第35話 野望
夏の日の日曜日のこと。
学園は休みだというのに、俺は休日の校舎――それも生徒会でもないのに生徒会室に呼び出された。
相手があいつじゃなければ、わざわざ行かなかった。
それでも俺が足を延ばした理由は、相手が相手だからだ。
校庭では部活動こそ行われているが、休日の校舎は無人だ。
俺は廊下に足音をコツコツと刻み、生徒会室の前に来る。
ノックはしなかった。
俺とあいつとの仲だ。不要だろう。
生徒会室のドアを開けると、戸棚にずらりと並ぶ学園年鑑が目に入った。
そして生徒会長の指定席であるはずの机に、彼は腰かけている。
「この学園の生徒の頂点が座る席……こうして座ってみると、あまり座り心地は良くないね」
謙吉が俺に冗談めかせて言ってくる。
「まだお前の席じゃないだろ。明日の生徒会選挙を終えてから物を言え」
「実質、僕の席に決まったようなもんだよ。君が急に選対委員長を辞めてしまってなお、この選挙戦は僕が有利だった」
「…………」
「ああ、別に君を責めているわけじゃないよ。選対委員長の座を降りた理由について薄々察しはついているし、どうこう言うつもりもない」
あっけらかんと言ってのける謙吉。
最初から俺の助力は必要としていなかったということだろう。
「なぜだ」
俺は謙吉に問う。
「どうして計略を練り、俺とエリスを結び付けようとした?」
「……さて、どこから話したものかなぁ」
謙吉は自分自身に向き合うかのように目を瞑る。
瞼開けば、底には爛々とした眼光が宿る。
光放つ目で俺を見据える謙吉は、普段とは別人のようだ。
「僕はね、君に勝ちたかった」
まず、謙吉はそんなことを言う。
「模試だよ。君が全国1位で、僕は2位。悔しかったよ。本当に。僕は君に勝つつもりで勉強していたからね。だから絶対に、次の模試では勝つつもりでいる。そのためにはどんな手も尽くす。そう決めたんだ」
「……模試の結果と、エリス。そこに繋がりがあるっていうのか?」
「君に彼女ができれば、そっちにかかりきりになり、勉強ができなくなるだろ?」
さらりと。
世にも俗っぽい発言を謙吉が口にする。
だがそれで格が下がったように思えないのは、謙吉が放つ重圧感のせいだろうか。
事実、俺を睨む彼の眼には、並々ならぬ気迫がこもっている。
これが俺の親友として接し続けていた謙吉の、心の内奥に潜ませていた本心か。
「君は本当に凄いよ、於菟。何でもすぐにこなしてしまう。常人とはまるで存在そのものから異なる天才だ。おそらく生まれ持った君の遺伝のせいだろうね」
「…………」
「対して僕はただの人間さ。人よりもちょっと意地と野心が張っているだけで、君とは生まれ持った才能からして違う。それでも、勉強でなら君に勝てると思っていた」
だけど負けた。
俺は謙吉の全力を、更に凌駕した。
「僕と君は一緒に居ることが多い。そりゃ、君といる時間は楽しかったさ。だけど君と一緒にいることで、僕は序列を意識させられる。1位と2位。その差は大きい」
「だからお前は、今月の模試で俺に勝とうとしているわけか」
「ああ。自分でも執着し過ぎだって思っている。だから手慰みに、生徒会長に立候補してみたんだ。生徒会長になれば君へのコンプレックスも消えるんじゃないか……そう思ってやってみた」
「で、どうだ。明日には生徒会長に選ばれるっていう算段なんだろう?」
「うん、全然だめだね。全く嬉しくないよ。君を選挙戦で打ち負かして生徒会長になっていれば違ったんだろうけど、君はそもそも生徒会選挙に興味を示していない。君がいない選挙戦に勝っても虚しいだけだ」
そう言って、謙吉は苦笑する。
「話がそれたね。つまり、僕はあくまで模試で君を潰すことを考えていた。無論君は僕にとって高すぎる壁だったけれど――僕に逆転のチャンスが訪れる」
「チャンス?」
「君がドイツで酷い風邪を引いただろ? あれだよ」
謙吉が説くところによれば。
俺が風邪で寝込んでいたあの期間こそ、謙吉によって逆転の好機だったという。
例えばテスト前に「やべぇよ全然勉強してない」とか言って、実は裏でガチガチに勉強している奴がいる。
聞いてもいないのに「やべぇよ全然勉強していない」とか言ってくる奴に限って、話に信憑性がないとは謙吉の評だ。
だが、謙吉は見てしまった。
俺の病状を。俺が本気で勉強していない(できる状態になかった)ことは、謙吉が誰よりも知っている。
――好機だ。
彼は最初、そう思ったのだという。
「だけどそれは、僕にとっても諸刃の剣だったのさ」
謙吉の独白は続く。
「考えてもみてよ。僕は君が勉強を全くしていないことを知ってしまっている。その状態だった君に僕が模試で負けたら? 僕は完全なる大敗北だ。もう二度と、君に挑む気すら失せてしまう。僕はそれが怖かった」
負けた時の言い訳もできず、勝つためのビジョンも失われてしまうだろう。
ドイツでの俺の病気は、謙吉に祝福と呪いをもたらしたのだ。
「負けられない僕はもう一つ、君が勉強に集中できなくなるよう手を打った。それがエリスさんなんだよ」
「……成程。俺とエリスをくっつけて、俺がエリスにかかりきりになることを狙っていたわけか」
「ああ。そして目論見はどうやら成功したらしいね」
「…………」
俺とエリスが正式に付き合い始めたということは、謙吉のクラスでも広まっているらしかった。
無論、俺とエリスをくっつけようとしていた謙吉なら、あえて自分のクラスに俺たちの噂を流すこともやってのけるだろう。
謙吉は二重スパイだったのだ。
対エリスに役立つ情報を集めて俺に助言を与えるふりをしつつ、裏ではエリスに俺の情報を流していたに違いない。
エリスの余裕さの裏には、俺とエリスをアシストしようとする強力な内通者の力添えがあったからだ。そしてそいつは俺の親友だった。
全ては俺をエリス漬けにして勉強をできなくさせて、模試の全国一位の座を俺から簒奪するための謀だ。
「重ねて言うが、僕はただの人間さ」
謙吉が残忍な笑みを浮かべる。
「その僕が、鴎外の血を持つ君を模試で倒す。ただの人間であっても天才に勝てるんだと証明してみせる。そして再び君に言うんだよ――『ただの人間を舐めるなよ』って」
在りし日に喫茶・餓狼で聞いた言葉が、俺の耳を叩く。
あの言葉の意味は、そういうことだったのか。
「……とまぁ、以上が僕の計略だよ」
謙吉は大仰に両手を広げて見せる。
芝居かかった仕草は、勝利を確信しているからのものだろうか。
「明日の生徒会選挙に勝つ。そして模擬試験でも君に勝つ。天才である君に、僕が勝つ日がやってきたんだ」
「……なるほどな」
俺は静かに頷いた。
「お前の心の中に眠る野心と激情。そこにまんまとしてやられたよ」
「ふふっ、もう敗北宣言かな?」
「まぁ模試はなぁ……確かに俺は今回、本気で勉強できていない。そこは認めよう。だけど生徒会選挙だけは見過ごせない」
「ん?」
「お前は『学校をより良くしよう』ということは考えず『毛利於菟に勝つ』っていう目的だけで就任しようとしている。生徒会ってのはそういうもんじゃねぇだろ。悪いがそっちは阻止させてもらう」
「随分綺麗なセリフを吐くんだね。言っていることは正しいよ。だけど無駄さ。明日は投票日。君が僕の真意を知って落選運動を起こそうとも、準備期間が足りないからね。僕を落選させることはできないよ」
「あ、投票日は明後日に延期にしておいたぞ」
「Σ(・□・;)⁉」
謙吉が今までに見たことのないような表情をした。
そして聞いたことのないような驚きの声をあげた。
「奇しくもお前が言ったじゃねぇか。全国模試、1位と2位の差は大きいって。その通りだよ。1位の肩書は雑に強いからな。それこそ投票日を一日ずらすこともできるわけだ」
「無茶苦茶な……これが全国模試1位の横暴か……っ!」
謙吉の眼鏡が一瞬だけズレ落ちるが、彼は即座に眼鏡を直して反論する。
「だけどやはり無駄さ。一日伸びたところで、君に何ができる? いくら君が天才かつ全国模試1位であったとしても、僕を1日で追い落とすことは無理だろう!」
「ああ、そうだ。俺一人じゃ無理さ。だから……」
俺はポケットから通話中のスマホを取り出した。
謙吉の眼が丸くなる。
「なぁ謙吉。この電話、誰に繋がっていると思う?」
「……まさか」
謙吉の唇が答えを言う前に、生徒会室のドアが開かれた。
そこに立っていたのは――林美代と、その姉である林美代子だ。
うち、美代の手には通話中のスマホが握られている。
繋がっているのは俺のスマホだ。
そう。
俺と謙吉の会話は、最初から俺の手筈通り、全て美代たちに筒抜けだったのだ。
「は、林姉妹……っ!」
謙吉の声が震える。
「美代っち」として絶大なコミュニケーション能力を誇る美代。
そして現職の生徒会会計を務める林先輩。
この二人が敵に回れば、たった一日で情勢はひっくり返る。
それを分かっている謙吉の焦りは本物だ。
そしてこの二人は、謙吉に剣呑な目を向けている。
「んっふっふ~美代っちは確かに聞いちゃったよ。生徒会選挙のトップをひた走る候補である相沢君が、実は学園運営に情熱を宿していないなんてねぇ」
「由々しきことですね~、生徒会と言うのは、もうちょっと理念的であっていいと、現職の私としては思うのですよ~」
美しき姉妹はまず、そんなことを言って。
そして急に、場の空気が重くじっとりとする。
「でもね、でもね、美代っちは……ああめんどくさい。アタシにしてみれば、相沢君がよりにもよって於菟とヴァイゲルトさんをくっつけようとしていたってのが問題なのよね」
「……うーん、私的にも、少し重罪かなって」
「あ……」
謙吉の顔に冷や汗が伝う。
姉妹は剣呑なオーラを纏いつつ、凄みのある笑みを浮かべる。
「ってことでさ相沢君……明日からはマジで覚悟して?」
「生徒会選挙を私たち二人でひっくり返して御覧に入れます~」
心の内が読めない林先輩はともかく。
エリスと俺をくっつけた謙吉を、美代が許すとは思えなかった。
笑顔のまま二人は謙吉を睨み、去っていく。
おそらく明日の朝から始まる相沢候補落選運動の準備に入るのだろう。
「……なぁ於菟」
謙吉が肩を竦めて、俺に聞いてくる。
「この状態から入れる保険ってあるかな?」
「ないな」
「だよね」
その二日後の生徒会選挙にて。
有力候補と見られていた謙吉は見事に敗北した。




