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第4話 エリス狂乱

【なんで、なんで行っちゃうの……!】


【私を置いていかないでください!】


【お願い、何でもするから!】


【何でも……しますから……っ……どうか、お願い……】


 眼前でエリスが哀願している。

 綺麗な眼から、悲しみの雫をポトポト落として。


 俺は呆然として、彼女を見つめることしかできなかった。






 俺と謙吉の留学期間は2か月だ。

 12月にドイツに来た後、俺たちの母校・御息所学園と提携している現地の高校で交流と学習を重ね、1月の終わりに帰国する。


 そのスケジュールはエリスにもとっくに伝えていた。

 だからこそ、エリスが俺の帰国を了承していると思っていた。


 それなのに、帰国三日前になった今、彼女が火のついたような反応を見せることが俺を動揺させている。


 ――知ってたはずだろ? どうして今更……。


 いや、と思い直す。

 彼女は俺の帰国日を確かに知っていた。

 そして彼女なりに受け入れようとしていたのだろう。


 そして、見事に失敗したというわけだ。

 彼女は運命と折り合いをつけることができなかったのだ。





 エリスが俺に向ける感情の大きさは、俺も察していた。

 そして俺も思春期の男子として、その状況を嬉しく思っていた。


 自分の感情を棚卸ししてみれば、「留学先で現地の女の子と深い仲になったんだ」と自慢したいと願う下世話な心も確かにあった。

 だが、それ以上にエリスを純粋に愛する気持ちがあった。


 俺はその気持ちに折り合いをつけた。

 SNSのアカウントも交換するし、エリスに会いにドイツにまた来ようとも考えている。

 エリスの献身的な看病に対する補償と返礼も当然に考えている。


 俺が日本に戻っても、今生の別れではない。

 電子の世界で繋がっているし、いつか絶対に会いに来る。


 そう考えることで、エリスとの別れを受け入れた。

 エリスも同様に、気持ちの折り合いをつけているものと思っていた。


 それなのに。



【帰っちゃ、嫌です】


【ずっと一緒……ずっと一緒にいるの……】


 エリスは。

 俺が思っていたよりも、ずっと俺に依存していて。



 荷造りが進んでいるホテルの部屋に押しかけてきて。

 俺に掴みかかるようにして、泣いている。



 ひとまずエリスと二人だけで話がしたかった。

 俺は謙吉に、エリスと二人だけにしてくれるように頼んだ。

 謙吉は不安そうだったが、この場にいても方策なしと考えたらしく、大人しく場を俺に明け渡してくれた。




 二人きりの部屋で、俺は説得を重ねた。

 涙を止めたエリスは、語りかける俺の顔を先ほどからじっと見ている。


 ――落ち着いてくれたか?


 そう思った時、エリスが俺に襲い掛かるように顔を寄せ、そのままキスをした。


 俺と唇で繋がる彼女の手が、猛禽のそれのように俺の体を抱きしめ、爪を俺の体に食い込ませる。

『逃がさない』

 爪の先から溢れる情念が俺の体を浸食してくる――そんな心地がした。

 俺は咄嗟に彼女を払いのけた。

 痛みと焦りが、そうさせた。


【あっ……】


 その時の、彼女は。

 芸術品のように美しく、そしてどんなガラス細工よりも脆そうで。


【…………】


 目の前の彼が、自分を振り払った。

 その現実を受け入れられないような表情をしているエリス。


 彼女の目の濁り方は、彼女の心が悲しみで正気と狂気の汽水域にいることを物語っていた。

 マズい。本能的なものを察知した俺は、彼女に言う。


【……明日、また話そう。今日はお互い、冷静になった方がいい】


【…………】


 エリスは何も言わず、ただ茫然と俺を見ている。


【エリスさん】


 ここで部屋に戻ってきたのは謙吉だった。

 流石に今の状態の俺たちを完全に二人きりにするのに不安があったのか、半開きのドアの向こうで室内の様子を探っていたらしい。


【今日は帰りましょう。僕が送ります】


【…………】


【さあ、こちらに。さあ】


 いつもの謙吉だったらまずしないであろう、少々強引なエスコート。

 エリスも抵抗らしい抵抗もせず、ただその視線は最後まで俺に張り付けたままで、部屋の外へと連れていかれたのだった。





「於菟、明日の朝イチの便の予約ができたよ」


 その日の夜のことだった。

 本を読む――というより、ただ紙面に目線を滑らせているだけの俺に、スマホをいじっていた謙吉がそう言ってきた。


「朝イチ? なんだ謙吉、お前だけ一足早く帰るのか?」


「帰るのは僕じゃない。君だ」


「は?」


 何を言っているんだ。

 だって明日、俺はエリスともう一度話し合わなきゃ――


「無理だよ於菟。絶対に無理だ」


 謙吉の語気が強い。


「分かってるだろ? 彼女は言葉じゃ説得できない」


「そんな。お互い落ち着いて話し合えば――」


「現実を見ろ!」


 親友が、俺の言葉の尻尾を強い怒声で食いちぎる。


「明日合えば、今日より最悪なことになるのは分かってるだろ! 君の帰国を阻止するために、彼女が自身の舌を噛みちぎったりでもしたらどうする!」


「そんな無茶苦茶な展開が――」


「ないと言い切れるのか? あの状態の彼女が? 僕の目を見て、『絶対にない』と言えるのか君は!」


 俺が目を逸らすと、謙吉が俺の胸ぐらに掴みかかり、俺を強く揺する。


「僕らは学園の経費と厚意でここにいる! ここでトラブルなんか起こしたら、この短期留学制度が来年からなくなるかもしれない!」


「……ああ」


「この留学制度を目当てに、御息所学園を受験する子たちだっているんだ! その子たちの楽しみを奪うことが、どれだけ重いことかは理解できるだろう!」


「……ああ」


「それ以前に、彼女の行動がこれ以上エスカレートすれば、傷つくのは彼女自身だ。彼女の身を守るためにも、君がこの場から一刻も早く去るべきなんだ!」


 謙吉の言うことは正論だ。

 そして謙吉自身、俺にこんな説教をするのは辛いのだろう。

 それでもこいつは、逃げずに俺にきちんと説教してくれる。


「……すまねぇ、謙吉。言いにくいことを言ってくれて」


「君じゃなかったら、ぶん殴っていたところだよ」


「ぶん殴らなかったのは、俺がダチだからか?」


「いいや。殴り合いに発展した場合、君相手だと単純に分が悪いからだ」


「勝率の問題かよ」


「当たり前でしょ?」


 いつものような軽口の応酬。

 それも、俺の気を和らげようとする、謙吉なりの心配りだと俺には分かった。


「エリスさんには僕から話しておく。もう於菟がここにはいないことと、もう会えないこと。そして、できる限りの感謝を」


「ああ」


「彼女に何か伝えることは?」


 そう問われ、俺は目を閉じた。

 胸の中はぐちゃぐちゃだ。色々な思いが渦巻いている。

 伝えたい言葉はいっぱいあった。


 だけど、やっぱりこの言葉しかない。

 色々な気持ちに蓋をして、俺がこの状況で選ぶべき、最適解を口にする。


「さようなら――そう伝えておいてくれ」


 そう言って、俺は開きっぱなしの本をスーツケースに放り込み、荷造りを進めていった。







 俺が日本の空港に到着した時、スマホに謙吉からのメッセージが入った。


『こちらは全て終わったよ』


『君からのメッセージもきちんと伝えた』


『今回の件、大きな貸しにしておくよ』


『僕が生徒会長選挙に立候補する時、君には馬車馬のように働いてもらうからね』


 俺はぼうっとスマホの画面を見つめた。


 ――彼女はどんな表情をしていた?


 ――彼女は何か言っていたか?


 そんな疑問がふと湧いて、そんな己に苦笑する。


 ――バカだな、俺は。


 ――泣いていたに決まってんじゃねぇか。


 ――言葉も出なかったに決まってんじゃねぇか。


 そうであってほしくないと願いつつ、やはり現実はそうだったのだろう。

 彼女について一切触れていない謙吉のメッセージが、逆に雄弁なほどに語ってくれている。



「……さようなら、エリス」



 遠く離れた日本の地から、ドイツにいる彼女に呟いて。

 俺はスーツケースを引きながら、予定よりも少し早い家路についた。

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