第3話 氷獄の処刑人ザハル vs 海老男様、名乗りは突然に!
不意に、森の奥の闇がざわめいた。
すっと、ひと筋の冷気が這う。どこかで枝が折れる音。リリアは肩をびくりと跳ねさせ、反射的にロブの背に身を隠した。
「……それは聞き捨てならんな」
闇から現れたのは、背の高い男だった。
白い長髪が月明かりを反射して揺れ、無表情の顔に並ぶ切れ長の目が、氷のような光を帯びている。
その男は、使い込まれた革鎧に身を包み、腰に吊るした片刃の長剣を静かに抜いた。刃が空気を裂いた瞬間、辺りに白い息が立つ。
冷気だ。剣から放たれている。
季節はまだ春の終わりだというのに、リリアの肌が寒さで粟立った。
「ザハル。紅竜四爪の一人、″血染めの爪″《ブラッディクロー》ヴォルフ様の部下……“氷獄の処刑人”とでも名乗ればいいか」
白髪の男は、倒れ伏した仲間たちの姿に一瞥もくれず、ただ目の前の黒衣の男だけを見据えた。
「お前がやったのか」
ロブは言葉を返さない。代わりに、無言で一歩前に出る。
その背中が、リリアの前にすっと差し出された。
まるで、彼女を寒さからも剣からも――すべてから守るとでも言うように。
「冒険者か?」
「一応な」
短く、静かな返しだった。声に冷たさはない。ただ無感情に、どこまでもフラットだ。
ザハルの口元がわずかに歪む。嘲りか、怒りか、その判別もつかない。
「ならば名を名乗れ。こちらは先に名乗った」
ロブは眉ひとつ動かさず、ぽつりと口を開く。
「名乗らなきゃダメか?」
「礼儀だ。お前のような無名では、死んでも記録に残らん」
「……そうかい」
ロブは指で額をひとなでし、ため息をついた。
「面倒だが……仕方ないな」
ふわりと風が吹いた。ロブのマントが翻り、リリアの目に、あの金色の刺繍が映り込む。
海老――そう、堂々たる“海老”の紋章だった。
「俺の名はロブ。冒険者だ」
それだけを、静かに。
その声に、ザハルの眉が動いた。
「二つ名は?」
「忘れた」
「……は?」
予想外の答えに、ザハルは一瞬沈黙する。
リリアもまた、思わず首をかしげた。冒険者、それも銀獅子階級の者に、通り名がないなど聞いたことがない。
「俺、そういうの苦手でさ。なんていうか……中二病ってやつ?」
「中、二……?」
「自分を“処刑人”だの“氷獄”だの名乗るあたり、まさにそれ。恥ずかしい時期にかかる風邪みたいなもんだ」
「……ッ!」
ザハルの表情に、確かな怒りが浮かんだ。
だがロブは、肩をすくめて笑った。
「ま、俺を知ってる奴らはこう呼ぶな。“海老男”って」
リリアは、口元を引きつらせた。
また、これだ。
(この人、空気読めないの……?)
だが、不思議だった。あれほど場違いな名前なのに、不思議と胸に残る。重みのある名前ではない。格好いいわけでもない。
けれど――
(この人が名乗るなら、それでいい)
リリアはふっと笑った。寒さはもう気にならなかった。
ただ、彼の立ち姿があまりに真っ直ぐだったから。
(この人なら、絶対に守ってくれる)
心のどこかで、そんな確信が、芽を出していた。
「……お嬢さん」
ふいに、ロブがリリアの方を向いた。
先ほどまで敵を前にしていた時とは違う、柔らかく、けれど深く沈んだ声だった。
「名前は?」
一拍だけ、間が空く。
リリアは少し戸惑った顔をしたが、すぐに小さく頷き、答えた。
「……リリア。リリア・エルメア、です」
その瞬間。
ロブの黒い瞳が、わずかに揺れた。
ほんの一瞬。感情の波が奥底からせり上がったような――そんな色が、彼の目に走った。
けれど、すぐにそれは消える。
ロブはほんの少しだけ視線を落とし、唇の端を持ち上げた。
「……リリア、か」
名前を繰り返すその声には、妙な重みがあった。
まるでそれが、ずっと探していた答えのように。
リリアは、その視線を正面から受け止めながら、胸がきゅっと締めつけられるのを感じた。
(あれ……今、なんでだろ……)
リリアの胸の奥が、ふわりと温かくなった。
まるで、自分の名前が“帰る場所”みたいに響いた気がして。
初対面のはずなのに、この男に名前を呼ばれただけで、妙に安心する。
(……おかしいな。こんな人、知らないのに……)
でも、どこか懐かしい気がするのだ。
この声、この背中、この立ち姿。
まるで——ずっと昔から、こうして守られていたような。
「……へへっ」
気がつけば、リリアの口から小さな笑いが漏れていた。
最悪の一日だったはずなのに、なんでだろう。
少しだけ、息がしやすくなった気がする。
その変化に気づいたのか、男がふと肩越しに振り向いた。
にやり。
やけに気楽な笑みを浮かべて、ぽつりと呟く。
「……ま、安心しときな」
そして、まるで軽口のように、誇らしげに名乗った。
「海老男様がついてるからには——負けるわけがねえだろ?」
リリアは思わず、口を開けたまま絶句する。
名前のインパクトもさることながら——その背中が、あまりにも頼もしかったからだ。
……そう、これが。
長く、長く続く運命の始まり。
“リリア”と“海老男”が出会った、″最初の夜″だった。
「……海老男、だと?」
ザハルの目が細くなる。まるで氷の剣が静かに鞘から抜かれるような、冷ややかな緊張が走る。
ロブはふっと笑い、マントを払った。
「おう。海の“海老”に、男で“えびおとこ”。読みはそのまんま」
「ふざけた名だな」
「気に入ってるんだ。覚えとけ」
ザハルの足元に、薄く霜が浮かぶ。
静かに息を吐いてから、言った。
「十数年前。俺がまだ冒険者を目指していた頃、ギルドの片隅で聞いた名がある。冗談だと思っていた。“銀獅子の紋章を持つ、海老男”」
「そうそう。都市伝説とか妖精の目撃情報とかと同じ棚に並べられてたやつな」
「黒龍団を一夜にして壊滅。誰も目撃していない。報告はすべて曖昧で、記録は残されず。……くだらない作り話だと、俺は笑った」
ザハルは、ゆっくりと剣を引き抜いた。
氷の刀身が、夜気に白く霞む。
「だが今、こうして目の前に立っている。ならば——」
剣を構えると同時に、冷気が空気を裂いた。
「伝説をこの剣の錆とする。これ以上の誉れはない」
「へえ……」
ロブは少しだけ眉を上げ、口の端を持ち上げる。
「随分な自己紹介だな。いっそ名刺でも配ればいいんじゃねぇか、“伝説潰し”ってな」
「その程度の冗談で、死ぬ恐怖が薄れると思うな」
ザハルがにじり寄る。地面の草が凍り付き、リリアが息を詰める。
だが、ロブはいつもの調子だった。
「ま、わかった。なら一つ、忠告しとくよ」
肩を回し、首を鳴らす。
「伝説ってのはな、潰される側より潰す側の方がよっぽど命がけだ」
「ほざけ……!」
「しかも、“海老”だぞ?」
ロブは胸を張る。
「赤くて硬くて、締まっててうまい。最高じゃねえか。潰すどころか、病みつきになるぜ?」
「……くだらん」
ザハルは呆れと殺意の入り混じった目で睨んだ。
「いいから構えろ、伝説。伝説ごと、氷の棺に封じてやる」
対するロブは、肩の力を抜いたまま、にやりと笑った。
「はいはい。じゃ、そっちが冷凍担当なら、俺は解凍担当ってことで——よろしく」
その瞬間だった。
地を這う霜が、爆ぜた。
氷の大気が、逆巻く熱風に打ち砕かれる。
リリアの頬を撫でた風が、確かに“春”の匂いを運んでいた。
——次の瞬間、二人の姿が、消えた。
音よりも速く、光よりも鋭く。
“伝説”と“処刑人”の戦いが、幕を開けた。
この世界の登場人物は、大体みんな厨二病(笑)。
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次回、第4話――
“氷獄の処刑人”ザハル vs “ただの冒険者”ロブ
全力のバトル、始まります。
続きをお楽しみに。