9章 バンジョウの戦い
その日の最初の出来事はバール宰相アシュルの到着だった。
最小限とは言え精鋭二百名からなる騎士団の行軍は、寒さを覚える朝もやの中で誰もが言葉を失うほどに壮観であったという。
それを出迎えたのは、驚くべき事にまだ年端も行かぬ少女であった。
本来アイリン国外務大臣が迎える事になっていたのだが、急な体調不良から彼女にお鉢が回ってきたのである。
普通ではありえない話だ。
いくら大臣が動けないとしても、この臨時公館には高位の文官が数人詰めている。
子供ほどの年齢のしかも女性が一国の宰相を迎えるなど、どういう間違いか皆目検討もつかないだろう。
式典のためにこの2、3日で訪れたばかりの者には困惑が大きい。
だがその一方で、この公館で数ヶ月職務を全うした者達は、楽しげな笑みを隠そうとせずこの光景を見守っている。
「いや、晴れ舞台ですな」
病気のはずの外務大臣が目を細め、二階の窓から外の光景を眺める。
その横には獅子賢の姿があった。
「少々やりすぎでは?
不満も出ましょう」
「いや、これでいいのですよ。
……我々古株は余りにもバールと喧嘩しすぎた。
それはこの公館で数執り成された会談でも……皆、過去に引き摺られていたのです」
文官の、特に外務官の仕事は他国との友好関係を取り持ちつつ、利益をせしめる事だ。
しかもアイリンとバール間でのやりとりはその半分を戦時処理に費やされたと言っても過言ではない。
口を開けば非難し、罵り合い、利権を毟り合う。
そんな関係が数十年続いてきた。
平時であっても互いを最大の仮想敵国において来たのだ。
「だが、ご息女はそれに真っ向から切り込んでいった……
最初こそ悲惨でしたよ。
ですが、流石は獅子の子ですな」
自分の孫娘を見るような優しい瞳で、外務大臣は顎鬚をゆっくりと撫でた。
「この式典のために来た者達にはわからんでしょうが、ここに詰め、ここで働く者に非難するような輩はおらんよ」
「恐縮です」
「いや、本当に。
昔の君を思い出しました」
かつて財務大臣を務めていた男の言葉に、かの獅子賢も苦笑せざるを得ない。
衆人の中、機能性を重視した下位の文官礼服を恥じる事なく迎えた少女に護衛を勤める騎士団長は困惑を浮べつつも主が馬車から降りるのを身を挺して守る。
注目を浴びて麗人が地を踏む。
柔らかな物腰の美青年は洗練された動きを当然のように纏って、出迎えた少女を視界に捕らえた。
「ようこそ、開拓の地へ」
ほんの僅かなざわめきが彼女の発した言葉がイレギュラーである事を想像させた。
「歴史的な式典への招待、感謝する。
してお嬢さん。
ここはバールかな?
それともアイリーンかな?」
ざわめきは一瞬で凍りつき、緊張が世界を埋め尽くす。
歴史の上でこの地はどちらでもあった。
地図の上では緩衝地帯としてあり、外交上の見識でバール国領となっている。
外交に長けた者ほど、この質問に息を呑む。
バールの者が出迎えていたのであれば、冗談を交えてごまかす事も、緩衝地帯であるという事もできる。
しかしアイリンの者が、しかも宰相に対して応じるには余りにも重い。
だが、少女────シェルロット・ファフテンは実に自然に言い放つ。
「それはこの地の民が決める事と存じます」
明らかに失言だ。
国政に携わる者の弁ではない。ざわめきが膨らみ、特にアイリン側の文官が顔を青ざめる。
だが、正反対にアシュルは微笑みすら浮べて続ける。
「ほう。
ではこの土地はアイリンの物になると?」
「この地では我々も心血を注いで参りました。
差し上げるには大変惜しく思います。
ですが─────」
覇気の、熱の籠る声が少女を止めようとした者の足を留めた。
「私は同じくこの地に心血を注いだバールの方々の努力も知っています。
それが等価であるならば、戦を交えずとも、民は未来において仰ぐべき主を決めるでしょう」
地図の上ではバール領でも、アイリンからの入植者もかなりに上る。
「では今は何色でもないのかな」
「やがてより魅力的な色に染まるでしょう」
アシュルは破顔し、「ならば、我らが担ぐ皇帝陛下にはより魅力的になって頂かねばな」と視線を周囲に振りまく。
皇帝に比肩する宰相閣下の言葉はその場の全てのバール人を深く頷かせる。
人の魅力は個人の物であっても皇帝の魅力とは国の魅力でもあるからだ。
それを空気の動きで感じた少女は空に謳う。
「願わくば、赤きにだけは染まらぬ事を」
何の根回しもない、唐突な展開にも関わらず ─────
誰もが静かに瞑目し、祈りを捧げる。
祈る神は違えども、祈りが等しいのならば何一つ問題はないとばかりに。
この地に何時とも、何処とも知れず散っていった命を思い、育まれるであろう新たな命を願って。
「貴公に会えた事は一つの収穫であった」
「ここに来る前の私でなくて良かったと思います」
少女は年相応の微笑を一瞬だけ浮べて、皆に届けと言う。
「ここで多くの物を学ばせて頂いた私であるからこそ、閣下のその言葉をいただく事ができました」
苦難を経て一つ成長した新しい芽に、誰もが未来を思い笑みを浮かべる。
もっともバール側の面々には苦笑いも見られるのがご愛嬌であろう。
「ああ、本当に素晴らしい地になりそうだ」
かみ締めるような言葉。
アシュルは天を仰いで彼のものを視界に捕らえる。
「故に渡さないよ。
しがみ付くばかりの亡者はこの地に不要だ」
この地に起きた次の事変。
それは天を引き裂く数十にも及ぶ光。
十数人からなる高位魔術師が放った《ホーミングレーザー》の光が天に座する男に殺到した。
遠くで光を確認した少年はゆっくりと立ち上がる。
「始まったな」
初老の男は刃の気配をさらに砥いで魔術の構成を開始する。
「まさか『氷の牙』を持ち出してくるとは思わなかったが」
視線をやっても少年に応答の意志はない。
老人は嘆息して防御魔術の展開に集中した。
それから今日の自分は良く喋ると思いながらも、口をついた言葉を留める事はしない。
「死ぬな」
「……ああ」
確かな応答。
それ一つで十分ばかりにラキアンは行動に移る。
軍に籍を移して二十余年。
教務官となって十年余り。
その間にこの老魔術師はさまざまな人間を見てきた。
教える側に立っては寄り一層相手の内部を覗き見た。
「変わったか。
ただ絶望に憧れるだけの羽虫が」
不器用に笑う。
死にたがりは珍しくない。
世界は決して万能ではなく、戦や、病や、飢饉……ありとあらゆる人災、天災に人は己の無力を突きつけられる。
そうして折れた心を抱いて、死に場所として軍へ足を踏み入れるのは珍しくなかった。
だが生きる気のない者は周囲を巻き込む。
故に「そう」であるか、ないかの見極めこそ軍務教官にとって違う事の許されない仕事であった。
その目はずっと、あのティーエンという少年を『死にたがり』と断じていた。
余りにも巨大な篝火に惹かれ、いつかはその羽を燃やして散る羽虫にしか見えなかった。
退役し、魔術師ギルドに戻った男はここに来て初めて己を振り返る。
自分はあらん限りの知識と技術を伝えてきた。
だが心はどうだろうか、と。
自分が不器用なことはとうの昔にわかっている。
笑えず、心のうちを隠し、ただ鬼と呼ばれるままに生きてきた。
そうして教えてきた者のうち、『死にたがり』はどれだけ生きているだろうか。
自分は生きる技術を磨いてきた。
理由なく手段だけを伝えてきた。
「老いたか。
それとも、ようやく私も成長したか」
後者だと自嘲じみに断じ、走る。
これから相対するのは自分の教え子である。
「死ぬために教えたのではない。
生きるために教えたのだ」
故に、己は教官として生徒を生かすために戦おう。
最初のターゲットを補足する。
彼がこれから行う戦闘は常軌を逸した物となる。
手には魔力剣。
詠唱する魔術は《ディテクトマジック》ただ一つ。
相手の猛攻をいなし、操り糸だけを切り裂かねばならない。
『目』を持たぬ老魔術師は極限の身体操術を駆使しつつ魔術詠唱を繰り広げる他手段はない。
老魔術師は往く。
ただ、未来を求めて。
「どうじゃ?
小僧……いや、ティーエン」
少女の声に振り向く事なく、ティーエン・ザラッドは地上を見つめる。
ここは地上200mの空。
公館を一望できる場所から魔力の糸を追って視線が踊る。
「あれは『氷の牙』か。
アシュルめ、ようやる」
ティアは苦笑を一つ、それから魔術構成を開始。
普通の魔術師が目を剥くような速度で防御魔術を連続展開していく。
「アシュルは《E2S》を知っておる。
開放を優先するぞぃ」
「……わかった」
元々の予定ではティアがトラクルス・ザラッドと対峙するはずだった。
その手間を受けてもらったのだから逃す手はない。
空気抵抗を《浮舟》で殺した《天翼》の速度は人が体験しえない物である。
秒速83メートルの世界で少女は魔力の糸を見る。
《E2S》の最大の弱点は距離だ。
《糸》を見抜かれた以上、長い距離は途中からの介入を容易にする。
「しかし、やはり人形を持ち出してきておるか」
飛来する《マジックミサイル》を魔法結界で凌ぎ、生み出した《竜牙》を人形へ放つ。
それは吸い込まれるように人形へ走り、直前で消滅する。
2つ目が直撃して吹き飛ばされた人形に3つ目が止めを刺す。
「魔法防御……まさか」
思う間もなく、彼方が輝く。
先ほどまで自分が居たところを十数本の光が貫き、相互反応して爆発。
その威力はついこの間戦った『闇の牙』とは比較にならない。
体を空へ。
《天翼》によって生み出された気圏に熱を与えて寒さからも身を守り強風に耐えて姿勢を維持。
瞬間の魔力精査が触れ、刹那の時間で光が殺到。
タッチの差で速度を与えられ、光を背後に見る。
「……く」
どれだけ高速飛行に慣れているとしても回避のための不規則移動を繰り返しながらの魔術構成は不可能。
絶え間ない魔力精査をごまかす手段はない。
もしも停滞したり、相手に目視されれば《糸》を繋がれ、《ホーミングレーザー》と言う名の猟犬は喉下に喰らい付いてくる。
かと言って《ディテクトマジック》の効果範囲外まで逃げれば、その矛先は別の戦闘へ向けられる。
光は一旦止み、絶え間ない探知魔法に冷や汗を押し留められないまま数分という時間を過ごす。
覚悟を決めて《天翼》の制御を手放す。
始まるは自由落下────しかし彼女の好む装飾の多い服は空気を捉えて不規則に体を躍らせる。
この日、大空色のドレスははためきながらも彼女の姿を見え辛くしてくれる。
フリーフォール状態で集中するなど並大抵の事ではない。
一歩間違えればそのまま地面に叩きつけられる。その恐怖を飲み込んで、ただひたすらに魔術を組み上げる。
「────《応報》」
僅か数秒。
しかしあまりにも長い数秒を抜けて《天翼》の制御を再開。
空色のフリルドレスを翻して天を舞う。
直後に詠唱を開始。
飛行は一直線。
何のひねりもない軌道に光が追いすがるが無視。
「────《魔力感知》」
お返しとばかりに放った《魔力探知》の反応ポイントを覚えて90度の直角旋回。
目前を光が薙いで行く。
偶然とは言え気持ちのいいものではない。
再び開始する直線移動に対し、《ホーミングレーザー》の食いつきも早い。
再度の《魔力探知》を完成させて軌道を上へ。
気圧差で起こる耳鳴りを堪えて力の嵐を目前に睨む。
魔力探知の波動がおぞましいほどに何度も皮膚を撫でて行く。
────────大地が輝きに包まれた。
そんな錯覚を覚える程の光が地上から殺到。
いかに常識はずれの速度を誇る彼女の《天翼》でも光線を母体とする魔術速度に遠く及ばない。
だからこそ。
逃げるのをやめる。
「返れ」
小さな呟き。
足元にまで殺到した全ての光が不可視の境界に飲み込まれる。
刹那の空白。
次の瞬間、洪水の如く吐き出された光が地上に降り注ぐ。
いかなオリフィック・フウザーでも《ホーミング・レーザー》を同時に十詠唱────五十条からなる光の猟犬を操れるものでない。
だが当にそれと等しい現象が空で巻き起こる。
天空へと昇り、そして天空から降り注ぐ光はある種の神々しさすらあった。
遠く、争いの起きていることすら知らぬ者達が突然の光景に空を見上げ、そして巻き起こる爆音に身を竦めたと言う。
「ティーエン・ザラッド!」
《風伝》────精霊術で言うところの《ウインドボイス》で声を飛ばし、応じるように光が生まれた。
次なる光は『群れ』。
それが四方八方に飛散する。
限界までに研ぎ澄まし、ちりちりと神経が焼け付くような痛みを無視して『見る』
それは中空を舞う『糸』を断つ者。
返された《ホーミング・レーザー》に叩きのめされた人形と魔術師の間を走り、その繋がりを絶つ。
戦場は広い。
その全域を見据えた上での魔術操作十二分に驚嘆に値する。
「絶景だな」
さりとて、人の意識には限りがある。
早くも立ち直りかけた魔術師が奥深く封じられた意識でそんな声を聞いた。
ラキアン・クライセス。
彼が最も得意とするのはオリジナルである身体強化魔術。
骨や筋繊維、心肺一つ一つを強化し、人間を遥かに超越した運動性能を作り出す。
それは模倣でもある。
『聖騎士』と呼ばれる英雄こそ、その魔術と同等の加護を永続的に受けているに過ぎないのだから。
流れるように身体と同じく魔法強化されたナイフが『糸』を断ち切り、勢いを殺さずに回転した体が威力を生産。
『純粋な暴力』を得た回し蹴りが人形の体を砕く。
普通ならば筋肉が断裂するような高速走行。
一瞬の迷いもなく疾駆に映った魔術師は己を追い越す光の群れを見て苦笑。
すぐに方向を転換し、ラキアンを視界に納めた魔術師を睨み返す。
必中とされる追跡系魔術が回避可能であることはあまり知られていない。
それは達人と呼ばれる人間でも難しい所業であるからだ。
そして今の彼は英雄と遜色ない身体能力と、長い戦歴から生み出された技を持つ。
「─────疾ッ!」
五条からなる《ホーミング・レーザー》の隙間を細い体がすり抜ける。
光は速く、それ故に一度逸れた光が戻るのは難しい。
戦闘魔術師の抜き手が操られた魔術師の顎を打ち抜き、足運びで得た威力を人形に惜しみなく叩き込む。
年月だけに許された練磨を重ねた体が魔術に強化されて『最善』を導き出す。
脳を揺らされた魔術師の戦線復帰は絶望的だ。
ティーエンやティアとは毛色の違う、しかし戦闘魔術師の一つの完成形として彼は迷いなく戦場を駆ける。
それら全てを見渡しながら。
トラクルス・ザラッドは『計画』がこれまでだと判断する。
別に蔑ろにするつもりなどなかったが、アシュルが『氷の牙』をこの場に連れて来ている時点でこの場は負けだ。
仮に我が身がオリフィック・フウザーであっても『氷の牙』を相手にしながら《E2S》を行使するなど不可能だろう。
また、人形の反応も予想以上に減りが早い。
騒ぎに乗じて裏手に回した人形もどうやら斬られたようだ。
知覚すら許されない攻撃。
わずかに見えた映像から推測すればその人物がバールの聖騎士である事はまず間違いないだろう。
男は全ての制御を手放すと、一つの魔術を構成する。
それは傍目から見ればまるで太陽が生まれたようにも見えるだろうか。
「行け」
その正体は数万からなる光の群れ。
『球』の形状がほどけ、東方龍のようにその身を伸ばした群れが公館に走る。
僅か数秒遅れて眩いばかりの《ホーミング・レーザー》が公館側から斉射。
達人の更に上を往く者達の幻想は空を彩り、大気よ割れよとばかりに威力を撒き散らす。
抜けた一割の光を遅れて打ち放たれた《ファイヤー・ボール》が迎撃。
一つたりとて逃さぬと、さらに幾条かの《ホーミング・レーザー》が空を舞った。
バケモノ。
空を見上げた誰かが呟く。
──────世界で最強の軍隊は。
国ごとに諸説異論はあろうとも、未だにアイリンの『青』を押す声は少なくない。
『青』の真なる強さは『群れ』を『個』とする事にある。
人間の拳よりも巨人の拳の方が痛いのは当然である。
その当然を如何なる戦場でも誇示するからこその最強。
では個体戦闘力に限って言えば?
そうなれば挙がるのは『ルーンナイト』と『氷の牙』だ。
共に一騎当千。
正に英雄の中の英雄のみが選りすぐられ、集められた珠玉の兵団。
そうまで世に歌われる『氷の牙』がたった一人の攻撃を相殺するで終わる。
これをバケモノと言わずしてなんと称するべきか。
だが、これはまだ一度の迎合。
新たな光が生まれる様は英雄達を驚愕という刃で貫く。
「我らが名を、誇りを賭けて、一歩たりとて引くこと望まぬ!
────────────迎撃っ!」
指揮官の戦場を貫く声。
白き大地の勇猛なる牙の一本たりとも応えぬ者なし。
音にして謳え。
先の一撃は様子見に過ぎぬぞ。
我らは牙。
バールに仇為す者ぞいざ食い破らん。
後の詩人が詠った言葉の通り、倍程度では甘いと魔術が空を埋め尽くす。
光の竜を飲み干してなお勢い留まらぬそれは、果てに空へと大音声を奏でた。
争いの過去に別れ告げ 処に我ら祝砲挙げん
開墾地での戦いは記録に措いてこれで終わりとされている。
精強なる『氷の牙』。
それを詠う物語としての記録としては、であるが。
「陛下っ!」
歴史を思わせる荘厳なる造り。
大国バールの謁見室へ顔色を変えて飛び込んできた不敬者に、報告をしていた財務官がしかめっ面をする。
「何事だ。
陛下の御前であるぞ!」
「一大事故、失礼いたします」
財務官の叱責だが、応じるはただ焦りを帯びても力強い。
古来より、有事に際しては例え情事の際にでも駆け込むべし。
国の一大事にを差し置いて、王たる者に他何一つ挟むべき事情などないとの教えがある。
それに倣ったまでと空気で押し通し、軍務官が告げる。
「西方ロックスニア伯領内より出陣の報有り、また同じく西方ライダルク男爵領内よりも出陣の報が」
室内の空気が一変。
まさかそれだけの兵数で勝手にルーンまで遊びには行くまい。
となればその意味は推して知れる。
「その事であるか。
報告ご苦労。
下がれ」
しん、と。
執務室が水を打ったように静まり返る。
皇帝ネヴィーラの、余りにも詰まらなそうな言。
報告の熱に水を差すには充分すぎる。
「こ、皇帝陛下?」
「その件で今更朕がすべき事はない。
アシュルが楽しそうにやっていたからな」
ですが、と反駁する言葉を飲み込む。
記憶に誤りがなければ宰相は今日遥か南方の開拓村に出向いているはずだ。
つまりこの反乱はとうに予期されていた……?
「以後、この件は戦略研が指揮を採る。
と言っても、既に万策打った後だろうがな」
「け、慧眼御見それしました」
言葉に困って平伏する軍務官だが、顔を下げていたからこそ、皇帝の表情の変化に気付かない。
いや、誰もそれが失言だとは思わないだろう。
国防に携わる者すら察知できなかった反乱をまさか未然に感付き、手まで打っているのだから賞賛するにも言葉が尽きない。
「なぁ?」
不用意な振りに目を剥いた財務官は裏返った声で「は、はい!?」と応じるが、そんな事は気付かないとばかりに皇帝は続ける。
「体育会系のノリというのは、好まれない物なのだろうか」
「…………は?」
人生最大の失言。
間の抜けた疑問符だけという応対をしてなお、取り繕う余裕さえ失った財務官は主の言葉を十数回反芻し、それでもその真意を測れずにだらだらと脂汗を流す。
「いや、朕もそのようなつもりはないんだが。
武を嗜むのはあの常勝将軍も同じだと思うんだがなぁ」
財務官は完全にパニックに陥り、助け舟をとばかりに周囲を見回すが、軍務官はもとより、女官に至るまで「こっちに振るな」とばかりに視線を合わさない。
『あの、陛下。
一体何を仰られているのでしょう?』
と問う事ができるのは、恐らくアシュルか彼の側近かくらいだろうが、今この場にその誰も居ない。
少し落ち込み気味に思考の海に沈む大国バールの皇帝を、蛇に睨まれた蛙もかくやとばかりに脂汗を流し、触れないという何ともシュールな光景。
とある記録によるとこの後、約30分に渡って続いたとされるのだが。
……どうでもいい話である。
「スティアロウ・メリル・ファルスアレン」
少年の声に少女は振り返ることもなく、手の中で転がしたマジックストーンを粉にする。
体に戻る魔力を確かめて、それから手持ちの道具を再確認。
「お前がここから先、干渉する必要はないはずだ」
「黙れ童っぱ。
魔術師であらば下らんしがらみよりも効率を考えよ」
「なら、反して言う。
お前に命を賭す必要性が見当たらない。
それこそ下らないしがらみじゃないのか?」
ほう、と。
一つ啼いて少女は振り返る。
「言うようになったな。
ティーエン・ザラッド」
共に見た目は十を越えた程度の二人だ。
知らぬ者が見れば、そのやり取りに微笑ましさか、それとも失笑を禁じえないのかもしれない。
だがその才覚や、大人を凌駕する事は最早語る必要もない。
「じゃが人の理由を勝手に落とすでない。
さしも、ぬしの言う通りのしがらみでもあるが、これはわしの願いでもある」
「願い……だと?」
「ああ、願いだとも」
鷹揚に頷いてティアは装備を使いやすいように据え付けて行く。
「わしはな争いが嫌いなんじゃよ。
争いで人が死ぬのが嫌いで、何よりも誰か一人の野心だとかで万人が嘆くなど見とうない」
暁亭の人間が聞けば嘘だと言うかもしれない。
だが、さも当然のように言葉は続く。
「故にわしは介入する。
争いの起こりそうな所に先に乗り込み、出鼻を挫く。
止められぬのであれば、最小限の被害に留めんとする。
それがわしの望みであり、願いじゃ」
そこまで言って、年不相応のシニカルな笑みを浮かべる。
「なんとも身勝手な願いじゃろ?」
身勝手────確かにそう称するに相応しい言い様だろう。
野望にせよ、何にせよ。
それは自分の我儘のため、人の願いを打ち砕くと宣言しているのだから。
「独善的、だな」
「的確じゃな」
不興を買うつもりで放った言葉を少女は受け止める。
「今までも色々言われたがの。
さりとて亡霊に等しきこの身、なかなか願いという怨讐から逃れられぬものよ」
「……お前はいったい……何なんだ?」
「哲学的じゃの」
と嘯いてから「賞味わからんのじゃよ」と答えにならない言葉が続く。
「数多の無垢なる者を殺し、自己満足で死んだはずなのに、こうしてここで生きておる。
さりとて過去は消える事なく、わしは無意味にして偽善的な……ぬしの言葉を借りれば独善的な戦いを続けておる」
顔に掛かった髪を払い上げ、
「末期に晴れぬ悔恨を、祓わんが為だけに、永遠なる一瞬という夢を見るに過ぎんのかもの」
「詩人の真似にしては自虐的過ぎる。
自己陶酔甚だしい」
「ふん。
手厳しい」
取り出した水袋をいきなりひっくり返す。
当たり前のように零れ出た水を緑の半透明ゲル状生物が受け止める。
「尽きる所『独善的なお節介』じゃよ。
汝の言う通りじゃティーエン・ザラッド」
再び袖の中に潜り込み、右腕に捲きついたことを確認して少女は水袋を投げ捨てる。
「此度、たまたまそのお節介の相手がアレだったに過ぎぬ」
空に──── 一人の男が立つ。
トラクルス・ザラッド。
抹消された天才。
「父を越える子の話も美しいとは思った事はあるがの。
一人で為すには心を削りすぎていかん」
「知ったような────」
「知っておるんじゃよ」
言葉を封じて、維持し続ける《天翼》で体を浮かせる。
「さて、如何に父とてこれ以上敵に待って貰うのは心苦しかろう」
敵という言葉をぐっと噛み締めて、少年は杖を────父から貰ったそれを力強く握る。
刹那で生み出すは二つの光。
数百の光針ひしめく暴力の塊。
「チェックを掛ける戦いと行こうかの」
今日は言葉が過ぎる。
珍しい自嘲をしながらティアロットは竜の目を輝かせた。
始まるのは死合。
秒単位の死の空間。
どうしようもなく身勝手な願望の終着地。
空に、万の光が竜と成した。




