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11/22

繋がれた手のひらの熱

3月の終わり。


ホワイトデーの熱狂が、まるで遠い夢だったかのように過ぎ去り、春休みに入った穏やかな午後。

春石家のリビングでは、大学のレポートに取り組んでいた姉の碧が、ソファで製菓雑誌を眺めている弟の樹に、ふと声をかけた。


「ねえ、樹」


「……なに」


「あんた、春休み、暇なんでしょ」


「別に。試作で忙しい」


「はいはい。まあ、それもいいけどさ」


碧は、そう言うと、テーブルの上に、ひらりと二枚の紙を置いた。


一枚は、人気アニメ映画の、ペア鑑賞チケット。そしてもう一枚は、元町にあるお洒落なブックカフェの、『お好きなドリンク2杯無料券』だった。


「私、友達と行く約束してたんだけど、急に課題が入って、行けなくなっちゃったのよね。このままだと、ただの紙切れ。……もったいないと思わない?」


「……」


「あんた、この映画、観たいって言ってたじゃない。まさか、一人では行かないわよね?ペアチケットなんだから。まあ、それも、あんたらしいけど」


碧は、わざとらしく、ため息をついてみせる。その芝居がかった口調に、樹は、かすかな胡散臭さを感じていた。


「……で?」


「だから、誰か誘って行けばいいじゃない。ほら、いるでしょ。誘うべき人が」


碧は、にやりと笑って、決定的な一言を放つ。


「桃香ちゃん、誘いなさいよ。このカフェ、七海ちゃん……桃香ちゃんのお友達が、バイトしてるんですって。きっと、喜ぶわよ」


なぜ、姉が、夏山の友達のバイト先まで知っているのか。なぜ、こんなにも都合よく、チケットと無料券が揃っているのか。その裏で、ある「秘密の同盟」が、緻密な情報交換と計画の末に、この完璧な「お膳立て」を仕組んだことなど、今の樹が知る由もなかった。


「……なんで、俺が」


「いいから!これは、姉からの命令です!ホワイトデーのお返しは完璧だったけど、そこから一歩も進展してない、朴念仁な弟への、最終通告!」


碧の、有無を言わさぬ迫力に、樹は、ぐっと言葉に詰まった。だが、その心の内では、姉の強引な提案に、ほんの少しだけ、感謝している自分もいることに、気づいていた。

桃香を、誘う、口実。ずっと、探していた、そのきっかけを。


その夜。樹は、自室のベッドの上で、スマホの画面と、三十分以上もにらめっこをしていた。

LINEのトーク画面を開き、文字を打ち込んでは、消す。その繰り返し。


(『姉貴からチケットをもらったんだが』……いや、姉のせいにするのは、ダサすぎる)


(『映画に、興味あるか』……ぶっきらぼうすぎる)


(『もし、暇なら』……もし、暇じゃなかったら、どうするんだ)


心臓が、うるさい。たった一言、「デートに誘う」という行為が、ケーキのレシピを考案するより、遥かに難しく感じられた。


ええい、ままよ。


樹は、目をぎゅっと閉じると、ほとんどヤケクソで、文章を打ち込み、送信ボタンを押した。


『樹:桃香へ。突然、すまない。春休み、まだ予定とか、あるか』


送信した瞬間、後悔が押し寄せる。なんだ、この探るような聞き方は。気持ち悪い。

既読の表示がつかないまま、1分、2分と時間が過ぎる。その、永遠のように長い沈黙。

もうダメだ。やっぱり、俺には、無理なんだ。

樹が、スマホの電源を落とそうとした、その時だった。


ぽん、と。

画面に、新しいメッセージが、軽やかにポップアップした。


『桃香:樹くん!こんばんは!ううん、まだ特に何もないよ。どうしたの?』


その返信に、樹の心臓が、大きく跳ねた。彼は、深呼吸を一つすると、今度は、迷わず、指を動かした。


『樹:姉貴が行けなくなった、映画のチケットがある。もし、迷惑じゃなかったら……一緒に行かないか』


『桃香:行く!行きたい!すっごく、嬉しい!』


その、ビックリマークが三つもついた、喜びを全身で表現するような返信を見て、樹の口元から、ふっと、安堵の笑みがこぼれ落ちた。



「―――というわけで、初デートなの!どうしよう、梨香、七海!何を着ていけばいいと思う!?」


夏山家の、桃香の部屋では、ベッドの上が、ありったけの春物の服で、埋め尽くされていた。

妹の梨香と、スマホのスピーカーフォンで繋がった七海を前に、桃香は、人生最大のファッションショーを繰り広げていた。


「こっちの、花柄のワンピースは、可愛すぎ?」


七海が、スピーカーの向こうで叫ぶ。


『甘すぎ!あんたの良さは、ナチュラルさでしょ!』


「じゃあ、こっちの、シンプルなパンツスタイルは?」


梨香が、首を横に振る。


「うーん、ちょっと、ボーイッシュすぎない?せっかくのデートなのに」


ああでもない、こうでもない、と、三人の会議は、深夜まで続いた。



そして、翌日。

待ち合わせ場所の、横浜駅の改札前。

樹は、先に着いて、壁に寄りかかりながら、スマホを眺めていた。心臓は、うるさいくらいに鳴っている。


「―――樹くん、お待たせ!」


その、鈴が鳴るような声に、顔を上げる。

その瞬間、樹は、息をするのを忘れた。

そこに立っていたのは、淡いクリーム色の、繊細なコットンレースのブラウスに、風にふわりと揺れる、ミントグリーンのロングスカートを合わせた、夏山桃香だった。


いつもの制服姿とも、ケーキ作りの時のラフな格好とも違う。春の陽光そのもののような、透明感と、柔らかな優しさに満ちたその姿。

あまりの眩しさに、樹は、何も言えなくなってしまった。


「あ、あの……変、かな?」


不安そうに、桃香が尋ねる。

その言葉に、樹は、はっと我に返った。姉の、あの言葉が、脳裏に蘇る。


―――『絶対に、褒めなさいよ!』


「……いや」


樹は、照れを隠すように、少しだけ視線を逸らしながら、でも、はっきりとした声で言った。


「すごく……似合ってる。綺麗だ」


その、あまりにもストレートな言葉に、今度は、桃香が、顔を真っ赤にして固まってしまう番だった。


映画館の、隣り合った席。本編が始まると、照明が落ち、暗闇が二人を包む。巨大なスクリーンに映し出される、壮大な物語。けれど、二人の意識は、物語よりも、ずっと近くにあった。


触れそうで、触れない、お互いの腕の距離。ポップコーンを掴むタイミングが、なぜか、いつも重なってしまう、指先。その、一つ一つの些細なことに、心臓が、大きく、小さく、跳ね続けた。


映画の後、二人は、例のブックカフェへと向かった。


「いらっしゃいま……あら!」


笑顔で迎えてくれたのは、エプロン姿の七海だった。彼女は、一瞬だけ、桃香に向かって、完璧なウインクを飛ばすと、すぐにプロの店員の顔に戻る。


「ご注文は、お決まりですか?」


無料券を使って、アイスコーヒーと、クリームソーダを頼む。七海が、運んできてくれたクリームソーダには、なぜか、ストローが、ハートの形になって二本、刺さっていた。


「……七海のやつ」


桃香は、親友の過剰なまでの「おもてなし」に、顔を赤くしながらも、その心遣いが、嬉しくてたまらなかった。

しばらく映画の感想などを話した後、桃香がふと、店内の大きな本棚に目を向けた。


「すごいね、ここ。本がたくさん」


「ああ」


樹も、その本棚に目をやった。そして、ある一角で、彼の目が、ぴたりと止まった。そこには、洋書のデザイン画集や、アートブックに混じって、海外のパティシエの豪華な写真集が、何冊か並んでいたのだ。

気づけば、樹は、吸い寄せられるように、その棚の前に立っていた。


「……ピエール・エルメ……セドリック・グロレ……」


桃香も、彼の後を追う。樹は、その中の一冊を、宝物に触れるかのように、そっと手に取った。ページをめくる彼の横顔は、今まで桃香が見たことのないほど、真剣で、そして、どこか楽しそうだった。


「この人のルセットは、既存の概念を全部壊して、味の再構築から始めるんだ。例えば、このイスパハン。ライチとローズとフランボワーズの組み合わせなんて、普通は誰も思いつかない。でも、一度食べたら、もうこれ以外の組み合わせは考えられなくなる」


普段の彼からは想像もつかないほど、その口は滑らかだった。


「こっちのセドリック・グロレは、見た目が果物そのものなのに、切ると全く違う構造になってる。この艶を出すためのグラサージュの配合、温度管理……どれだけ試行錯誤すれば、この領域にたどり着けるのか……」


専門的な内容は、桃香には半分も理解できない。けれど、そんなことは、どうでもよかった。

少年のように、目をキラキラと輝かせ、自分の愛する世界について熱く語る彼。その姿は、桃香が今まで知らなかった、春石樹という人間の、もっとも純粋で、もっとも美しい部分だった。


「……ごめん、つい」


はっと我に返った樹が、ばつが悪そうに本を閉じた。


「ううん!」


桃香は、慌てて首を横に振る。


「もっと聞きたいな。樹くんが、ケーキをの話をしてくれるの、すごく楽しい」


その、心からの笑顔に、樹の頬が、ほんの少しだけ、赤く染まった。


カフェを出る頃には、空は、美しいオレンジ色に染まっていた。


「……少し、歩かないか」


樹が、ぽつりと呟いた。


「うん」


桃香も、頷く。まだ、帰りたくなかった。

二人は、赤レンガ倉庫を抜け、潮風が心地よい、臨港パークへと向かう。海の上を、船がゆっくりと滑っていく。遠くには、観覧車のイルミネーションが、宝石のように輝き始めていた。


なんて、素敵な時間なんだろう。この時間が、ずっと、ずっと、続けばいいのに。

桃香が、手すりに寄りかかりながら、そんなことを考えていた、その時だった。

不意に、少し強い海風が、二人の間を吹き抜けた。


「わ、……寒いね」


桃香が、思わず、自分の腕をさする。

その、ほんの些細な仕草を、樹は見逃さなかった。

彼の心の中で、臆病な自分と、勇気を出したい自分が、最後の戦いを繰り広げる。


(……今だ。でも、もし、嫌がられたら。……うるさい。行け)


樹は、気づけば、一歩、桃香の隣に踏み込んでいた。

そして、震える右手を伸ばすと、彼女の、少し冷たくなった、小さな手を、そっと、包み込んだ。


「え……」


桃香の肩が、驚きに、小さく跳ねる。

樹の、大きくて、骨張った、でも、驚くほどに温かい手。その熱が、じわり、と、桃香の指先から、心の中まで、染み渡っていくようだった。


樹は、何も言わない。ただ、真っ直ぐに、海の向こうを見つめている。その耳が、夕焼けよりも、ずっと、ずっと、赤く染まっているのを、桃香は見逃さなかった。


桃香も、何も言えない。ただ、応えるように、その手を、きゅっと、握り返した。

言葉は、なかった。でも、それで、十分だった。


繋がれた手のひらを通して、お互いの「好き」という気持ちが、痛いほどに、伝わってくる。

駅までの帰り道。二人は、ずっと、その手を、離さなかった。


言葉は少なかったが、繋がれた手のひらから伝わる温もりだけで、心は満たされていた。桃香は、自分の左手に絡まる、彼の大きな手の感触を確かめながら、今日という、夢のような一日を、心の中でゆっくりと反芻していた。


(……朝、待ち合わせの場所で、彼が「綺麗だ」って言ってくれた。あの時の、少し照れたような、でも、すごく真剣な瞳。嬉しくて、心臓が止まるかと思った)


(映画館の暗闇。すぐ隣にある彼の存在を、あんなに意識したのは初めてだった)


(カフェで見た、彼の横顔。ケーキの話をする時の、あのキラキラした目。私の知らない樹くんを、また一つ、見つけられた気がする)


そして、今。この、夢じゃない、確かな温もり。今日一日が、すべて、この瞬間のためにあったような気さえした。

樹もまた、同じだった。自分の手の中にある、小さくて、柔らかな手の感触。この手を、離したくない。そう、強く思った。


改札で、名残惜しそうに、その手を解く。


「じゃあ、また……学校で」


「……ああ」


樹は、最後に、もう一度、桃香の手を、今度は、ぎゅっと強く握ると、照れを隠すように、足早に人混みの中へと消えていった。

桃香は、まだ熱が残る自分の右手を見つめながら、その場に、しばらく、立ち尽くしていた。

春の夜の、甘い風。

二人の恋は、今、確かに、新しいステージへと、その一歩を、踏み出したのだった。

ご一読いただきありがとうございます!

思った以上に読んでくださる方がいて、とても嬉しいです。

もっと楽しんでもらえるように頑張りたいと思います。

今後の励みになりますので、ぜひページ下のいいねボタンで応援してください。

よろしくお願いします(^O^)/

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