第4話 氷獄の処刑人、海老男にボコられる
空気が――凍った。
いや、それは比喩ではない。本当に、凍ったのだ。
ザハルの魔剣が抜かれる刹那、刃から溢れ出した冷気が地を這い、土に白い霜を走らせる。空気は一瞬で緊張し、辺りの温度が目に見えて下がった。草が、木が、音を立てて凍りつく。
「……行くぞ」
低く鋭い声が響くと、次の瞬間――
ザハルの足元が爆ぜた。
ヴェール
魔素の一種である闘気を身に纏うことによる瞬間加速。人間の視界では追えぬ速さ。
ザハルの姿が残像と化し、風を裂く音と共に斬撃が迫る。氷の一閃、居合い斬り――狙いは頸動脈。
「おっと」
そのタイミングで、ロブはゆっくりと一歩、右へと歩いただけだった。
その足取りはまるで散歩。だが、その半歩で、斬撃は空を切った。
「な……っ!?」
ザハルは信じられぬものを見る目でロブを睨む。
動きが読まれていた? そんな馬鹿な。これは目で追う以前の速度だ。反応できる人間など、いないはずなのに。
「……見えてたのか?」
「いや。“たぶん、そう来るかな”ってだけ」
ロブは肩をすくめ、まるで他人事のように言った。
嘘だ。勘で躱せるわけがない。けれど――
(……動きに、迷いがない)
ザハルの足が止まるより早く、体が動いた。二撃目。角度を変えた水平斬り。かわされる前提での連撃。三撃目、膝を狙った下段斬り――
三つの斬撃が、連続で空を裂く。
だが。
ロブの動きは滑らかで、無駄がない。
一歩、体をひねる。上体を傾ける。腰をひねる。どれも紙一重。けれど、全てを確実に躱す。
(くそっ、当たらない……!?)
連撃を終えたザハルの額に、じわりと汗がにじむ。
対するロブは、まだ一歩も動いていない。剣も抜かず、ただそこに立っているだけだ。
そして、その目――
先ほどまでの、どこか飄々とした印象は、もうなかった。
鋭い。
深い。
静かだ。だが、そこには確かに――“獲物を見る目”が宿っていた。
(まさか……俺が、恐れてる?)
ザハルの背筋を、初めて“寒さ”ではない何かが走った。
それは、かつて命のやり取りを繰り返してきた中で、一度として感じたことのない――本能的な、“死の予感”だった。
ザハルの額に一筋、冷たい汗が流れた。
(この距離、この速度……当たらない)
ならば、範囲で圧すしかない。
「……喰らえよ。俺の切り札だ」
ザハルが構えを取る。魔剣の魔石が、青白く脈動を始めた。
氷の魔力と、闘気が重なる。
「奥義――《氷葬連舞》!」
刹那。
地面が鳴いた。
ザハルの踏み込みに呼応して、魔剣が地を薙ぐ。
風が裂け、氷が咆哮する。剣閃と共に氷柱が地面から生え、扇状に一気に広がっていく。刃のように尖った氷塊が、大気を巻き込みながらロブを中心に襲いかかる。
氷柱が天を衝く。大地が砕け、空間が悲鳴を上げる。
視界が、すべて“白”に染まった。
リリアが思わず息を呑む。彼女の立っていた位置まで、冷気が迫る。
「っ……ロブさん――!」
咄嗟に叫びそうになった、その瞬間。
――ゴンッ。
鈍い音が、氷の咆哮をかき消した。
ロブは、そこにいた。
拳を振り抜いた、ただそれだけの姿で。
前方にあった氷の波動が――
粉々に砕け散っていた。
「な……ッ!?」
ザハルの目が大きく見開かれる。
魔力と闘気を融合させた“必殺の氷技”が、一発の拳で、風ごと粉砕された。
ロブは息一つ乱していない。
逆光に照らされるその姿は、まるでそこだけ“違う世界の物理”で動いているかのようだった。
「……悪くなかった」
ロブが言った。今までで最も低く、静かな声で。
「氷の操り方は見事だったよ。冷気の圧と、闘気の流し方。構成も丁寧だ」
静かに褒めるその声に、逆にザハルの心拍が跳ねる。
「だがな――“俺に届かない時点で、意味がない”」
言葉と同時に、ロブが一歩、踏み出す。
ズゥンッ!
踏みしめた地面が、重力を忘れたように沈む。音の遅れた衝撃が、視界に亀裂を走らせた。
(――こいつ、本気を出す気だ)
ザハルの喉が、凍るよりも先に詰まった。
“氷の処刑人”と恐れられた男が、無意識に後ずさっていた。
(逃げ――)
その言葉が脳裏を過ぎった時には、ロブの拳が――すでに目の前にあった。
拳が、視界を覆った。
(来る――!)
その一瞬、ザハルは本能だけで全力のブレイズを発動した。闘気を全身に張り巡らせ、魔剣を盾にする。
だが、それは――紙細工だった。
――ゴギャアアアッ!!
衝突音とは思えない音が、耳を突き破った。
ロブの拳が、魔剣ごとザハルの防御を粉砕した。
腕が、内側に捻じれた。
肋骨が、五本折れた。
肺が、悲鳴をあげて潰れる。
景色が、斜めになった。
大地が、上にあった。
それは、ザハルの視界が逆さになったからだ。
「が、はっ――」
地を滑り、何十メートルも吹き飛び、最後には木に激突し、ズドン、と音を立てて地面に沈んだ。
静寂。
リリアは、ただただ呆然と、その光景を見ていた。
(な……に、あれ……)
ザハルは動かない。体を震わせることすら、できていない。
ロブが、歩いてくる。拳を軽く振り下ろすたびに、空気が震えていた。
影が、ザハルの上に落ちる。
その影の中で、ザハルの口から微かに漏れた声。
「……これが、あんたの“力”かよ……」
呼吸が途切れがちで、声になっていない。血の味が口の中を支配していた。
ロブは静かに頷いた。
「これが、俺の“やるべきこと”だ」
「……銀獅子……いや、海老男……か」
ザハルは、そこでようやく、思い出していた。
銀獅子の階級。
そして、かつての都市伝説。
紅竜団の前身、黒龍をたった一人で潰した“誰か”の話。
「……あんた、ほんとに……いたのかよ……」
誰にも信じられなかった、あの馬鹿みたいな伝説が。
今、現実になって、自分を叩き伏せた。
なんの比喩もない。身体も、心も、完膚なきまでに叩き潰された。
力の差、だけじゃない。
格の違い――そういう言葉が、これほど現実味を持って感じられたのは、生まれて初めてだった。
「お前も悪くなかったよ。正面から向かってきた度胸は、買ってやる」
ロブの言葉は、淡々としていたが、そこには侮蔑も嘲笑もなかった。
ただ、静かに、ザハルの誇りを認めてくれていた。
「……ふっ……あんたみたいな先輩に出会えていたら………冒険者を……続けてたかもな…………」
そう呟いたザハルの視界が、ゆっくりと白く染まっていった。
――そのまま、意識が、途切れた。
風が吹いた。氷の欠片をさらい、静かに夜の森に溶けていく。
ロブはひとつ、深く息を吐いた。
「……三十年前の方が、まだ手応えがあったな」
そう、ひとりごちる。
その後ろで、リリアがぽつりと呟く。
「……あれが、本気じゃないって……嘘でしょ……?」
その背に宿る“静かな圧倒的強者”の佇まいが、リリアの胸を強く締め付けていた。
森の静けさに、ようやくリリアの鼓動が追いつき始めた。
冷気は消え、熱も引き、空気に残っていたのはただひとつ―― 拳一発で“理”をぶん殴った、伝説の残り香だった。
「……え、と……何したんですか?」
震え気味の声でようやく口を開いたリリアに、ロブはのんびりとザハルの意識を確認し、くるりと振り返った。
「殴った」
平然とした表情で、それだけ。
「いや、それはわかるんですけど! もっと、こう、何か……」
リリアが必死に言葉を探すが、ロブの顔はまるで昼寝明けの猫のようにけだるく、どこにも“戦った”形跡が見えない。
「すっっご……え、あれ、勝ったの……?」
「勝ったっていうか、遊び終わったっていうか」
「えっ、遊び……?」
あまりの余裕っぷりに、リリアは本気で頭を抱えた。物理的に。
そんな彼女の前で、ロブがふと足を止めた。
「……ん?」
鋭い眼差しが、森の奥へと向けられる。
「ひとり、逃げたな。顔面ぶん殴ったやつ」
「え!? あの人、生きてたんですか!?」
「ギリだな。鼻砕いた程度だし。たぶん、報告に行くつもりだろうな」
ロブの言葉が、そこでふと途切れる。
「……あるいは?」
リリアが恐る恐る尋ねると、ロブは肩をすくめて笑った。
「どうせ村に行くのは変わらないしな。追わなくていい。“討伐完了”ってことでギルドに引き渡して報酬受け取るだけさ。紅竜団討伐の依頼は、ちゃんと出てたしな」
「そ、そうなんですね……」
ほっとしたような、しかし複雑な顔で頷いたリリアに、ロブがひょいと顎をしゃくる。
「よし、それじゃここからは仕事の話だ。お前、金は払えるか?」
「えっ……ええっ!?私が払うんですか!?」
反射的に、リリアは両手でワンピースの裾を押さえる。何もされてないのに、なぜか全力ガード。
「奴らの討伐自体はギルドから褒賞金が出るけど、お前を助けた分はお前から貰わないとな」
「そ、それは……そうなんですけど!」
ポーチの中には、銅貨が数枚。どう逆立ちしても銀獅子に支払える額ではない。
「で、持ってるか?」
「……ありません……」
しゅんと項垂れたリリアに、ロブの口元がゆっくりと釣り上がる。
「じゃあ、体で払ってもらうか」
「――はい?」
その言葉に、リリアの背筋がビクンと跳ねた。
ロブの笑みは冗談にしては妙に自然で、悪ふざけにしては目が真っ直ぐすぎた。
そしてリリアは思った。
(……たぶん、今が一番、逃げたい)
【リリアの妄想ノート・第4話】
『私、どうなるんでしょう――』
…………………。
あのですね。
さっきまで、わたし、死にかけてたんです。
盗賊に囲まれて、ザハルって人には殺されかけて……心も体も、もう限界だったんです。
なのに。
ロブさんは――
拳ひとつで全部、終わらせました。
もう、言葉にならないくらい、すごかったです。
氷も、闘気も、必殺技も、何もかもをぶん殴って消し飛ばして……
終わったあとに「殴った」って、猫みたいな顔してるの、ずるいです。
こっちは震えてるのに!ずっと震えてるのに!
そして――
「金は払えるか?」
からの
「じゃあ、体で払ってもらうか」
………なんてことを、真顔で言うんですよ!?
リリア、全身で即ガード態勢取りました。反射です。本能です。
そして、ロブさんのあの顔。あの目。絶対なにか“企んでる”としか思えません。
怖い。
でも目が離せない。
いや、やっぱり怖い……!
でも、でもっ――
わたし、どうなるんでしょう。
これから先。
怖い意味での“ドキドキ”が止まりません……っ!
*
――というわけで、これが初めての《リリアの妄想ノート》です!
このあとどうなるの!?と気になってくれた方は、ぜひ【ブクマ】と【感想】で応援してください!
読んでくださってありがとう!次回もよろしくお願いしますっ!
(あああ……誰か、逃げ道ください……)
――おしまいっ!