約束の夏、始まりの舞台
書類選考に合格し、クラス中から祝福を受けた熱狂の日から2週間後。
梅雨入りを間近に控えた六月のある日の放課後、桃香と樹は再び家庭科準備室に呼び出されていた。窓の外では、厚い雲が空を覆い、じっとりとした空気が夏の訪れを告げている。
「二人とも、関東大会進出、本当におめでとう。私も、自分のことのように嬉しいわ」
藤沢先生は、温かいお茶を二人の前に置きながら、改めて労いの言葉をかけた。
「ありがとうございます!」
桃香が嬉しそうに頭を下げると、先生は「さて」と表情を引き締め、本題に入った。
「本番に向けて、とても大事な話があるの」
先生は、大会の分厚いルールブックを開き、あるページを指差した。
「ふたりとも、よく聞いて、大会のルールブックを読んだのだけど、基本材料は向こうで用意してくれるそうよ。小麦粉や砂糖、バターなんかの基本的なものはね。ただ、レシピの要になる特殊な材料は、自分たちで用意して持ち込む決まりなの。使用する材料のリストと産地、購入先も事前に提出する必要があるわ」
その言葉に、二人は息を呑む。先生は、まっすぐに二人を見つめて続けた。
「……あなたたちのケーキの要は、ピスタチオとベリーよね?最高の食材、探せる?」
最高の食材。
その言葉に、桃香の瞳が、ぱあっと太陽のように輝いた。デザイナーとして、最高のキャンバスに、最高の絵の具を使える。これ以上の喜びはない。
だが、その輝きは、次の瞬間には不安の色に揺らいだ。
(最高の食材……それって、つまり、すごく高価なもの、だよね……)
母が汗水流して働いている姿が、脳裏をよぎる。これ以上、負担はかけられない。自分の夢のために、家族を犠牲にはできない。
「……はい!頑張ります!」
桃香が、必死で絞り出した声は、僅かに上擦っていた。
その、ほんの些細な声の変化を、隣にいた樹は聞き逃さなかった。彼は、桃香の不安を打ち消すように、きっぱりとした声で言った。
「先生、大丈夫です。俺たちで見つけます。最高のものを」
その力強い言葉に、桃香は驚いて樹の横顔を見上げた。
帰り道。二人は、駅までの道を黙って歩いていた。重たい沈黙を破ったのは、桃香だった。
「……ごめんね、樹くん。お金のこと、考えちゃって……」
「謝るな」
樹は、即座に遮った。
「二人でやるって決めたんだろ。俺のバイト代もある。それに、最高の食材っていうのは、値段が高いものだけじゃないはずだ。俺たちが、これが最高だって胸を張って言えるもの。それを見つければいい」
彼は、桃香に向き直ると、真剣な眼差しで言った。
「今度の週末、最高のラズベリーを探しに行こう。農園を調べてみる。ピスタチオは、横浜中の専門店を回って、一番香りがいいやつを探そう。俺たちの足で」
それは、ただの材料探しではない。二人の「約束」の価値を、自分たちの手で探し出す、新しい挑戦の始まりだった。
桃香の心にあった不安の雲は、彼の言葉で、すうっと晴れていく。
「……うん!」
桃香は、満面の笑みで力強く頷いた。
その日から、関東大会までの約一ヶ月。二人の高校最後の夏は、甘く、香ばしく、そしてどこまでも真剣な「食材探し」の日々となった。
週末には電車を乗り継いで郊外の農園へ行き、泥だらけになりながら、宝石のように輝く完熟のラズベリーを摘んだ。放課後には、元町の専門店で何種類ものピスタチオペーストをテイスティングし、その風味の違いに頭を悩ませた。
それは、決して楽な道のりではなかったけれど、二人にとっては、どんな時間よりも充実していて、幸福な時間だった。
◇
梅雨が明け、空の青さが目に染みるようになった七月二十日、海の日。
じりじりとアスファルトを焦がすような真夏の日差しが容赦なく照りつける中、二人の高校最後の夏が、ついにその幕を開けた。
全国高校生パティシエ選手権、関東大会。
会場となったのは、都内有数の規模を誇るイベントホールだった。一歩足を踏み入れると、外の猛烈な暑さが嘘のように、ひんやりと乾燥した空気が肌を刺す。そこは、夢と、プライドと、そして焦燥感が入り混じった、独特の熱気に満ちていた。
「……すごい、ね」
桃香は、あたりを見回し、ごくりと喉を鳴らした。
今日の彼女は、横浜海星高校の校名が刺繍された、真っ白なコックコートに身を包んでいる。長い髪は、一筋のくれ毛も許さない、という強い意志を感じさせる高い位置でのポニーテール。その下で揺れる耳元には、お守りのように小さな星のピアスが控えめに光っていた。それは、この大舞台に臨む彼女なりの「戦闘服」だった。
隣に立つ樹もまた、糊のきいた揃いのコックコートを完璧に着こなしている。その表情は、いつも以上に硬く、まるで能面のように感情が読み取れない。だが、わずかに固く握られた拳が、彼の内に秘めた闘志を物語っていた。
ホールの中央には、最新の調理設備が整えられた、まったく同じ規格のキッチンブースが二十台、整然と並んでいる。眩いほどの照明に照らされたステンレスの作業台が、冷たい光を放っていた。
それぞれのブースには、同じように真っ白な戦闘服をまとった、各校の代表選手たちがいた。自信に満ち溢れた表情で談笑するペアもいれば、黙り込んで精神を集中させているペアもいる。誰もが、それぞれの想いを胸に、この場所に立っているのだ。
「この中から、たったの二校……」
桃香が呟く。
一都六県の、二百十八校の中から書類選考を勝ち抜いてきた、精鋭二十校。その頂点に立ち、全国大会への切符を手にできるのは、わずか二校のみ。そのあまりにも狭き門を前にして、桃香の心臓は、まるで捕らえられた小鳥のように、胸の中で激しく羽ばたいていた。
やがて、会場の照明が少し落とされ、正面のステージにスポットライトが当たった。司会者の紹介と共に、柔和な笑みを浮かべた白髪の紳士がマイクの前に立つ。
日本のスイーツ界を牽引する重鎮であり、今大会の委員長を務める、有名パティシエ・柏木遼平その人だった。
「選手の皆さん、本日は関東大会へようこそ」
穏やかで、しかし芯のある声が、静まり返ったホールに響き渡る。
「皆さんの提出してくれた書類は、すべて、隅から隅まで読ませていただきました。どの作品も、若さ溢れる情熱と、素晴らしいアイデアに満ちていた。正直に言えば、甲乙つけがたい、というのが我々審査員の総意です。しかし、」
そこで、柏木委員長の表情が、ふっと引き締まった。
「我々がこの先に見たいのは、アイデアだけではない。それを寸分の狂いもなく形にする『技術』、予期せぬトラブルにも対応できる『精神力』、そして何より、食べる人の心を動かす『魂』です。この三つが揃った時、お菓子は単なる食べ物を超え、芸術の域へと達する。今日は、皆さんの魂のこもった作品に出会えることを、心から楽しみにしています。健闘を祈ります」
その言葉は、二人の胸にずしりと重く、しかし確かな激励として響いた。
開会宣言が終わり、各チームがそれぞれのブースへと散っていく。競技開始まで、あと十分。
桃香と樹も、自分たちのブースへと歩きながら、自然と、ホールの二階に設けられた応援席へと視線を送った。
すると、一番前の列に、見慣れた顔を見つけた。
『樹!桃香!がんばれー!』と書かれた手作りのうちわを、ぶんぶんと振っている七海。その隣には、少し照れくさそうに、しかし力強く頷いているクラス委員長の姿もあった。他にも、教室で祝福してくれたクラスメイトたちが、何人も駆けつけてくれている。
「……七海たち、来てくれたんだ」
桃香の口元が、自然と綻ぶ。張り詰めていた心が、ふわりと温かくなるのを感じた。
そして、その少し離れた席に、桃香は自分の母親の姿を見つけた。
淡いブルーのワンピースを着た母は、ぎゅっとバッグを胸に抱きしめ、心配そうに、しかし何よりも誇らしげな笑みで、娘の姿を見つめている。
その隣の席は、空いている。
けれど、桃香にはわかった。母は一人で来たのではない。きっと、天国の父の想いも一緒に、その胸に抱いて、ここまで来てくれたのだ。
(お父さん、見てる……?私、ここまで来たよ。樹くんと一緒に、夢の舞台に立ってるよ)
胸の奥が、きゅっと熱くなる。不安で震えていた心が、不思議な覚悟で満たされていくのを感じた。
ふと、隣に立つ樹の視線が、一点に注がれていることに気づく。桃香はその視線を追った。
そこにいたのは、樹の両親だった。
お母さんは、優しげに微笑みながら、小さく手を振っている。
そして、お父さんは、腕を組み、厳しいほどの真剣な表情で、息子が立つステージを、ただ、じっと見つめていた。
息子の挑戦を、その一挙手一投足を、一瞬たりとも見逃すまいとする、父親としての最大限の集中と、静かで、しかし海よりも深い応援の気持ちが、その表情には満ちていた。
「男のくせに」と心無い言葉を投げかけられた幼い日。そのすべてから、この両親が守ってくれた。好きだという気持ちを、信じ、支え続けてくれた。
樹は、父親から視線を外さなかった。
一瞬だったか、数秒だったか。
時が止まったような沈黙の中、二人の視線が、確かに交差した。
言葉は、ない。
交わされたのは、息子からの「必ず応える」という決意と、父からの「お前を信じている」という、無言の信頼だった。
やがて、樹は、ゆっくりと両親から視線を外し、隣に立つ桃香へと顔を向けた。
その瞳に、もう迷いはなかった。
緊張で強張っていた彼の表情は、まるで嵐が過ぎ去った後の空のように、澄み切っている。
「……行こうか」
「うん」
桃香も、力強く頷いた。
友達がいる。
家族がいる。
そして、隣には、最高のパートナーがいる。
もう、何も怖くはなかった。
二人は、自分たちの戦場となるキッチンブースへと、迷いのない足取りで向かっていく。
『——それでは、これより、競技を開始いたします!制限時間は三時間!選手の皆さん、準備はよろしいですか!』
司会者の張りのある声が響く。
『スタートです!』
その号令と共に、二十校の精鋭たちによる、甘く、そして熾烈な戦いの火蓋が、切って落とされた。
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