白い何か
「お弁当作らなくて、本当に良かったの?」
「はい。向こうで用意してくれるそうなので」
織部とジルが話し込む横で、千歳は配膳台に目を向けた。
一人前の副菜と伏せられた椀が乗った角盆を見ながら、
(仕事でもしてるのかな?)
朝食を済ませ、千歳達が食器を返却口へ返す頃になっても、弦之は降りてこなかった。
(まあ、その内降りてくるか……)
(――で)
ふー、と千歳は細く息を吐き振り返る。
そこには未だに不貞腐れた様子で庭を眺めるポン吉の背中があった。
尻を向けて丸まるポン吉に、千歳はゆっくり近づくと、その背後にしゃがんだ。
軽く一息、諭すように、
「あのな、散歩に行けなくて腐ってるのは分かるけど、いい加減、落ちつ――」
千歳の声に反応して、ポン吉が振り向いた。
口には細長く引き千切られたタオルをくわえている。
「おまっ! ……?」
怒りかけて千歳はしかし、千切れたタオルを見て止まった。
何か妙だ。
すっかり汚れてしまっているが、千歳のタオルは薄いグレーだったはずだ。
だが、今ポン吉の口から垂れ下がっているのは白。
そもそもからしてタオルの質感ではない。
白くてふわふわで、まるで女性用のファーショール、いや、それよりもっと細長い、子供用のマフラーに見える。
深緑色のリボンも絡んでいる。
それが丸められたタオルの隙間から引き出されているのだ。
(………………まさか)
嫌な予感にかられて、ポン吉の口から垂れ下がるそれを恐る恐る注視し、千歳は、
「――ああああぁ~……!」
絶望して膝に顔を埋めた。
マフラーの先端には、イタチのような顔をした頭が逆さまについていた。
懸念した通り、ポン吉がくわえていたのは生き物の死骸だった。
いや、よく見れば半開きの口が時折ヒクヒク動いているので、まだ息はあるようだ。
明け方ポン吉と争った相手だろう。
ベランダに束で残された獣毛と毛質が同じだ。間違いない。
「……お前……ソレ……!」
戦慄きながら生き物を指差すと、ポン吉はフンッと鼻を鳴らして獲物を誇示してみせた。
「自慢してる場合かっ⁈ 食堂に何て物持ち込んでんだっ!」
得意気に胸を反らす飼い霊獣を叱りつけながら千歳は、しかし気絶する生き物に目を向け「んん?」訝しく眉根を寄せた。
「……これ、何の動物だ?」
千歳は白く細長い生き物を覗き込んだ。
色や形状からフェレットかと思っていたが、まるで違う。
顔はイタチ科の動物に似ているが、耳は羊か山羊のよう。
人間の頭髪のようなたてがみが生えており、額には小枝のように先割れした二本の角が、背中に向かって伸びている。
首、胴とやたらに細長く、蛇を彷彿とさせるが、ふかふかの獣毛の間から鉤爪の付いた前脚が、力なく投げ出されていた。
「……何か、龍っぽいような……? ――お?」
しげしげと観察していると、長い睫に縁取られた瞼が動き、パチリと生き物が目を開けた。
黒豆のような目だ。
何度か瞬き、くにゃりと頭を持ち上げると、ぼんやり千歳を眺めて、困ったように小首を傾げてみせた。
分かりやすく寝ぼけている。
次いで生き物は、キョロキョロと周囲を見回し、ぐるっと真後ろを振り返り、自分の首をくわえるポン吉を真正面から直視、ビクッ! と盛大に跳ねた。
あわわと口を戦慄かせ、小刻みに震えながらゆっくり頭を戻すと、再び千歳を、今度は縋り付くように見上げてくる。
涙を浮かべ、助けを求める生き物の眼差しから、千歳はすっと目を反らした。
「……ポン吉、それ、今すぐ元の場所に捨ててきなさい」
ガンッ、と白い生き物がショックを受けた。
ポン吉はポン吉で獲物を否定され、むっと眉根を寄せ、ジト目で千歳を睨む。
二匹の反応を受け、千歳は心底迷惑そうに目を細めた。
「そんなばっちいモン持って来られても困るから」
ばっちいと言われた白い生き物が、ガガンッ、とさらにショックを受ける。
へなへなと力尽きたように項垂れ、ポロポロと涙を流し始めた。
「ええ……」
身も世もなく泣かれても、千歳は困惑するしかない。
ポン吉は白けた眼差しを飼い主に向けていた。
まるで獲物の価値を理解しない千歳を見下げ果てたような目つきだ。
千歳はイラッとしながら、
「片付けるこっちの身にもなれよ。ていうか、お前。捕まえたその子をバスタオルに包んで袋叩きにしてたのか……?」
朝食中、時々八つ当たりするように前脚でタオルを叩いていた事を思い出し、千歳は己の飼い霊獣の所業に慄然となった。
「お前、何て事してんだっ!」
さすがに声を荒げる千歳に、白い生き物が僅かに顔を上げた。希望を見出したように目を輝かせて千歳を見つめ、
「絞めるときはひと思いにやってやれっ!」
輝いた目が一瞬で凍り付いた。
(――間違いない)
ポン吉を叱りながら、横目で白い生き物を観察していた千歳は確信した。
(人間の言葉を理解している)
(霊獣だ)
この世には実体を持たない異形の他に、人が理解する物理法則を少しだけ外れた生き物が存在する。
人語を理解し、不思議な力を行使する、人とは別の進化を遂げた知的生命体。
霊獣。
ポン吉も属するこの種族は、しかし山奥の育成地でひっそりと育てられているという話ではなかったか。
野生の個体もいるにはいるが、警戒心が強く、そう簡単に人前に姿を見せるような性質ではないと聞いている。
それにポン吉のように、犬や猫といった既存の生き物と似た姿をしていると教わった。
既存の生き物から大きく逸脱した形状の、この白い霊獣は一体――?
(――いや、待て)
(確か霊獣には、ドラゴンやユニコーンみたいな伝説の生き物の元ネタになったのがいたような……?)
随分昔に霊獣専門の術者からそん話を聞いた記憶がある。
おとぎ話を語る口調だったので、当時の千歳は話半分に聞き流したが、確かに目の前の霊獣は伝説上の龍に似ている、ような気がする。
(霊獣とは別の呼び方があったはずだ。けど、何でこんな所に……?)
解けているが、首にリボンを巻いている。誰かの飼い霊獣かもしれない。
だが、寮生の中で霊獣を飼っていそうな人物は思い浮かばない。
(なら、この近所か?)
術者はごく普通に、地域に溶け込んで生活をしている。
この近所にも大きな組織の出張所もある。
そう考えるのが妥当だろうが、
(思いっきり怪我してるけど、これ飼い主が出てきたら絶対揉めるヤツだ……)
千歳は頭痛を堪えるように額を抑えた。
だが、事情は呑み込めた。
何らかの理由で敷地に入り込んだこの霊獣をポン吉が見咎め、喧嘩になったのだろう。
霊獣の縄張り争いは激しいと聞く。
もしかしたら、昨夜だけではないかもしれない。
近所で飼われている霊獣なら、寮が建てられる以前から、敷地を含むこの辺り一帯が縄張りだった可能性がある。
寮が建てられた後も、お構いなしに出入りしていたのかもしれない。
入寮以来、ポン吉の気が立っていた理由もこれでつく。
問題は、一度撃退した相手を、何故バスタオルに突っ込んでいるのかだ。
千歳はポン吉の腹に敷かれたタオルの端を摘まみ上げた。
中を覗き込むと、泥まみれの白い胴体がくねっており、その隙間には葉っぱや赤い実が付いた小枝が入り込んでいるのが見える。
千歳は嘆息した。
(中庭に隠れていたのか……)
もしくはポン吉によってベランダから中庭に叩き落とされたか。
どちらにせよ、争いに敗れた後、この霊獣は外に逃げそびれたらしい。
中庭に潜んでいたか気絶していたのかを、食堂へ向かう途中のポン吉に再発見されお縄となった。
バスタオルに入れたのは、汚れがひどかったからだろう。
なら話は分かるが、
「……お前、監禁とかしてないよな?」
昏倒させた霊獣を中庭に隠していたのではないかと疑り深くポン吉を見て、千歳は「?」となった。
白い霊獣をくわえたまま、ポン吉が硬直している。
「どうした?」
石像のようにピクリともしないポン吉の眼前で、千歳はヒラヒラ手を振るも反応なし。
前を凝視したまま微動だにしない。
「後ろがどうしたよ?」
千歳が振り向こうとしたその時だった。
ポン吉の下顎が、ガクンと支えを失ったように落ちた。
「は?」千歳は目を丸くした。
あんぐりと開いたポン吉の口からぼとりと霊獣が落ちる。
途端に白い霊獣がジタバタと暴れ出した。
「うわあっ!」
水揚げされた魚のように、激しく上体を振る霊獣に、千歳は仰天して後ずさった。
どこにそんな体力が残っていたのか、霊獣は逃亡のチャンスとばかりに全力で体を振り、タオルの中から這い出そうともがく。
床に爪を立て、ぐっと力を込め、ポン吉に下敷きにされたバスタオル、その中に押し込まれた下半身を勢いよく引っこ抜いた。
「ポン吉⁈」
長い尻尾が引き出された途端、反動でポーンとポン吉が後ろにひっくり返った。
床に転がったポン吉は、一回転して、それで我に返ったらしい。
目をぱちくりさせて立ち上がるも、時既に遅し、白い霊獣はヘビのように床を這っていた。
床に泥がこすりつけられるのを見て、千歳は泡を食って、
「うわっ! 待て!」
慌てて手を伸ばしたが、惜しいところですり抜ける。
いや、
「飛んだ⁈」
ふわりと浮かび上がり、霊獣は宙を泳ぐようにして逃亡した。
露わになった全身は、ミニサイズではあるが、ほぼ伝説上の龍だ。
龍っぽい霊獣は、くねりながら前進、必死に食堂の奥へ向かう。
「こらーっ!」
慌てて立ち上がり、千歳は後を負う。
「――あっ」
すっと横から伸ばされた手によって、呆気なく霊獣は首を鷲づかみにされた。
気配も無駄もない、見事な動きだった。
急所を掴まれた霊獣が嫌がってジタバタと暴れるが、グラスを持つように軽く握られた手が緩むことはない。
霊獣を捕縛した相手は、流れるような所作で千歳を振り返った。
「おはようございます、千歳殿」
片手に霊獣をぶら下げ、折り目正しく挨拶をするのは、御蔵弦之。
珊瑚色の髪をした寮生である。
紺の道着を隙なく着こなした弦之に静かに挨拶され、千歳は一瞬躊躇った。
「おっ……はよう、つ、弦之」
直前まで逃げ出した霊獣に動転したこともあるが、澤渡以上に堅苦しい弦之が少し苦手な千歳は、しどろもどろになりながら、何とか挨拶を返す。
「えっと、それでその龍っぽい生き物なんですが……」
霊獣は、長さは六十センチ強といったところか。
短い四肢を必死にばたつかせて懸命に抵抗している。
「精霊獣です」
暴れる霊獣を物ともせず、ごく簡単に弦之が言った。
「あ、そう言えばそんな呼び方だった」
思い出して千歳は納得。
「ポン吉と同じ霊獣でいいのかな?」
「はい。ポン吉殿は地霊獣、こちらは精霊獣と分類しております」
「そ、そうですか……」
千歳は引きつった笑みを返した。
(堅い……。会話が続かない……)
相変わらずの堅苦しい説明口調に千歳が怯む間に、弦之は視線を掴み上げた精霊獣から千歳の足元に向けた。
千歳に近寄ってきたポン吉がビクリと跳ね、高速で千歳の後ろに身を隠す。
あからさまに弦之を避けるポン吉。
本人を前にして、この態度は非常に気まずい。
「あっ、いや、これはっ……」
飼い主として慌てて取り繕う千歳だったが、避けられた弦之も微妙にしょんぼりしている。
(……あー、はいはい。成程ね)
千歳は半眼になった。
ポン吉の様子がおかしかった理由が分かった。
(弦之の姿が見えたのか)
千歳より一足先に出会ったポン吉と弦之は、その際トラブルがあったとかで、以降、ポン吉は無条件に弦之を畏れるようになった。
何があったのかは知らないが、ポン吉の怯え方は尋常ではない。
弦之の方も意図せずポン吉に嫌われてしまい、地味に傷ついていたので、なるべく近寄らせないようにしていたが、さすがに今回は油断した。
足の後ろにぴったりと張り付くポン吉に嘆息すると、千歳は気を取り直して、
「それで、その精霊獣は君の飼い霊獣――」
ぞんざいに喉元を掴み上げる弦之を眺め、千歳はいったん言葉を切り、
「――ではなさそうだね……」
「ええ、違います」
肯定する弦之に、千歳は「ですよね」と空笑いで同調する。
ポン吉への態度を見る限り、動物は好きらしいが、扱いが不慣れ、と言うより、分かっていない印象を受ける。
(ポン吉に怖がれているのも、そのせいだろうけど)
千歳が何となく察していると、織部と話し終えたジルがやって来た。
「千歳、またポン吉君と喧嘩したの?」
先程の騒ぎを千歳とポン吉の喧嘩だと思ったらしい。
気遣わしげな顔で、
「あんまり強く言わないであげて。――あ、御蔵君、おはよう……って、え? ええっ⁈」
側に立つ弦之に愛想良く挨拶したジルは、弦之に掴み上げた精霊獣にふと目を止め、一瞬表情をなくした後、ぎょっと目を剥いた。
「精霊獣⁈ しかもリュウ⁈」
「いえ、タツと呼んだ方がよろしいかと」
呆気にとられるジルの言葉を弦之が律儀に訂正する。
「リュウとタツって別の種類なの?」
「リュウは二足で地を駆け、タツは空を泳ぐように飛ぶと言われています。一般的に、リュウは恐竜、タツは蛇に似ていると理解していただければよろしいかと」
「はあ、成程……」
その一般的は術者界限定だろうけど、とは口にしないが。
「――そうじゃなくてっ!」
のんびり言葉を交わす千歳と弦之に、ジルが血相をかえてツッコミを入れる。
「何で精霊獣を掴んでるのっ⁈」
珍しく声を荒げるジル。
弦之はごく平静に、
「保護しました」
「保護って、どこで⁈」
「食堂で」
「ここぉっ⁈」
端的に告げる弦之に、ジルは目をさらに大きく見開いた。あわあわと口と手を戦慄かせ、
「ま、待って。精霊獣が食堂をうろつくなんてそんな事あるの? いや、あるからここにいるわけで……」
「精霊獣ってそんなに珍しいのか?」
「珍しいどころじゃないよっ!」
横から口を挟んだ千歳に、ジルがくわっと噛みついた。
「精霊獣は高祖三霊の血統を引く神聖な存在で、普通は神域や霊場みたいな奥地で暮らしてるんだよっ!」
「へー、そうなんだ……」
必死の形相で詰め寄るジルから、千歳は嫌そうに顔をそらす。
よく分からない単語が混ざっているが、穏やかなジルがここまで取り乱しているところから、相当希有な事態だとは察せられる。
千歳は段々不安になってきた。
(……怪我させたの、本格的にマズくね?)
高額な治療費を請求されたらどうしようと、内心ビクついていると、ズボンの裾が引っ張られた。
「? ポン吉、どうした?」
見下ろすと、ズボンに縋って立ち上がったポン吉が、訴えるように千歳を見上げている。
チラチラと怖い物を見るように弦之を伺うポン吉の、見るようにと促すような素振りに、千歳は「?」となりながら弦之に目を向け、
「うわーっ⁈」
弦之が掴み上げる精霊獣が、ぐったりと伸びているのを目撃して悲鳴を上げた。
「し、死んでる⁈」
捕まって諦めたのか、やけに静かだと思っていたら、精霊獣は口の端から泡を吹き、目をグルグルに回していた。
ピクピクと痙攣しているので辛うじて息はあるようだが、窒息状態に陥っている。
「た、大変っ……!」
精霊獣の状態に気付いたジルが真っ青になる。
あまりの事態に混乱して、体が動かないようだ。
そして、精霊獣を掴む弦之はというと、
「………………」
無言で青褪めていた。
「何やってんのー⁈」
機能停止した二人に、千歳が喚く。
「こらーっ、食堂で騒がない!」
ギャーギャー騒ぐ千歳に、とうとう織部がカウンターの奥から叱責を飛ばした。
「すっ、すみませんっ!」
千歳は飛び上がって振り返り、織部に謝罪する。
織部は怒りの表情で千歳達を睨んでいたが、
「――あら?」
きょとんと瞬き、精霊獣を見た。
「白玉ちゃん?」