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第8話 虎と狩人

 毛利製薬。

 島根の薬問屋より始まり、13回に渡る事業継承の末、今や世界有数の超巨大製薬会社として君臨している。


 ただし、お世辞にも製薬技術が高いとは言いがたい。

 製薬会社でありながら、新薬開発は競合他社の後塵を拝すレベルである。

 そんな会社がどうやって巨大企業になれたのか?


 毛利製薬の強みは企業買収にある。

 自分たちで薬を作るのではなく、新薬開発に強い会社を新薬の権利ごと飲み込んでしまう。

 それが毛利製薬の必勝のパターンだ。


 そして毛利製薬の歴史の中で、特に優れた頭脳を持ち、不可能と言われた買収劇を次々と達成してきた男がいる。


 それが毛利製薬の14代目社長にして、俺の親父。

 毛利林太郎である。




 俺は毛利林太郎の長男としてこの世に生を受けた。

 ゆくゆくは毛利製薬を率いていくことを期待され、様々な勉強をさせられた。

 ドイツ語もその一環だった。


 毛利家で暮らしていけば、シャンパンが舞って銀匙が煌めき、美しい女性たちが数多いる豪奢な世界で生きていける。


 だが、俺は毛利家から離れた。

 何があったのかは他人に語っていない。

 親友である謙吉にすらも、直接の理由をぼかしている。



 実のところ、俺もまた「シンデレラ」なのだ。

 それも少々ハードモード気味の。


 絶世の美貌と引き換えに人間性を悪魔に捧げてしまったような継母に虐待されて、食事に毒まで盛られて。

 継母の子どもたち――つまり、俺の義理の弟や妹からも苛烈な扱いを受けて。


 そんな俺の人生に、カボチャの馬車で助けてくれる魔女はいない。

 自分の運命を変えてくれるガラスの靴もない。


 だから俺は毛利家を飛び出した。

 鍛え続けた頭脳と、艱難辛苦を耐え忍び続けてくれた肉体だけを恃みとして。


 ガラスの靴なんかいらない。

 裸足で千里の道を行くまでだ。


 こうして俺は、幼いころより磨き続けてきたスペックと心意気だけで色々なことをゴリ押しして生活を成り立たせ、今となっては満足感のある環境で暮らせている。


 家に帰れば愛らしい(だが掃除や洗濯ができない)妹がいるし、スマホをかければ謙吉をはじめとした気の合う奴らとメシを食うこともできる。


 俺は十分に満たされている。

 もう今更、毛利家に関わる必要はないし、関わりたくない。

 そう思っていたはずなのに。






「理由はどうあれエリスは俺と毛利家を結び付けてしまった。しかもそれを、ネットの場で公開するという有様だ」


 俺は指先でトントンとテーブルを叩きながら、言う。


「そしてあの企画に参加したドイツ人たちもまた、俺を実家との因縁に巻き込もうとしている。はっきり言うが不愉快だ」


 謙吉が指で眼鏡の位置を押し上げつつ、聞いてくる。


「確かに於菟の家庭事情は複雑怪奇過ぎてね。他人が於菟の家柄を見て盛り上がっているのは、僕としても強烈に抵抗感を感じるよ。で、於菟はエリスさんにどれくらいの事情を話しているの?」


「お前にも話していないことを、エリスに話すわけがないだろ」


「じゃあ彼女は自分自身の力で、於菟が毛利製薬に深い関係を持つことを調べ上げたっていうわけだね。いやはや、恋する乙女は恐ろしい」


 謙吉は「それで、どうするんだい?」と質問を重ねてくる。


「エリスさんは強気だ。於菟にとって、ドイツ側の熱狂はバカなパーティに見えるかもしれないけれど、20000人の加護を背負うエリスさんは確実に君を仕留めようとしてくるだろう。少なくとも、彼女にはそれだけの余裕がある」


「返り討ちにしてやる。俺がエリスを振ればそれでいい話だろう? クラウドファンディングの企画は崩壊。それで終いだ」


「本当にそれでいいのかい?」


「何が言いたい」


「於菟の本心はどこにあるのかって話だよ。エリスさんのことは憎からず思っているはずだ」


「こんなバカなパーティの出汁にされて、エリスと付き合ってみろ。物笑いの種だ」


 そういう俺だが、自分の言葉に座りの悪さを感じてもいた。

 そして案の定というべきか。

 親友・謙吉は俺の言葉に宿る微かな迷いの気配を嗅ぎつけ、突いてくる。


「僕の言葉に正面から向き合えていないね。もう一度言うけれど、於菟の本心はどこにあるのかが重要だよ。付き合いたいなら付き合えばいいんじゃない?」


「くどいな。ドイツで別れた。ノーラバーでフィニッシュだ」


「ドイツの時は彼女が冷静じゃなかった。恋に病み、恋に狂った人だった。だから僕もエリスさんを別れさせた。だけど彼女は変わった」


 俺は謙吉を睨む。


「変わったって……変わらず病んでるだろ! あいつはおそらく、俺の家族事情に問題があると薄々察していたはず。それでいて公開してきたことは、俺を手に入れるためなら手段は選ばないってことだぞ。それはもう、健常者の発想じゃねぇんだよ」


「いいじゃん、病んでいても。病気と共存している人なんていっぱいいる。恋の病に毒され始めた初期は、病気に心が馴染めず過剰な反応も見られた。だけど今は心が恋の病魔にどっぷりと冒されて安定期に入っている。これなら自暴自棄にならずに済むだろうから、トラブルは避けられる」


 俺にとっては、分かるような、分からないような理屈だ。

 これが謙吉の言葉でなければ「バカか」の一言で一蹴している。


 問題は謙吉の言葉であるという点。

 これまで何度もコイツの言葉に助けられてきた俺としては、無下にしにくい。


「ま、しばらく自分の心に向き合ってみることだね」


 謙吉がまとめるように言う。


「今夜中に結論を出すべき話じゃない。だけど、おそらく明日から於菟には『エリスさんがいる日常』が始まる。軸がフワフワしているままでエリスさんの間合いに入ったら、なし崩し的に狩られるよ」


 テーブルの上に置かれた伝票を、謙吉が掴んだ。


「角煮丼は僕の奢りだ。明日から狩人と戦う君への、僕からの餞別だよ」


 腰を浮かす謙吉。

 会話に終わりの気配があったので、俺はふと尋ねてみる。


「俺とエリスがぶつかり合ったとして、どっちが勝つと思う?」


「十中八九でエリスさんだろうね」


「その理由は?」


「於菟、君の名前の由来を思い出してみなよ」


 ああ、と。

 俺は苦笑する。謙吉は語る。


「於菟――中国の故事で『虎』を意味する言葉だよね。虎のように強い人間になるように、君の父親が君に付けたんだろう?」


 そういえば謙吉に以前聞かれたことがあって、何の気もなしに答えていたか。

 俺としては他愛もない話のつもりだったが、謙吉はしっかり覚えてくれていた。

 ほんと、コイツはこういうやつだ。


「そう、君は虎だ。虎は確かに強い。人間とはそもそも生まれながらの能力が違う。だけど相手は獣を仕留めるために創意工夫を凝らす狩人だ。獣相手だって……いや、獣相手だからこそ、最大限に戦うことができる。だから僕は、エリスさんの勝利だと思っている」


 そう語る彼の目に、一瞬だけ、異様なまでの迫力が宿る。

 俺が微かに息を呑むと、謙吉は眼鏡越しに俺を見据えて、言う。



「一つ言っておこう。於菟、()()()()()()()()()()()



 その瞬間、俺の心身が冷えた。

 かつてドイツの川に飛び込んだ時と似た――いや、ある意味ではそれ以上の冷たい感覚が、俺を襲う。


 立った謙吉が、座る俺を見下ろす目。

 その目には宿っている迫力は、決して俺の気のせいなんかじゃない。


「謙吉……?」


「っと、さぁ、そろそろ帰ろうよ」


 次の瞬間には、謙吉の放つ強烈な気配は消えていて。

 俺の良く知る親友が目の前にいて、気の良さそうな笑顔で俺に呼びかけていた。

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