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第3話 王子の侮蔑、聖女の誘惑

 王宮の西棟にある大図書館。

 分厚い書物に囲まれた空間は、まるで外の喧騒を忘れさせるかのような静謐に包まれていた。


 ララはメイリーンの差し出したティーカップを両手で包み、温かさに頬がほころぶ。クッキーの甘さが心に静かに沁みていく。


 ほんの数刻前まで王宮の中で孤立し、恐怖に押し潰されそうになっていたのが嘘のようだった。


「……こんなに安心できる場所があるなんて」

 思わず漏れた小さな声に、メイリーンが柔らかく微笑む。だが、口いっぱいにクッキーを頬張っていて、言葉にはならない。


 やっと咀嚼を終えたかと思うと、神妙な顔つきで口を開いた。

「んぐっ……大丈夫。ここにいる限り、あなたを誰にも傷つけさせないわ」


 その言葉が、どれほど心強かったか。

 ララは胸に温かなものが広がっていくのを感じた。


 しかし――その安らぎの影で、別の場所では暗い策謀が蠢いていた。


 ◇◇◇


 王太子の私室。

 豪奢なシャンデリアの下で、イザベル侍女長は膝を折り、深く頭を垂れていた。


「申し訳ございません、殿下……。ララという小娘、どうやら図書館のメイリーン様が手元に置いたようで」


 美男の暴君、ミサラサ王子の表情が歪む。


「……図書館にだと! 俺の命令だとは伝えなかったのか?」


「お伝えしました。しかし、まるで殿下の御意志を踏みにじるかのように……。私どもも抵抗したのですが、公爵家には逆らえず……」


 わざと遠回しな言葉を重ね、責任をすべてメイリーンに押しつける。

 王子の眉間に深い皺が刻まれた。


「婚約者だからと調子に乗りやがって……! 引きこもりの地味女が、俺に逆らうとは」


 声が私室に重く響いた。


「もういい、下がれ!」


 苛立ちを隠さないミサラサ。

 一方、思惑どおり王子の怒りをメイリーンに向けることに成功したイザベル侍女長は、顔を伏せたまま口元にかすかな笑みを浮かべる。

 その密かな笑みを誰にも気づかれることなく、音もなく部屋を後にした。


 静寂が戻った部屋に、重苦しい空気が漂う。


 そのとき――寝台の上から、もぞもぞと布の擦れる音がした。


 薄絹をまとった黒髪の少女が、ゆるりと身を起こす。

 異界から召喚された聖女、エリカである。


「……へぇ。ミサラサ様に逆らうなんて、生意気ね」


 紅を差した唇に、愉快そうな笑みが浮かんだ。


「メイリーンって、あの無愛想な女でしょ? どうして婚約してるの?」


「政治目的でしかない。ショカルナ公爵家との繋がりを保つためだ」

 王太子は鼻で笑う。

「だが、あんな退屈な女、俺に釣り合うものか」


 そう、婚約の顔合わせのときですら、あいつはほとんどしゃべらなかった。

 自分に会う若い女は皆、着飾って笑顔を向けるというのに、あいつは化粧もろくにせず、笑いもせず、話もしない。まるで俺に興味がないといわんばかりに。


 それに比べて、この年若い聖女は……。

 この国の誰も持たぬ、夜を映したような黒髪と、闇に灯る黒曜石の瞳。

 女神に選ばれたと称えられるその力さえ、俺の手の中にある。

 当然だ。誰が王となる俺以外にふさわしい?


 エリカはついと首を傾げ、瞳を細める。


「婚約者と私……どっちが大事?」


 問いかけは甘やかで、どこか残酷。


「決まっているだろう」

 ミサラサは迷いなく答え、少女の頬を撫でた。

「――聖女の君に決まっている」


 エリカは満足げに微笑み、王太子の胸に身を預ける。


「ねぇ……その地味女、潰しちゃいましょうよ」


 ねだるような上目遣い。


「もとより、そのつもりだ。……だが、公爵家の力は強い。あの家を潰すには、君の存在が必要なのだ」


「私が必要なのは、それだけのため?」


 怪しく挑発するエリカ。


「わかっているだろうに」


 二人の影が寝台の上で寄り添う。


 王太子は寝台脇の机に視線を流した。そこにはまだ空白の羊皮紙が広げられている。

「……命令書を一つ用意すればいい。公爵の娘といえど、形式を整えれば従わざるを得まい」


 その夜の囁きと密やかな企みが、図書館への襲来、王宮に衝撃を走らせる『婚約破棄』という騒乱へと繋がっていくのだった。


 ◇◇◇


 同じ夜。図書館の宿泊室。

 灯火の下で、ララは静かな安心を胸に眠りにつこうとしていた。


「どう、眠れそうかしら?」

 隣のベッドには寝間着姿のメイリーン。


「メイリーン様も図書館にお泊まりになるなんて……。もしかして、私のせいですか?」


 この国で王族以外でもっとも高い地位にいる女性が、たかが侍女の隣で眠るなんて。


「いいえ、よく調べ物をしていると深夜になってしまうことが多くて。ここはベッドもお湯も使えるし、厨房まであるから。屋敷よりもこちらで寝泊まりすることが多いの」


 小さく笑っておどけるメイリーン。


 本当に、なぜこの方が「無愛想」と噂されるのだろう。私には、こんな穏やかな笑顔を見せてくれるのに。

「……ありがとうございます」


 ララの涙声に気づいていないかのように、メイリーンが独り言のように伝える。


「ほとぼりが覚めるまで、ここに寝泊まりするといいわ。……王宮でも知らない人が多いけど、この大図書館自体が元は要塞だった――という説があるくらいなのよ」


 そこまで語ると、メイリーンの寝息が静かに響き始めた。

 その穏やかな音に、ララの胸にもようやく安らぎが広がっていく。


 ――やがて夜は、ふたりを包み込むように、深い静けさを落としていった。

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