これまでの経緯
廊下は静まりかえっていた。
人の気配を感じないのは、二階の住人らが既に部屋を出ているからだろう。
現在この寮には、千歳を含めた寮生が六名、それに寮監と寮監補佐、寮母の合計九名が生活しているが、皆、朝は早い。
北館の内装もレトロ調を意識して造られている。
階段の手摺りに施された丸みのある装飾などはいかにもだ。
客室の扉の前にもダイヤカットの入った窓ガラスが並んでいて、これは二階客専用ラウンジの室内窓だ。
細長い室内には、アンティーク調の大きなコレクションケースやソファセットが置かれたりと優雅な空間になっている。
紅茶でも飲みながら楽しくお喋りに興じる事が出来ればさぞかし絵になるだろうが、寮生達の関係を思えば正に絵空事だ。
(……絵空事。夢想、夢)
千歳は考える。
何故自分がこの寮へと引っ越すことになったのか、その謂れを。
人は生まれついて、神通力と呼ばれる超常の力が備わっているそうだ。
だが、神代に起きた大惨事を生き延びるために、全ての力を肉体の保護に回したという。
結果、人は力を操る術を失い、力の存在も忘れて現在に至る、とのことだ。
ただ稀に、命に関わる事故や事件に遭遇した際、身を守るために力が発現する事がある。
絶体絶命のピンチに、秘められた力が覚醒する、という、アニメやゲームでおなじみの展開が現実に起きる訳だが、はっきり言ってそんなに良いものではないと、経験者である千歳は語りたい。
神通力、現在は霊力と呼ばれているが、その力は筋力同様、鍛えなければ使い物にならないという、何とも現実的な仕様になっているのだ。
地道な訓練を積む必要があり、そのために時間と労力を費やすことになる。
ちなみに放置すると、感情に触発されて、霊力が暴発する恐れがあるため、鍛錬は必須、というかほぼ義務だ。
(理不尽)
千歳は辟易と嘆息した。
交通事故のとばっちりを受けて怪我を負い、リハビリせざる終えない状況と同じだ。
だが、愚痴を垂れている場合ではない。
霊力が高まり霊視の目が開くと、異形を目視してしまう恐れが出てくるのだ。
異形は、妖怪や妖精、精霊といった実体を持たない存在の総称だ。
こちらからちょっかいを掛けない限り危険は少ないが、カルマと呼ばれる人型の魔物共は別だ。
その生態を一言で表現するなら、場末のチンピラ。
目が合ったり、近くを通ったりすると因縁をつけてくる。
取り憑かれると精気を吸われて、最悪、死も免れないという、危険極まりない連中だ。
そんな化け物共から身を守るためにも、鍛錬は必要になってくる。
と言うわけで、力が覚醒しても、いらぬ危険と面倒が増えるだけで、お得な特典は何もない。
(――あ、でも、五感が敏感になるから、色感や音感が優れるってのはあったっけ)
(けどそれって、神経質になるってことなんだよな……)
げんなりと千歳は半眼になった。
千歳もそんな生き辛さを背負う羽目になった一人だ。
ただ千歳の場合、他人と違って特典が付いてきた。
それも傍迷惑な、厄介極まりない特典―特性ともいうべきと能力が。
夢が辻と呼ばれる異空間が、大都市には存在する。
街に凝った自然の気に、人の記憶と情念が満たされて生み出された、水没都市のような異界だ。
人の未来を写すと言われるその辻を、千歳は渡り歩くことが出来る。
幼少時、とある事件を経た為に得る事になったレアな能力だ。
だが、生者が夢が辻に入ると、周囲の気が大きく波打ち、隠れ潜んでいた異形が暴れ、現実世界に被害をもたらす恐れがある。
夢が辻に入らなければ済む話だが、大抵、無意識のうちに迷い込んでしまうので、これといった対処法がなく、目下、千歳の悩みの種となっている。
(我ながら傍迷惑な能力だよ)
暴れ出した異形は自分で片を付けたいが、誠に残念なことに、千歳は戦闘に、致命的に不向きだった。
人には向き不向きがあり、出来ないものはどう逆立ちしても出来ない。
よって対処は全て人任せという、何とも気まずい状態だ。
(トラブルを引き起こしてばかりの、人気が出ない主人公設定ですね)
ははっ、と乾いた笑いが漏れるというものだ。
力が覚醒した者は、程度は違えど、大抵こういった憂き目に合うものらしいが「超能力など存在しない。現実を見て生きなさい」が常識となっているこのご時世、どう対処すれば良いのか、一般人にはまず分からない。
うっかり詐欺にでも会おうものならそれこそ泣きっ面に蜂だ。
そんな人々を教導するのが、術者―神代より超常の力を受け継ぐ者達だった。
独自の界を形成し、古の営みを後の世に伝える彼らは、力を持て余す者達に使い方を伝授しよう手を尽くしている。
術者が起業した民間会社でも、そういった活動は行われている。
千歳がアーティストとして所属する芸能事務所、スタジオ・ホフミもその一つだった。
スタジオ・ホフミは、動画配信サイトで名を上げたシンガーソングライター、児玉塚正樹が起こした会社で、現在は最新技術を使った映像作品の発表や、アーティストの育成、音響システムの開発などを手がけている。
芸能事務所というよりは制作会社、もしくはベンチャー企業と表現した方が適切かもしれない。
そして社長の児玉塚正樹は、術者の界において多大な影響力を持つと言われる、霧の山城と呼ばれる組織、その次期当主という肩書きを持っていた。
今は実家を離れてクリエイター兼社長業に勤しんでいるが、術者界における権力は健在だ。
具体的にどれくらい健在かと言えば、ただの子供が描いた絵を、神々からの御神託、未来予知と認定し、対策を講ずる為、術者の組織から人員を招集する程度に絶大だ。
そうして集められたのがこの寮に住まう寮生達であり、御神託と定められた絵を描いたのが、他でもない千歳だった。
(改めて考えると、滅茶苦茶な話だよな)
(けど、他は皆本気にしてるっぽい……)
そう、本来なら芸能事務所の社員寮であるはずのこの建物に住まうのはただの寮生ではない。
建前上はアーティストないしクリエイター見習いと言うことになっているが、全員術者、しかも霊的な荒事対処に特化した、戦闘のプロだ。
昨夜の騒動でも、駆けつけた彼らの身のこなしからその片鱗は窺える。
この決定を正樹から聞いたとき、千歳は仰天した。
碌な説明もなしに、しばらくの間、術者達と共同生活を送るよう言われて、千歳は正樹に盛大に抗議した。
が。
(盛大にやらかしましたからね……)
青ガシャ急襲事件として記録される事になった先の経緯は伏せるが、千歳が引き金を引いたこの大事件を収拾させたのが、正樹が集めた寮生達だった。
彼らの尽力によって事件は解決、後始末もつけてくれたおかげで大事には至らなかったが、この一件は、正樹によって件の御神託認定された絵と関連付けられてしまった。
(何でだよ!)
盛大に突っ込みたいところだが、騒ぎの引き金を引いてしまった手前、さすがに強くは出られない。
千歳は渋々正樹の決定に従う事にしたのだ。
(――夢が辻は、誰かの未来を垣間見る事が出来る)
(その辺が影響してるんだろうけど)
(つか、最初っから拒否権はなかったし)
数日前の出来事を思い出しながら、千歳は諦念混じりの遠い目になる。
今以て正樹の方針には懐疑的だが、その采配が的を射ていたのは確かだ。厚意も感じる。
が、どうにも裏があるような気がしてならない千歳は、
(どんな思惑があってのことかは分からないけど)
(しばらくは様子見ってことで)
少々投げやりに考えるのだった。