ホワイトデー・前奏曲(プレリュード)
姉の碧による、巧妙なアシストがあったとは露知らず。「ピスタチオと、ラズベリー」という天啓を得てからの春石樹は、別人のように創作に没頭していた。
彼の聖域であるキッチンは、甘く、そして香ばしい匂いで満たされている。
オーブンの中では、ピスタチオをふんだんに練り込んだ、鮮やかな緑色のビスキュイが、完璧な火入れで焼き上げられていく。ボウルの中では、ルビーのように真っ赤なラズベリーのピューレが、艶やかな光を放っていた。
彼の動きに、もう迷いはない。温度計が示す数字、デジタルスケールが弾き出すグラム単位の精度。その全てが、彼の頭の中にある設計図を、寸分の狂いもなく現実のものへと変えていく。
その表情は、バレンタイン前に桃香が見た、あの真剣な眼差しそのものだ。だが、決定的に違うものが一つだけあった。彼の口元には、時折、ごく自然な、柔らかな笑みが浮かんでいる。
(この酸味のキレは、きっと、あいつの好きなバランスだ)
(デザインは、あいつがくれた『夜空』への、俺からの『答え』にしないと意味がない)
彼の作るケーキは、もはや自己満足の技術の披露ではなかった。夏山桃香という、たった一人の「審査員」の、心に響くためだけに。
その目的が、彼の技術を、ただの技術から、「想いを伝えるための魔法」へと昇華させていた。
◇
一方その頃。夏山桃香は、絶賛スランプに陥っていた。いや、スランプというよりは、もはや機能不全に近い。
「はぁ……」
自室の机で参考書を開いているはずなのに、その文字は全く頭に入ってこない。視線は、机の隅に置かれたスマホへ、1分おきに吸い寄せられる。
バレンタインの夜、彼が「桃香へ」と送ってくれたメッセージ。そのスクリーンショットを、一体、これまで何百回見返しただろう。
あれは、夢だったんじゃないだろうか。
(ホワイトデー、お返しくれる、かな……?)
期待が、胸いっぱいに広がる。樹くんが、私のために、何かを作ってくれるかもしれない。その想像だけで、顔が熱くなり、心臓が跳ねる。
(でも、もし、くれなかったら……?)
不安が、冷たい水を浴びせるように、心を凍らせる。あのチョコレート、もしかして、重すぎた?手紙に書いた「桃香って呼んで」っていうお願いも、図々しかった?迷惑じゃ、なかったかな……?
期待と不安のシーソーゲームは、桃香の思考を完全に支配し、彼女は家で、ただひたすら悶々としていた。
「お姉ちゃん」
不意に、部屋のドアから、妹の梨香が顔を覗かせた。
「また、ため息ついてる。どうせ、ケーキの天才お兄さんのことでしょ」
「なっ、違うし!」
「図星だ。もうすぐホワイトデーだもんねえ。お返し、もらえるか心配なんでしょ」
「……!」
「大丈夫だって!もし何もくれなかったら、梨香が代わりに、お姉ちゃんから預かってるって言って、バレンタインチョコの請求書、叩きつけてきてあげるから!」
「やめてよ、もう!」
梨香の的確すぎる指摘と、過激な冗談に、桃香は顔を真っ赤にしてクッションを投げつけた。
そのポンコツぶりは、学校でも遺憾なく発揮された。
昼休み、お弁当を前に、またしても上の空になっている桃香の目の前で、親友の七海が、ぱちん、と指を鳴らす。
「桃香さん?地球にお戻りくださーい」
「わっ!ご、ごめん!」
「ごめんじゃないわよ。あんた、さっきから、お箸でお米の粒、数えてるわよ」
七海は、呆れたように、でも楽しそうに笑う。
「あんた、そんなにポンコツだったっけ?恋って、本当に人を変えるのねえ」
「か、からかわないでよ……」
「だって、面白いんだもん。まあ、安心しなさいよ。あの春石くんが、何もしないわけないでしょ。今頃、自分の城に引きこもって、ノーベル賞でも受賞する気かってくらいの勢いで、試行錯誤してるに決まってるわよ」
七海の言葉は、梨香と同じく、桃香を励ますためのものだった。だが、その言葉は、かえって桃香の不安を煽った。
(そっか……樹くんが作るんだもんね。きっと、すごく、完璧なものを、作ってるんだろうなあ……。私の、あのチョコレートなんかと、比べ物にならないくらい……)
新たな不安の種が、桃香の心に、ぽつりと芽生えた。
そして、その不安は、放課後の帰り道で、ピークに達した。
駅までの道。隣を歩く樹との、心地よい沈黙。
(聞きたい。『ホワイトデー、何か作るの?』って、聞きたい)
(でも、もし、『別に』とか言われたら?催促してるみたいで、いやらしいかな?)
聞きたい。でも、聞けない。桃香の口は、まるで縫い付けられたかのように、開かない。
そうこうしているうちに、無情にも駅の改札が見えてきてしまった。
「じゃあ、また明日、桃香」
「う、うん。また明日、春石くん……」
いつも通りの挨拶を交わし、彼の背中を見送る。今日も、聞けなかった。桃香は、自分の臆病さに、心の中で深いため息をつく。ホワイトデーまで、あと数日。期待と不安のジェットコースターは、まだまだ終わりそうになかった。
◇
3月13日、ホワイトデー前日。
春石家のキッチンには、神聖さすら感じるほどの、静かな緊張感が漂っていた。
作業台の中央に置かれた、一つの完成したケーキ。艶やかな純白のグラサージュが、朝の光を柔らかく反射している。その完璧な佇まいを前に、制作者である春石樹は、深く、深く腕を組んで佇んでいた。
(……やりすぎ、か?)
バレンタインの夜、彼女がくれた、あのチョコレート。あの小さな四角形に込められた、あまりにも雄弁な物語。それに対する、俺からの「答え」。このケーキに込めた想いは、あまりにも重すぎるのではないか。独りよがりなのではないか。
(口に、合うだろうか。いらないって、言われたらどうしよう)
桃香がバレンタインの前に抱えていた不安が、今、全く同じ形で、巨大な波となって樹の心を襲っていた。
その、普段の彼からは想像もつかない、弱気な背中を、姉の碧が見逃すはずがなかった。
「あらあら。最後の最後で、マリッジブルーならぬ、ホワイトデーブルーかしら」
キッチンにひょっこり顔を出し、からかうように言う。
「……うるさい」
「ふふん。まあ、その気持ち、分からなくもないわ。普段は無口で、ナイフみたいにトンがってるくせに、好きな子の前じゃ、途端にガラスのハートなんだから。……臆病ねえ」
「……!」
痛いところを突かれ、樹はぐっと言葉に詰まる。
碧は、そんな弟の肩を、ぽん、と優しく叩いた。
「大丈夫よ。あんたが、その子のために、どれだけ真剣だったか。姉ちゃんの私が、一番よく見てるから。……自信、持ちなさい」
その言葉は、まるで魔法のように、樹の心のささくれを、そっと撫でていくようだった。
◇
3月14日、放課後。
その日の2年4組は、一日中、どこかそわそわとした空気に包まれていた。そして、帰りのホームルームが終わった瞬間、教室は、甘いお祭りの会場へと姿を変えた。
「うそ、これ、手作り!?すごい!」
「春石にコツ、聞いたんだよ。やればできるもんだな!」
教室のあちこちで、女子生徒たちの、弾けるような歓声が上がる。バレンタインのお返しに、手作りの菓子を渡す男子生徒が、今年は数名いたのだ。照れながらも、嬉しそうにガッツポーズをする男子たち。その視線の先では、樹が、そ知らぬ顔で窓の外を眺めていた。
クラス中が幸せな空気に満たされる中、桃香だけは、生きた心地がしなかった。心臓が、肋骨を突き破りそうなほど、激しく脈打っている。
(樹くん、くれるかな……くれないかな……)
期待と不安が、ぐるぐると頭の中を駆け巡る。
その、時だった。
椅子を引く、静かな音。
樹が、ゆっくりと立ち上がり、まっすぐに、桃香の席へと歩いてくる。
教室中の視線が、一斉に二人へと突き刺さった。
樹は、桃香の机の前に立つと、何も言わずに、リボンのついた、少し大きめの白い箱を、そっと置いた。
その箱は、彼がいつも使っているスクールバッグとは別に、肩から提げていた、一見するとお洒落なショルダーバッグの中から取り出されたものだった。
だが、その内側には、しっかりと保冷素材が使われていることを、誰も知らない。最高の状態で彼女に届けるため。その執念にも似たこだわりが、彼をそこまでさせた。
その瞬間、今まで息を殺していた女子生徒たちが、堰を切ったように、わっと二人の周りに集まってきた。
「きゃー!ついに来た!」
「メインイベント!」
「開けて!開けて!」
親友の七海を筆頭に巻き起こる、開けろ開けろの大合唱。その熱気に、桃香は嬉しいやら、恥ずかしいやらで、顔が燃えるように熱い。
樹は、困ったように少しだけ眉を寄せたが、その瞳は、桃香に「開けてみてくれ」と、静かに語りかけていた。
桃香は、こくりと頷くと、震える指で、美しいリボンに手をかけた。
箱が開けられた瞬間、誰かが「わあ……」と、ため息のような声を漏らした。そして、その声は、教室中の歓声へと変わっていく。
そこに鎮座していたのは、一つの、息を呑むほどに美しいケーキだった。
ピスタチオの鮮やかな緑と、ラズベリーの情熱的な赤が、美しい層を織りなすオペラ。その表面は、夜が明ける直前の、白み始めた空のような、繊細なグラデーションのグラサージュで覆われている。
そして、その片隅には、朝露に濡れたかのように煌めく、一粒の、飴細工のラズベリー。
それは、桃香がくれた『夜空』への、完璧なアンサー。
新しい始まりを告げる、『夜明け』のケーキだった。
「すごい……きれい……」
「まるで、宝石みたい……!」
桃香は、言葉を失っていた。そして、気づけば、その瞳から、ぽろり、と大粒の涙がこぼれ落ちていた。
嬉しい。ただ、嬉しい。自分の想いが、こんなにも美しい形で返ってきた。その事実だけで、胸がいっぱいだった。
その時、桃香の隣にいた七海が、ケーキのピスタチオの色を見て、誰にも気づかれないように、一人、満足げに、深く頷いていた。
―――作戦、大成功!
◇
クラスメイトたちの祝福の喧騒が、心地よいBGMのように聞こえる。
樹と桃香は、帰り支度を終えると、どちらからともなく歩き出し、一緒に昇降口を出た。駅までの帰り道。今日の出来事を反芻するだけで、胸がいっぱいで、二人とも、なかなか言葉が出てこない。
だが、その沈黙は、幸せな熱を帯びていた。
(……言わなくちゃ)
心の中で、何度も練習した、たった三文字。
バレンタインの手紙で、私は彼にお願いした。『桃香って呼んで』って。そして、彼は、LINEで、その願いに応えてくれた。なのに、私は、まだ彼のことを「春石くん」としか呼べていない。
不公平だ。このままじゃ、ダメだ。
桃香は、ぎゅっと、スクールバッグのストラップを握りしめた。心臓が、痛いほどに鳴っている。
そうこうしているうちに、無情にも駅の改札が見えてきてしまった。もう、ここで、お別れだ。
(今、言えなかったら、きっと、ずっと言えない)
「じゃあ、また明日、桃香」
彼が、いつも通りの、でも、いつもより少しだけ優しい声で言う。
今だ。
「う、うん。また明日。……い、樹くん」
声が、震えた。最後の方は、ほとんど息だけだったかもしれない。
でも、確かに、言えた。
樹が、ぴたりと足を止めた。驚いたように、大きく目を見開いて、桃香を見つめている。
桃香は、自分の顔から、ぶわりと火が出るのを感じた。もう、彼の顔が見られない。恥ずかしくて、今すぐ逃げ出したい。
うつむいて、唇をきゅっと噛み締めた、その時だった。
ふ、と。
樹の表情が、驚きから、今まで桃香が見たこともないような、柔らかな、そして、どうしようもなく嬉しそうな笑顔へと、変わっていった。
彼は何も言わない。でも、その笑顔が、全てを物語っていた。
その笑顔に、桃香の心臓が、幸せに締め付けられる。
ああ、言って、よかった。
そう思った瞬間、樹が、はっとしたようにポケットに手を入れた。
「あ、これ……」
少し照れくさそうに、でも真っ直ぐな目で、小さな封筒を、そっと彼女の手に握らせた。
「家で、読んで」
それだけ言うと、彼は、自分の照れを振り払うように、足早に改札の中へと消えていった。
(ラブレター!?)
桃香の心臓は、今日、何度目か分からない、最大級の音を立てた。
家に帰り着くなり、自室に駆け込む。梨香の「おかえりー」という声も、耳に入らない。
震える指で、封を開けた。中には、一枚だけ、便箋が入っている。そこに並んでいたのは、彼らしい、少しだけ硬い、でも、とても丁寧な文字だった。
―—―
バレンタインのチョコ、今まで見た中で、一番すごかった。
これは、俺からの返事。伝わるといい。
あと、お前だけじゃ不公平だ。
俺のことも、樹って呼んでくれ。
樹
―—―
手紙を読み終えた瞬間、桃香の瞳から、再び、涙が溢れ出した。
(……同じだったんだ)
私が、勇気を振り絞って彼の名前を呼んだ、あの瞬間。彼もまた、手紙の中で、同じことを願ってくれていた。
偶然じゃない。これは、奇跡だ。私たちの心は、ちゃんと、繋がっていたんだ。
初詣で引いたおみくじの言葉が、脳裏に蘇る。
―――信じる心あれば、思いは通づる。
今度の涙は、さっきよりも、もっともっと、温かくて、しょっぱくて、そして、どうしようもなく、甘かった。
「お姉ちゃん?」
様子を見に来た梨香が、泣いている姉を見て、ぎょっとする。
「ど、どうしたの!?まさか、フラれた!?」
「……ううん」
桃香は、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、人生で最高の笑顔を妹に向けた。そして、宝物のように、その手紙を梨香に見せる。
手紙を読んだ梨香は、一瞬きょとんとした後、全てを察して、にぱっと笑った。
「……何よ、それ。すごいじゃん、お姉ちゃんたち」
「うん……!」
「良かったね、お姉ちゃん!」
梨香は、心からの祝福を込めて、優しく姉の背中を撫でた。
幸せな夜は、まだ始まったばかり。春の訪れは、もう、すぐそこまで来ていた。
ご一読いただきありがとうございます!
思った以上に読んでくださる方がいて、とても嬉しいです。
もっと楽しんでもらえるように頑張りたいと思います。
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