8章 ハイセの刻
「正気かね?」
男がこの言葉を嘲りでなく、困惑で口にしたのは何十年ぶりだろうか。
目の前に居るのは四半世紀以上も年若い少女。
その目は猛禽類のそれだ。一分の冗談も含んでいない。
「それほどの事態なのです」
確かに彼女の言が真実であるのなら、彼女の提案は的を射ているに違いない。
この公館でバール側の筆頭である男は白くなった顎鬚を撫でながら黙考する。
しかし迂闊だ。
そう言わざるを得ない。
『リトルファルスアレン』。
その名前は『鬼姫』の言にしてバールに広く伝わっている。
それが同時に『木蘭の秘蔵っ子』であることもだ。
「ファフテン殿。
貴女は理解しているのか?」
相手の心配をするのも、また何十年ぶりだろうか。
あまりにも、文官として致命的な程にまっすぐ過ぎる相手に戸惑いが先立ってしまう。
これも不意打ちに含まれるのだろうか。
相手への懸念も、自身への失笑も充分な時間を持って飲み込むと同時にシェルロットが可憐な唇を開いた。
「理解しています。
─────これが、最善であると」
「アイリーンの失点と、ですが?」
まさかこちらの質問の意味すらわかっていないことはあるまい。
そうと思いながらもつい、問い直してしまう。
まったくもって自分らしくない。
「貴女が警告した敵────かの存在は『木蘭の秘蔵っ子』と呼ばれているのです。
アイリーンの手の者でないのですか?」
「違います」
一分の迷いも挟まない断言。
牽制に対する大上段の一撃。
「世迷いごとを」
「そう仰られるのも無理はありません。
私とて、貴女の立場ならそう言います」
「では────」
「ですが、まずは違うと言わせていただきましょう。
貴公とて、私と同じ立場であれば」
「……同じく否定するでしょうな」
文官として、当たり前の舌鋒を無用と切り捨てるか。
自分の中にある獣がゆっくりと頭をもたげる。
荒々しい獅子などではない。
潜み、ただ一度の牙を狙う大蛇が、だ。
この少女の事はバール側でも語り草だ。
可憐な外見をして蟲中の毒虫すら食いちぎる。
古来より、猪突猛進な武人に対しては、弁の罠に誘い込み結果で納得させよとされている。
だがこの娘。
突撃に突撃を重ねて出鼻を挫き、理路整然とまくし立てて切り捨てる。
勢いは確かに力だが、理論に穴が開きやすい。
そこを突かれれば一発で破綻しそうなものだが、そこを狙って待ち構えていれば喉笛を噛み千切られてしまう。
彼女の力。
文官の業こそ餌食にする牙。
文官は、否、人は自分の利益を追求する。
その成果とはどれだけの益を掻っ攫えるかに終始すると言って間違いない。
まるで魔法使いと戦士の戦い。
懐に潜り込まれた魔法使いに成す術はない。
老人は悟る。
ああ、この少女は斬り合いをしている。
それも猛将のような猛々しい太刀筋で。
牽制を冷ややかな目で見切り、大上段で潰してくる。
そこには理論など存在しない。
重ねられたのは果てしない経験則。
そして鍛え上げられた勘。
脳を不要とし、脊髄で常に正解を導き続ける。
思考の時間を削るリスクは、失敗の対価が大き過ぎる ────死であること。
だからと、付き合う必要はないのだ。
「では、話を進めさせていただきましょう。
かの者が本当に事を起こす確立は三割程度と推測しています」
まずは『リトル・ファルスアレン』の暫定的な所管を明確にし、責任の割合を決めるのが常套。
もちろん決めたからと防衛が有利に運ぶ事はない。
だが、今回はそうであれ今以降の交渉のアドバンテージは確実に稼げる。
わざと一拍の間を置いて、老人は極めて平静な、諭す声音で少女に語りかける。
「待たれよ。
その者がアイリンの手であれば、我々は貴方達の自作自演に付き合わされるということだが?」
「益がありません。
これが貴公らの策であればアイリンは罪を被ることになりますが、アイリンとしてはどこまで行っても迷惑この上ない話ですから」
「いや、策と言うわけではない。
例えば犯罪者であると。
であれば、アイリンで処理すべき問題であろう?」
「手が足りません。
だからこそ貴公に相談しているのです」
交渉でなく、相談ときたか。
男は呆れを通り越して、苦笑を噛み殺す。
それから、改めて呼吸を整え、空気を持っていかれまいと─────
「こちらはカイトス閣下に支援を依頼しました」
「っ!?」
気を取り直した積りだが、足りなかった。
「緑はすでに配置していますが、残念ながら青は今回の式典参加者の護衛で精一杯です。
聖騎士一人、こちらで用意できたのはここまでです」
「聖騎士をしてここまでと言うか」
世界を一人で滅ぼすと言われた『魔王』に対抗するために遣わされし五人が一人。
個人戦闘力では間違いなく世界有数レベル。
しかも彼はバール神の騎士。
「もし、あの予告が私の知る『リトル・ファルスアレン』であれば、カイトス閣下が戦わずに止めることが可能です。
その際には貴公の手を煩わせてしまっただけに終わりますが……」
「……」
「そうでない場合、これだけの事をする相手が単独犯とは考え難い」
「それは─────」
「はい、バール側の過失ではないかと推測しています」
「失言では済みませんぞ?」
ぎろりと、相手の息の根を止めるかのような睨みをするが……彼の耳には既にバールの魔術師ギルドでの一件が届いている。
同時に戦略研からも、かの脅迫状が『世界塔事件』に類する可能性が示唆されている。
昨日今日の話だ。
バール側でも知る者が限られるこの情報をまさか知られているとは思えない。
「構いません。
その結果は後日にでも」
……。
男は一瞬頭が真っ白になるのを感じていた。
後日?
ふざけるなの一言が喉を突き上げ、しかし─────
現実は明らかにバール側の不利。
下手な要求は逆にこちらの首を絞めかねない。
そうやって我にかえってから。
改めて目の前に、不用意に飛び込む雑兵を切り伏せんとする武人の姿を見た。
「……言葉が過ぎましたな」
巻き込まれている。
一手一手に時間をかける事が当たり前のチェスの試合で、早打ちが展開されることがある。
共にプロ。
不用意な打ち合いなどするはずもない。
だがそれは起こるのだ。
己の体感時間を歪め、間合いも先読みも失った抜き身での斬り合いが始まる事が。
その剣が鋭く洗練されたものであればあるこそ、その空気に飲み込まれていく。
この少女は選んでその空間を作り出すのではない。常にその空間の中で生きている。
これまで直接やりあった事はなかったが─────
空恐ろしさに熱が冷める。
この年若い少女に無双の武人を模するなど不可能と断じて見せよう。
老人は己のテーブルに空想のカードを広げた。
そうして、内心で深くため息をつく。
「背景はどうであれ、まずは宰相閣下の安全を考えるのも臣下の務めですな。
まずは防衛の強化を具申するべきか」
我ながら、敗北とも取れる結論をしたり顔で口にして席を立つ。
すぐさま副官を呼んで指示を飛ばした老人はため息を飲み込んで窓の外に視線をやる。
やれ規格外はこれだからと、呟いて。
「……」
一等書記官は数多の書類に囲まれ、一人深刻な吐息を零す。
資料室7-5の棚にこっそり残された手紙。
そこには野兎がどうだとか狐がどうだとか、一見暗号めいて、しかし解いて見れば余りにも下らない事実が記されていた。
要約するとこうだ。
『棚の整理は終わった』
そんな手紙を手に、重責を背負う一等書記官なる者が何故資料庫まで足を運んでいるか。
彼が立つのは7-5の棚ではなく、11-3の棚の前。
そこに並ぶ資料はかつて7-5に陳列されていた物だ。
ついでに言えば最初にあの少女が形式上の上司である自分に棚の整理が悪いと文句をつけた書類でもある。
鬼姫よりも悪辣で、アスカの梟よりも狡猾な……外見ばかり小娘の彼女がそんな無駄な遊びをするはずがない。
あれは遊びという物を知らないのだ。
冗談も、理解して応対するほどの筋金入り。
親の顔が見てみたいと心の底から思ったのは初めてだ。
「ファルスアレンの姫君。
……拙い記録によれば最後の記述は約400年前。
突如現れ、統一帝国よりも優れた魔術で天候すらも操作し、そして突如消え去った御伽噺の国」
御伽噺と言うよりも悪夢だなと鼻で笑う。
「親が悪夢であるならば、ああも性悪になるのは天命か」
手にとった資料は時代遅れも甚だしい数十年前の戦術概論だ。
その末尾から零れ落ちる数枚の紙を見てやれやれと拾い上げる。
そうして、まず最初の一枚に何よりも深い溜息が漏れる。
「人の部下まで勝手に疑わないでいただきたいものだね」
例えばそれが、的外れであれば笑って済ませられる。
だが、狡猾に仕掛けられた罠に見事に引っかかっているのだから目も当てられない。
そして、続く資料はより一層彼の『自称』弱い神経をすり減らす。
「この国を占領するつもりか、あの娘は」
頭をひと掻き。
逼迫している時間を悔やんで資料室から出る。
「ダイアス・ベイ二等書記官の足取りを追え。
それから各一等書記官全員は会議室に集合。
半刻以内に集めろ!」
突然の一等……否、筆頭書記官にして戦略研室長の言葉に夜勤をしていた文官たちは顔を見合わせ、半瞬後には駆け出す。
こんな真夜中に誰も彼も叩き起こせ等という命令がただ事であるはずがない。
「室長」
一人の書記官の呼びかけに、苛立ちか焦燥か、どちらとも取れない空気を噛み殺せずに応じる。
「何だ」
「王室より緊急の検討依頼が来ています」
「読み上げろ」
「控えた収穫祭にて、アシュル宰相の護衛として『氷の牙』の要請有り。
これ、如何なるべきか、と」
「出させろ」
「は?
……はい!」
一瞬目を丸くした男の気持ちはわかる。
バールが世界に誇る看板を即答で出させろなどと嘯いた戦略研室長など前例があるまい。
これからだと言うのにどっと出る疲れを頭を振って掃う。
「おい、誰かコーヒーを大量に作れ。
それから─────────」
頭に浮かんだ言葉をヤケクソ気味に吐き出す。
「悪夢を食らうバケモノの名前、誰か知ってるか?」
「東方のですか?」
誰かが応じた言葉に「どこのでもいい!」と一言。
「獏……かと!」
「そうか、ならばこれより本作戦を『獏』と称する。
時間がない、気を入れろ!」
激を飛ばして、彼は思う。
長きに渡り、肥沃な土地を欲して戦いを求めてきた大国バールなれど、果たして国内でこれほどの事を起こした指揮官がどれほどいただろうか、と。
それとほぼ同時刻。
その男もまた、静かに脳裏に広がった盤面を俯瞰する。
そこに広がるのは広大なるバールの大地。
蟻のようにうごめくのは人の群れ。
時間は加速する。
蟻の群れがうごめき、別の群れを襲う。
時に展開し、時に撤退する。
その全ては約束された動き。
現実の数万倍で動く盤面は王軍に触れる事なく足を殺し、その旗色を己の物へと染め上げていく。
「転移反応だ」
声が、男の思考を緩める。
「場所は?」
にやついた声を向ける先にある魔術師は壁に掛けられた地図の、バールの南端に視線を向ける。
「フウザー師は防衛に動いたか。
詰んだな」
その言葉を背に男は部屋を辞する。
「お前の好きにしろ」
「言われるまでもない」
その背にかけた声を魔術師は振り払うようにして扉が閉ざされる。
脳裏の盤上は揺ぎない勝利を歌う。
だが、その反面で見えない動きを常に追い続けていた。
最強の攻め駒であるはずのフウザーが守りに付くとすれば、別の攻め駒が盤上に現れるのは必死だ。
「ラキアン・クライセスとティーエン・ザラッド。
それから……『リトル・ファルスアレン』」
転移反応があったということは一様に行動を開始したのは明白である。
となれば転移反応による所在がばれるのを嫌って飛行魔術での移動を選んだのであろう。
ならば到達時間は知れる。
場所も予想が付く。
そしてそれでは間に合わない事も。
俯瞰する戦場で駒が立ち挙がる。
「さて、始めようか」
そして戦いが始まる。