10800秒の死闘
『スタートです!』
号令と共に、ホール全体に設置されたデジタル時計の赤い数字が、無情にもカウントダウンを始めた。
3時間。180分。10800秒。
その、あまりにも短く、そしてあまりにも長い戦いの火蓋が、切って落とされた。
スタート直後の春石樹と夏山桃香の動きは、まるで精巧な機械のように、完璧な調和を見せていた。
「樹くん、まずはビスキュイから。オーブンの予熱は180℃でお願い!」
「ああ」
「その間に、私はジュレ用のベリーをピュレにする。冷凍庫から出すタイミング、指示してね!」
「了解」
桃香が司令塔となり、全体の工程を管理しながら、細かな下準備を進める。樹は、その指示を完璧に理解し、寸分の狂いもない動きで、製菓の根幹となる作業を遂行していく。
卵を割り、メレンゲを立て、粉類を混ぜ合わせる。その一連の動作には、一切の淀みがない。長年、たった一人で磨き上げてきた彼の技術が、今、桃香という最高の指揮者を得て、その真価を遺憾なく発揮していた。
キッチンブースには、小気味良い泡立て器の音と、ボウルが作業台に当たるリズミカルな音だけが響く。オーブンから漂い始める、アーモンドとバターの甘く香ばしい匂い。それは、二人の順調な滑り出しを祝福しているかのようだった。
観客席の二階から、七海と碧、そして梨香は、固唾を飲んでその様子を見守っていた。
「……すごい。息ぴったりじゃん」
七海が、感心したように呟く。
「ええ。桃香ちゃんの的確な指示と、うちの弟の技術。あれが、あの二人の最強の形よ」
碧もまた、満足げに頷いた。
その視線の先、数台離れたブースでは、今大会の優勝候補と目される、自由が丘調理学校のペアが、静かな、しかし圧倒的な存在感を放っていた。
彼らの動きは、樹たちのそれとはまた違う種類の完璧さを持っていた。会話は、ほとんどない。アイコンタクトだけで、次に行うべき作業を寸分違わず理解し、寸分の狂いもなく実行していく。その姿は、まるで長年連れ添った熟練の職人同士のようだった。
彼らが作っているのは、チョコレート細工を駆使した、極めてモダンで、建築物のように複雑なデザインのケーキだった。その手際の良さ、そして何より、一切の緊張を感じさせない落ち着き払った佇まいは、王者だけが持つ風格を漂わせている。
だが、今の樹と桃香には、他のチームを気にする余裕などなかった。自分たちのケーキ、『約束 〜茨の道の先に〜』を、完璧な形で完成させる。ただ、その一点に、全神経を集中させていた。
作業は、計画通り、いや、計画以上に順調に進んでいった。
ビスキュイが完璧に焼きあがり、ピスタチオのムースも、理想的な滑らかさに仕上がっていく。
競技開始から、一時間が経過しようとしていた、その時だった。
「よし、樹くん!ムースを一度、急速冷凍庫ブラストチラーに入れて、固めるよ!」
「ああ」
桃香の指示で、樹は出来上がったばかりのムースを型に流し込み、設定温度マイナス40℃の急速冷凍庫の扉を開けた。
次の工程は、このムースが固まるまでの間に、中心に隠すベリーのジュレを仕上げること。すべては、桃香の頭の中にある、完璧なタイムスケジュール通りに進むはずだった。
「……ん?」
冷凍庫に入れた樹が、不意に、怪訝な声を上げた。
「どうしたの?」
「……いや、なんでもない」
樹は、冷凍庫の扉を閉めると、すぐにジュレの準備に取り掛かった。だが、その眉間には、微かな、しかし消えない疑念の皺が刻まれている。
桃香は、その小さな変化に気づきながらも、「大丈夫」と自分に言い聞かせ、作業を続けた。
五分後。
「そろそろ、ムースの表面が固まった頃かな。一度、様子を見てみよう」
桃香は、そう言うと、自ら急速冷凍庫の、重いステンレスの扉に手をかけた。
そして、その中を見た瞬間。
桃香の全身から、すうっと血の気が引いていくのが分かった。
「…………え?」
そこにあるはずの光景が、なかった。
表面が白っぽく凍り始め、指で触れてもつかないくらいに固まっているはずのムースが、型に流し込まれた時と、ほとんど変わらない、液状のまま、静かに揺れている。
冷凍庫の中の温度計が示す数字は、マイナス5℃。設定温度には、到底届いていない。
「……うそ……」
何度か瞬きをする。夢じゃない。これは、現実だ。
「どうした」
樹が、異変を察知して駆け寄る。桃香と同じ光景を見た彼の表情も、一瞬で険しいものに変わった。
「……故障、か」
何らかのトラブルで、急速冷凍庫が、その機能を果たしていない。
ケーキの層を短時間で固め、美しい断面を作り出すための、心臓とも言える機材の、致命的な故障。
その事実を認識した瞬間、桃香の頭の中が、真っ白になった。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう!!!!)
今まで完璧に組み立ててきたタイムスケジュールが、砂の城のように、音を立てて崩れ落ちていく。
このままでは、ムースが固まらない。ジュレを乗せられない。次の層を重ねられない。デコレーションをする時間も、なくなる。
(無理、もう、間に合わない……!)
パニックに陥った桃香の動きは、見るからにそれまでの滑らかさを失っていた。
「な、何か、何かしないと……!あ、氷!氷で冷やせば……!」
あたふたと、製氷機から氷をボウルに掻き出すが、その手は震え、半分以上を床にぶちまけてしまう。
「わ、ご、ごめんなさい……!」
「落ち着け、桃香!」
樹の制止の声も、もう彼女の耳には届いていない。完全に、司令塔としての機能を失っていた。
その様子は、観客席からも見て取れた。
「……おい、どうしたんだ、あの子」
「手が、止まってる……いや、震えてるぞ」
「何か、トラブルか?」
ざわつく観客席。七海と碧も、顔を見合わせた。
「桃香……」
「……まずいわね。完全にパニックに陥ってる」
絶望が、黒い霧のように桃香の心を覆い尽くしていく。
(私のせいだ。私が、もっと早く、異変に気づいていれば……。私が、もっとしっかりしていれば……)
涙が、滲み始める。もう、終わりだ。私たちの夢は、ここで、終わるんだ。
桃香が、その場に立ち尽くした、その時だった。
「――桃香」
静かで、しかし、有無を言わさぬ、強い声だった。
はっと顔を上げると、そこにいたのは、今まで見たこともない春石樹の姿だった。
彼の瞳には、焦りも、絶望も、一切の色がない。そこにあるのは、氷のように冷たく、そして鋼のように硬い、絶対的な集中力だけだった。
「……今から、プランを変更する。俺の言う通りに動け。いいな」
有無を言わさぬ、命令。
桃香は、ただ、こくりと頷くことしかできなかった。
「ブラストチラーはもう使うな。氷と塩を用意しろ。ボウルを二重にして、氷塩水で冷却する。温度はマイナス21℃まで下がる。それで、ムースの粘度を上げる」
「う、うん!」
「ジュレは、通常よりゼラチンの量を1.5倍に増やせ。凝固時間を短縮する。アガーも少量加えるぞ。常温でも固まるはずだ」
「わ、わかった!」
矢継ぎ早に飛んでくる、的確すぎる指示。それは、彼の頭の中にある、膨大な知識と経験の引き出しが、瞬時に最適解を導き出した証拠だった。
樹の動きは、神がかっていた。
彼の両手は、まるでそれぞれが独立した生き物のように、寸分の狂いもなく、二つ、三つの作業を同時にこなしていく。
左手で氷塩水をかき混ぜてムースの温度を下げながら、右手ではジュレ用のゼラチンを完璧なタイミングでふやかす。その視線は、ボウルの中のムースの粘度の変化を、コンマ1秒単位で見極めている。
普段の彼からは想像もつかない、鬼気迫るほどの集中力。それは、長年、誰にも見られず、誰にも褒められず、たった一人で自分の聖域にこもり、ひたすらに技術を磨き続けてきた者だけがたどり着ける、孤高の領域だった。
観客席で、その光景を見ていた碧の瞳から、一筋の涙が、すうっと頬を伝った。
(……あんた、ずっと、一人で、こんな風に戦ってきたのね)
誰にも見せなかった情熱。誰にも言えなかった苦悩。そのすべてが今、凝縮され、爆発的な力となって、目の前で輝いている。
七海も、梨香も、言葉を失っていた。
いつもは桃香をからかっている二人の目にも、熱いものがこみ上げてくる。
(春石くん……すごい……)
(お姉ちゃんを、助けてる……)
それは、ただの高校生の調理風景ではなかった。一人の男が、自分の全てをかけて、大切なパートナーの、そして自分自身の夢を、絶望の淵から救い出そうとする、壮絶な戦いだった。
樹の、その鬼神の如き活躍に、桃香もまた、我に返っていた。
(……私、何やってるんだろう)
彼が、こんなにも必死で戦っているのに。私が、諦めてどうする。
桃香は、ぐっと唇を噛み締めると、滲んでいた涙を、手の甲で乱暴に拭った。
「樹くん!氷、用意できたよ!」
「ジュレ、ゼラチン増やした!」
司令塔は、もういない。今の私は、彼の最高の「手」になるんだ。
桃香は、樹の思考を先読みするように、彼が必要とするであろう器具を準備し、材料を計量し、完璧なアシストに徹した。
役割が、逆転した。
だが、二人の歯車は、再び、いや、以前にも増して、完璧に噛み合っていた。
残り時間、30分。
なんとか、ケーキの組み上げまでこぎつけた。だが、その姿は、当初のデザイン画とは、少しだけ違うものになっていた。急速冷凍ができなかった分、ムースの層のエッジが、僅かに甘くなっている。
(……完璧じゃ、ない)
桃香の胸を、一瞬、悔しさがよぎる。だが、今は、感傷に浸っている時間はない。
「桃香、デコレーション、間に合わせるぞ」
「うん!」
最後の仕上げだ。
チョコレートで作った、いばらの蔓。そして、飴細工の、白い花。
『残り時間、あと三分です!』
アナウンスが、無情に響き渡る。
樹の指先が、信じられないほどの速さで、チョコレートの蔓を組み上げていく。桃香は、その間に、最後のグラサージュを、祈るような気持ちでケーキ全体にかけた。
『あと、一分!』
樹が、ピンセットで、震える指を叱咤しながら、最後のパーツである、飴細工の白い花を、そっとケーキの頂上へと置く。
『10、9、8……』
桃香が、最後の仕上げに、銀色のアラザンを、数粒、散りばめる。
『3、2、1……』
「……できた……!」
『終了です!作業をやめてください!』
鳴り響く、けたたましいブザーの音。
その音と同時に、二人は、その場に崩れ落ちるように、作業台に手をついた。
ぜえ、ぜえ、と、荒い呼吸だけが、二人の間に響く。汗が、顎を伝って、床に落ちた。
目の前には、自分たちの、三時間の全てが詰まった、ホールケーキ。
『約束 〜茨の道の先に〜』
それは、完璧な作品では、ないかもしれない。
だが、トラブルという茨の道を、二人で乗り越えた先に咲いた、正真正銘、世界でたった一つの、奇跡の花だった。
二人は、言葉もなく、ただ、自分たちの作り上げたケーキを、見つめていた。
やがて、審査員たちが、採点ボードを手に、自分たちのブースへと、ゆっくりと歩み寄ってくるのが見えた。
ご一読いただきありがとうございます!
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