第1話 絶体絶命の少女を救ったのは“海老男”だった
朝の陽射しが、セイラン村を包み込む。
木造の家々に反射する光。小川のせせらぎ。鳥のさえずり。それらが自然に混ざり合い、この場所が平和であることを何よりも雄弁に物語っていた。
村の人々は朝に強い。既に畑に出ている者、工房で木槌を振るう者、パンを焼く香ばしい匂いが風に乗って流れてくる。
そんな朝の気配を、小高い丘の家の窓がカタンと割った。
「ん〜〜……朝かぁ……」
赤い髪をふわふわに寝癖で広げたまま、少女が伸びをする。
リリア。十四歳。まだあどけなさの残る顔立ちだが、瞳には生きた意志が宿っていた。
寝間着のまま階段を下りると、台所から焼きたてパンの香りが漂ってくる。
「おはよう、リリア。今日は朝からパン焼いてみたのよ」
姉のエレナが振り返る。黒髪ロングに穏やかな微笑。五歳年上で、村でも指折りの美人。
そして、リリアの目は自然に胸元へと――吸い寄せられていた。
(……やっぱり、でかい)
さりげなく自分の胸元に手を当てる。ささやかだ。
別に気にしてない。……たぶん。
姉自身も「視線が集まって困る」とこぼすことがある。わかる。わかるけど、やっぱりもう少しあってもバチは当たらないと思う。
(私は……まだ伸びる!)
脳内で宣言するように、リリアは背筋を伸ばす。
「お母さん、今日の畑当番でしょ? 私、手伝ってくるから!」
「はいはい。でも朝ご飯はちゃんと食べていくのよ?」
「わかってるってば!」
昨年、村の裏山で“魔石”が発見されてから、セイラン村の生活は少しだけ豊かになった。魔石は魔道具の主素材。採れるだけで商人が群がってくる。
リリアもよく運搬や仕分けを手伝っている。
(今日も午後は倉庫かぁ……)
食卓のパンの香りが、そんな思考をほどいた。
平和で、穏やかで、温かい。
けれど、リリアはまだ知らなかった。その日常が、この日を境に一変することを。
午後。
雑貨屋で買い物を終えたリリアは、麻袋を小脇に抱えて村までの坂道を下っていた。
風が気持ちいい。遠くに見える丘の上――自分たちの家が、今日も変わらず佇んでいる。
しかし、リリアほ直ぐに異変に気づく。
「……っ、煙?」
遠くの空。いつもより黒く、低く垂れ込めたそれは――
「火の手……!? 村からっ!」
血の気が引いた。胸が締め付けられる。
脇に抱えていた袋が、足元に落ちる。
駆け出した。
風を裂く。
脚がもつれそうになりながら、それでも丘を駆け上がった。
そして、見えた光景は――
「……うそ……でしょ」
村が、燃えていた。
黒煙が空を焦がす。火の手が家を飲み込む。
爆ぜる音。崩れる木材。誰かの悲鳴。
それらすべてが、現実を引き裂いていた。
――金属音。鎧の擦れる音。煙の中から、複数の影が現れる。
鎧。剣。火のついた松明。そして、肩に抱えた金属製の箱。
(あれ、魔石の保管箱……)
リリアの脳裏を、最悪の名前がよぎった。
「……紅竜団……!」
噂では聞いたことがあった。近隣で魔石を狙った襲撃を繰り返す盗賊団。
それが、まさか。
「お父さん! お母さん! お姉ちゃん!」
叫びながら、自宅へ走る。
だけど、その玄関前で――
血まみれで倒れた両親の姿が、目に飛び込んできた。
「っ……!」
心が止まりそうだった。
膝が崩れる。
その瞬間。
「リリアっ! 走って!!」
背後から、叫び声。
姉、エレナ。
リリアを庇うように、紅竜団の男にナイフを突き立てる。
血が飛び散る。だが、相手は怯まない。
「ひっ……! お姉ちゃん!!」
「逃げるよっ!」
強引に引っ張られ、リリアも駆け出す。
姉妹二人、悲鳴と怒号が鳴り響く村の中を必死で逃げる。
しかし、エレナは途中で捕まった。
リリアを逃がすために囮になったのだ。
「早く逃げなさい!」
姉の言葉が頭の中で木霊する。
涙が溢れた。
でも、足は――勝手に動いていた。
走った。転びそうになりながら、それでも。
振り返らなかった。振り返れなかった。
背後で響く剣戟と絶叫が、全てを物語っていた。
それが、リリアの“日常”の終わりだった。
リリアは、森の中をひたすら走った。
息が切れる。視界がにじむ。だが、止まれない。
背後から聞こえるのは、蹄の音。笑い声。金属音。
「へへっ、逃げんなよ、お嬢ちゃん!」
殺気が、背中をなぞるように迫ってくる。
(走らなきゃ……誰かに、助けを……)
だが。
ヒュッ!
「っ……!」
左足に、衝撃。
矢が――突き刺さった。
身体が転がる。痛みと土の匂いと、恐怖。
「へっ、当たりィ!」
追ってきた三頭の馬が、すぐそこまで迫っていた。
男たちの顔には、下卑た笑み。
剣。縄。松明。すべてが、この先にあるものを予感させる。
リリアは這う。爪が剥がれそうになっても、地面を掻く。
「来ないで……!」
涙と泥で濡れた声。
「姉ちゃんの顔にそっくりだなァ。さぞかし“美味い”だろうよ」
男が、剣を片手に近づいてくる。
「お前の姉ちゃんも今頃はお楽しみだろ。姉妹仲良く可愛がってやるよ」
ねっとりとした声とともに、男が舌なめずりをした。瞳には欲望と侮蔑しかなく、その視線だけで、リリアの背筋が凍りつく。
怖かった。寒気がするほどに。
でも、それ以上に。
(なんで……なんで、こんなことに……!)
燃える村。血に染まった家族。踏みにじられた日常。
胸の奥に、黒い塊が渦を巻いていた。
それは悲しみじゃない。恐怖でもない。
——怒りだ。
「……私は、あんたたちを絶対に許さない!」
喉が裂けても構わないと思った。
「あんたたちなんか、地獄に落ちろ!!」
叫んだ。涙と共に、声を張り上げた。
「へっ、いいねぇ。精々大声出すんだな」
男の一人が笑いながら剣を抜く。
その刃には、ねっとりとした赤黒い血がこびりついていた。
リリアの視界が歪んだ。
震える指。動かない足。視界の端で、もう一人が縄を手に持って近づいてくるのが見えた。
(誰か、誰でもいい……お願い……)
「……誰か、助けて!!」
空へ向けて放ったその声は、乾いた風にかき消されていく。
男たちの笑いが近づく。
(お姉ちゃん、ごめん……私、もう……)
ぎゅっと瞳を閉じる。
頬を伝う涙が、頬を冷やした。
——その瞬間だった。
何かが、風を切った。
ズバンッ!
重い破裂音とともに、目を開ける前に一人の男が宙を舞っていた。
空を描くように回転し、次の瞬間。
ドガァン!
木の幹に背中から叩きつけられ、そのまま動かなくなる。
「な、なに……!?」
残った盗賊たちが、思わず後ずさった。
森の中。煙る陽光の中に、ひとりの男が立っていた。
「俺の大っ嫌いなことしてんなあ」
低く、よく通る声だった。
リリアが恐る恐る顔を上げる。
黒衣の男だった。
頭から足元まで、夜のような黒。
背に翻るマントの縁には、金糸で縫い込まれた、奇妙な模様。
(……海老……?)
男は歩みを止めない。
一人の盗賊が我を取り戻し、剣を抜いて叫んだ。
「てめぇ、なに者だ!!」
だが、男は一歩も引かずに、静かに呟いた。
「下衆どもに名乗る名なんて、ねぇよ」
その言葉が、まるで呪いのように空気を裂いた。
黒い髪を無造作に後ろで束ねた男。
風に揺れる前髪の奥、真っ直ぐに見据える黒の瞳。
その瞳が、静かに言っていた。
——この場にお前たちの逃げ道はないと。
(だれ……この人……)
リリアは、ただその背中を見つめていた。
小さな祈りのように。
その“背中”だけが、世界で唯一、信じられる何かに見えた。
その男はゆっくりとこちらを振り返った。
そして、しゃがんだ。
ひざをついて、リリアと目線を合わせる。
その瞬間——男の瞳が、かすかに揺れた。
黒く深いその目に、ほんの一瞬だけ、熱を帯びたような光が灯る。
再会の喜び。長く待ち続けた何かに、ようやく辿り着いたような——そんな、言葉にならない感情がにじんでいた。
けれどそれはすぐに、波のように穏やかに引いていった。
次に見えたのは、やわらかく細められた眼差しだった。
その目に、凶暴さはなかった。ただ、安心させるような静かな光だけがあった。
年の頃は——二十歳前後。
黒い髪は無造作に後ろで結ばれ、風にゆれる前髪が額にかかっている。
胸元の留め具に、銀の獅子が象られたエンブレムが輝いていた。
(……あれ、冒険者の階級章……しかも、上位の……)
思わず息をのんだ。
「もう、大丈夫だ」
さっきと同じ声だった。けれど、盗賊に向けていた鋭さとは違う。やさしく、穏やかで。
その一言だけで、リリアの胸に溜まっていた何かが、すこし緩んだ気がした。
「てめえ、何者だ!」
盗賊の一人が叫び、剣を抜いた。
「冒険者か!?」
怒声が飛ぶ。
男は、立ち上がる。
そして、リリアに背を向けたまま、一歩前へ。
腰に差された剣には、手も添えずに。
悠然としたまま、相手の目をまっすぐに捉える。
「盗賊か? お前ら」
低く問うその声には、不思議と圧があった。
ただの質問ではない。罪を量るような、重みがあった。
「口の利き方に気をつけろ、小僧!」
盗賊が喚く。剣を振りかざし、吠えるように名乗りを上げた。
「俺たちは紅竜団だ! 泣く子も黙る、恐怖の盗賊団よ!」
その名は、リリアも知っていた。
村の子どもたちが怯えて囁く、悪意の代名詞。
けれど。
男の表情は、一切変わらなかった。
むしろ、少しだけ目を細めて——面倒くさそうに、肩をすくめる。
「ああ。三十年前に壊滅させた黒龍団の生き残りが作ったやつか。懲りない連中だな」
「……は?」
盗賊たちが、一瞬言葉を失う。
「な、なに言ってやがる……!?」
混乱するのも無理はない。
目の前の男は、どう見ても二十代前半。いや、もしかすると十代後半にも見える。
なのに、三十年前の盗賊団を“潰した”とでも言うのか?
(……どういうこと……? この人……何者なの……?)
リリアの中に、恐怖とは別の震えが生まれていた。
彼に感じるのは、ただの強さではない。
“歴史”を背負った者の重みだった。
「何わけのわかんねぇこと言ってんだテメェ……!」
剣を構えた盗賊が、男に向かって怒鳴る。だがその声は、すでに空振り気味だった。
黒衣の男は、どこか退屈そうに首を回す。
「いや、よく覚えてるよ。黒龍団。“最強の盗賊団”を名乗ってた割には、中身はスカスカだったな」
まるで昔の同級生の愚痴でも言うような調子で、彼は続けた。
「団長は俺の拳一発で地面にめり込んで。毒使いのやつ? ああ、アイツはちょっとしぶとかったな。三分くらい時間かけちまった」
「ふざけんなっ! 黒龍団が潰れたのはギルドの討伐作戦の結果だろ!」
「うん。表向きはな」
その言葉で、空気が静かに引き締まった。
ロブは肩をすくめて、指先で耳を軽くこすった。
「面倒だからギルドの手柄にしといた。そっちの方が話が早いし、ギルマスも“涙の感謝”ってやつでな。笑えるだろ」
「出鱈目言いやがって……!」
「信じなくていいよ。いずれ、お前らにも“事実”が叩きつけられる」
言い切ったロブが、拳をぐっと握る。その骨が静かに鳴った。
「ただな――」
声のトーンが変わる。
「何もできない女の子を三人がかりで追い回すような奴らに、語る名前も過去もいらねぇ。必要なのは、裁きだけだ」
冷たい声だった。熱も怒りもなかった。ただ、凍てついた断罪の意志だけが、その場を支配する。
「しっ、死ねぇッ!!」
盗賊の一人が叫び、剣を振り下ろした。
その動きは、今度こそ本気だった。だが――
ドスン。
剣は地面に深々と突き刺さる。
男の姿が消えていた。
盗賊が目を見開く。
「な……どこに……?」
「後ろだ」
耳元で囁くような声が届いた直後、
「ぶごっ!!」
拳が、盗賊の顔面に吸い込まれる。
バキィィンッ!!
衝撃音が弾けた。
次の瞬間、盗賊の身体がまるで弾丸のように吹き飛び、背後の大木に激突。
ドガァァン!!
木の幹がきしみ、男は痙攣するように崩れ落ちた。
その場に残されたのは、拳をゆるく戻す男と、凍りついた空気だけだった。
リリアは、声も出せずに立ち尽くしていた。
黒衣の男が発したのは、たった一撃。
だがそれは、世界のルールを、物理ごとひとつ壊した音だった。
「……な、何だこいつ……!?」
最後に残った盗賊が、剣を握ったまま後ずさる。だが、恐怖は足を縛り、振り下ろした剣は力任せの一撃に過ぎなかった。
男は微動だにしない。
むしろ、退屈そうに肩をすくめながら、その腕をゆっくりと持ち上げた。
――そして。
ガシィ。
握った。
鋼鉄の剣――の刃を、素手で。
「な……っ!?」
盗賊の目が驚愕に見開く。
ギギギ……。
刃が軋む音が森に響いた。まるで嫌な悲鳴のように。
リリアの背筋に、ぞわりと冷たいものが走る。
皮手袋の上からとはいえ、あんなの、普通なら指ごと裂ける。
でも――
男の手は微動だにしなかった。
まるで、紙か何かをつまんでいるかのように。
「……な、な、な、なんで切れねえんだよ……」
盗賊の声が上ずる。
そのとき、男の指がぐっと締まった。
ギギ……ギギギギギ……バキィッ!!
次の瞬間、鋼鉄の剣が――砕けた。 刃が手の中で粉々になり、破片が地面にカランと転がる。
「は……?」
盗賊が間抜けな声を漏らした。
「悪いな。握力だけは自信あってさ」
男はにやりと笑った。悪戯っ子みたいな顔で。
「……カニ並みなんだよ、これが」
その瞬間、拳が――
ドゴッ!!
盗賊の顔面に突き刺さった。
体が、音速で上昇する。
「うぼっ……!?」
空高く、視界の外まで吹き飛ばされ、次の瞬間――
ドシャアアアッ!!!
大地が悲鳴をあげた。
盗賊の体は落下の衝撃で地面にめり込み、そのまま動かなくなる。
……沈黙。
全てが終わった。
空気の震えだけが残るなか、男がゆっくりと手をぱんぱん、と払った。
そして、リリアの方へ歩き出す。
あまりに静かに。まるで今の一撃など、散歩中の石蹴り程度のことだったかのように。
「……よし、これで全部片付いたな」
静かに、だがよく通る声だった。
低く抑えられたその響きは、なぜか森のざわめきを一瞬だけ止めた気がした。
大人の男の声。けれどそこには、不思議な安心感があった。
リリアは無意識に体をビクつかせる。
だが、その場から逃げることはしなかった。
矢が足に刺さり動けないからではない。
恐怖ではない。胸の奥に、さっきまで知らなかった感情が湧き上がっていた。
男は、そんなリリアの動きにすぐ気づいた。
ゆっくりとしゃがみ、そっと目線を合わせる。
その瞳が優しく細められた瞬間、リリアの息が少しだけ整った。
「もう、大丈夫だ。怖いやつらは、全部ぶっ飛ばした」
少年みたいな軽口。
だけどその言葉に、妙に説得力があった。
男は、にこりと笑った。
「君に危ない奴が近づいてきたら、また俺がぶっ飛ばす。保証付きだ」
冗談めいた調子なのに、その目だけは、本気だった。
リリアの喉がかすかに鳴った。
さっきまで世界が終わったと思っていた。 命が尽きると思っていた。
でも今、目の前のこの男が、たった一人で世界を引き戻してしまった。
「……だ、誰……?」
声にならないほど小さく。けれど確かに、震える声でリリアは問うた。
男は、一瞬だけ視線を落とした。
その目に浮かんだのは、懐かしさにも似た、淡い哀しみ。
「修一……」
口にしかけた名前が、風に溶けた。
男は小さくかぶりを振ると、すぐに苦笑する。どこか照れたようで、でも、切ない笑みだった。
「……今は、“ロブ”って名乗ってる」
名前。それは、名乗るだけのものではなく、背負うもの。
それが誰に与えられたかを、この男はきっと、よく知っている。
風が吹いた。森の葉をわずかに揺らし、二人の間に沈黙を運ぶ。
その中で、リリアの胸にあったものが、音もなく静かに動いた。
記憶ではない。理解でもない。ただ、魂の奥が、小さく震えた。
男は、ふと空を見上げて、ぽつりと付け足す。
「……まあ、世間じゃ“海老男”って呼ばれてるけどな」
その言葉に、リリアの目がわずかに見開かれる。
初めて聞いたはずなのに、その名前には不思議な懐かしさと安心感があった。
絶望の淵にいたリリアの胸に何か暖かなものがわずかに灯った瞬間だった。