繋がれた手のひらの熱
3月の終わり。
ホワイトデーの熱狂が、まるで遠い夢だったかのように過ぎ去り、春休みに入った穏やかな午後。
春石家のリビングでは、大学のレポートに取り組んでいた姉の碧が、ソファで製菓雑誌を眺めている弟の樹に、ふと声をかけた。
「ねえ、樹」
「……なに」
「あんた、春休み、暇なんでしょ」
「別に。試作で忙しい」
「はいはい。まあ、それもいいけどさ」
碧は、そう言うと、テーブルの上に、ひらりと二枚の紙を置いた。
一枚は、人気アニメ映画の、ペア鑑賞チケット。そしてもう一枚は、元町にあるお洒落なブックカフェの、『お好きなドリンク2杯無料券』だった。
「私、友達と行く約束してたんだけど、急に課題が入って、行けなくなっちゃったのよね。このままだと、ただの紙切れ。……もったいないと思わない?」
「……」
「あんた、この映画、観たいって言ってたじゃない。まさか、一人では行かないわよね?ペアチケットなんだから。まあ、それも、あんたらしいけど」
碧は、わざとらしく、ため息をついてみせる。その芝居がかった口調に、樹は、かすかな胡散臭さを感じていた。
「……で?」
「だから、誰か誘って行けばいいじゃない。ほら、いるでしょ。誘うべき人が」
碧は、にやりと笑って、決定的な一言を放つ。
「桃香ちゃん、誘いなさいよ。このカフェ、七海ちゃん……桃香ちゃんのお友達が、バイトしてるんですって。きっと、喜ぶわよ」
なぜ、姉が、夏山の友達のバイト先まで知っているのか。なぜ、こんなにも都合よく、チケットと無料券が揃っているのか。その裏で、ある「秘密の同盟」が、緻密な情報交換と計画の末に、この完璧な「お膳立て」を仕組んだことなど、今の樹が知る由もなかった。
「……なんで、俺が」
「いいから!これは、姉からの命令です!ホワイトデーのお返しは完璧だったけど、そこから一歩も進展してない、朴念仁な弟への、最終通告!」
碧の、有無を言わさぬ迫力に、樹は、ぐっと言葉に詰まった。だが、その心の内では、姉の強引な提案に、ほんの少しだけ、感謝している自分もいることに、気づいていた。
桃香を、誘う、口実。ずっと、探していた、そのきっかけを。
その夜。樹は、自室のベッドの上で、スマホの画面と、三十分以上もにらめっこをしていた。
LINEのトーク画面を開き、文字を打ち込んでは、消す。その繰り返し。
(『姉貴からチケットをもらったんだが』……いや、姉のせいにするのは、ダサすぎる)
(『映画に、興味あるか』……ぶっきらぼうすぎる)
(『もし、暇なら』……もし、暇じゃなかったら、どうするんだ)
心臓が、うるさい。たった一言、「デートに誘う」という行為が、ケーキのレシピを考案するより、遥かに難しく感じられた。
ええい、ままよ。
樹は、目をぎゅっと閉じると、ほとんどヤケクソで、文章を打ち込み、送信ボタンを押した。
『樹:桃香へ。突然、すまない。春休み、まだ予定とか、あるか』
送信した瞬間、後悔が押し寄せる。なんだ、この探るような聞き方は。気持ち悪い。
既読の表示がつかないまま、1分、2分と時間が過ぎる。その、永遠のように長い沈黙。
もうダメだ。やっぱり、俺には、無理なんだ。
樹が、スマホの電源を落とそうとした、その時だった。
ぽん、と。
画面に、新しいメッセージが、軽やかにポップアップした。
『桃香:樹くん!こんばんは!ううん、まだ特に何もないよ。どうしたの?』
その返信に、樹の心臓が、大きく跳ねた。彼は、深呼吸を一つすると、今度は、迷わず、指を動かした。
『樹:姉貴が行けなくなった、映画のチケットがある。もし、迷惑じゃなかったら……一緒に行かないか』
『桃香:行く!行きたい!すっごく、嬉しい!』
その、ビックリマークが三つもついた、喜びを全身で表現するような返信を見て、樹の口元から、ふっと、安堵の笑みがこぼれ落ちた。
「―――というわけで、初デートなの!どうしよう、梨香、七海!何を着ていけばいいと思う!?」
夏山家の、桃香の部屋では、ベッドの上が、ありったけの春物の服で、埋め尽くされていた。
妹の梨香と、スマホのスピーカーフォンで繋がった七海を前に、桃香は、人生最大のファッションショーを繰り広げていた。
「こっちの、花柄のワンピースは、可愛すぎ?」
七海が、スピーカーの向こうで叫ぶ。
『甘すぎ!あんたの良さは、ナチュラルさでしょ!』
「じゃあ、こっちの、シンプルなパンツスタイルは?」
梨香が、首を横に振る。
「うーん、ちょっと、ボーイッシュすぎない?せっかくのデートなのに」
ああでもない、こうでもない、と、三人の会議は、深夜まで続いた。
◇
そして、翌日。
待ち合わせ場所の、横浜駅の改札前。
樹は、先に着いて、壁に寄りかかりながら、スマホを眺めていた。心臓は、うるさいくらいに鳴っている。
「―――樹くん、お待たせ!」
その、鈴が鳴るような声に、顔を上げる。
その瞬間、樹は、息をするのを忘れた。
そこに立っていたのは、淡いクリーム色の、繊細なコットンレースのブラウスに、風にふわりと揺れる、ミントグリーンのロングスカートを合わせた、夏山桃香だった。
いつもの制服姿とも、ケーキ作りの時のラフな格好とも違う。春の陽光そのもののような、透明感と、柔らかな優しさに満ちたその姿。
あまりの眩しさに、樹は、何も言えなくなってしまった。
「あ、あの……変、かな?」
不安そうに、桃香が尋ねる。
その言葉に、樹は、はっと我に返った。姉の、あの言葉が、脳裏に蘇る。
―――『絶対に、褒めなさいよ!』
「……いや」
樹は、照れを隠すように、少しだけ視線を逸らしながら、でも、はっきりとした声で言った。
「すごく……似合ってる。綺麗だ」
その、あまりにもストレートな言葉に、今度は、桃香が、顔を真っ赤にして固まってしまう番だった。
映画館の、隣り合った席。本編が始まると、照明が落ち、暗闇が二人を包む。巨大なスクリーンに映し出される、壮大な物語。けれど、二人の意識は、物語よりも、ずっと近くにあった。
触れそうで、触れない、お互いの腕の距離。ポップコーンを掴むタイミングが、なぜか、いつも重なってしまう、指先。その、一つ一つの些細なことに、心臓が、大きく、小さく、跳ね続けた。
映画の後、二人は、例のブックカフェへと向かった。
「いらっしゃいま……あら!」
笑顔で迎えてくれたのは、エプロン姿の七海だった。彼女は、一瞬だけ、桃香に向かって、完璧なウインクを飛ばすと、すぐにプロの店員の顔に戻る。
「ご注文は、お決まりですか?」
無料券を使って、アイスコーヒーと、クリームソーダを頼む。七海が、運んできてくれたクリームソーダには、なぜか、ストローが、ハートの形になって二本、刺さっていた。
「……七海のやつ」
桃香は、親友の過剰なまでの「おもてなし」に、顔を赤くしながらも、その心遣いが、嬉しくてたまらなかった。
しばらく映画の感想などを話した後、桃香がふと、店内の大きな本棚に目を向けた。
「すごいね、ここ。本がたくさん」
「ああ」
樹も、その本棚に目をやった。そして、ある一角で、彼の目が、ぴたりと止まった。そこには、洋書のデザイン画集や、アートブックに混じって、海外のパティシエの豪華な写真集が、何冊か並んでいたのだ。
気づけば、樹は、吸い寄せられるように、その棚の前に立っていた。
「……ピエール・エルメ……セドリック・グロレ……」
桃香も、彼の後を追う。樹は、その中の一冊を、宝物に触れるかのように、そっと手に取った。ページをめくる彼の横顔は、今まで桃香が見たことのないほど、真剣で、そして、どこか楽しそうだった。
「この人のルセットは、既存の概念を全部壊して、味の再構築から始めるんだ。例えば、このイスパハン。ライチとローズとフランボワーズの組み合わせなんて、普通は誰も思いつかない。でも、一度食べたら、もうこれ以外の組み合わせは考えられなくなる」
普段の彼からは想像もつかないほど、その口は滑らかだった。
「こっちのセドリック・グロレは、見た目が果物そのものなのに、切ると全く違う構造になってる。この艶を出すためのグラサージュの配合、温度管理……どれだけ試行錯誤すれば、この領域にたどり着けるのか……」
専門的な内容は、桃香には半分も理解できない。けれど、そんなことは、どうでもよかった。
少年のように、目をキラキラと輝かせ、自分の愛する世界について熱く語る彼。その姿は、桃香が今まで知らなかった、春石樹という人間の、もっとも純粋で、もっとも美しい部分だった。
「……ごめん、つい」
はっと我に返った樹が、ばつが悪そうに本を閉じた。
「ううん!」
桃香は、慌てて首を横に振る。
「もっと聞きたいな。樹くんが、ケーキをの話をしてくれるの、すごく楽しい」
その、心からの笑顔に、樹の頬が、ほんの少しだけ、赤く染まった。
カフェを出る頃には、空は、美しいオレンジ色に染まっていた。
「……少し、歩かないか」
樹が、ぽつりと呟いた。
「うん」
桃香も、頷く。まだ、帰りたくなかった。
二人は、赤レンガ倉庫を抜け、潮風が心地よい、臨港パークへと向かう。海の上を、船がゆっくりと滑っていく。遠くには、観覧車のイルミネーションが、宝石のように輝き始めていた。
なんて、素敵な時間なんだろう。この時間が、ずっと、ずっと、続けばいいのに。
桃香が、手すりに寄りかかりながら、そんなことを考えていた、その時だった。
不意に、少し強い海風が、二人の間を吹き抜けた。
「わ、……寒いね」
桃香が、思わず、自分の腕をさする。
その、ほんの些細な仕草を、樹は見逃さなかった。
彼の心の中で、臆病な自分と、勇気を出したい自分が、最後の戦いを繰り広げる。
(……今だ。でも、もし、嫌がられたら。……うるさい。行け)
樹は、気づけば、一歩、桃香の隣に踏み込んでいた。
そして、震える右手を伸ばすと、彼女の、少し冷たくなった、小さな手を、そっと、包み込んだ。
「え……」
桃香の肩が、驚きに、小さく跳ねる。
樹の、大きくて、骨張った、でも、驚くほどに温かい手。その熱が、じわり、と、桃香の指先から、心の中まで、染み渡っていくようだった。
樹は、何も言わない。ただ、真っ直ぐに、海の向こうを見つめている。その耳が、夕焼けよりも、ずっと、ずっと、赤く染まっているのを、桃香は見逃さなかった。
桃香も、何も言えない。ただ、応えるように、その手を、きゅっと、握り返した。
言葉は、なかった。でも、それで、十分だった。
繋がれた手のひらを通して、お互いの「好き」という気持ちが、痛いほどに、伝わってくる。
駅までの帰り道。二人は、ずっと、その手を、離さなかった。
言葉は少なかったが、繋がれた手のひらから伝わる温もりだけで、心は満たされていた。桃香は、自分の左手に絡まる、彼の大きな手の感触を確かめながら、今日という、夢のような一日を、心の中でゆっくりと反芻していた。
(……朝、待ち合わせの場所で、彼が「綺麗だ」って言ってくれた。あの時の、少し照れたような、でも、すごく真剣な瞳。嬉しくて、心臓が止まるかと思った)
(映画館の暗闇。すぐ隣にある彼の存在を、あんなに意識したのは初めてだった)
(カフェで見た、彼の横顔。ケーキの話をする時の、あのキラキラした目。私の知らない樹くんを、また一つ、見つけられた気がする)
そして、今。この、夢じゃない、確かな温もり。今日一日が、すべて、この瞬間のためにあったような気さえした。
樹もまた、同じだった。自分の手の中にある、小さくて、柔らかな手の感触。この手を、離したくない。そう、強く思った。
改札で、名残惜しそうに、その手を解く。
「じゃあ、また……学校で」
「……ああ」
樹は、最後に、もう一度、桃香の手を、今度は、ぎゅっと強く握ると、照れを隠すように、足早に人混みの中へと消えていった。
桃香は、まだ熱が残る自分の右手を見つめながら、その場に、しばらく、立ち尽くしていた。
春の夜の、甘い風。
二人の恋は、今、確かに、新しいステージへと、その一歩を、踏み出したのだった。
ご一読いただきありがとうございます!
思った以上に読んでくださる方がいて、とても嬉しいです。
もっと楽しんでもらえるように頑張りたいと思います。
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