第11話 最強魔法”が効かない男――海老男、世界の理を凌駕する
―――な、なんなの、あの男……。
エリザは背中に冷や汗が伝うのを自覚した。
水を打ったように静まり返った広場で、ロブと名乗る男は紅竜団の精鋭たちを睥睨していた。
その真っ黒な瞳には、ただ紅竜団を潰すという目的だけが宿っている。
ロブの足元に横たわるのは、巨漢のバルド。
“血爪のヴォルフ”が率いるこの部隊で随一の怪力を誇った男が、一瞬で、それも頭から真っ二つにされ地に伏していた。
「……時間が勿体ないんでな。来ないならこっちから行くぜ」
その声で、殺気と緊張が広がった。
「エリザ、詠唱を。カイン、裏から回れ」
櫓の上から声が飛ぶ。
紅い眼を光らせたヴォルフが、矢を番えて構えていた。
「俺が援護する。撃てる隙を作ってやる」
「ええ、頼んだわ」
エリザが短く返す。
「炎煙障壁!」
エリザの足元から赤黒い煙が噴き出す。
視界を遮る煙の壁。その後ろから矢が放たれる。
ヴォルフの矢が、風を裂いた。
ピィン!!
鋭い音と共に、矢がロブの足元を掠める。
矢は魔力を帯びていた。
足止めと同時に、ロブの注意を引くための囮。
その隙を、エリザは逃さなかった。
エリザが静かに目を閉じた瞬間、空気が変わった。
まるで広場全体の温度が数度下がったかのように、冷たい緊張が肌を撫でる。
彼女の足元に魔法陣が浮かび上がる。
紅と黒が交錯する、二重の魔術回路。
その中心に、エリザの影が――蠢いた。
『……我が名に応じ、影の深淵より目覚めよ……』
低く、絞り出すような声。だがその音には、確かな意思が込められていた。
エリザの紅い瞳が、わずかに光を帯びる。
そして―――
髪がふわりと舞い上がった。
風はない。だが彼女の周囲だけが、まるで異空間のように揺らぎ始める。
ロブがヴォルフの方向へ目を向けた瞬間。
カインが、地を這うようにロブの背後へと忍び寄っていた。
短剣を抜き、無音で跳躍。
だが―――
ロブが振り返りもせず、剣を背後に突き出す。
カインの短剣が、剣に弾かれた。
「なっ……」
「アサシンか。気配を隠す技術はなかなかだが――俺を狙うにはまだまだだな」
ドガッ!
ロブが体をひねって繰り出した蹴りがカインの腹を撃つ。
「ぐふっ!」
吹き飛ばされたカインが転がる。
しかし、咄嗟に後ろに跳んでいたためダメージは軽く、すぐさま立ち上がり、周りの盗賊達に合図を送り、取り囲んでいた三下の盗賊達がロブに襲いかかる。
『影に沈みし、古き焔よ……名を持たぬ深淵の牙よ……!』
エリザの影が、魔法陣に呼応するように広がっていく。
影の端が、まるで生きているかのように地面を這い、周囲を蝕むように染め上げていく。
彼女の紅のマントも、まるで焔にあぶられたようにゆらりと揺れた。
ロブは一人の盗賊の顔を拳で打ち抜き、もう片方の腕に握る剣で別の盗賊の胴を切り裂き、血飛沫が舞う。
その間隙を縫ってカインが再び切りかかるも、返す刃で受けられる。
嵐のように繰り返されるカインの斬撃を、ロブは苦も無くいなし続けていた。
攻防どちらも隙のない動きに紅竜団きっての技巧派であるカインが足元にも及ばない。
『燃えよ、焼けよ、逃さず喰らえ……!』
足元から立ち上る黒煙。エリザの周囲だけ、空気が歪んでいる。
それは熱によるものではない。魔力の質量による、次元のゆがみだった。
その異様な気配に、リリアが息を呑んだ。
最後の一節が、まるで刃のように鋭く放たれる。
『我が声に応じて、全てを断罪せよ――!』
エリザの掌が、ロブへと向けられる。
『影焔業火」!!』
その瞬間。
ロブの足元の影が炸裂し、咆哮を上げて黒き炎が噴き出した。
まるで深淵が口を開いたかのように。
それは、災厄の牙だった。
「ロブさん!!」
リリアの叫びが響く。
炎がロブを完全に飲み込んだ。
―――ズゴォッ!!
ロブの足元から吹き上がった漆黒の焔が、彼の全身を包み込んだ。
紅竜団の面々がその光景に一瞬硬直する。
黒炎は風に流されず、爆発もせず、ただ静かに、しかし確実に標的だけを灼いていく。
焔がロブを中心に燃え上がり、影が周囲を飲み込む中―――
「やった……のか?」
誰かがぽつりと呟いた。
その言葉に、安堵の空気が一気に広がる。
「マジかよ……アイツ、やっとくたばったか……!」
「はは……そりゃさすがに生き残れねぇって……」
真っ黒な火柱だけが、ゴウゴウと音を立てて燃えている。
緊張で引きつっていた団員たちの肩が、次々と下がる。
誰かがその場にへたり込み、肩で息をしていた。
「すっげぇ……エリザ様の魔法にかかれば、あんな奴でも……」
「これで終わりだよな……?」
剣を下ろす者、笑う者、顔を見合わせてホッと息をつく者。
「ロブさん……?」
リリアの不安げな声が、響いた。
彼女だけは、ただ黒炎をじっと見つめていた。
燃えているはずのその中心を、決して見失わずに―――
まるで、そこから“何か”が出てくるのを予感していたかのように。
焔の中心が、僅かに脈動した。
ゴォ……という重低音のような風鳴りが響く。
「……な……に……?」
エリザが思わず呟いた。
焔が―――内側から、吹き飛ばされた。
ボンッ!と音を立てて、黒炎が四方に押し返される。
燃え広がるはずの焔が、まるで何かの“圧”に押し潰されたように収縮する。
中心に現れたのは、黒衣の男。
ロブだった。
その身体から、淡い風のような流れが立ち上っている。
衣服も髪も焦げていない。肌には一切の焼け跡もない。
ただ、無傷で、そこに立っていた。
「ありえない……ッ!」
エリザが目を見開く。
影焔業火は、絶対追尾・対象限定の灼熱の牢獄。
一度捕らえたら、燃やし尽くすまで消えない魔法のはずだった。
それを――今、この男は。
燃えながら、踏みしめながら、無理やり押し返している。
焔を押し返しているのは、ロブの周囲を渦巻く風。
ただの風ではない。
それは意志を持ったように滑らかで、焔を正確に押し戻していた。
「便利な魔法だな。影から出てくる上に、他を傷つけず標的だけを焼く……かなり高度な術式だ」
ロブが淡々と口にする。
彼が右手をかざした瞬間―――
ズォォォッと音を立て、風が収束する。
螺旋を描く風の力が黒炎を包み込み、吸い込むように掻き消していく。
まるで炎の存在そのものを、風が“否定”しているかのように。
数秒後、漆黒の焔は完全に消失した。
残ったのは、地面に微かに焦げ跡を残すのみ。
「……そんな……そんなことが……!」
エリザは崩れ落ちそうになる足を、必死で踏みとどめる。
―――こんなこと、あり得ない!
―――こんなことが出来るのは。
―――魔王!?
―――いや、そんなはずは……
―――なら、この男は一体……!?
魔族ですら及ばぬ力。神の眷属か、あるいは神そのものか――。
エリザの手が微かに震えた。魔術師としての誇りが打ち砕かれ、代わりに心を支配するのは、底知れぬ「恐怖」だった。
赤黒く焼け焦げた広場に、海老男の背中が浮かび上がる。死と怒りを背負いながら、なおも静かに立つその姿は、美しさすら感じさせた。
「……海老男、貴方は――何者なの?」
震える唇が、問いを紡いだその時。
ロブ―――海老男が、ゆっくりとこちらを振り返る。
その瞳が、真っ直ぐにエリザを射抜いた。
次の瞬間、エリザの膝ががくがくと震える。
―――これは、ただの戦いじゃない。
世界の理を変える者が、今、動き出そうとしている。
【作者あとがき】
第11話、ついにロブVS紅竜団が本格化しました。
個人的に、今回のお気に入りはエリザの呪文詠唱シーンです。
静かに影が伸び、詠唱とともに空気が変わっていく――あの緊張感、読んでいても書いていてもゾクゾクしました。
強大な魔法を使う魔術師の気配が段階的に高まっていくあの演出、やっぱりファンタジーならではの醍醐味ですね。
そして、それを理屈で打ち消してしまうロブ。
ただの力押しではなく、彼が「理屈」と「技術」で魔法を凌駕していく展開は、この作品の大きな軸でもあります。
ここからさらにロブの怒りが加速し、紅竜団の幹部たちに次々と制裁が下されていきます。
4月6日まで、一日複数回更新を予定しております。
次回は12:30投稿!
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