4章 少女と賢人のオモイ
彼は時代に裏切られる。
彼は選定家の分家に生まれた長子であった。
だが生まれに際して危うく死産になりかけたためか、未熟児だったためか────
体の弱い子供は元気に外を駆け回ることもできず、それどころか一日の大半をベッドの上で過ごす日々を強いられた。
彼が貴族であったことは幸運だろう。
一般家庭に生まれていてれば早くして病に伏し、この世を去っていたに違いない。
だが、貴族の中でも有力な家に生まれた事は彼の不運だったと言える。
そして時代は彼の境遇に追い討ちをかけた。
彼の家が主家と仰ぐ選定家の次代筆頭は女性であった。
これは連なる諸家にとっては無視できない事実だ。
女性の進出が目に付くようになったとは言え、未だ明確な男性社会が構築されている今、婚姻さえ結んでしまえば絶大な力を引き継ぐ事は自明の理であった。
暗黙の了解で始まったレース。
本来そのトップを走るべき者の最初からの脱落は、関わる者達の心情に大きく影響を及ぼす。
出産のために体を患い、子を望めぬ身となった母は療養を理由に遠い場所へと追いやられ、替わるように若い女が屋敷にやってきた。
一方の彼も『予備』として生かされるだけの存在となり、父から声どころか視線すら向けられることはなくなった。
そうして数年が過ぎた。
新しい妻の第一子は女児であったが二子は家にとっては念願の、そして彼にとっては忌むべき男児であった。
彼とてただ運命に甘んじていたわけではない。
軋む体に鞭打って少しずつ体を鍛えてはいた。
時の流れその全てに裏切られた男。
彼は己が立身すべき道を探し、そして母を呼び戻すために苦心を続ける中、その成果が出る前。
父は彼を捨てる事を決定した。
なお皮肉なのは、その後に彼が魔術師としての才能を見出されたことだろう。
養子先は代々魔術師と、そして文官を輩出する家だった。
彼は家長に手ほどきを受け、見る間にその才能を伸ばしていった。
十を超える頃には初級の魔術を修め、学問に措いても才能を開花していった。
二十歳となってソーサラーとなり、それは単なる通過点でしかないとまで囁かれるに至って、彼はようやく父と再会する機会を得る。
今更彼には家への未練はない。
ただ文すら届かない母を呼び戻したいとだけ願っていた。
だが、時代はまたしても彼を嘲笑う。
野心満ち溢れる皇帝の一喝は、万軍を率いて南進を為す。
その中には父の姿があり、そのまま戦場の雫と消えた。
家との接点は失われ、母がとうの昔に亡くなっていた事を知るのはそれから数年の後である。
全てを失ってから得た栄光。
魔術の最高位、ウィザードの名。
時代の嘲笑を鼓膜に刻み続けた男は、形のない渇望に常に苛まれる事になる。
そして──────
彼に一つの囁きが木霊する。
ならば、得よう。
得難き栄光を。
彼は世界をすべる一つの力に手を伸ばす。
しかし、彼は時代に愛されない。
そして、愛されなかった。
青年は怠惰を示すかのようにソファーに身を投げ出していた。
手にはワイン。
ただしグラスの姿は見えない。
『アンライズ』を名乗る青年はこの世の全てがつまらなそうに男に応じてやることにした。
「で、失敗したんだ?」
「ええ、あれだけ大暴れして仕留められなかったと」
大仰に、まるで自分が首を挙げたような口振りでバードリクは語ってみせる。
それでも青年に感情の揺れはなく、ただ面倒そうな瞳はずっと窓の外を眺めるばかりだ。
時折ワインをそのまま口に運んでは気のない吐息を漏らす。
「で?
それだけかい?」
「は?」
間抜けな声に青年は体を起こしながら首を回す。
「君は他人の失敗をわざわざ報告に来るほど暇なのかい?」
「え、あ、いや、それはっ!?」
無様もここに極まれり。
軽く睨み付けただけでしどろもどろになる様に心底呆れ果てて、空になった瓶を放り投げる。
「彼女の現在位置くらい把握してくるものだと思ったんだけどね」
「いや、それは……
どうやら特殊な場所に転移したらしく、消息が追えないのです」
転移魔法とは様々な形式があるも、『2点を結ぶ』という事については変わりない。
2点とはつまり始点と終点である。
魔術的な感覚を有する者にとってそれは目の前のトンネルに等しい。
大体の方角はわかってしまうのである。
さらにそれを辿ることが出来れば追尾すら可能だ。
そこまで明確な痕跡が残るには無論理由がある。
己を、または世界を歪める特殊な転移術は砂浜で作るトンネルに等しい。
魔力という水である程度固定してもやがて水に、風に浚われてしまうような脆いものだ。
がっちり固めないままに通れば、いつトンネルが崩れるとも知れず、通過中に崩壊すればその末路は死よりも難解で救い難いだろう。
魔術知識に欠ける男はちょっとした不思議程度に語っているが、着地点をぼやかして跳んだとすれば自殺にも思える異常な行為だ。
さて、と少年は考える。
追い詰めた果てに転移術で逃げたとすれば魔術構成が完璧でない状態で転移したとも考えられる。
その果てが失敗ならば、彼女は死んだようなものである。
だが青年はその結末で納得できなかった。
買いかぶり過ぎかもしれないが、あっさり認めるには危険と勘が訴えていた。
予定された期日まであと7日。
このまま音沙汰なければ構わないのだが、放って置けば小火は大火に化ける気がする。
「魔術師ギルドの捜索はどうなってるんだい?」
「え、ああ。
あちらはバールの主要都市に捜索部隊を配置したところです。
未だ発見の一報は届いていませんが……」
正体を知っている青年とは違い、魔術師ギルドの捜索はあまりにも曖昧だ。
かと言って正体を教えてしまえば彼らが動けなくなってしまう。
「アイリーンとルーンシティの捜索をしてくれるかい?」
「え?
今からですか?」
「何時からするつもりだい?」
いい加減殺そうかと考え、面倒だしこの部屋が汚れるのは余りにも忍びないと息を吐く。
「わ、わかりました……
で、あの男はどうするんですか?」
つくづく使えない男だ。
少年はいらだたしさを表に出さずに呟く。
恐らくは失敗したときの責任逃れだろう。
そういうことにばかり頭が回る。
「君に任せるよ」
明らかにその顔が困惑に歪む。
身の程を弁えた事は評価に値するが、所詮小物の証明だ。
どうせ彼女が再度現れるまで仕事はない。
それまであの男にはこれの子守をしてもらうとしよう。
「じゃあ僕は忙しいから、帰った帰った」
「あ、は……
し、失礼します」
帰り道にどれだけ悪態を付くのだろう。
単純なヤツは羨ましいと呟いて頭の中のプランを練り直す。
さて、どうしたものか。
艶やかな黒髪。
雅な東方風衣装。
畳という草を編んで作った床の上、女性は人形に針を通しながら静かに時を過ごす。
意識は手元に向けているが、気持ちはそのすぐ傍にある布団に向けられている。
その寝具からは銀の髪が広がっていた。
体を横たえるのはティアロット。
満身創痍を物語るように包帯が捲かれ、か細い呼吸が時を刻むように続いている。
「のぅ。
センカ」
女性の手が止まる。
ゆっくりと視線を上げて少女の瞳にあわせる。
「わしの杖……
レーヴァティンはどこじゃ?」
「その前に、言う事があるんじゃないのかィ?」
咎める響きはないが、少女は沈黙。
十数秒の間を要して「助かった。礼を言う」と言葉が漏れた。
「素直に『ありがとう』って言えない子だねェ」
「……むぅ」
女性は人形を置いて立ち上がると壁に立てかけていた杖に視線をやる。
「で、説明もなしに、また何かしにいくつもりかィ?
アンタはそんな恩知らずとは思わなかったけどねェ」
「……」
返す言葉が見つからず、口を閉ざしていると、見惚れるほど静かな動きで手が視界を過ぎった。
呆然と眺めた直後、それが脳天に叩き落されるのを知る。
「っ!!」
思わず頭を押さえようとして全身が軋む。
悪夢のような痛みの反響に悶える様を和装の麗人は冷やかに見つめる。
「な、何をするっ……!」
掠れるような声の批難では麗人の氷の瞳を溶かすことは出来ない。
なお一層の冷やかな視線が幼き少女を射竦める。
「前から思ってたんだけどさァ、ティア。
アンタ、アタシを甘く見すぎてないかィ?」
不満げな苦言。
反論の言葉は萎む。
「そんな事はない……
センカの錬変術は世界の理を揺るがすほどの力じゃと認めておる」
「だけど研究所魔術って?」
う、と口篭る。
物質同士の組み合わせで新たな物を作り出すのが錬金術だが、彼女の技はその上を行く。
物質の有り様を、意味を組み替えて新しい物に造り直してしまう。
それは魔術に措いても禁忌とされる魂の改変までに至る。
ホムンクルスやキメラなど生易しい。
この世界では不可能とさえ言われている生命の再構築すら彼女の手は為してしまう。
けれどもそれはやはり研究所魔術である錬金術の延長。
それがティアの見解だ。
それを指摘されて少女は言葉を捜す。
「アンタが自分の使う十三系統魔法とやらにコンプレックスを持ってるのは知ってるんだけどねェ。
どうやったって戦闘にじゃァ物理魔法には勝てない。
無詠唱にまで洗練され、熟達すれば多重起動すら可能となる超実戦魔術には」
否定できない。
まさにその通りだ。
フウザーはソーサラー級でようやく手の届く《アイシクルランス》を平気な顔で複数本並列構築して放つ。
《ホーミングレーザー》も、そして未だ対処法のない《スプリッツア》も、その洗練された構成を見る度に胸の中に痛みにも近い苛立ちを覚える。
「アンタのがんばりは否定しないさね。
遺失魔法を拾い集めて復元し、実戦にまで持ち込んでんだ。
並大抵のもんじゃァない」
やさしく頭に手を添えられて少しだけ背を丸める。
「けれど意固地になって、他人に教えを請う事を選択肢の外にしちまってんのはどうかねェ」
「わしは……」
「何がしたいんだィ?」
優しくも鋭い問いが安易な答えを封じる。
「魔王になるだとか、世界を安定させたいだとか……
本当にそんなことを望んでんのかィ?」
髪を梳く、さらさらとした音だけが室内に満ちる。
「わしが為したい事……それは世界を変える事じゃ……」
その中で、搾り出すように少女は言い放つ。
「わしは、世界を平和にする手段は一つと考えておる。
それは魔族の、魔王のおる世界じゃ」
知らぬ者が聞けば突拍子のないどころか頭がかわいそうになってしまったと疑いかねない発言だが、センカは特に口を挟まずにただ聞く。
「別に魔族でなくともよい、絶対的な『敵』とその象徴があること。
これこそ世界が平和に保たれる手段じゃと思うておる」
憎しみ合う2人の人間が居て、しかしそれよりも大きな脅威が間近にある時、人は心に含みながらも協力ができる。
このエオスでも歴史が証明していた。
聖戦。
世界が一丸となって戦った大戦争。
その時世界は確かに一つとなった。
だが、その後はどうだろうか。
五大国はおろか、植民地までを含み戦乱が続いた。
「世界には敵が必要なのじゃ……
竜、魔王……
共に消えては人はその敵意を人に向ける他ない」
人は比較し、競い合う。
「より」幸せを目指し、「より」力を求める。
「木蘭やマーツがそういう気質であれば、今この時戦乱はどこかで起きておるはずじゃ。
やがてこの大陸が統一された時、その敵意は翻って内に向けられるであろう」
かつてあった統一王国。
絶大な文明を築いたとされるそれも今は過去の残骸に過ぎない。
「世界の悪意を受け止める皿、かィ?」
「そうじゃ……
無論ハリボテでは遠くなく気付かれる。
故にある程度の犠牲は必要じゃろう……
じゃが、このまま人の時代を続けるより、制御された悪意の方が被害はぐんと少ない」
各国の首脳に取り入る理由がそこにある。
本気でやり合えば聖戦の再演となるだけだ。
必要なのは小競り合いで、計画された損害である。
世界を巻き込んでの八百長試合。
それが描いた空想。
「随分と大風呂敷だねェ」
「勝算がないわけでない。
かつては魔王の腹心と交渉するつもりであったが、今でもシルヴィアとクラウディアの協力があれば……のぅ」
聖騎士を除けば今名の挙がった二人の力は絶対的と言って過言ではない。
「『それ以上に、この世界がそんな『退屈な停滞』にどう抗うのか……
見たいだけかもしれないわね』
だったかねェ」
びくりと小さな体が震えた。
「せ、センカ……?」
余りにも意表を突いた言葉に見返すと、ニヤニヤとした笑みがそこにある。
「それは、本心じゃないのかィ?」
「……う」
黒糸使いに対して放った何気ない言葉。
ただの冗談、相手の警戒心を完全に解きほぐさないための一手。
「アンタの物言いは賢そうで、それらしい理屈に満ちてるねェ。
けれど、アタシはこう思うヨ?」
目を白黒させる少女に向かって、センカはにやりと笑ってみせる。
「ティア、アンタはまだまだガキなのさね」
有無を言わせぬほどの断言に反論の言葉が作り出せない。
それを良い事とばかりに言葉は続く。
「掲げた理想は余りにも高潔で、なまじ頭が良いからそれなりに話を綺麗にまとめちまう。
でも、実際はどうだい?
アンタの行動は今も昔も同じかィ?」
「……」
漆黒の瞳から視線がはずせない。
魔眼を思い起こすような強制力がそこにある。
「確かに記憶を取り戻したばっかりのアンタは後悔の塊だったさね。
けれども今もそうかィ?
アタシにはそうは見えないねェ」
思わず反論しようとして口をぱくぱくさせるが言葉にならず、むぅと唸って黙りこくる。
「今のアンタは『昔』の事をどれだけ思い出すかねェ?
愛しの魔王様の事をどれだけ考えるかィ?」
「……というか、センカ!
ぬし何故そこまでに詳しい」
『魔王』のことはまだしも、黒糸使いに語った言葉まで知っているのはおかしい。
いろいろな物がごちゃ混ぜになった恥ずかしさで顔を赤らめながら言葉を遮るが、それで止まる彼女ではない。
より一層、まるでいたずらの種明かしをするような顔で
「さっきから言ってるじゃァないかィ。
ティア、アンタはアタシを甘く見てないかィって」
と笑いかけてむにむにと頬っぺたを引っ張る。
その手を払う気力も起きず、しかし睨んだところで変わらない。
「まぁ、そろそろ種明かしもいいさね」
「なっ」
いきなり布団に手を突っ込んでまさぐり始める。
抵抗の一切ができない少女は身をよじるが、まともに動かぬ体では無意味な抵抗だ。
だが、嫌な予想に反して、すぐさま手は引きずり出される。
そのお供は緑のゲル状生物。
G-スラことグリーンスライム。
「アンタ、コイツがいろんな性能を持ってるコト、不思議に思ってたんじゃないかィ?」
当初『雑な造りで二年程しか持たない』と分析された拾い物だが、こうして元気にそれどころか妙に形を変えたり、ある程度の命令を聞き分けたりもする。
「まさか……」
まさか、どころでない。
ぞんざいに置かれた作り掛けの人形。
それに擬似生命を吹き込むくらい禁忌の秘術───錬変術には造作もない。
「んン?」
センカの手をぬるり抜け出して気楽にぽよんぽよん跳ねる緑球。
ほぼ年がら年中共に居たこの存在が、もしも……もしも通信機のような性能を有していたとすれば。
「……ぬ、ぬ……」
「おや?
どうしたんだィ?」
今までの空気全てを吹き飛ばし、ニタニタと笑う麗人と、顔を真っ赤にした少女の視線が交錯する。
「ぬし……どこまで見ておったや!」
「さァねェ。
記録媒体を用意しなかったのが悔やまれるくらいに可愛ィティアの情報満載としか、言えないねェ?」
ますます顔を赤くして、しかし起き上がろうにも激しい痛みがそれを許してくれない。
「導かれ 回帰する生命よ 癒せ 天生!」
無理やり構成。
神に怒鳴り込む勢いで展開した力が痛みを一気に吹き飛ばす。
……とはいかない。
「む」
起きるために支えにしようとした腕が、かくんと曲がり、そのまま転げる。
「当たり前じゃないかィ。
もう二日ばっか寝ときなァ」
その様子を身じろぎ一つせず眺めててからからと笑うセンカ。
いくら魔術で完璧に癒しても、失った血、新たに構築された筋骨は的確に脳の命令を受け取ってはくれない。
「あァそうだ。
粥でも作ってやるヨ?」
「っ!
待たぬか!」
じたばたとしてもすぐに息が上がってしまい、ついでに眩暈にも襲われる。
しかもすぐに襲ってくる痛みは急に癒されたという事実を脳が認識していないための幻痛だ。
立ち上がるのを諦めた少女は人が殺せそうな恨めしい視線を必死に向けるしかない。
「子供の小っ恥ずかしいアレコレを人様に言いやしないさね。
それよりも、体が動くようになったらする事があるんだろゥ?」
かなり聞き捨てならない事を言われたが、例え万全になっても今更どうしようもない。
脳裏を過ぎるあれやこれやらを一生懸命掻き消しながら、自分の今の境遇に眼を向ける。
「……ということは、センカ。
ぬしは見ておったのかえ?」
「あァ?
まァね。
アンタがぎりぎりで《天移》仕込んだカードを発動したところまできっちり。
その後に工房に飛び込んできたからびっくりしたさァ」
言いながら奥へと引っ込んだ女性は、自ら奥に行かず戸口の所でなにやら奥を見物している。
「まァ、アンタがこの工房にも転移用の印を付けてたのは知ってるけどねェ」
気付けば良い匂いがふわり漂っていた。
どうやら誰かがすでに調理していたらしい。
「ただねェ、ティア。
見てるしかできないのも結構辛いんだヨ?」
余りにも優しい声音にあらゆる反論がかき消される。
日の差さない部屋なので時間がわからない。
静かな部屋、静かな時。
思考も何もかもが凍りついた世界で
「はーい、おまたせ~」
「帰れ」
語尾にハートマークを付けそうな、無駄に媚を詰め込んだ気持ち悪い声音。
腕の痛みを無視して投げつけた枕が無駄に顔面ど真ん中を直撃し、そのままずり落ちる事なく仰向けに倒れる。
「センカ、この仕打ちはなかろう?」
「仕打ちという言葉もどうかと思うがねェ」
けらけらと笑う確信犯。
むくり起き上がったその人物は、ぶっ倒れたくせに全くこぼれていない粥の盆を手にすすっと気持ち悪いほど素早くティアの横に正座する。
「はいティアちゃん。
あーん?」
「いい加減にやめんと《風の衣》をぶち抜くぞぃ?」
「おいしいのに」
剣呑な視線を飄々と受け流す美青年。
ふと思えば少なくない空腹を覚えることから数日は経過しているのかもしれないと考えながら一気に襲ってきた疲れに体を横たえた。
「というか、魔術師ギルドが全力で追いかける禁術使いの家に魔術師ギルドの長がおるとは笑えぬぞ」
「はっはっは。
そんなの建前建前。
ボクが美しいレディを捕まえたり出来るわけないじゃないか」
オリフィック・フウザーが少なくともセンカの趣味ではありえないだろう、花柄ピンクフリル付きのエプロン姿で言い放つ。
「エカチェリーナに告げ口しとく」
「さて、本題に入ろうか」
さらっと流して粥を差し出す。
「まぁ、食べながら聞いてよ。
体治したいんでしょ?」
と言われては流石に断るのも気がひけた。
空腹も隠せるほどでない。
「センカちゃんから状況は聞いたよ。
ウチとしても無視できない相手みたいだね」
「ふん」
そっぽ向きながら受け取る。
小さな口でちまちまと食べながらとりあえず先を促す。
むかつくがそこら辺のシェフに喧嘩売れそうなほど美味しい。
「《魔理反法》で返した魔術が更に返ってきた。
その理由は推測ついてるかい?」
「魔術構成が元々自動追尾でなく任意操作であった、じゃろう」
意表を突かれたその現象だが、ある程度の予測に集約されていた。
「さすがだねぇ。
因果歪曲なんて冗談じみたその術は魔術構成に記載される彼我を入れ替えるものだ。
でも、最初から終点を決められていない術には更なる操作を受け付ける余地があった。
精霊魔法の《ウィル・オー・ウィスプ》なんてのはその系統だね」
「説明はいらぬ。
……そやつは追放されたウィザードなのじゃな?」
不意に頭を掻くのは負い目のためだろう。
「まぁね。
トラクルス・ザラッド導師。
実戦魔術研究でかなりの功績を挙げた人だよ」
解けてはいけないはずの魔力封印が次々と解かれ、騒動の種になっている事は魔術師ギルド上層部に大きな動揺を齎している。
「それとは話が変わるがねェ。
とりあえずアタシが言えるのはァ、ティアの魔術を解除したのはそいつじゃないってことさね」
「む?」
「ソイツの魔力反応は後方から遅れて来てるヨ。
最後の一撃はソイツの魔術だけどねェ」
あの時ティアは通常の魔術師では到達できぬ速度で離脱していた。
《浮舟》があればこその速度に迫って来るとは彼女も考えていない。
「伏兵……かえ?」
それならば考えられる。
複数人潜んでおり、逃亡を察知して射程内に居る者が《ディスペルマジック》を仕掛ける。
けれども、四方どこに逃げるかわからない状況では1人2人ではあるまい。
それこそ10人単位の運用でなければ意味がない。
「じゃが……曲がりなりにも『逃亡者』がそこまでの用兵が可能かえ?」
「ま、ポイントはそこだね。
それについての情報もある。
バールの魔術師ギルドからだ。
『放浪魔術師討伐』の任にティーエン・ザラッドを推す声有り。
師に判断を仰ぐ……だってさ」
「ンん?
ザラッド?」
センカの問いにフウザーは溜息一つ。
「そのウィザードの息子さ。
優秀な魔術師だよ」
苦々しさを滲ませて眼を伏せる。
嫌な因果だねェという呟きには応じる言葉はない。
「じゃが、わし一人を相手にするための策にあるまい」
「だろうね。
トラクルス導師の起用は私怨を利用したとしても、魔術師ギルドを持ち出すのは手が過ぎる」
「……黒糸使いも動いておったからのぅ」
全てはバールで起きている。
ならば足りない何かはそこでしか得られないだろう。
「……バールに行く」
だから、言った。
「アホかィ。
意地でどうこうする体じゃないだろゥ」
半分も食べていない膳を床に置いたティアに冷笑が降り注ぐ。
「子供たァ言ったけど、そこまで分別がないわけじゃァないだろ?」
「魔術の構築は可能じゃ。
それに敵地に乗り込むわけでない」
毅然と言い放つ言葉を鼻先で一笑。
「直接王宮に転移するってかィ?」
できない話だ。
それでは誰に迎撃されても文句の言いようがない。
そしてそれ以外の場所は政治的に拙い。
バールそのものが敵地。
つまりそういうことだ。
「それにねェ」
ぽんと肩に手を置かれるだけで、髪の毛が逆立ちそうなほど震え、涙を目尻に溜める。
「せ、センカっ!」
「そんな体で飛行魔術なんざ無理さね」
「ああ、もちろんボクが送るのもタイミング的にタブーでしょ?
ティアちゃんをその体で行かせるのも反対だしね」
追撃の言葉を聞き流し、ずきずきと痛む体を丸くして唸る。
「まぁ、こっちからも状況は確認してあげるから、今は休みなって」
「間に合わぬ」
口を突いて出た言葉から思考が加速する。
「数日中に大きな動きがある。
恐らくそれは間違いない」
けれども追い立てられる身となってはそれを知ることは難しい。
この数日中で大きくコトが動きそうな案件と考えても記憶に引っかかるものがない。
「数日中ねぇ……
そういえば国境開拓地の豊穣祈願があったかなぁ」
「はァ?
なんでアンタがそんな事気にしてんのさね?」
突拍子もない話題
「いやぁ、司祭の衣装がね?
って、そんな目で見なくてもいいぢゃないか!
うちの学者も開拓研究で出向してるから話が上ってきただけだってば!」
今更説得力の欠片もない抗弁を二人して無視。
「……ぬしに話がある……
ということは、それなりの人間が出るということかえ?」
「ああ。
経緯も場所も特殊だしね。
カイトスとかにも声が掛かってるんじゃないかな。
招待者は名代でアシュルになってたし」
「日は?」
「確か6日後かな。
人口も少ないしその後の準備の方で今年は目一杯だろうから大げさな準備はないだろうけど」
つい先日尋ねた開拓村では迫った種蒔きの準備に急がしそうで、祭りの雰囲気はなかった。
神事ということで厳かにやるのかもしれない。
「まさか、そこに襲撃でも掛けるつもりとか、かい?」
「……むぅ」
確信に至るピースが圧倒的に足りない。
宰相が表立って動くのであれば、その影で『牙』が万全の警備体制を敷くだろう。
それでなくともフウザーやカイトスが招かれていれば一個大隊にも相当する戦力だ。
そこでの要人暗殺は非常に難しい。
逆に失敗するつもりで襲撃を仕掛けるという考えもある。
安易に考えれば国交の正常化を嫌う理由があってとなるが、どうも腑に落ちない。
やはりここに寝ていては間に合わない。
「ん?」
ふとセンカが振り返る。
「客だねェ」と呟いて視線をティアへ。
「……わしに、か?」
「あァ。
珍しい客だヨ」
ふらり気兼ねなく戸口に向かったところを見ると敵意ある者ではないらしい。
「失礼します」
奥から聞こえた青年の声にフウザーがおやと首をかしげる。
やがて現れたのは『赤』の制服を纏った優しげな青年。
襟元には『大佐』を示す物と『大隊長』を示す二つがある。
「おや、アイシアちゃんの」
「アンタはつくづくそう言う覚え方なんだねェ」
呆れ返った突っ込みはさておき、ジュダーク・ミルヴィアネスは柔らかく礼をして腰を据えた。
そして視線の矛先はゆっくりとティアに定められる。
「さて、ティアロットさん。
シェルロット・ファフテンさんが貴方を探しています」
「む?」
その名は知っている。
『木蘭嫌いのファフテン』の娘にして
「……開墾地のアイリン側責任者かえ」
「はい」
頷いて紙を差し出す。
「豊穣祈願の祭事に襲撃予告が来たそうです。
貴方の名前で、ある文書を模倣したものだそうです」
どうやらその写しらしい。
「それは、サン・ジェルマン師の殺害報告かな?」
ティアよりも早く、文面を見ないままにフウザーが問う。
それにゆっくりう頷き、
「はい。
アイリン側はさておき、バール側の動揺はかなり大きいそうです」
と応じた。
「シェルロット・ファフテンはわしに祭事に出ろと要求してきたわけか」
一般には伏せられている事実も此度集まる人間には余りにもタチの悪い冗談だ。
笑ってゴミ箱に投げ入れるというわけにはいかない。
「その通りです。
アイリン中を探し回ってる上に『黒』や『赤』に捜索の協力を要求しています」
「大騒ぎだねェ」
「全くです。
今の所『赤』も『黒』もおっとり刀ですけどね」
少なくともアイリン軍部でティアを力づくで捕まえようなどと考えるのは木蘭と何も知らない『金』『銀』くらいなものだろう。
無論必要に迫られれば手段を辞さない猛者は山ほど居るが、この様な不可解な状況ではまず気にする必要はないと言える。
「ただ、事情を知った上層部では『何か起きた時』の責任について言及する者も出始めています」
事態が思うよりも早く、転がるように動き出したと知り、センカもフウザーも黙して事の趨勢を見極めようとする。
「フウザー、頼まれぃ」
ふらつきながらも立ち上がり、痛みをこらえるように深く息を吐いて杖を手にする少女の姿があった。
「バールまで転移する」
「……どこにだい?」
困ったように、しかし説得は無理だと察したようにフウザーは問う。
充分な間────自分の思考を吟味するように数秒の間を置いて、少女は力強く告げる。
「バール魔術師ギルド本部じゃ」
はぁ、やれやれ。
闇に紛れて男は溜息をつく。
彼が立つのは王都の一角。
酔客も皆家に引きこもった寒い夜。
曇った空に月はなく、されど雨も降りそうにない。
まさに闇が動くには絶好の日と言えよう。
「報告」
どこからか声が届いた。
「ポイント1から12、18から42。
異常なし」
「ラディッツはどうした?」
諜報ポイント13から17を探っているはずの男の名を問うと闇は逡巡。
「定時連絡ありません」
「ヨークのトコを回せ」
「はっ」
ぽりぽりと頬を掻く。
諜報を消すのは下策だ。
それでは怪しいですと言っているようなものである。
考えられるのは、大きく動く前の予兆。
今回の当たりはここかねぇ?
王が替わり、誰もが揺れ動く境界を自分好みに仕立てようと躍起になっている。
「報告」
先ほどとは違う声。
「明日カーン家の集会が開催されます。
呼応するようにアイアンマンディ卿の所領で組織的な動きがあります」
「へー」
頭の中で情勢を整理しながら右手を軽く動かす。
「で、ヤンダン」
「は……」
「お前要らないわ」
「え……?」
動揺は一瞬。
刹那に気配は殺気に転化し、そしてまた動揺。
「お前さん。
どこの蝙蝠だ?」
どさり。
身体機能を失った男が落ちてくる。
手には即座に引き抜いたであろう毒塗りの刃が空しく握られている。
「ま、喋るわけないわな。
いいや」
こともなげにナイフを奪い、そのまま喉に落とす。
かすっただけで死に至る毒も最早関係ない。
ひゅーひゅーと音を響かせ。
やがて無音。
「アイアンマンディって言えば国境沿いの所領か。
まぁ、不満だけは満載なんだろうから軽くノせられたってところか」
見れば二つの影が死体を手際よく処理。
闇に消える。
「指示を」
夜に同化した影達。
その中心に立って男は空を見上げる。
「情報をアシュル陣営にそれとなく流すか。
俺たちはとりあえず情報収集に集中。
考えるのはその役目の人間に任せようや」
「『お嬢さん』についてはどうしますか?」
茶化した問いの主を嫌そうに見やり、黒糸使いは散れ散れと手を振る。
「ンな不確定要素、俺が知るか」
影達はその言葉を聞いたか聞かずか。
再び闇夜に散り行く。
盤上に立ち並ぶ駒を俯瞰する。
中盤戦に差し掛かったそれは一手が大きな意味を持つ。
取られる積りの一手。
死守しなけばならない駒。
そしてその全てを集約し、達せねばならぬ『積み』。
盤上遊戯の基本は数手、数十手先を読み、自分に有利な戦局を組み上げることにあると言う。
だが、大前提は違う。
何事もルールを知らなければ始まらない。
駒がどう動くかを知らなければ読みも何もあったものではない。
このバールに広がった駒は刻一刻と動き続ける。
誰かが動けば、また誰かが動く。
盤上の駒は波紋を落とす。
波紋に触れた駒は動き出し、新たな波紋を広げる。
やがて触れ合う駒は争い、どちらかを喰らってまた波紋を刻む。
駒は消えていく。
終局を目指すべく収束していく。
『積み』を目指すこの遊戯に措いて、全ての動きを知る者は駒でなくなる。
『指し手』。
遊戯において神の視点から盤上を見下ろす者。
彼は口火を切った戦いを俯瞰する。
触れることのできる駒を動かし、目標を目指す。
盤上遊戯に措いて、駒は『指し手』に逆らわない。
けれども『指し手』を脅かす者がないわけではない。
一つは『相手』同じく『指し手』の視点を得た者。
けれどもそれよりも油断出来ない存在がある。
それが『遊戯』であれば、誰しもその者を卑下して終わることだろう。
けれども『現実』に措いて、それは最悪の存在になりえる。
『条約破綻』
巧手でもなく、奇手でもなく、悪手でもなく。
『手』その物の概念を無視した行為に走る者。
盤上から落ちた駒がある。
それが無造作に拾い上げられて浮いている。
彼は睨む。
盤上をただ睨む。
その一手を待ち構え、その裏で『積む』ための手を推し進める。
かちり
巨大な波紋を刻む一手が、バールに落ちる。