第1話 クリスマス・チェイス
地下鉄クロステル街駅のホームから地上に出ると、冷たい風が吹き付ける。
その日のドイツはクリスマス寒波に襲われており、町中のクリスマスツリーには雪が積もり始めていた。
「「寒い!」」
俺と、隣にいる親友――相沢謙吉の声が重なる。
俺は裸眼だからまだいいとして、謙吉は眼鏡をかけている。
吐息で白くなったレンズに視界を奪われた謙吉がうろたえている様子は、面白くもあり、気の毒でもあった。
「学園の費用で2か月の短期留学に出してもらえたこと自体は感謝してるがよぉ……理事会は一体どういう了見で12月と1月を選んだんだ? 寒いわ、混むわ、物価が高いわで、碌なシーズンじゃねぇぞ」
「ドイツの街並みが一番煌びやかな時期だからね。全国模試で1位と2位をとった僕らへの、御息所学園からの粋な計らいだと思えばいいんじゃないかな」
ドイツの街の空気に溶かして終わるはずのつまらない愚痴を、隣を歩く謙吉は律儀に拾ってくれる。こいつはこういう奴だ。
「さっさと宿に帰ろうぜ。凍えちまう……」
「賛成」
寒さが俺たちの足運びを急がせる。
学園が用意してくれたホテルに戻ろうとする道すがら、近道をしようと、人通りの少ない路地に足を踏み入れた時だった。
俺たちは路上強盗の現場に居合わせたのだ。
被害者は粗末なコートに身を包んだ、銀髪の美少女だった。
ドイツのクリスマスの冷たく澄んだ空気の中に、気を抜けばふと消えてしまいそうな――そんな儚げな雰囲気を宿している。
その少女が大事そうに抱えていた鞄を、帽子とマスクで顔を隠した男が奪い、それに飽き足らず少女を突き飛ばしていた。
冷たく固い石畳に突き飛ばされた少女は、痛みで動けない。
それでも彼女の手は縋るように、奪われた鞄に伸びる。
そんな少女を嗤うかのように一瞥した男は、場を去ろうとして――俺たちの出現に気付いたようだった。
【おい】
俺はドイツ語に切り替え、男に呼びかける。
【あんたが手に持っているそれを、大人しく渡してくれ】
【ガキが、失せろ】
男は目元をニヤリと歪める。
自分の優位性を疑っていない。そんな表情だ。
俺たちが町の人間じゃないってのは一目瞭然のはず。
この町に詳しくない奴らなんて簡単に撒けるし、そもそもガキ二人相手なら腕力で黙らせてやってもいい――そう思っているようだ。
俺はため息を吐く。白い息が宙を舞う。
横にいる謙吉も俺に倣ってため息を吐いた。
「おい、謙吉」
「うん」
呼びかければ、俺の意を汲んだ親友はコートのポケットに手を入れる。
彼がポケットから取り出す手が握るのは、くすんだ色合いのリンゴ。
ドイツではリンゴがメジャーなおやつだ。
のど飴感覚で持ち歩き、のど飴感覚で食べて喉を潤す。
乾燥する冬の備えとして、俺も謙吉もリンゴを持ち歩いていた。
俺は早々に食べてしまったが、謙吉はリンゴをまだ残していた。
取り出したリンゴを、謙吉が右手の親指・人差し指・中指の三指だけで保持。
そのまま指に力を籠めれば――
グシャッ。
リンゴが指の力で潰されて、無残な姿になった果肉が石畳に零れた。
「…………」
眼前の男が目を丸くする。
この町に地の利を覚えるような現地人なら、分かっているはずだ。
くすんだ色合いのあのリンゴ……あれはそう簡単に砕けるような品種ではないということを。
【分かるか?】
呆然としている男を睨み、俺が言う。
【あんたが鞄を渡さないというのなら、そのリンゴがあんたの3分後の姿だ】
男がワナワナと震え始めた。
――こんなはずじゃない!
眼がそう言っている。
奴は、ティーンエイジャー2人を殴り倒すゲーム程度に現状を捉えていたらしい。
だが、そもそもゲームのジャンルからして解釈違い。
これから始まるのは格闘ゲームなんかじゃない。
腕力に覚えのあるキラー2体がサバイバー1人をシバき倒す、鬼畜難易度のデッドバイデイライトだ。
【くそっ!】
案の定、男は鞄を抱えたまま、俺たちが陣取る方とは真逆の方向に逃げ出した。
そりゃそうだ。
俺たちの説得で改心をするほどの心の余地がある奴なら、そもそもあんなか弱そうな少女を狙おうなんて最初から考えない。
「追うぞ!」
「ああ!」
俺と謙吉は石畳を強く蹴って、男を追う。
――どちらか一人、少女の傍にいてあげた方がいいのでは?
そんな問いが一瞬、俺の胸に浮かぶ。
おそらく謙吉も同様だっただろう。
だが、俺たちが見たもの……少女が暴力を振るわれてなお、鞄に手を伸ばそうとした一瞬の光景が、俺たちに最適解を教えてくれる。
――あの鞄は彼女にとって大切なもの。彼女が何よりも優先したもの!
――それを奪還することこそが彼女を助けるということ!
それが正しいと、確信があった。
確信は俺の脚に力を与え、俺は男との距離を詰める。
――あと、もうちょっと!
そこまで迫った時、俺たちは川の近くに来ていた。
男が俺たちの方を振り返る。そして自分が逃げ切れないことを知る。
次の瞬間、男はとんでもないことをした。
少女から奪った鞄を、川へと放り投げたのだ。
――ッ!
咄嗟に体が動いた。
俺は鞄を追うようにして、宙に身を躍らせた。
「於菟!」
俺の耳の中に、叫びのような声が入る。
そして次の瞬間、俺の耳の中に鋭い刺激。
水だ。ドイツのクリスマス寒波でキンキンに冷えた川の水。
それが俺の全身を包み、口にも耳にも遠慮知らずで入ってくる。
あまりの冷たさに、心臓が悲鳴を上げる。
今まで十数年間生きてきて、この時ほど自分の心臓の位置をはっきり知覚したことはなかった。それほどまでの衝撃だった。
意識を奪うような冷たさのなか、俺の体を動かすもの。
それは俺の手が掴んでいる鞄の感覚。
俺の意地のために、そして何よりあの少女のために、これを川に流すわけにはいかなかった。
俺の血管を責任感が伝い、鈍る筋肉に活を入れる。
俺は川から上がろうと、懸命に泳ぐ。
「於菟! こっちだよ! こっち!」
川から上がれそうなポイントを見つけた謙吉が、声で俺を誘導してくれる。
俺は親友の声のする方に懸命に泳ぎ、そしてとうとう極寒の世界から引きずり上げてもらった。
「こんなずぶ濡れで夜風に当たると危ないよ。どこか暖の取れるところで――」
謙吉は俺の体を気遣い、温かな場所を見つけようとする。
そんな彼に、俺は寒さで歯をカチカチ言わせながら、奪還した鞄を渡した。
「おい、これ、頼む」
「いやいや、今は於菟の身の方がヤバいんだって――」
「頼む。あの子、めっちゃ心配、してる、だろうから、早く、頼む」
寒さで声が細切れだ。
謙吉は俺の顔を不安げに見て、やがて意を決したのか、眼鏡の奥の目を鋭くする。
「僕に任せて。君は一刻も早く、温まれる場所に」
「ああ」
分かった、の四文字すら億劫になり、二文字で了承。
そんな俺をもう一度だけ見て、謙吉があの子がいるであろう方向へとダッシュで戻っていく。
その後ろ姿を見送った俺に、冷たい風が吹き付ける。
――鞄は取り換えしたが、水没させちまった。
――鞄を奪おうとした奴にも結局逃げられちまったし、ハハ、情けねぇや。
寒波がずぶ濡れの体を切りつけてくるなか、俺は温かさを求めて、異国の街を彷徨い始めた。
――せめて、あの子が少しでも安心してくれますように。
麻痺しかける思考のなかで、ただそのことだけを願いながら。