問題
「お待たせ……」
覇気のない笑みを浮かべ、ジルが千歳の元へやって来た。
気落ちした様子で席に着く姿を、何とも言えない顔で見守る千歳は、ふと配膳台に一人分の朝食が残されているのを見つけた。
「まだ来てないんだ……」
弦之がまだ朝食に降りてこない。
千歳は少し心配になった。
生真面目が服を着たような性格だ。
寝過ごしているとは考えにくいが、弦之は千歳の片付けに一番最後まで付き合ってくれている。
携帯端末を鳴らせば済むだろうが、あいにく千歳は彼の番号を知らない。
「授業もあるし、後で起こしに行った方がいいか……?」
扉をノックするぐらいはした方がいいかも、と考えていると、ジルが思い出したように言った。
「御蔵君ならもう起きてるよ。食堂に下りる前、彼、俺の部屋に来たから」
「あ、そうなんだ。けど何か意外だな。用事でもあったのか?」
千歳が尋ねると「うん」とジルは頷き、
「四つ切りぐらいの大きさの紙を持っていないかって聞かれたから、画用紙を一枚あげたんだ」
「紙?」
「そう。ほら、俺、矢立てだから紙は結構持ってるんだ。何だか急ぎの用事があるみたいで、そのまま部屋に引き返しちゃったけど、もうすぐ降りてくるんじゃない?」
「……そっか。ならいいんだけど」
ほっと安堵して、千歳は箸を手に取り、
(――ん?)
背後、縁側に気配を感じて、千歳とジルは同時に振り返る。
「あ」と喜色を浮かべるジルとは真逆に、千歳は「うわ……」と盛大に顔をしかめた。
二人が席に着くのを見計らったようなタイミングで食堂の縁側に現れたのはポン吉だ。
わざわざ縁側を大回りしてきたのだろう。
寝癖を物の見事に爆発させたポン吉は、口にくしゃくしゅに丸めたバスタオルをくわえていた。
垂れたタオルの端を引きずりながら、トコトコ軽快に歩いていたが、おもむろに立ち止まると、ポトリと塊になったタオルを床に落とした。
器用に口で形を整え、クッションのように膨らみをもたせたタオルをポンポン叩いて頷くと、大儀そうに乗る。
「あいつ……!」
こちらに背を向け香箱座りを決め込むポン吉に、千歳は口の端を歪めた。
「ポン吉、元気そうで良かった。寝癖が凄いや」
嬉しそうなジルの声が聞こえたのだろう、ポン吉は一瞬耳をピクリと動かしたが、それ以上の反応は見せず、黙って庭を見つめている。
物言わぬ不動の背中を見せるポン吉。
だが、飼い主である千歳には分かる。
ポン吉の不機嫌が収まっていない事が。
(むしろ悪化してるし……!)
イライラと見えざる黒いオーラを背中から放つ飼い霊獣に、千歳はぐっと拳を握る。
おまけにポン吉が腹に敷くのは、千歳のバスタオルだ。
部屋に干していたのを、ここまで引きずって来きたからだろう、ドロドロに汚れてしまっている。
「下ろしたばっかのタオル……!」
一緒に干していた自分用ではなく、わざわざ千歳の物を持って来るあたり、故意であるのは間違いない。
「ち、千歳っ、落ち着いて。ポン吉君、新しいお家が広くてまだ慣れてないだけだからっ」
青筋を立てる千歳を、ジルが慌ててなだめる。
「それは分かってるけどっ! ――って、あ、コラッ!」
千歳の注目を意識して、ポン吉はこれ見よがしに前脚でタオルを叩いたり、端っこを囓って引っ張り始めた。
ボロボロのタオルがさらに悲惨な事になっている。
「……あの野郎……っ」
ポン吉に負けじと劣らず黒い怒りを燃やす千歳。
地の底から響く怨嗟のような唸り声に、ジルがあわあわと青褪める。
所構わず当たり散らすポン吉に、いい加減爆発寸前の千歳は、上体を深く折り曲げ、
「……っはーーー…………」
全身の怒りを排出するように、息を吐く。
「だ、大丈夫?」
ジルが心配そうに見守る中、千歳は勢いよく顔を上げ、姿勢を正す。
怒りを滲ませながらも、吹っ切れた表情で、
「もういいっ、まずは朝メシ!」
くるりとポン吉に背を向けた。
あれだけ大暴れをしたというのに、ポン吉の機嫌は直っていなかった。
明け方のような騒ぎは一度で十分だ。
この状態が続けば、さすがに寮生の誰かが千歳に苦情を入れてくるだろう。
だが、それよりも。
寮生達がポン吉の不機嫌に苛立ち、彼らの自制心が揺らぐような事があれば、危うい均衡で保たれている人間関係が一気に崩れてしまうのではないか、むしろそちらの方が心配だ。
そんなことになればパーティーどころの話ではない。
一つでも問題が表面化すれば、芋づる式に他の問題も引きずり出されてしまう気がするのは、多分考え過ぎではない。
(よその魔物騒ぎに首突っ込んでる場合じゃないんだよ)
今はポン吉のストレス解消が先だ。
だが、外出許可が下りなければそれも叶わぬわけで。
「やっぱり焼き芋か……」
「ポン吉君のおやつ?」
味噌汁の椀を覗き込みながら呟く千歳に、ジルが尋ねる。
「織部さんが干し芋を作っていたから、分けて貰ったら?」
「干し芋ねえ……」
どうだろうと考え、お椀を傾けた千歳は、不意に、
(……そう言えば母さんも、冬には干し芋作ってたっけ……)
脳裏に映像が甦る。
古いフィルム映画のような、ノイズ混じりの色褪せた記憶だ。
年季の入ったガスコンロの上にのせられた、アルミ製の角蒸し器。
ふかしたてのサツマイモを、熱っ、熱っ! と手を何度も跳ね上げながら皮を剥いていた母親の後ろ姿。
薄切りにされたサツマイモは、大きなザルに広げられ、洗濯カゴの上に乗せて縁側に干してあった。
縁側を通る度、埃よけに被せられた食卓用の蚊帳を少し持ち上げ、芋の乾き具合を横から覗き込んでいた。
干し芋と発酵した土の臭いが鼻につく。
お世辞にも良い臭いとは言い難い、田舎特有の臭気。
冬の強風がガラス窓を叩き、床には斜めに入った日差しが四角く落ちていた――。
たった一つの単語によって、無数の記憶の断片が泡のように浮かび上がる。
(……今日はやけに思い出すな)
味噌汁の椀を傾けたまま、千歳は記憶の中に没入した。
あの日々はもう戻らない。
胸を穿つ喪失感は、時が流れた今となっては、ぼんやり遠い。
胸に開いた空洞には、崩れないようにつっかえ棒をねじ込み処置をした。
そのつっかえ棒の存在を、今、胸の内側に強く感じる。
――空洞が埋まることは、決してない。
(ポン吉の不機嫌よりも一番の問題は――)
(――俺にある)
味噌汁椀の中に映り込む自分と目が合う。
子供の頃、千歳は神域に落ちた。
溺れたと表現した方が適切だろう。
千歳が認識する限り、神域は水の中だった。
この世の崩壊を免れた強い土地、その水のような力、神気を肉体に満たした千歳は、全てにおいて激変した。
その最たるものが容姿だ。
術者が言うには、極限まで満たされた霊力を均衡に保つため、肉体が左右相称の安定した形をとった。
美相の代名詞とも言うべき左右相称の容姿。
つまりは容れ物。
(ありがたくもない特典だ)
「千歳、どうかした?」
椀を傾けた姿勢で不自然に停止した千歳に、ジルがきょとんと尋ねた。
「……いや、味噌汁がちょっと熱かっただけ」
適当に誤魔化し、千歳は椀を傾ける。
千歳の持つ特性や能力は、全てはその出来事に起因している。
寮生活を送ることになったのも、このためだ。
ポン吉の不機嫌から解体待ちの洋館、寮生達の不和、白瀬の不在、パーティー。
ともすれば、近所で起きた魔物騒ぎよりもずっと大きな問題。
それは、千歳を中心に集められた寮生達に、事の根幹である過去の事件、何故自分がこうなってしまったのかを未だ話せずにいる千歳にあった。
最初に顔合わせをした際、この話をするタイミングは、あるにはあった。
だが、乗り気でない千歳に向かって寮生達は、
――話せる状態の時で良い。
(……気遣ってくれたのは間違いない)
(けど、仕事とは言え、他人の事情に深入りするのを躊躇した雰囲気もあった……)
どちらにせよ、その言葉に甘えて情報を出し惜しみ、今に至る。
千歳は嘆息した。
(やめやめ、暗くなるだけだって)
いつの間にか思考が下向きだ。
考えても仕方ないことだと、千歳は暗く沈んだ思考を振り払い、味噌汁を啜った。
――だが、彼らがこの仕事を完遂する気でいるなら。
稔の腕に巻かれた包帯が思い出された。
先の事件で受けた負傷が、まだ完治していないのだ。
怪我を負うどころか、命の危険もある仕事だ。
いずれ話さなければならない。
(――その時俺は、あの日のことを、冷静に言語化出来るだろうか……)
浮き上がるような不安を抱えながら、千歳は椀を静かに置いた。