第6話 地獄に堕ちた夜、少女は走る
紅竜団———。
その名を聞いただけで、人々は血の気を失い、膝が震える。
彼らは単なる盗賊団ではない。
殺戮と略奪を娯楽とする狂犬の群れ。
貴族や商人の護衛が手薄な場所を狙い、財を奪うだけでは飽き足らず、村ごと焼き払い、生き残った者には地獄の恐怖を植え付ける。
男は首を刎ねられ、女は弄ばれ、子供は奴隷商人へ売り払われる。
例え武器を捨て、命乞いをしようが、彼らには通じない。
———狙われたが最後、絶望しか待っていない。
そして、次の獲物に選ばれたのが———リリアの村だった。
その夜、地獄が訪れた。
何の前触れもなく、村の入り口が爆炎に包まれる。
火の手が上がると同時に、空気を裂く絶叫が響いた。
「うわぁぁぁああ!!」
先頭にいた見張りの男が、顔を歪めて倒れる。
胸を貫かれた槍が、血を滴らせながら地面に突き刺さった。
その光景に、村人たちが凍りつく———だが、それはほんの一瞬のことだった。
次の瞬間、地獄が解き放たれた。
「殺せェェェェェ!!!」
狂ったような咆哮と共に、紅竜団の狂人どもが雪崩れ込む。
剣が振るわれ、農夫が胴を真っ二つに裂かれた。
逃げ惑う子供が、馬に乗った盗賊に蹴り飛ばされ、壁に叩きつけられる。
「た、助けてくれぇぇ!!」
震えながら命乞いをする男が、冷笑と共に首を刎ねられた。
地面を転がる生首を見て、絶叫と嗚咽が村中に響き渡る。
火の手が次々と家々を飲み込み、村全体が巨大な炎の檻と化していく。
叫び声、絶望の呻き、そして狂気の笑い声が入り混じる中———リリアは逃げていた。
「はあ、はぁ、はぁ……!」
足がもつれ、膝をつきそうになる。
それでも必死に前へ進む。
後ろからは、乾いた笑い声が聞こえていた。
「ハハッ、いいねぇ……! こうやって怯えて逃げる獲物を狩るのが一番楽しいんだよなぁ!」
「早く捕まえろよ! まだ遊び足りねぇんだ!」
怒号が飛び交う。
耳をつんざくほどの叫び、嘲るような笑い声。
振り向いた瞬間――視界に飛び込んできたのは、紅竜団の盗賊たち。
嗜虐的な笑みを浮かべながら、ゆっくりと距離を詰めてくる。
血に濡れた剣を片手に、じわじわと包囲網を狭めるように。
心臓が爆発しそうだった。
全身を締め付ける恐怖に、膝が震える。
冷たい汗が背筋を伝い、喉が焼けるように乾いた。
脳裏に焼き付いているのは――最後に見た姉の姿。
父と母は既に殺され、姉のエレナは、リリアの手を引き、必死に走っていた。
リリアもその手を絶対に離すまいと、強く、強く握りしめていた。
けれど――
後ろから響く盗賊たちの足音が近づくたびに、焦燥と恐怖が喉を締め付ける。
やがて、追い詰められたと悟ったその瞬間、エレナが急に足を止めた。
「お姉ちゃん!?」
驚き、叫ぶリリア。
しかし、エレナは静かに背を向けた。
「リリア、逃げて。私が時間を稼ぐから」
静かに告げる声。
まるで、この状況を受け入れたかのような穏やかさだった。
「お姉ちゃんも一緒に逃げなきゃダメだよ!」
リリアは必死に叫び、手を引っ張ろうとする。
だが――振り払われた。
「大丈夫。私も後から行くから」
嘘だ。
こんなの、絶対に嘘だ。
リリアの目には、エレナの背が滲んで見えた。
盗賊たちが迫ってくる。
剣が鈍く光り、嗤い声が耳をつんざく。
今すぐ走り出さなければ、捕まる。
それでも――
「行きなさい!」
エレナの怒鳴り声が、リリアの足をすくませる。
「でも……!」
「あなたは私たちの希望になりなさい。逃げて、助けを呼ぶの」
その言葉と同時に、エレナの頬を一筋の涙が伝う。
それが、彼女の本心を物語っていた。
「お姉ちゃん……」
「リリア、大好きだよ」
優しく微笑むエレナ。
その笑顔を最後に――彼女は踵を返し、盗賊たちへと駆けていった。
「お姉ちゃ――!!!」
最後まで言えなかった。
次の瞬間、叫びながら走り出していた。
死に物狂いで逃げた。
エレナの笑顔。
あれが、最後に見た姉の顔だった。
涙を噛み殺しながら、喉を押しつぶしながら、ただひたすらに走った。
生きなければならない。
逃げなければならない。
どこまでも、どこまでも――
絶対に逃げ切ってやる。
ーーーそう誓いながら。
「……姉さんが、助けてくれたんだな」
ぽつりと呟いたロブの声に、リリアはただ小さく頷いた。
その目は、もう涙でぐしゃぐしゃだった。鼻も赤いし、声も掠れている。けれど文句を言える人間はここにはいない。
唯一の同乗者――ロブはと言えば、黙って懐からハンカチを差し出してきた。薄くて、妙にいい匂いがするやつ。
「……ありがと……ございます……」
すすり泣きながらリリアがそれを受け取る。まるでセンスゼロの乙女ゲームのワンシーンみたいだが、本人たちは真剣そのものだった。
馬の蹄が、静かな森をリズムよく刻む。
しばらくして、リリアがぽつりと呟いた。
「……本当に、村に行くんですか?」
声は小さいが、震えていた。恐怖と不安がにじむ。まともなら当然の疑問だ。
だが、ロブの返答は――お察しの通り、斜め上だった。
「行くさ。予定通りにな」
「ギルドに応援を求めるのは……ダメなんですか? もっと強い人たちが来てくれたら――」
「……時間が足りねぇ」
ぽつりと、低い声。
まるで、全てを計算し終えた者のように、静かに、でも絶対的な確信をもって。
「奴らは慎重だ。仲間がやられたと気づけば、すぐに動く。本命の魔石と、金になりそうな女をつれてな」
「な……」
リリアの喉が鳴った。
「だったら、なおさら一人で行くなんて――」
「違ぇんだよ」
ぴしゃりと遮るように、ロブが言った。口調は穏やかだが、有無を言わせぬ迫力があった。
「こっちは“今いる奴ら”を追い払いたいわけじゃねぇ。“村人を丸ごと連れて逃げられる”のを止めたいんだ」
その一言で、リリアの顔色が一気に青ざめた。
――子どもたちが。仲良しの友達が。
みんな、紅竜団の手に落ちる。
あの悪夢のような地獄を、再び――今度はもっと残酷に。
「……そんなの……ダメ……絶対……!」
かすれた声が漏れる。拳が震える。
「心配なんだろ、村の奴らが」
「っ……!」
ロブの言葉が、まっすぐに心の急所に刺さる。
彼の顔を見上げると――
相変わらず、無表情だ。だがその無表情の奥に、何かを押し殺すような熱があった。
「俺は別に、冒険者としての名声が欲しいわけじゃねえ。評価も、報酬もどうでもいい」
ぽつぽつと、まるで日記でも読み上げるような声でロブは言う。
「でもな。手を伸ばせば救える命があるのに、それを放っとくのは……俺の流儀に反する」
そう言って、手綱を締める。馬が一瞬スピードを上げた。
「昔、黒龍の翼って盗賊どもがいてな。今の紅竜団の前身だ。そいつらを、俺が潰した」
「……それ、さっきも言ってましたけど、本当なんですか?疑うわけじゃないけど、ちょっと現実離れしすぎてて………」
遠慮がちに言う。
彼の言ってることは……信じるには壮大すぎた。
「千人近くはいた。全員片付けるのに2時間くらいかかった。途中で毒食らったりしてちょっとやばかったけどな」
「ええぇぇぇぇぇ!?!?!?」
だが、ロブのトーンはずっと淡々としていた。真顔すぎて逆に怖い。
「で、その残党が“紅竜団”ってわけだ。要するに――逃がした俺の責任でもあるってこった」
その一言に、リリアは何も言えなくなった。
法螺話と切り捨てるには、あまりにも静かな言葉だった。 それは、何かを背負って生きてきた者の声だった。
「……それに、急がないと間に合わねぇかもしれねぇしな」
ボソッと呟かれた言葉。
リリアは聞き返しかけて――やめた。
(……急がないと、って……何に?)
そう問いかける勇気が、なかった。
ロブの横顔は、さっきまでとは打って変わっていた。軽薄さは影も形もなく、ただ、静かに闇を睨んでいた。
まるで――この夜そのものを、殴り倒そうとしているようだった。
空気が、張り詰める。
(……この人、やっぱり只者じゃない)
リリアはゴクリと息を飲んだ。
そして。
闇の向こう、森の隙間から――炎の色が、見えた。
「っ……!」
リリアの背筋が凍る。
「まさか……!」
「――下衆どもが」
ロブの声は、氷の刃のように鋭かった。
そして、次の瞬間には馬を止め、ゆっくりと地面に降り立っていた。
「リリア」
「っ……!」
「ここで待ってろ」
「え……ま、待って……ロブさん一人じゃ……!」
「一人じゃねぇさ」
「え?」
くるりとロブが振り返る。その顔は、笑っていた。いつもの気楽な顔だ。でも――
その奥に、燃えるような意志が宿っていた。
「俺にはこの拳がある。あと、お前の分まで怒ってる気分だからな」
そう言って、ロブは再び前を向いた。
燃え盛る村の赤が、彼の輪郭を静かに照らす。
その背中が歩き出す。
リリアの前から、ゆっくりと、だが確実に。
(……ロブさん)
何かが始まる。いや、すでに始まっている。
今、この男が歩くその道こそが――希望だ。




