第4話 図書館に忍び寄る影
「ララ、こちらの棚もお願いできるかしら」
「はい! メイリーン様、ただちに!」
昼下がりの大図書館。分厚い書物の匂いに包まれ、ララの胸は不思議と落ち着いていた。恐怖に押し潰されそうだった数日前が、遠い出来事のように思える。
(でも……)
完全に不安が消えたわけではない。王太子や侍女長の顔が、ふと脳裏に浮かぶ。
(私がここにいて、メイリーン様のご迷惑にならないだろうか……)
視線に気づいた司書長が、いたずらっぽく微笑む。
「ララ、手が止まっているわ。悩んでしまうときこそ、手を動かすのよ」
その軽やかな声に励まされ、ララは自然と笑みを返した。
「では、わたくしは奥の書庫に行ってきますね」
「しょ、書庫……?」
「ふふ。いずれあなたも入ることになるかも。頼りにしてるわ」
背中を押されるようで、胸の奥がほんのり温かくなる。ララは黙々と本のコーティング作業を続けた。
ページを撫でるたびに、指先に光がきらりと走る。
ほんの数日前は一冊でぐったりだったのに、今では百冊ごとの休憩で足りるようになった。
メイリーンに褒められたときの声が、胸の奥で繰り返し響く。
(私に、魔法の才能が……?)
辺境伯家の四女として嫁入り修行ばかりしてきた自分に、思いがけない可能性がある――。
その実感が、心の中をじんわり温めていた。
やり甲斐のある仕事に、時を忘れる。
不安など、すっかり置き去りにして。
――だが、夕刻。背筋に冷たいものが走った。
「……だれか、いる?」
棚の向こうで影が揺れた。心臓が跳ね、本を取り落としそうになる。
まさか、王太子の追手……?
耳を澄まし、息を潜める。
……なにも起こらない。
……誰もいない。
気のせい……だったのだろうか。
それでも落ち着かないまま作業を続けるララ。振り返っては誰もいないことに安堵し、また手を動かした。
やがて夜の帳が下り、ランプの炎が揺らめく。緊張を抱えたまま、最後の仕事――休憩エリアの掃除に向かう。
「ふがあっ!」
突然の人の声。
「――きゃあっ!」
悲鳴をあげた瞬間――
「ぬおおっ、なんじゃあっ……!」
ソファからむくりと起き上がった人影。恐る恐るランプを向けると、そこには立派な白髭の老人がいた。
「だ、誰ですか!?」
「わしはまだ読んでおったのだ……むにゃ……」
寝言のように呟き、またソファに沈み込む。
ララが固まる横で、老人は本を抱えたまま寝息を立て始めた。
物音に気づいたのか、奥の部屋からメイリーンが駆け寄る。
「こちらのお爺ちゃん、常連さんなの。いつもこうして眠っていかれるのよ」
「あ、あはは……そうだったんですね」
ちょっぴり困り顔をしたメイリーンが、老人の肩を優しく叩く。
「お爺ちゃん、もう夜ですよ。お部屋で寝てくださいな」
メイリーンの声がささやき程度のせいなのか、老人の眠りの深さのせいなのか、起きる気配がない。
少し呆れたララがこぼす。
「起きませんね……。あれ、このお爺さん、どこかで見たことある気が……?」
「ふふ、白髪のお爺さんなら国中にたくさんいるものね」
メイリーンの軽い冗談に、二人は顔を見合わせて笑いあう。
その時。月明かりに浮かぶ人影が、書架の間をすっと駆け抜けた。甘い香りが鼻をかすめる。
「こ、今度は何……!?」
影が月明かりの中で止まり、柔らかい女性の声が響く。
「あらぁ、勘のいい子ね」
棚の陰から現れたのは、栗色の髪を結い上げた白いパティシエエプロン姿の女性。両腕に包みを抱えている。
「こんばんは。驚かせてしまったかしら」
ランプの灯に照らされ、香ばしい匂いが広がる。
「……あっ、ドゥルセのクッキー!?」
瞳を輝かせるララに、女性は小さく笑みを浮かべた。
「ご存じなの? 私が〈ドゥルセ〉のオーナーパティシエール、セシリア・ドゥルセです。メイリーン様に頼まれて、お菓子を」
「やっぱり……! 先日いただいたんです。本当に美味しくて!」
嬉しそうに頬をほころばせるララ。その素直さに、セシリアも目を細める。
「うれしいわ。でもね……メイリーン様、すごく食べるでしょう? 何度も届けに来てるのに、いつもなくなっているの」
「ちょっ……! わ、わたくしだって節約してますから!」
赤面して取り繕う司書長に、ララは吹き出し、場が和んでいく。
やがて静けさが戻り、ララはクッキーをひと口かじる。ふんわり広がる甘さに、自然と目を細めた。
「……おいしい」
「でしょう?安心できる場所で食べると一番美味しいのよ。ここは無防備に眠れるくらい、安全な場所なの」
いたずらっぽく、ソファで眠る老人へ目をやるセシリア。
「んがっ……この図書館は、わしが守る……むにゃ……」
寝言のような声に、セシリアは一瞬、目を見張り、ふっと微笑んだ。
意味は分からない。けれど、ララにはその仕草が妙に頼もしく映った。
三人は顔を見合わせ、笑い声をこぼす。
ララの胸にじんわりと熱が広がる。
「……ここは、本当に、不思議であたたかい場所ですね」
その呟きに、メイリーンは静かに微笑んだ。
――だが、この夜のぬくもりの陰で、すでに別の影が忍び寄っていた。