれないに決まってる……やっぱり、私たちのケーキは……)
(樹くん、ごめん……。私のせいで、夢、壊しちゃった……)
唇を噛み締め、涙がこぼれ落ちるのを、ただ、待っていた。
「準優勝は——」
一瞬の、永遠にも思えるほどの、静寂。
「神奈川県代表、横浜海星高等学校!!」
その名前が、ホールに響き渡った瞬間。
桃香は、自分の耳を疑った。
(……え?今、なんて……?)
ゆっくりと顔を上げる。ステージ上のスクリーンに映し出された、自分たちの高校名と、二人の名前。
夢じゃない。
現実だ。
「……やった……」
隣で、樹が、絞り出すような声で呟いた。
その声で、桃香の思考が、ようやく現実へと追いついた。
「やった……」
小さな、呟き。
そして、次の瞬間。
「やったああああああああああああああーーーーーっ!!!!」
桃香は、今まで出したこともないような大声で叫ぶと、隣に立つ樹の腕を、両手で、力一杯掴んだ。
「樹くん!樹くん!やったよ!私たち、二位だよ!全国だよ!!!」
ぴょんぴょんと、その場で飛び跳ねる。もう、周りの目など、気にならなかった。
「ああ……っ、ああ……!」
樹も、驚きと、込み上げてくる歓喜で、言葉にならない声を漏らしている。
桃香は、弾けるような笑顔で、樹の顔を見上げた。
そして、気づいた。
彼の、いつもは冷静なその瞳が、赤く潤んでいる。
必死に、堪えている。唇を、ぐっと引き結び、涙がこぼれ落ちないように、瞬きもせず、正面のスクリーンを、ただ、じっと見つめている。
その表情を見た瞬間、桃香の喜びは、少しだけ違う種類の、温かい感情へと変わっていった。
(……樹くんも、泣いてる)
いつもは、クールで、ポーカーフェイスで。
でも、本当は、誰よりも、この勝利を、渇望していた。
桃香は、掴んでいた彼の手を、今度は、そっと、自分の指と絡め合わせた。ぎゅっと、強く、握り返してくる、彼の大きな手。その温かさが、二人の勝利を、何よりも雄弁に物語っていた。
観客席は、涙と歓声に包まれていた。
「やったあああ!」
「桃香ー!樹ー!」
七海と梨香は、抱き合って、わんわんと泣いている。碧も、手で顔を覆いながら、その肩を震わせていた。
桃香の母は、ハンカチで何度も目元を拭い、嗚咽を漏らしている。
そして、樹の両親は。
母は、静かに涙を流し、父は、腕を組んだまま、一度だけ、深く、深く、頷いた。その厳格な表情が、ほんの少しだけ、誇らしげに、和らいで見えた。
やがて、一位である自由が丘調理学校の発表が終わり、表彰式が執り行われた。
最後に、審査員長の柏木が、総評のために、再びマイクの前に立った。
「一位、二位の作品は、甲乙つけがたい、素晴らしいものでした。特に、二位の横浜海星高校の作品、『約束 〜茨の道の先に〜』。この作品には、審査員一同、深く、心を動かされました」
柏木は、ステージ袖に立つ樹と桃香に、温かい視線を送った。
「まず、そのデザイン。苦難を乗り越えた先にある希望、という物語性が、見事に表現されていた。ほろ苦いチョコレートの土台、情熱的なベリーのジュレ、そして、それらを優しく包み込むムースと、未来を暗示する純白のクリーム。味の構成も、その物語を完璧に裏付けていました」
桃香の胸が、熱くなる。自分のデザインが、最高の形で評価された。
そして、柏木は、言葉を続けた。
「そして、何より、我々が評価したのは、その『実現性』です」
その言葉に、樹の肩が、微かに揺れた。
「正直に言います。この作品には、いくつか、技術的な苦戦の跡が見られました。ムースの層の僅かな乱れ、グラサージュの温度。おそらく、何らかの大きなトラブルに見舞われたのでしょう。しかし」
柏木は、そこで一度、言葉を切ると、強い口調で言った。
「そのトラブルを乗り越え、これだけのクオリティの作品を、制限時間内に完成させた。その精神力と、咄嗟の判断で代替案を構築し、実行に移せるだけの、極めて高い技術力。それこそが、我々が最も高く評価した点です。デザインという『理想』を、アクシデントという『現実』の中で、決して諦めず、形にしきった。その力は、全国の舞台でも、必ずや通用するでしょう。おめでとう」
その、万感の想いが込められた言葉。
それは、桃香のデザインと、樹の技術、二人で一つの、完璧な勝利宣言だった。
桃香は、隣に立つ樹の横顔を、そっと盗み見た。
彼は、もう、涙を堪えてはいなかった。
その頬を、一筋だけ、透明な雫が、静かに伝っていく。
それは、長年、一人きりで戦い続けてきた少年が、最高のパートナーと共に、初めて手にした、何よりも、甘い、勝利の味だった。
◇
表彰式の興奮が冷めやらぬホールは、閉鎖的な緊張感から一転、華やかで、そして温かい祝祭の空気に満たされていた。
各ブースの前に置かれた二十台のケーキは、もはや競い合うための作品ではなく、それぞれのチームの健闘を称えるための記念碑のように輝いている。
やがて、観客席との間のロープが外されると、選手たちの健闘を祈っていた家族や友人たちが、一斉にフロアへと降りてきた。
「桃香ー!樹ー!」
涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、七海と梨香が真っ先に二人の元へと駆け寄ってくる。その後ろから、目を真っ赤に腫らした碧も、静かに続いていた。
「おめでとおおおお!もう、心臓止まるかと思った!」
「二人とも、本当にかっこよかった……!」
口々に、しかし心の底からの称賛の言葉をくれる友人たち。その輪に、両家の家族も加わった。
「桃香、よく頑張ったわね……。お父さんも、きっと、喜んでるわ」
母のその言葉に、桃香は、また涙がこみ上げてくるのを必死で堪えた。
樹の父は、何も言わずに、ただ息子の肩を、ポン、と一度だけ力強く叩いた。その無言の、しかし何よりも雄弁な一打に、樹の表情が、ほんの少しだけ、和らいだ。
やがて、スタッフの手によって、各チームのケーキが、試食用に小さく切り分けられていく。
七海たちが、自分たちのケーキが乗せられた紙皿を手に、わくわくした顔で戻ってきた。
「じゃーん!これが、あの奇跡のケーキね!」
「いただきます!」
七海が、一口、フォークで掬って口に運ぶ。そして、目を、大きく、大きく見開いた。
「…………おいっっっし……!」
その、あまりにもストレートな感想に、思わず笑みがこぼれる。
「本当だ……。チョコレートのほろ苦さと、ピスタチオの優しいコク、それに、このベリーの酸味が……すごい、全部がちゃんと意味のある味がする……」
碧が、専門家のように味を分析しながら、その瞳を潤ませている。
「うん……。すごく、優しい味がする……」
梨香も、小さな声で、そう呟いた。
みんなが、美味しい、美味しいと言ってくれる。
その言葉の一つ一つが、傷ついた心に沁みわたる、甘いシロップのようだった。
そして、桃香も、小さなフォークを手に取った。
自分がデザインし、樹と共に、命を吹き込んだケーキ。
そっと、一口、口に含む。
その瞬間。
三時間の、あの壮絶な記憶が、味覚となって、一気に全身を駆け巡った。
最初に感じる、チョコレートサブレの、力強いほろ苦さ。
それは、絶望の淵に立たされた、あの瞬間の味。
次に広がる、ピスタチオのムースの、穏やかで、優しい甘み。
それは、鬼神となって自分を救ってくれた、樹くんの、あの背中の温かさの味。
そして、舌の上で弾ける、ベリーのジュレの、鮮烈で、情熱的な酸味。
それは、絶対に諦めないと誓った、二人の魂の叫びの味。
最後に、全てをふわりと包み込む、フロマージュブランのクリーム。
それは、掴み取った未来への、希望の味。
全ての味が、口の中で一つに溶け合っていく。
(……ああ、そっか)
これは、ただ、美味しいだけのケーキじゃない。
私たちの、三時間の全てが詰まった、物語なんだ。
桃香の瞳から、また、涙がこぼれ落ちた。
でも、それは、もう悔しさや不安の涙ではなかった。
幸せな、どこまでも幸せな、涙だった。
顔を上げると、樹が、じっと、こちらを見ていた。彼もまた、小さなケーキのかけらを口に運び、静かに、その味を噛み締めている。
その潤んだ瞳と視線が合い、二人は、どちらからともなく、ふっと、笑い合った。
◇
その日の夜。
自室のベッドの上で、桃香は、今日の大会で授与された、銀色のメダルを、ぼんやりと眺めていた。
ひんやりとした金属の重みが、まだ、夢じゃないんだと教えてくれる。
壁に貼られた、たくさんのデザイン画。その中に、今日、命を吹き込まれた『約束 〜茨の道の先に〜』のスケッチもあった。
(……次の、デザイン、考えなくちゃ)
ぼんやりと、そんなことを考えていると、枕元のスマートフォンが、ぶぶ、と短く震えた。
画面に表示されたのは、『樹くん』。
慌てて、LINEのトーク画面を開く。
『樹:今日はお疲れ。すごかったな。』
その、あまりにも短い、彼らしいメッセージに、桃香の口元が自然と綻んだ。
『桃香:樹くんこそ、本当にお疲れ様!ほんっとうにすごかったよ!鬼神みたいだった!』
すぐに、既読の文字がつく。
『樹:お前がいたからだろ。』
その、素直じゃない、でも、最高の賛辞に、胸がきゅんとなる。
桃香は、にこやかに笑うクマのスタンプを送った。
『桃香:そういえば、会場で発表された全国大会のテーマ、「宝物」だったね。』
『樹:ああ。』
『桃香:今度は、どんなケーキにしようかな。なんだか、ワクワクしない?樹くんにとっての宝物って、なあに?』
そう送ってから、少しだけ、踏み込みすぎた質問だったかもしれない、とドキリとする。
数秒。既読のまま、返信がない。
やっぱり、困らせちゃったかな、と思った、その時。
『樹:…考えとく。』
その、ぶっきらぼうな、でも、誠実な返事に、桃香は、また、笑ってしまった。
『桃香:うん!また明日から、一緒に頑張ろうね!』
『樹:ああ。おやすみ。』
『桃香:おやすみなさい。』
短いやり取りを終え、桃香は、再びメダルに視線を落とした。
(宝物、か……)
全国大会出場という、大きな宝物は手に入れた。
でも、本当の宝物を探す旅は、まだ始まったばかりなのかもしれない。
今はまだ、その答えが何なのか、桃香には、まったく想像がつかなかった。
ご一読いただきありがとうございます!
思った以上に読んでくださる方がいて、とても嬉しいです。
もっと楽しんでもらえるように頑張りたいと思います。
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