騒々しい朝
時刻は午前六時三十分。
降り続いたみぞれ交じりの雨はすっかり上がって、高く晴れ渡った冬空に、遠く朝日が燦然と輝いている。
冷たく澄んだ大気に吐息を白く上げながら、
「っはぁ~~~」
大きく伸びをすると、碓氷千歳はゆっくり肩を下ろした。のろのろと頭を上げ、
「……眠い」
目の下の隈を晒しながら、千歳は憔悴しきった顔でぼやく。
爽やかな朝に似つかわしくない、疲労困憊のていだった。
場所は芸能事務所スタジオ・ホフミ新寮、二階自室のベランダである。
青ガシャ事件より、六日経った朝だった。
事件後、予定より一日遅れて新寮へと居を移した千歳は、引っ越しの片付けもあらかた済ませ、まごつきながらも新しい環境に馴染みつつあった。
他の寮生達も、それぞれの仕事をこなしながら静かに日々を送っている。
初日ような対立もなく、この場所へ集められた理由について、話題に上がることもない。
当面は様子見といったところだろうか。
人は大体二週間前後で新しい環境に慣れると言うが、皆、順応性の高いことだ。
と言っても、いくつか問題はある。
その一つが、千歳の飼い霊獣であるポン吉だ。
タヌキ型の霊獣であるポン吉は、住処が変わって落ち着かないのか、新寮へ引っ越してから、しきりに周囲の臭いを嗅ぎ回っていた。
前の寮に入居したときも、初日は家の周りを調べたがっていたので単なる習性だと思うが、今回は前回以上に神経質だ。
昼夜問わず敷地内を警戒するように徘徊し、明後日の方向に向かって威嚇するように唸る。
寝付きも悪く、悪夢でも見ているのか寝言も多い。
睡眠も足りていないようで、イライラしっぱなしだ。
不機嫌を撒き散らすポン吉に手を焼きながら、しかし千歳は、少し過敏になっているだけで、その内収まるだろうと放置したのだが、これが失敗だった。
数時間前、深夜。
ベランダから響く派手な物音に「なにーっ⁈」千歳はベッドから飛び起きる羽目になった。
「な、何だ、これ……?」
慌てて窓を開けてみれば、ベランダは惨憺たる有様だった。
ガーデニング用品一式を収納していた箱はひっくり返され、中身がそこかしこにぶちまけられていた。
買いだめしていた水苔の袋も破かれ、撒き散らされた水苔は、前日の雨で湿っていたベランダの水分を吸ってべちゃべちゃに膨らんでいる。
水苔以外にも、生木からへし折られたとしか思えない大きな枝や千切れた紙クズやらと、とにかくゴミが大量に散乱していた。
おまけに、床も刷毛目のような泥が擦り付けられている。
ガーデンラックに並べていた植木鉢は無事のようたが、欄干の角に置いていたラックは、窓際まで引っ張られていた。
そして、ベランダを荒らしたと思しき犯人は、大胆にも犯行現場のど真ん中に座っていた。
言わずもがな、ポン吉である。
どうやらベランダに入り込んだ野良猫か何かと喧嘩をしたらしい。
闘争の激しさを示すように、むしり取られた白い獣毛の塊が、木の枝や欄干に引っかかってそよいでいた。
「お、お前……」
千歳は唖然とポン吉を見下ろした。
当のポン吉は後ろ足で耳の裏をかきかき、ケロリとしている。
怪我はしていないようで、そこはほっとしたが、ドロドロに汚れたポン吉の姿を目の当たりにしては、喜ぶ気も失せるというものだ。
このまま部屋に上がり込まれては、室内までもが惨事である。
ということで、千歳は速攻でポン吉を捕獲、ひとまず浴室に隔離した。
急いでクローゼットの引き出しからタオルやシャンプーやらを取り出していると、バンッ、と派手な音を立て扉が開き、
「何事だ!」鬼の形相の澤渡和実と、
「千歳! 大丈夫⁈」血相を変えた八房ジルの背後から、
「やあ、どうしたの?」にこやかな笑顔の宇佐見次郎が現れた。
突然の来訪に、千歳は引き出しに片手を入れたまま固まっていると、今度はベランダの方から物音がして、振り返れば、
「よう、生きてる?」欄干の上にしゃがむ佐久間稔が面倒臭そうに片手を上げ、
「これは、野良猫か……?」ベランダに降り立った弓削恭弥が鋭い目で床を観察、
「外を見てきます」御蔵弦之の声が遠ざかるのが聞こえた。
さすが戦闘のプロと言うべきか、彼らは異音を聞きつけるやいなや、手に得物を携え、内と外の二手に分かれて千歳の安否確認にやって来たのだった。
(……わあ)
笑みを張り付かせる千歳の腕から、抱えていたシャンプーボトルが床に転がり落ちた。
彼らに事情を説明するのは肝が冷えた。
何せ、つい先日、大騒動を起こしたばかりの身だ。
不測の事態を予測して殺気立つ寮生達に、千歳は頬を引きつらせながら詫びを入れ、何とかその場を収めた。
深夜に叩き起こされた寮生達は、千歳やポン吉を咎めたりはせず、拍子抜けした顔で自室へ引き上げていった。
「ポン吉君をお風呂に入れるの、手伝うよ!」
と勢い込むジルの申し出を断るのには苦労したが。
この時点で千歳の気力ゲージはほぼゼロになっていた。
だが、大変なのはこれからだ。
侵入者と戦ったポン吉は、毛並みを寝癖以上に爆発させ、至る所に泥をこびりつかせていた。
おまけに体毛をかき分け地肌調べてみると、噛まれたような後が残っている。
千歳は日が昇る前から、ポン吉の世話に追われた。
幸い噛み傷は浅く、歯形が少し残っている程度だったが、冬毛に絡んだ泥を洗い落とすのには難儀した。
生き物を飼う以上、それがこの世の理から少し外れた霊獣だろうと、こういった手間は必ず起きる。
気が立っていたのを甘く見たと、千歳は己の監督不行き届きを悔いたが、当のポン吉に反省の色がまるでないのには、さすがに腹が立った。
それどころか、風呂で丸洗いにしている最中も、キリッと顎を上げ、誇らしくポーズを決めてみせる。
どうやら喧嘩に勝った事をアピールしているようだが、千歳の苛立ちは増すばかりだ。
ドライヤーで乾かしてやると、疲れが出たのか、ポン吉はうつらうつらと船をこぎ始め、体毛の水分が飛ぶ頃には完全に夢見心地、そのままふらふら千歳のベッドに潜り込むと、あっという間に寝息を立て眠ってしまった。
「こいつ……」
ぬくぬくと布団に包まり、弛緩しきった寝顔を見せるポン吉に、千歳は本気でブチ切れかけ、すぐに脱力した。
まだベランダの掃除が残っている。
あまりの散らかりっぷりを見かねて、ベランダ側からやって来た稔と恭弥が大きな木の枝はどかしてくれたが、これ以上、彼らの手を煩わせるのも憚れて、後は自分で片付けると言ったため、他は手つかずなのだ。
怒鳴る気力があるなら掃除に振り分けるべきだと、千歳は自分に言い聞かせ、せっせと片付けに勤しんだのだった。
よって千歳は朝から力尽きていた。
労働で火照った体に、早朝の冷気が沁み渡る。
「あー……、気持ちいいー……」
体を冷やしつつ、千歳は引っ越して間もない新寮を一望した。
某大企業の保養施設として建てられたというのは表向きの話、その実、社長の妾宅になる予定だったという、とんでもない曰く付きのこの物件。
事情を知って千歳はげんなりしたが、どんな建物か興味が湧いたのも事実だ。
老舗旅館のような伝統建築か、あるいは瀟洒な洋館か。最新のデザイナーズマンションというのもあり得る。
どんな建物だろうかと想像を膨らませた千歳は、引っ越し当日、建物を見上げ、全部当たっていたと呆れた。
スタジオ・ホフミの新寮は、中庭を囲うように東西南北の四つの棟と、いくつかの付属屋で構成された建物群だった。
東館は町家を、南館古民家を、それぞれ現代風にアレンジした建物で、北館はレトロ調、西館は最新のデザイナーズマンションといったところだろうか。
どの建物も一階が共用スペースになっているのは同じで、一番大きな北館に客室が集中している。
千歳と寮生達の部屋も北館の二階にまとめられているが、それでもまだ部屋が余っているのだから大した規模だ。
面白いのは北館と西館が交わっている北西部分で、鐘塔のような展望台になっていた。
塔の真ん中辺りから、空中庭園になっている西館の屋上に出ることが出来て、お洒落なことこの上ない。
意匠の異なる四つの建物だが、設計が良かったのだろう、統一感があった。
渋い色調の外観は、周辺の景観と馴染んで良い雰囲気だ。
最初は金持ちの道楽振りに呆れ返ったが、今はスタジオ・ホフミの社員寮となったこの建物を、結構気に入っている千歳だった。
惜しむべくは、南館と西館が連結されていない点だろうか。
南館は規模が小さく、西館は細長い東館に比べて横太りしているのが原因だが、ここに渡り廊下を渡せば、建物を一周することが出来る。
生活導線を考えればずっと便利だ。
それが適わないのは、南西に洋館があるせいなのだが。
千歳の視界の端に、その洋館が入った。
「…………」
ふぃー、と細く長く吐息すると、千歳は視線を横に移動させた。
東の空を仰ぎ見、
「良い天気だー」
疲れ切った今の千歳に、洋館について考える気力は残っていなかった。