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師走のショーウィンドウ

新作、はじめました!

ご覧いただきありがとうございます。


才能を隠す無愛想なパティシエ男子と、ケーキに特別な憧れを抱くデザイン女子。

そんな二人が出会ったら、もう甘い展開になるしかない……!


接点のなかった、同級生の二人の関係が、ケーキ作りを通してどう変わっていくのか。

作中に出てくる、美味しそうなケーキにもご注目ください!


それでは、本編をお楽しみください!

師走の風は、人の心を急かす匂いがする。

横浜の街を彩るイルミネーションが夕暮れの訪れを早める12月。学校帰りの高校生たちが、吐く息の白さに歓声をあげながら、煌めきの中へと吸い込まれていく。


夏山桃香は、そんな喧騒から少しだけ距離を置き、ショーウィンドウに飾られたクリスマスケーキに視線を吸い寄せられていた。艶やかなグラサージュ・ショコラに金粉が舞うオペラ。雪のように真っ白な生クリームの上で、真っ赤な苺が宝石のように輝くガトーフレーズ。そのどれもが、ガラスの向こう側で完璧な世界を完結させている。


(……きれい)


思わず漏れた吐息が、冷たいガラスを白く曇らせた。その白んだ円の中心に、遠い日の記憶が滲む。


あれは、お父さんが空の星になってから二度目の冬。サンタクロースの存在をまだ信じていた小さな私は、クリスマスの夜、母のセーターの裾をぎゅっと握りしめてねだったのだ。


「お母さん、今年はね、あのね、丸くて大きくて、いちごがいっぱいのケーキが食べたいな」


テレビのCMで見た、家族みんなで囲む幸せの象徴。妹の梨香も、隣で「たべたい!」と無邪気に手を叩いていた。


その瞬間、いつも明るく笑っている母の顔が、ふっと翳ったのを私は見逃さなかった。困ったように眉を下げ、私と梨香の頭を順番に撫でながら、震える声で囁いたのだ。


「…ごめんね、桃香。お母さん、今はまだ…買ってあげられなくて。本当に、ごめんね…」


母の瞳に薄っすらと浮かんだ涙の膜が、部屋の小さな電球の光を反射してきらめいた。その時、すとん、と胸の奥に何かが落ちてきた。違う、お母さんを泣かせたいんじゃない。私はただ、笑ってほしかっただけなのに。


その日から、「ホールケーキ」は私の中で、決して口にしてはいけない言葉になった。私たちのクリスマスは、仕事帰りの母が商店街のスーパーで買ってくる、一つ100円の三角形のショートケーキ。

母と、私と、梨香。小さなテーブルを囲んで、一人一個ずつ食べるのが、最高のご馳走だった。


プラスチックのフォークが銀紙に当たる音と、妹の嬉しそうな笑い声。それで、十分幸せだった。幸せだと、自分に言い聞かせてきた。


白い曇りが晴れて、再び煌びやかなケーキが目に映る。制服の上に着た、少しだけ袖の長いクリーム色のダッフルコート。校則違反にならないようにと、ほんのりピンクのベースコートだけを塗った爪が、ショーケースの照明を鈍く反射した。


「桃香ー!置いてくよー?」


友人たちの声に我に返る。胸の奥が、きゅうっと切なく縮むのを感じながら、慌てて駆け寄った。


「ごめん、すぐ行く!」


と笑顔を作り、スマホで当たり障りのないスタンプを一つ返す。『ホールケーキ』。

それは今も、私にとって甘くて、少しだけ切ない憧れの象徴のままだった。



同じ時刻。駅ビルの少し離れた柱の陰で、春石樹はるいしいつきは専門店のオンラインストアをスクロールしていた。フランス産の最高級クーベルチュール、マダガスカル産のバニラビーンズ。周囲の男子生徒たちの輪に加わる気にはなれず、イヤホンで耳を塞いでいる。


ブレザーのポケットにスマホを滑り込ませ、何気ないふりをして歩き出す。その足が自然と向かうのは、先ほど桃香が釘付けになっていたパティスリーの前だった。安全な距離を保ちながら、ショーウィンドウに並ぶ芸術品たちを観察する。


(今年の新作は、ピスタチオとフランボワーズのムースか。グラサージュの粘度、完璧だな……)


心の中で、勝手に分析を始めてしまう。


幼い頃、「男のくせにケーキ作りなんて」と笑われた日の記憶が、今も胸の奥に小さな棘のように刺さっている。だから、この情熱は誰にも知られてはいけない。ひっそりと、一人で磨き上げてきた秘密の技術。


今年のクリスマス。樹は一つの計画を立てていた。家族四人では到底食べきれないような、豪華なアントルメを一人で作り上げる。誰のためでもない。ただ、自分の持てる技術のすべてを注ぎ込み、完璧な作品を完成させたい。その一心だった。


ふと、ショーウィンドウのガラスに、見覚えのあるクリーム色のダッフルコートが映り込む。同じクラスの、夏山桃香だ。彼女が、あんなにも真剣な、そしてどこか寂しげな眼差しでケーキを見ていたことなど、知る由もない。


まだ二人の世界は、甘い香りを隔てて、決して交わることはなかった。





クリスマスまで、あと10日。


放課後の図書室は、暖房の穏やかな音だけが響く静寂の聖域だった。樹は一番奥の棚、専門書のコーナーで、フランスの著名なパティシエが出版した、分厚い洋書のレシピ本に没頭していた。美しいアントルメの写真と、そこに並ぶ緻密なフランス語の羅列だけが、今の彼の世界のすべてだった。


「……あれ? 春石くん?」


不意に、すぐそばで鈴が鳴るような声がした。心臓が喉から飛び出るかと思った。反射的に本を閉じ、顔を上げると、そこにいたのは、ざっくりとしたケーブル編みのオフホワイトのカーディガンを羽織った夏山桃香だった。制服のスカートから伸びる足元は、チャコールグレーのタイツ。彼女の柔らかな雰囲気が、この静かな空間にふわりと溶け込んでいる。


「すごい……全部フランス語? 写真、ケーキだよね。もしかして、春石くんって、お菓子とか作るの?」


その無邪気な一言が、硬い針となって樹の胸の奥深く、しまい込んでいた記憶の箱を突き刺した。



―――脳裏に蘇るのは、小学校の教室のざわめき。週末に、バターと小麦粉の匂いにまみれながら初めて一人で焼き上げたマドレーヌ。その成功に胸を躍らせ、一番の親友に「これ、俺が作ったんだ」と得意げに見せたのだ。最初は「すげー!」と目を輝かせていたクラスメイトたち。だが、意地悪な男子の一人が、それを指差して甲高い声で笑った。


『うわ、春石、女子みてー! 男のくせにケーキ作りとか、キモいんだけど!』


その一言は、伝染病のように教室中に広がった。くすくすという嘲笑が、熱い鉄の杭のように、幼い彼のプライドに打ち込まれた。誇らしかったはずのマドレーヌが、急に恥ずかしいものに見えてくる。顔が燃えるように熱い。その日を境に、樹は自分の大切な情熱に、誰にも破れないように固く、固く、鍵をかけたのだ。



「……は?」


気づけば、喉から絞り出すような低い声が出ていた。蘇った記憶の痛みから逃れるように、見ていた洋書を乱暴に棚へ押し込む。ガタン、と鈍い音が響いた。


「作るわけないだろ。別に、デザインとか、そういう造形に興味があるだけだ」


刺々しい嘘だった。だが、桃香は樹の張り巡らせた防御壁など全く意に介さず、ぱあっと顔を輝かせた。その瞳は、まるでショーウィンドウのケーキを見つけた子どものように、きらきらと潤んでいる。


「私もなの! デザイン考えるの、すっごく好きで!」


そう言って彼女が大切そうに取り出したのは、少し使い込まれたクロッキー帳だった。ページをめくる指先には、ほんのりラベンダー色のネイルが施されている。そこに広がっていたのは、樹の想像を遥かに超える世界だった。独創的で、緻密で、そして何より、ケーキへの愛に満ちたデッサンの数々。


「これはね、『冬の森のオーケストラ』!

チョコレートの切り株の上に、ピスタチオのクリームでできたモミの木が並んでて、木の実の精たちが楽器を演奏してるの」


「こっちは『聖夜に降る流れ星』。

ドーム型のココナッツムースを切ったら、中からマンゴーとパッションフルーツのソースが、流れ星みたいにキラキラって溢れ出すの!」


樹は、言葉を失っていた。彼女のアイデアは、ただ可愛い、綺麗、で終わるものではなかった。味の組み合わせ、食感のコントラスト、食べた時の驚き。そのすべてが、計算され尽くしているように感じる。これは、本気でケーキを愛している人間の発想だ。

独りで、誰にも見せずに技術だけを磨いてきた自分とは違う。このデザインは、誰かを喜ばせたいという、温かい光に満ちていた。


「いつか自分でデザインしたホールケーキを、お腹いっぱい食べるのが夢なんだ」


そう言ってはにかむ彼女の横顔が、窓から差し込む冬の午後の光を浴びて、少しだけ切なそうに見えた。


その時、樹の頭の中に、雷が落ちたような衝撃が走る。


(……俺の技術と、彼女のアイデアが、もしも組み合わさったら?)


嘲笑された過去。一人きりのキッチン。誰にも見せることのなかった情熱。それらが、彼女のデザインという光を得て、形になるかもしれない。


「……その流れ星、どうやってムースの中に液体を封じ込めるか、構造は考えてるのか」


気づけば、口から言葉がこぼれていた。それはもう、過去の痛みに怯えた、照れ隠しの棘を含んだ声ではなかった。ただ純粋な、技術者としての探究心に満ちた声だった。


その専門的な問いをきっかけに、二人の会話は熱を帯びる。技術的な視点の樹と、感性的なアイデアの桃香。歯車が噛み合う感覚に、二人は時間を忘れて夢中になった。


「これ、作ってみればいいだろ」


樹が、最大限の賛辞を込めて言うと、桃香はふっと表情を曇らせた。


「……作りたい。でもね、うち、お金がないんだよね」


その、か細い声が、樹の胸に突き刺さった。

そうだ。ケーキ作りは、金がかかる。上質なバター、産地にこだわったフルーツ、一欠片で数百円もするクーベルチュール・チョコレート。自分の場合はバイト代をつぎ込んでいるから何とかなっているだけだ。なんて無神経なことを言ってしまったんだ。


「……悪い」


絞り出した声は、ひどく掠れていた。


「ううん!」


桃香は慌てて首を振る。


「謝らないで。こんなにケーキの話ができたの、初めてだから。すっごく嬉しかった!」


彼女は、精一杯の笑顔を作って見せた。その笑顔が、あまりにも健気で、そしてあまりにも寂しげで、樹は目を逸らしたくなった。


(このまま、終わらせていいのか?)


樹の心の中で、二つの感情が激しくせめぎ合う。


一人は、臆病な自分が叫ぶ。


(関わるな。これ以上、自分の聖域に他人を入れるな。家に呼ぶなんて論外だ。また馬鹿にされるかもしれない。秘密がバレる。面倒なことになるだけだ)


もう一人が、心の奥底で疼く、職人としての自分が叫ぶ。


(このデザインを、この情熱を、ただの紙切れにしていいのか?お前には、これを形にする技術がある。道具も、場所もある。目の前で、最高の才能が、たった一つの、つまらない理由で朽ち果てようとしているのを、見過ごすのか?)


才能が、環境に負ける。その理不尽さが、自分の過去の記憶と重なり、許せなかった。


桃香が「じゃあ、またね」と、クロッキー帳を大事そうに抱えて立ち去ろうとする。その小さな背中が、諦めという重たい空気をまとっているように見えた。


ダメだ。行かせるな。


思考よりも先に、衝動が、樹の口をこじ開けた。


「――うち、来るか?」


自分でも、何を言ったのか分からなかった。桃香が、きょとんとして振り返る。


「うちのキッチン、使えばいい。そのレシピ、俺が本物にするよ」


言った瞬間、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。女子を、家に、誘う?この俺が?秘密の聖域に?ありえない。絶対にありえない。樹の顔は、みるみるうちに真っ赤に染まった。


「ホントに……?いいの?」


桃香の声は、震えていた。その大きな瞳が、信じられないという光と、すがるような期待で、潤んでいる。その輝きを見てしまったら、もう後には引けなかった。臆病な自分を、心の奥底に無理やりねじ伏せる。


「……ああ」


樹は、覚悟を決めて、頷いた。


その瞬間、桃香の表情が、ぱあっと花が咲くように輝いた。


「ありがとう、春石くん!嬉しい……!」


その屈託のない笑顔に、樹の心臓がどきりと音を立てる。彼女の喜びが、自分の決断が間違っていなかったのだと教えてくれているようだった。


「じゃあ、23日……お願いしても、いいかな?」


桃香が、少し遠慮がちに、けれど確かな希望を込めて尋ねる。


「ああ」


樹は短く答え、それから思考を巡らせた。ケーキ作りは準備がすべてだ。


「……でもその前に、材料を揃えないと話にならない。お前のデザイン、再現するには特殊なものもいるだろ」


「あ、そっか!そうだよね……!どうしよう、私、どこで買えばいいか全然…」


途端に不安そうな顔になる桃香を見て、樹は少しだけ口元が緩むのを感じた。


「心当たりはある。……問題は、いつ行くかだ」


樹はカレンダーを頭に思い浮かべ、少し早口に言った。


「明後日、終業式だろ。21日。その後なら、時間あるか?」


「うん!大丈夫、あるよ!」


桃香が、こくこくと力強く頷く。その真剣な眼差しに、樹は少し視線を逸らしながら続けた。


「じゃあ、決まりだ。……待ち合わせ場所とか、詳しいことは、また連絡する」


人目を気にしてしまう、自分の臆病さが出た言い方だった。だが、桃香はそんなこと気にもせず、「わかった!」と満面の笑みで答えた。


こうして、まずは12月21日に未知の材料を探しに行くこと、そして運命の12月23日にケーキを作るという、二人だけの、あまりにも甘くて、そして少しだけぎこちない秘密の協定が、静かに結ばれたのだった。



その日の夜


【春石樹の部屋】

自室のベッドに倒れ込み、樹は大きなため息をついた。


「……俺は、馬鹿か」


天井を見上げながら、何度も同じ言葉を繰り返す。女子が家に来る。それも、あの秘密のキッチンに。想像しただけで、胃がキリキリと痛んだ。明日、姉のみどりに知られたら、間違いなく一生からかわれる。両親も、面白がって根掘り葉掘り聞いてくるに違いない。考えれば考えるほど、後悔の念が押し寄せてきた。


だが、ふと体を起こし、机に向かう。

本棚から、フランスのパティシエの分厚いレシピ本を数冊引き抜いた。


(夏山の『流れ星』……中のソースを先に作って、半球状に冷凍する必要がある。土台のビスキュイは、アーモンドプードルを多めにしたジョコンド生地がいいか。いや、彼女のデザインの軽やかさを出すなら、もっとシンプルなジェノワーズか……?)


気づけば、後悔や羞恥心はどこかへ消え、一人の作り手としての思考に没頭していた。クロッキー帳に描かれていた、あの独創的で美しいケーキ。それを、自分の手で、この世に生み出す。その挑戦は、後悔を上回るほどに、樹の心を高揚させていた。


「……やるしかない、か」


その口元には、自分でも気づかない、かすかな笑みが浮かんでいた。



【夏山桃香の部屋】

桃香は、自分の部屋の机にクロッキー帳を広げ、そのページを何度も何度も指でなぞっていた。


(……夢、みたい)


樹くんのキッチンで作れる。彼が、手伝ってくれる。あの、ショーウィンドウの向こう側で輝いていた憧れのホールケーキを、自分の手で。

信じられないような幸運に、胸がいっぱいで、夕食の味もよく分からなかった。


彼女は、鉛筆を手に取ると、『聖夜に降る流れ星』のデザインの横に、小さな文字で書き込みを始めた。


『マンゴーとパッションフルーツのソース。酸味と甘みのバランス』

『ドームのホワイトチョコは、口溶け重視』

『アラザンは、大小二種類で天の川を表現』


今まで、ただの空想でしかなかった設計図に、具体的な命が吹き込まれていく。


(樹くんなら、きっと分かってくれる)


ぶっきらぼうで、少し怖そうに見えた彼の、ケーキについて語る時の真剣な眼差しを思い出す。彼の言葉には、本物の知識と、隠しきれない情熱があった。


(私の夢を、本物にしてくれる人)


桃香は、クロッキー帳をぎゅっと胸に抱きしめた。12月23日。その日が、自分の人生で、最高に特別な一日になる。そんな、甘い予感に満たされていた。

ご一読いただきありがとうございます!

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これからもよろしくお願いします(^O^)/

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