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いつもと違うご注文

作者: 南足洵ノ佑

蛍光灯の白い光が、床のタイルに反射して店内を無機質に照らし出す。冷蔵ケースの低い唸りだけが、BGMのように深夜の静寂に響いていた。2025年6月、東京・渋谷。華やかな大通りから一本裏に入ったこのコンビニは、夜が更けると外界から切り離された宇宙船のように、ただ静かに光を放ち続ける。


壁の時計は、午前2時29分を指している。


「……」


佐藤優斗は、誰に見せるでもなくため息を一つ吐いた。時給1350円の自動販売機。それが、深夜勤務の自分に対する彼の評価だった。「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」。客が来れば決まった音声を再生し、商品をスキャンし、金銭をやり取りする。そこに意思は介在しない。


チン、と乾いた電子音が鳴り、自動ドアが開いた。 時刻は、午前2時30分。鈴木さんが来る時間だ。


佐藤は顔を上げなくてもわかった。この一年間、佐藤がシフトに入っている日は一日も欠かさず、鈴木さんはこの時間に現れる。くたびれたスーツ姿で、入り口からまっすぐ雑誌コーナーへ。そこでスポーツ新聞を一紙つかみ、次いでドリンクコーナーで決まって同じ銘柄のブラック缶コーヒーを手に取る。そしてレジへ。支払いは常に小銭。合計金額を完璧に把握しており、過不足なくカウンターに置く。その間、一度も佐藤と目を合わせることはない。それが、世界が明日も続くことを証明するかのような、変わることのない儀式だった。


だが、今夜は違った。


佐藤がレジカウンターの向こうに感じた気配は、いつものそれとは明らかに異質だった。ふと顔を上げると、そこに立っていたのは紛れもなく鈴木さんだった。しかし、その姿は佐藤の知る彼ではなかった。

いつもの、猫背気味でくたびれた背中じゃない。まるで目に見えない糸で天井から吊り上げられているかのように、背筋が不自然なほどまっすぐに伸びていた。


そして、目が合った。


射抜くような、まっすぐな視線。値踏みをするような、それでいて何の感情も読み取れないガラス玉のような瞳。鈴木さんと目が合ったことなど、この一年で一度もなかった。佐藤は心臓が小さく跳ねるのを感じた。

鈴木さんは雑誌コーナーには向かわなかった。ドリンクコーナーにも行かない。まっすぐ、佐藤のいるレジカウンターまで歩いてきた。その足取りは、まるで定規で線を引いたかのように正確だった。


「……これ、ください」


カウンターに置かれたのは、二つの商品だった。 ピンク色のパッケージがやけに目に痛い「完熟いちごミルク」。 そして、子供向けの菓子コーナーにある、毒々しい青と緑のリングが絡み合った「スペース・リンググミ」。

佐藤は絶句した。思考が停止する。ブラックコーヒーとスポーツ新聞。それ以外の選択肢が鈴木さんに存在することなど、想像したことすらなかった。


「……はい」


かろうじて返事をし、商品をスキャンする。合計金額を告げると、鈴木さんは財布から真新しい一万円札を取り出し、トレーの上に置いた。小銭じゃない。これも、初めてのことだった。

釣りを渡す指先が、微かに震える。鈴木さんはそれを受け取ると、満足げに、しかしやはり無表情に頷き、商品を手に踵を返した。


チン。


自動ドアが閉まり、店内は再び静寂に包まれた。


後に残されたのは、不釣り合いなほど甘い香りのレシートと、佐藤の混乱だけだった。なぜ、どうして。そんな理性的な問いは浮かんでこない。ただ、腹の底からせり上がってくるような、冷たい嫌な感じだけが、やけに生々しく佐藤の全身を支配していた。


トレーに残された一万円札と、釣り銭の硬貨たち。それらが、まるで異世界の遺物のように見えた。佐藤はしばらくの間、身じろぎもせずにそれを見つめていた。何かがおかしい。頭の中の警報が、けたたましく鳴り響いている。


気のせいだ、と彼は無理やり自分に言い聞かせようとした。鈴木さんにも色々あるのだろう。娘や孫にでも頼まれたのかもしれない。長年続けてきた習慣を変えるのに、何か大きなきっかけがあったのかもしれない。人間なのだから、気まぐれの一つや二つ、あるに決まっている。


だが、理性が囁くもっともらしい言い訳は、肌に残った粟立つような感覚の前では何の力も持たなかった。あの背筋。あの視線。あれは「気まぐれ」という言葉で片付けられる類のものではなかった。あれは、人間が本来してはいけない類の「変化」のように思えた。


佐藤は、まるで何かに導かれるようにバックヤードへ向かった。隅に置かれた小さなデスクの上には、防犯カメラの映像を映す古いモニターが置かれている。マウスを握る手が、汗でじっとりと湿っていた。

再生したのは、数分前の映像。午前2時30分。自動ドアが開く。そこに、鈴木さんが入ってくる。 佐藤は映像の再生速度を落とし、食い入るように画面を見つめた。


おかしい。


鈴木さんが自動ドアのセンサーを通過する、まさにその一瞬。映像が、ほんの一瞬だけ乱れた。まるでビデオテープが絡まった時のように、画面に横一線のノイズが走り、鈴木さんのシルエットがぐにゃりと歪む。それは一フレームにも満たない、瞬きほどの時間だった。だが、確かにそこにあった。歪んだ影は、一瞬だけ、人の形を逸脱して長く、細く見えた。


佐藤は何度も、何度もその瞬間を巻き戻しては再生した。それは、古い機材の接触不良だと言われればそれまでだ。しかし、彼の直感はそれを断固として拒絶していた。これは、見てはいけないものが、世界の綻びから一瞬だけ顔をのぞかせた痕跡なのだと。


背筋を冷たいものが走り、佐藤は思わず背後を振り返った。客のいない店内は、相変わらず白い光に満たされ、静寂を保っている。しかし、もはやその静けさは安らぎをもたらさなかった。全ての棚の影が、何か得体の知れないものを隠しているように見えてならなかった。


その夜の残りの時間は、地獄のようだった。ドアのチャイムが鳴るたびに、佐藤の肩は恐怖に跳ねた。入ってくる客が皆、何かの仮面を被った化け物に見えた。


そして、次の夜。 佐藤は、恐怖と、そして奇妙な義務感に駆られてシフトに入った。逃げ出すという選択肢は、なぜか彼の中にはなかった。あれが何なのか、確かめなければならない。


運命の午前2時30分。 チン、と電子音が鳴った。来た。


入ってきたのは、昨日と寸分たがわぬ「鈴木さん」だった。まっすぐな背筋、ガラス玉のような瞳。彼は昨日と同じように、まっすぐレジカウンターへ向かってきた。その手には、やはり「いちごミルク」と「スペース・リンググミ」が握られている。


「……」


佐藤は唾を飲み込み、商品のスキャンをしようと手を伸ばした。その時だった。


「佐藤、優斗さん。ですね」


抑揚のない、平坦な声だった。 佐藤の動きが止まる。なぜ、自分のフルネームを?名札はつけているが、客にフルネームで呼ばれることなど今まで一度もなかった。


「……はい、そうですが」

「この仕事は、楽しい、ですか」


質問の意図がわからない。まるで、異文化を学ぶ研究者のような問いかけだった。楽しい?そんな感情、この仕事に抱いたことなどない。


「いえ……ただの、アルバイトですから」

「なるほど。アルバイト。学習しました」


「鈴木さん」はそう言うと、満足げに小さく頷いた。その仕草に、佐藤は全身の産毛が逆立つのを感じた。これは会話じゃない。情報を収集されている。分析されている。

会計を済ませ、商品を渡す。昨日と同じ、新しい一万円札での支払いだった。 「鈴木さん」が店を出ていく。その背中を見送りながら、佐藤は確信した。


あれは、鈴木さんじゃない。 鈴木さんの姿形と、いくつかの習慣を「模倣」した、何かだ。

そしてその「何か」は今、自分に興味を持ち始めている。


トレーに残されたお釣りの硬貨が、やけに冷たく感じられた。佐藤は、自分がとてつもなく危険な狩り場に、たった一人で取り残されてしまったことを悟った。


「学習しました」


あの平坦な声が、店内の静寂の中で反響しているようだった。佐藤の脳に、その言葉が焼き付いて離れない。学習?何を?自分を?鈴木さんを乗っ取ったあの「何か」は、まるで未知の生物を観察するように、この世界を、人間を、そして佐藤優斗という個体を学んでいる。


恐怖が一周して、冷たい怒りのような感情が湧き上がってきた。ふざけるな。ここは俺のいるべき場所で、お前のような得体の知れない奴が土足で上がり込んでいい場所じゃない。


衝動的に、佐藤は店の外に飛び出した。目的は一つ。店の入り口脇に置かれたゴミ箱だ。昨夜、そして今夜も、「鈴木さん」は決まって店の外に出てから飲み物を捨てていたはずだ。そこに、何か手がかりが残っているかもしれない。


湿った空気と生ゴミの不快な臭いが鼻をつく。佐藤は躊躇いながらも、ゴミ箱の中に手を突っ込んだ。他の客が捨てた弁当の容器やペットボトルをかき分ける。そして、見つけた。ピンク色の「いちごミルク」の紙パック。昨日のものと、おそらく今日のものの二つ。


佐藤はそれを持ち上げ、バックヤードの薄暗い明かりの下へと運んだ。一つを手に取り、開け口から中を覗き込む。空のはずだった。だが、パックの底には、飲み残しとは明らかに違う「何か」が溜まっていた。


それは、微かに燐光を発する、ゼリー状の物質だった。まるで砕いたオパールを混ぜ込んだかのように、鈍い虹色の光を内包している。佐藤は恐る恐るパックを傾けた。それは液体のように流れず、奇妙な弾力を保ったまま、ゆっくりと形を変えるだけだった。


好奇心が恐怖を上回った。彼は指を伸ばし、その物質の表面に、ほんの少しだけ触れた。 その瞬間、後悔した。

冷たい。しかし、それは単なる温度の低さではなかった。まるで命そのものを吸い取られるような、冒涜的な冷たさだった。佐藤は悲鳴を上げて指を引こうとした。だが、遅かった。ゼリー状の物質は、彼が触れた部分だけがまるで生き物のように指先にまとわりつき、そして――消えた。


拭き取るものではなかった。まるで乾いた砂が水を吸うように、彼の指紋の渦の中へと、すぅっと吸い込まれて消えてしまったのだ。


「うわあああっ!」


短い悲鳴を上げ、佐藤はバックヤードのシンクに駆け込んだ。蛇口を最大までひねり、石鹸をつけ、ゴシゴシと狂ったように右手を洗い続ける。だが、意味はなかった。皮膚の表面には、もちろん何も残っていない。しかし、あの冒涜的な冷たさの「感触」だけが、皮膚の内側に、神経の末端に、こびりついて消えなかった。


洗い続けるのをやめ、佐藤は呆然と自分の右手を見つめた。 一見、何も変わらない、いつもの自分の手だ。だが、彼にはもうわかっていた。境界線は、破られた。敵はもう、外にいるだけじゃない。


自分の、内側にいる。


その右手は、もはや佐藤優斗の、ただの右手ではなかった。それは、異次元からの侵略における、最初の橋頭堡。静かに潜伏し、主人の意識を内側から蝕むための、時限爆弾だった。


時計の秒針が進む音が、やけに大きく聞こえる。佐藤はバックヤードから、幽霊のような足取りで売り場に戻った。客は誰もいない。しかし、無数の視線を感じる。商品棚の隙間から、天井の監視カメラから、そして何より、自分の右手の皮膚の内側から、「何か」が自分をじっと観察している。


レジカウンターの内側に戻り、彼は何気なくタバコの棚に目をやった。光沢のあるガラス面に、自分の顔がぼんやりと映っている。 そこにいたのは、佐藤優斗だった。しかし、何かが決定的に違っていた。 表情がない。 いつもなら、疲れや退屈といった感情が染みついているはずの顔から、一切の感情が抜け落ちている。まるで精巧に作られた人形か、あるいは、まだ操作方法を学習しきれていないアンドロイドのようだ。佐藤が意識して眉をひそめると、ガラスの中の自分も、ワンテンポ遅れて眉をひそめた。その僅かな「ズレ」が、佐藤の心臓を氷の指で鷲掴みにした。

どれくらいの時間が経っただろうか。東の空が白み始め、新聞配達のバイクが店の前を通り過ぎていく。もうすぐ、この悪夢のようなシフトも終わる。


(熱いブラックコーヒーを飲もう。それで、この悪夢を洗い流すんだ)


そう思った。自分の意思で、そう決めた。いつものように、店内のコーヒーマシンに向かう。熱いブラックコーヒーは、夜勤明けの気付け薬として、彼のささやかな習慣の一つだった。カップを置き、彼はマシンの前で口を開いた。自分自身に、そして世界に、まだ自分が自分であることを証明するために。


「……あ、あまい、いちごミルクを……」


ひび割れた、か細い声が自分の口から漏れた。 違う。 佐藤は全身の血が逆流するのを感じた。違う!俺が言いたいのはそんなことじゃない!ブラックコーヒーだ!苦くて熱い、ブラックコーヒー!


「い、いちご……」


口が、勝手に動く。右手と同じだ。もう、自分の身体の所有権が、自分だけのものではなくなっている。


「ふざけるなッ!」


佐藤は叫び、自分の左手で、右腕を力任せに掴んだ。まるで右腕が独立した生き物であるかのように睨みつける。そして、腹の底から声を絞り出した。


「ブ、ラック……コーヒーを……一杯……!」


言えた。 ぜえぜえと肩で息をする。コーヒーマシンは、彼の最後の言葉に反応し、黒い液体をカップへと注ぎ始めた。焦げたような香りが、佐藤の鼻腔をくすぐる。 小さな、本当に小さな勝利だった。だが、代償はあまりにも大きかった。彼は、自分の身体の中で、すでに主導権争いが始まっていることを、疑いようもなく理解してしまった。

やがて、交代の早番アルバイトがやってきた。佐藤は最低限の引き継ぎを済ませると、逃げるように店を飛び出した。 朝の渋谷は、すでに多くの人々で溢れかえっていた。誰もが忙しなく、それぞれの日常に向かって歩いている。


しかし、佐藤にはその光景が、まるで作り物のように見えていた。


この雑踏の中に、あと何体の「あれ」が紛れ込んでいるのだろう? 隣を歩くあの女子高生は? 向かいのビルに入るあのサラリーマンは? そして、俺は――。


俺は、いつまで「俺」でいられるのだろう?

佐藤は、震える右手を見つめた。それは、ゆっくりと、しかし確実に、彼の世界を内側から食い尽くす侵略者の手だった。夜勤明けの気怠さとは質の違う、絶望的な疲労感が、彼の全身を支配していた。


自分のワンルームアパートに帰り着いても、安らぎはどこにもなかった。かつては唯一の聖域だったはずの空間が、今は自分というウイルスを持ち込んでしまった培養室のように感じられる。シャワーを浴びても、皮膚の内側に潜む汚染が洗い流せるわけではない。


ベッドに倒れ込むが、眠れるはずもなかった。目を閉じると、瞼の裏で意味不明の映像が明滅する。ガラスが擦れ合うような不快な音。静電気を舐めた時のような、舌が痺れる感覚。そして、幾何学的な模様が無限に広がる、光のない空間のビジョン。それは夢ではなかった。佐藤の中の「何か」が、故郷の記憶を垣間見せているのだと直感的に理解した。あまりの非人間的な光景に、佐藤は何度も身を震わせた。


ほとんど眠れないまま、夕方になっていた。身体は鉛のように重いが、頭だけは恐怖で冴え渡っている。 このままではダメだ。次のシフトに入れば、また「あれ」が来る。そして、昨夜よりも一歩、確実に侵略は進むだろう。いずれ、コーヒーを注文するという小さな抵抗すらできなくなり、最後には、あのガラス玉のような瞳でカウンターに立つ自分が完成する。


それだけは、絶対に嫌だ。


佐藤はベッドから起き上がった。何かしなければ。だが、何を?警察に行くか?「常連客が偽物で、僕も乗っ取られかけてるんです」なんて、誰が信じる?

情報が足りなすぎる。敵の正体も、目的も、弱点も、何もわからない。 手がかりは、ただ一つ。「鈴木さん」。 シフトまでまだ数時間ある。佐藤は、まるで何かに引き寄せられるように、再びあのコンビニへと向かっていた。外から、様子を窺うためだった。


店の向かいのビルの陰から、自動ドアを眺める。高校生が、主婦が、サラリーマンが、吸い込まれては吐き出されていく。あの日常の風景が、今はただひたすらに不気味に見えた。


その時だった。


「あの、すみません!」


背後から、切羽詰まったような若い女性の声がした。佐藤が驚いて振り返ると、そこに立っていたのは、息を切らせた20代前半の女性だった。


「あなた、ここの夜勤の人ですよね?私、昨日も来たんですけど、あなた、いましたよね?」 「え……はあ」 「お願い、教えてください!私の父、見ませんでしたか?鈴木一郎って言うんですけど!」


鈴木。その名前に、佐藤の心臓が凍り付いた。目の前の彼女は、あの「鈴木さん」の――。


「背が高くて、いつも紺色のスーツ着てて……ここ一年くらい、毎晩同じ時間に……」 「……缶コーヒーと、新聞を買っていく」


佐藤がそう付け加えると、彼女――鈴木さんの娘は、目を見開いて頷いた。


「そうです!その父が、数日前からおかしいんです。別人みたいに、なってしまって……。話しかけても反応がズレてるし、昨日なんて、家にいちごミルクなんて買ってきて……。気味が悪くて、今朝、家を飛び出してきちゃったんです。父はきっと、毎晩ここに来るから、何か手がかりがあるんじゃないかって……」


彼女の声は、涙で震えていた。 間違いない。佐藤は、初めて自分以外の「観測者」に出会えたことに、わずかな安堵と、それ以上の恐怖を感じていた。俺は、狂ってなんかいなかった。この恐怖は、本物だ。


「あの、何か知らないですか?父は、どんな様子で――」


彼女が必死の形相で佐藤に詰め寄った、その瞬間だった。 彼女の言葉が、ぷつりと途切れた。


「え?」


彼女の瞳から、すっと焦点が消えた。そして、まるで糸が切れた人形のように、その場にがくりと崩れ落ちる。白目を剥き、がくがくと小刻みに痙攣を始めた。


「おい!しっかりしろ!」


佐藤が駆け寄るが、彼女の意識はない。口から小さく泡を吹き、その目は、ただ虚空を睨んでいる。 何が起きた?突然の発作?いや、違う。


佐藤は、雷に打たれたように理解した。 「あれ」が見ている。 「あれ」が、自分の正体を探ろうとする娘を、邪魔だと判断して、やったんだ。 遠隔で?どうやって?わからない。だが、その圧倒的な力の差を見せつけられ、佐藤はもはや声も出なかった。


周囲の通行人が何事かと集まり始め、誰かが「救急車!」と叫ぶ声が、やけに遠く聞こえた。佐藤は、痙攣する彼女の身体と、ざわめく群衆の真ん中で、完全に立ち尽くすことしかできなかった。


遠くから聞こえてくる救急車のサイレンが、現実の音として佐藤の鼓膜を突き刺す。野次馬たちの無遠慮な視線が、彼と、地面で痙攣し続ける鈴木さんの娘に突き刺さる。誰かが彼の肩を掴み、「大丈夫か、君!」「彼女の連れか!?」と叫んでいる。


違う。連れじゃない。だが、無関係でもない。俺のせいで、彼女はこうなったんだ。


「ぼ、僕は、何も……」


嘘をついた。どもりながら、首を横に振る。その瞬間、救急隊員たちが群衆をかき分けて到着した。彼らの意識がストレッチャーと彼女に集中する、ほんの僅かな隙。佐藤はその隙を見逃さなかった。


彼は、掴まれていた肩を振りほどき、人垣の隙間を縫って、裏路地へと転がり込んだ。背後で誰かが何かを叫んでいる気がしたが、振り返らなかった。ゴミの悪臭が漂う薄暗い路地を、息が切れるのも構わずに走り続ける。


なぜ? なぜ「あれ」は、娘を今、このタイミングで襲った? 答えは一つしかない。


コンビニの、この場所に、近づいたからだ。


佐藤は、走りながらハッと気づいた。あの店が「あれ」の巣だ。狩り場であり、異次元とこの世界を繋ぐためのアンカーだ。「習慣」というエネルギーを糧にして、あの場所から根を伸ばしている。だからこそ、巣の存在を脅かす可能性のある娘を、即座に、無慈悲に排除したのだ。


そうか。そういうことか。 路地の壁に手をつき、荒い息を整えながら、佐藤は乾いた笑いを漏らした。恐怖のあまり、おかしくなりそうだった。 逃げても無駄だ。あの「何か」は、すでに俺の内にいる。どこへ行こうと、いずれは見つけ出され、肉体を乗っ取られるだろう。鈴木さんの娘のように、遠隔で意識を刈り取られるかもしれない。


ならば、戦うしかない。 巣にいる本体を、叩くしかない。


佐藤の瞳に、絶望とは異なる、昏い光が宿った。彼は、震える足で再び大通りへと戻ると、自分のアパートとは逆の方向へ、コンビニへと、まっすぐ歩き始めた。


午後10時。 いつもの出勤時間。 彼は、まるでこれから死地へ向かう兵士のような覚悟で、店の自動ドアをくぐった。

「あ、佐藤くん、お疲れー」 一つ前のシフトに入っていた同僚が、気の抜けた声で言った。 「お疲れ様です」 いつもと同じ挨拶を返す。声が震えなかったのは、奇跡だったかもしれない。 「じゃ、あとよろしくー」 同僚が手をひらひらと振りながら出ていく。チン、と鳴ってドアが閉まる。


ついに、店内には佐藤一人だけになった。


いつもの、見慣れたコンビニ。しかし、今は全く違う場所に感じられた。敵の要塞の、一番奥深く。静まり返った店内に、佐藤は自分の心臓の音だけがやけに大きく響くのを聞いていた。


彼は、カウンターの奥でじっと待った。 午前2時30分。 最後の客が、最後の「ご注文」をするために、必ずここへやってくる。

佐藤は、たった一人、決戦の舞台に立った。


彼は、カウンターの奥でじっと待った。 だが、ただ待つだけではなかった。午後10時を回ってから、佐藤は静かに準備を始めていた。火を放つような物理的な破壊ではない。もっと根源的な、奴らの存在意義そのものを否定するための冒涜的な儀式の準備を。


彼はまず、店内の商品を片っ端から、本来あるべき場所ではない棚へと移動させた。雑誌コーナーに並ぶ色とりどりのペットボトル。冷凍ケースに詰め込まれた週刊誌。弁当コーナーには洗剤が、レジ横のホットスナックの什器には乾電池が、整然と陳列されている。一見すると意味のない悪戯だが、これは「決められた場所にあるべきものが在る」という、この空間の「習慣」と「秩序」に対する、最初の攻撃だった。


次に音。彼は店内のBGMを最大音量にした。それに加え、自分のスマートフォンで再生した、ただ耳障りなだけのホワイトノイズを、バックヤードのスピーカーに接続した。J-POPとノイズが不快に混ざり合い、聴覚を暴力的に刺激する。


「無意味な行為だ」 頭の中に、あの声が響く。「秩序に帰れ。お前は、歯車の一つだ」 「生憎だな」佐藤は、空の電子レンジのスイッチを入れた。ブゥン、という低いモーター音が、不協和音に加わる。「俺は、歯車でいるのに飽き飽きしてるんだ」


彼はレジカウンターに立つと、バーコードリーダーを手に取った。そして、手当たり次第に商品のバーコードをスキャンし始めた。ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。規則的だったはずの電子音が、今は狂ったパルスのように店内に鳴り響く。


準備は整った。


午前2時30分。 チン、と電子音が鳴った。狂ったノイズのオーケストラの中に、その音だけがクリアに響いた。 「鈴木さん」と、トラック運転手の「模倣体」が入ってくる。二体は店内の異様な光景を一瞥したが、表情は変えない。ただ、その歩みがコンマ数秒だけ、ためらったように見えた。


二体はレジの前に立つ。


「終わりだ、佐藤優斗」重層的な声が言った。


「抵抗は、秩序を乱すノイズにすぎない。我々と統合され、調和の一部となれ」


「調和だって?」佐藤は笑った。「お前らのそれは、ただの無音だろ。俺は、ノイズの方がマシだね」


彼は叫びながら、バーコードリーダーを自分の名札に、壁に、自分の左手に、めちゃくちゃに押し付けた。ピッ、ピッ、ブブーッ!ブブーッ!成功音とエラー音が入り乱れる。


その瞬間、二体の「模倣体」に、明らかな異変が起きた。 ノイズの奔流に耐えかねたように、二体の姿が激しく明滅し、輪郭がブレ始めた。まるで電波障害を起こした映像のように、人間の姿と、その奥にある黒い影とが、何度も何度も入れ替わる。彼らにとって秩序と習慣こそが存在の基盤であり、この意味不明なカオスは、そのOSを直接攻撃する強力なウイルスのようだった。


「ギ、ィ……秩序ガ、調和ガ、乱……レル……」


声にならない音を漏らしながら、二体の姿は、まるで店内の空間から「弾き出される」ように、後ずさった。そして、自動ドアをすり抜けるように外へ出ると、闇の中へと溶けるように消えていった。


静寂が戻る。 佐藤は、その場にへなへなと座り込んだ。荒い息を繰り返しながら、散らかった店内を見渡す。 勝った。 勝ったんだ。追い払ってやった。


彼は、よろめきながら店の入り口へと向かった。外の、新鮮な空気が吸いたかった。元の、正常な世界を、この目で確認したかった。


自動ドアが開く。 深夜の街は、いつも通り静かだった。車もほとんど通らない。



――その時だった。


通りの向こう側を歩いていた、一人のサラリーマンが、ふと足を止めた。そして、ゆっくりと、ぎこちない動きで、こちらを向いた。 少し離れた駐車場に停まっていたタクシーの運転手が、同じようにこちらを向いた。 マンションのベランダで煙草を吸っていた男が。 深夜のジョギングをしていた若者が。 一人、また一人と、視界に入る全ての人間が、全ての動きを止め、ただ、ぴたりと、このコンビニを、佐藤優斗だけを、見つめていた。


その目は、全て同じだった。 あの「鈴木さん」と同じ、何の感情も宿さない、ガラス玉の瞳。


佐藤は、息を呑んだ。 背筋を、宇宙的な寒気が走り抜けた。


彼は、侵略を食い止めたのではなかった。 巣を破壊したのでもなかった。


ただ、巨大な狩猟者のテリトリーで、「ここにイレギュラーがいます」と大声で叫び、自分の名前を名乗ってしまっただけに過ぎなかった。


店内の狂ったノイズは、もう止まっている。 だが、佐藤の耳には、街全体の、数え切れないほどの視線が突き刺さる、無音の絶叫が聞こえていた。



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