第30話 「約束どおり、結婚してください」②
犯人側の要求は「プールデートをしてほしい」とのことである。
要求が満たされない場合、エリスは暴徒と化したクラスメイト達の力で、俺を完膚なきまでに叩きのめすだろう。
この状況で、俺はどうするべきか。
俺の行動指針は何だ?
自問し、頭の中によぎる答え。
サミュエル・スマイルズが著した『自助論』の言葉を引用するなら――「俺の生命は全地球よりも重い」だ。
エリスの要求に屈したら、味を占めたエリスが今後も無茶な要求をしてくることは分かっている。
しかし、クラスの連中が俺とエリスを天秤にかけたら文句なしでエリスに傾く現状を鑑みるに、俺は屈するしかなかったのだ。
屈さなかったら俺が危ないのだ。
俺が【要求を呑む】とドイツ語で叫べば、エリスは嬉しそうにはにかんで、「みなさん、おちついてください」と拙い日本語で呼びかけた。
そして「私の聞きまちがいかもしれないです。オとをはなしてあげてください」と包囲網を形成する野郎どもに言う。
……雑だな、言い訳が。
しかし野郎どもときたら「聞き間違いならしょうがないな」だとか「ヴァイゲルトさんはまだ日本語の初心者だもんね。聞き間違えちゃうよね」とか好き勝手並べて、デレデレした表情をしながら俺の包囲を解いた。
俺が床から這い上がろうとすると、すっと俺に綺麗な手が差し伸べられる。
エリスの手だ。
一瞬とはいえ俺に地獄を見せた悪魔が、俺に天上の微笑みを向けながら慈愛の手を差し伸べてくる。
ふと見れば、天使のような悪魔の笑顔を形作る唇が微かに動いているのが見えた。
【うふふっ、オトとデート♪ プールデート♪】
「…………」
俺の耳には、天使のような悪魔の声も届いているのだが、嬉しさが滲んでいる声音を聞いていると、文句を言う気も失せてしまった。
まぁ、プールデートくらいなら些細なもんだ。
俺の休日を一日、エリスに捧げるだけでいい。
そう俺は思っていたのだが――
『バカ』
放課後、俺と美代しかいない教室にて。
美代がA4の紙にペンで大きく無体な言葉を書いて、その紙にセロテープを貼り、そのまま俺の額に勢いよくベチンと付けた。
「ばっっっっかじゃないの⁉ なんで於菟、そんな安請け合いしたのよ!」
紙に遮られて顔は見えないが、俺の前にいる美代は怒っているようだ。
放課後になり、美代から『毛利君、ちょっと美代っちと教室に残って欲しいなぁ。残ってくれるよね……残らない? 残れないの? 残りたくないの? 残る度胸もないの?』と圧をかけられたのがさっきの話。
なんでも授業中の俺とエリスの騒動を受けて、俺が本当にエリスに卑猥な言葉を浴びせていないかを気にしているらしい。
俺がエリスとの間のやり取りを伝え、卑猥云々の誤解は解けた。
だが俺の口が滑った。プールデートのくだりまで言ってしまったのだ。
そしたら美代が怒りだした。
紙とペンを取り出して、『バカ』の二文字を書き、俺の頭にペタリした。
挙句に俺の判断を「安請け合い」と断じてきたものだから、俺もムッとする。
「安請け合いって……たかが一日、エリスと遊びに行くだけだろうが」
抗弁すると、俺の顔に張り付けられている『バカ』の用紙が俺の息に合わせて動く。
すごく邪魔だが、多分これ外したら、美代は俺の顔面に直接ペンで『バカ』って書いてきそうな気がする。それだけの「スゴ味」がある。
美代はフンと鼻を鳴らす。
そして呆れを滲ませた声で言う。
「あんたバカァ?」
「どこのドイツの真似事かは知らねぇけど、随分言うじゃねぇかこんにゃろう。俺のどこがバカなんだ」
「存在そのものがバカって言ってんの」
俺は今、泣いていいと思う。
「はぁ……あのね。プールデートが一日だけのイベントなわけがないでしょうが! あの子は明日にでも於菟にこう言ってくるわよ……『オト、プールデートのための水着を一緒に選びに行きましょう』って」
「えっ、そういうものなの?」
「そういうものに決まってるでしょ」
「じゃあ実質2日間?」
「甘い。プールデートに連れて行った帰り道、あの子は『オト、あなたに選んでもらったこの水着、ちょっとこの場の雰囲気には合わなかったようです』って言い始めるわよ。そして『来週、もっとムードのあるプールに行きましょう』って言い出すの」
「ムードのあるプール?」
「そう、きっとナイトプールね。あなたをナイトプールがある施設に連れていく。そこが狩りの場になる」
「ないとぷーる」
行ったことはないが、噂には聞いたことがある。
プールなのに泳いではいけないプール。
なんなら入水することすらマナー違反というプール。
プールを尊厳破壊することに快楽を覚える、性癖上級者向けの射幸場。
卑猥の坩堝。淫靡なる泉。
人々の心に住み着いた欲望と暴力。
サマータイムの導入が生み出したソドムの泉。
悪徳と野心、頽廃と混沌とをコンクリートミキサーにかけてブチまけた、
そこは日本のゴモラ……そう聞いている。
そんなナイトプールなるものに、エリスが俺を誘うだと?
そうしたら……どうなるんだ?
少し思案し、言う。
「なぁお嬢ちゃん。俺ちゃんみたいなハンサムがそんな軽佻浮薄な場所に行ったら、ダース単位で間違いが起きると思わない?」
「言語野にデッドプールでもインストールされたの?」
「しょうがねぇだろ。想定外のこと色々と言われて、ちょっと処理墜ち気味なんだ」
「本当にノーガードであの子の誘いに乗っちゃったのね……」
美代はため息を吐いて、ふと不安げな声音になる。
「ねぇ於菟、あの子の様子っておかしくないかしら?」
「っていうと?」
「あの子は於菟に惚れている。それは分かるの。於菟を追って日本に来たくらいだもの。だけど、それにしてはあの子は余裕過ぎる」
「ああ」
それは都度俺も感じていたことだ。
エリスはどこか余裕だ。俺と結ばれるという確信を抱いているようなフシもある。
大体、美代とのダンスレッスンにしたって妙だ。
エリスは放課後の俺をフリーにさせ過ぎている。俺が他の女の子とイベントをこなそうが、それを見逃している感じだ。
まるで「束縛しなくても既に俺を手中に収めている」かのような余裕さ。
何が彼女をそうさせているのか、俺には思い当たる節がない。
「於菟、プールデート以外に、あの子と何か約束したことはないわよね?」
「ないぞ」
「よく思い出して。最近のことだけじゃなくて、短期留学していた時のことも。何か彼女に約束したりしなかった?」
「む…………」
俺は自分の記憶を棚卸する。
だが、ない。
俺のドイツ留学中の発言の中に、今の状況と結びつくものはなかったはずだ。
「ないな」
俺は断言する。
美代が黙る。俺が不安になる沈黙があった。
やがて美代が「分かった」という。
「それならいいわよ。約束しちゃった手前、於菟はきっとあの子とのデートをこなすことになるんでしょうけれど……アタシのことも忘れないでね」
最後に少しだけ、彼女の心の柔らかい部分から発されたのであろう言葉が付け加えられていた。
その言葉を俺は受け止める。
そして美代に言うのだ。
「ところでさ。この『バカ』の紙、そろそろ剥がしていい?」
「ダメ」
ダメかぁ……。




