第2話 “海老男”って名乗ったくせに、治癒魔法がチートすぎる件
……え?
耳を疑った。リリアは一瞬、自分の聴覚を問い直す。
けれど目の前の男は真顔だった。堂々と、まるで誇り高き称号のように、あの名前を名乗った。
どや顔で。
(え、今……“海老男”って……言った?)
脳が一瞬で処理を放棄する。
——名家の裏名?
——伝説の異名?
——いやまさか、暗号か何か?
いくつか選択肢が浮かぶが、最終的に脳内に描かれたのは、赤くてぷりぷりの、海の生き物だった。
(ちょっと待って……さっきあんなにカッコよく助けてくれたのに!?)
衝撃が強すぎて、声すら出ない。
なのに当の本人は、照れも恥じらいも一切なく、爽やかすぎる笑みを浮かべていた。
リリアはぽかんとしたまま、乾いた声を絞り出す。
「……へ、へび……男……?」
「違う。“海老男”。海の海老に、男。……いい名前だろ?」
どういう思考回路を通ればそれが“いい名前”になるのか。もはや尋ねる気力もなかった。
だが。
その笑顔があまりにもまっすぐで、無防備で、悪意の欠片もなくて。
リリアは、俯いた。
肩が、震える。
(……ダメ……ダメ……絶対笑っちゃダメ……)
涙がにじむ。でも、それは恐怖のせいじゃない。
こみ上げてきたのは、ひどく温かくて、少しだけくすぐったいものだった。
(……お姉ちゃん、ごめん……)
ほんのさっきまで、世界が壊れたと思った。
なのに今、自分の口元が、勝手に緩んでいく。
(……でも)
“海老男”という妙な名と、常識外れの強さ。
そして——あの手の温もり。
全部が、彼女の心の隙間に、そっと入り込んできた。
きっと、この人なら。
リリアは、小さく、でもはっきりと頷いた。
それを見た男は、ふっと目を細めて、彼女の足元に視線を落とす。
刺さったままの矢を見て、もう一度リリアに黒い瞳を向けた。
その瞳は、さっきのどや顔とはまるで違っていた。
真っ直ぐで、強くて、そして——どこまでも優しかった。
「痛むぞ。我慢できるか?」
男の声は平坦だった。けれど、その目だけは冗談ひとつない本気の色をしていた。
リリアは、喉の奥につかえた恐怖を呑み込み、唇をきゅっと噛みしめて頷いた。
「……うん」
「よし」
男はそれだけ言うと、しゃがみ込み、左手をリリアの足元にそっと添える。矢の根元に触れた右手は、無駄のない動きで位置を定めた。
「いくぞ」
息を整えたのは、どちらだったのか。次の瞬間——
ズッ。
刃物が生きた肉を割る感覚。音すら立てず、矢が抜かれた。
「っ……!」
視界が白く弾けた。リリアは声を上げる寸前で歯を食いしばる。喉奥でくぐもった叫びがせり上がったが、それでも耐えた。
——けれど。
痛みは、すぐに消えた。
「……え?」
ふわりと光が溢れる。
男の掌から、黄金色の燐光がにじみ出る。炎のように揺れながら、けれど燃やすことなく、優しく足を包み込んだ。
焼けるような痛みが、すうっと引いていく。
血が止まり、裂けた肉が滑るように繋がっていくのが、目に見えて分かる。
「これ……魔法……?」
かすれた声が、自然と口から漏れた。
男は答えない。ただ黙って、光が消えるまで傷に手を当て続けていた。
詠唱もなかった。手振りすらない。ただそこに手を置いているだけで、完璧に治癒していた。
懐から取り出した布を水で湿らせ、男は当たり前のようにリリアの足を丁寧に拭った。
その仕草に、一片の躊躇もない。あまりに自然で、まるで“いつもの作業”みたいだった。
「はい、終わり」
短くそう告げると、男はすっと立ち上がった。
リリアは反射的に、自分の足を触ってみた。痛くない。傷もない。血の跡すら、残っていない。
まるで、最初から何もなかったみたいに。
「な……何これ……」
呆然と呟いたその声に、男は振り返らないまま、肩をひとつすくめた。
「うん? 痛むか?」
男の問いかけは軽かった。だが、視線は真っ直ぐで、リリアの足元を逃さず見ている。
「……いえ。全然、痛くないです」
自分でも信じられないほど、声が落ち着いていた。
さっきまで、まともに歩ける気すらしなかったのに。
これが“魔法”なら、回復というより——奇跡に近い。
男は無言で手を差し出した。ためらいも、急かしもしない。
ただ、差し出されたその手が、不思議なほどあたたかく感じられた。
リリアはそっと、その手を取った。
「……ありがとうございます」
男はリリアを軽々と引き起こし、もう一度、ふっと笑って見せた。
整った顔だった。だが、それ以上に、どこか“安心させる何か”があった。
「村が襲われたのか?」
「はい……」
「村の名前は?」
「セイラン、です」
「セイラン……魔石の産地だな。狙いは、たぶんそれだ」
男の口調は、状況を確認するように落ち着いていた。
だが、リリアは思わず身を強張らせる。
「……どうして、それを……? 魔石のことなんて、部外者には絶対に知らされないのに……」
男は肩をすくめ、当たり前のように言った。
「土の匂いが違う。足に響く振動も、空気の密度もな。魔力の濃い土地ってのは、誤魔化しが効かねぇ」
その理屈が本当かどうか、リリアには分からなかった。
ただ、男の言葉に嘘があるようには思えなかった。
「……あなた、冒険者さん、ですよね?」
「ああ。一応な」
曖昧な返事。けれど、逆にそれが妙に信じられた。
リリアは一歩踏み出した。
「お願いです。冒険者ギルドに私を連れて行ってください。紅竜団を討伐してほしいんです!」
声が震える。けれど、それでも踏み出した。
行動しなければ、自分が生き残った意味がない。
お姉ちゃんも、家族も、村も——すべてが奪われたのだから。
ギルドのあるバルハルトまでは、馬でも二日はかかる。
それでも、動かずにはいられなかった。
「報酬は?」
「え……?」
咄嗟に返ってきた問いに、言葉が詰まる。
「ギルドに行ってたんじゃ、間に合わん。俺がやってやる」
「……あなた、一人で……?」
「ああ」
即答だった。しかも、躊躇のかけらもない。
「そ、そんなの、無茶です!」
リリアは思わず声を荒げた。
「紅竜団は、百人以上いるんです! それに、強い……あなたひとりじゃ、死んじゃいます……!」
叫びながらも、心のどこかではわかっていた。
この人は、本当に強い。三人の盗賊を、何の苦もなく倒した。
きっと、ギルドでも高ランクの冒険者だ。
けれど、それでも——一人で挑むには、あまりにも危険すぎる。
だから、止めなければならなかった。
この人まで失いたくないと思ってしまった自分に、リリアは気づいていた。
男は、リリアの言葉を真っ向から否定することもせず、ただ静かに呟いた。
「百人? 二百人? そんなもん、俺にとっちゃ雑魚同然だ」
さらりと、息を吐くように。
「……え?」
聞き返す暇もなく、彼は続ける。
「もたもたしてたら、奴ら逃げるぞ。仇を取りたいんだろ?」
その一言が、リリアの胸に刺さった。
仇を——取りたい。
その気持ちは、たしかにある。むしろ、それしか残っていない。
だけど。
(……本当に、そんなこと……できるの?)
リリアの中で、怒りと不安と迷いがぐちゃぐちゃに渦を巻いていた。
男は、そんなリリアを見ていた。じっと、静かに。
黒く澄んだその瞳は、夜の湖のように深くて、どこか悲しげで。
そして、その瞳が、まっすぐに彼女の心を射抜いてくる。
「信じろ。俺は、負けない」
その言葉は、嘘じゃなかった。
虚勢でも、軽口でもなかった。
ただ、事実として。
「紅竜団は、俺が潰す」
まるで、“これからコーヒーでも淹れるか”くらいの自然さで言い放った。
その声を聞いた瞬間、リリアの中で何かが揺れた。
確かな手触りのない“記憶”のような感覚が、心の奥から浮かび上がってくる。
(……なんでだろう……)
この声。この視線。この言葉。
初めて出会ったはずなのに、どこかで——もっと遠くで、聞いたことがあるような気がした。
(わたし……この人に……)
「それは聞き捨てならんな」
「……っ!?」
突如、低く響く声が森の奥から届いた。
リリアは咄嗟に振り返る。まるで背筋に氷を流し込まれたような感覚。
風が止まり、木々がざわめきを失い、森そのものが“沈黙”に呑まれた。
空気が重い。息をするのが少しだけ、苦しくなる。
——何かが、来る。
リリアの本能が、そう告げていた。
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次回、第3話では――ロブと紅竜団、ついに本格衝突の幕が上がります。
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