五人目の候補者・蔵沢加奈子は学校で起業方法とディベートを教えようと語る.
多比余は一番左端で下を向いてスマホをいじっていた50代の女性に声をかけた。白髪が混じるショートカット。薄いニットのセーターにジーンズという、活動的な服装だ。
「あ、ああやります、やります」
その女性が立ち上がった。
「どうも。蔵沢加奈子と申します。五十二歳で、勤務先の出版社ではお局編集員と呼ばれています。昔、アメリカのオルビナス大学で教育学を学びました。え~私はですね『日本の教育はこうした方がいいんじゃないか』なんてことを、担当する雑誌の中で書いてきました。最近は女性向け雑誌の編集に回されまして、同じことを書いても反応が薄いのが不満でもあります」
〈wwwwww〉
「なので、今日この場で発言させていただけるのを感謝しています」
「ああいえ、こちらこそ集まって頂いてありがとうございます。それで蔵沢さんは教育をどのようにすれば良いと考えているんですか?」
蔵沢が答えようとして咳き込んだ。
「すみません、水を一杯いただけませんか?」
バニーガール姿のエッちゃんがカメラを固定して水を取りに走った。
「水です。どうぞ」
〈あ、エッちゃんだ。今日も元気にこき使われてるな〉
〈エッちゃんは俺の嫁!〉
〈オタクが妄想しております〉
「ありがとうございます。ええ~っと、そうだ。私は子供たちが社会に出た時に、困らないチカラを身に付けられるようにしたいと思うんです」
「社会に出た時に困らないチカラですか。すると現在の教育では身に付かないと?」
「そうですね。徐々に変わっては来てはいるんですが、例えば、どの大学にも就職課は必ずありますが、起業家育成プロジェクトとして学生が起業するのを手助けてしてくれるところはまだ少ないと思います」
藏沢がそう言っている間にも多比余はキーボードを叩いてた。
「資料では首都圏や関西圏の大学で起業家育成プロジェクトをやってるようですけどね」
「ウチでもやってますよ」
そう言ったのは大学教授の真奈美だった。
「しかし就職課の世話になる学生と企業家プロジェクトの門を叩く学生では総数が圧倒的に違います。以前某大学の学長が卒業式で『鶏頭となるも鯨尾となるなかれ』と言ったら『鶏口となるも牛後となるなかれ』の間違いだと批判されたことがありますが、彼は鯨のように巨大な企業に入れば良しとする風潮を嘆いて、例え小さな事業でも自分で何かやってみようという意気込みを持って欲しいと言いたかったのでしょう。統計によれば、日本の若者は、自身を肯定的に捉える割合が低く、起業意識も低い傾向にあるそうです」
〈自分で会社を興して失敗したら一家離散〉
「コメントにもありますが会社を興すのはハードルが高いと考える人が多いでしょうね。世界銀行が発表した『ビジネス環境ランキング(2019年度版)』によると、起業しやすい国としては、一位がニュージーランド。二位がシンガポール、三位がデンマークと続き、日本は八十九位だそうで、アジアの中でも大きく後れをとっているようです」
「それだけ起業するのに手間暇がかかり、学生自身も一人で何かやろうとする自信が無いとすると私はこの国が将来世界の発展から取り残されるのではと危惧します。官民挙げて起業する人を支援すると同時に学校でも子供たちに独立精神や企業するためのノウハウを学ばせなければと考えます。もちろん基礎的な知識は必要なので何がどれほど重要かを議論した上で数学や理科、語学や歴史を効率的に学習すると共に、株式や投資の勉強、特許の取り方や裁判についても学ばせる必要があります」
〈学ぶことが多くなりすぎると、ドロップアウトも増えるような気がする〉
〈どの教科もゲーム感覚で学べたら楽しいかも〉
「最近は特殊詐欺も多いですからね。でも裁判についても一応学びますけどね」
「一応では不安なんです。裁判に疎いために架空詐欺犯が本物の召喚状を送りつけて来たのを無視して後に裁判所から支払い命令がきた例もあるとか。そこで裁判が身近なものと分かるまで、また弁護士なしでも起こせる本人起訴のやり方も含めシミュレーションで徹底的に学習させないといければなりません。起訴手続きは煩雑でもそれを覚えれば費用は印紙代のみで起訴の1パーセントしか掛からないため十万円の裁判なら千円で済みます」
〈ほんとかよ? ちょっとやってみようかな〉
〈あんた、誰を訴えるんだよ〉
「そんな教育をすると裁判が増えて混乱しませんか?」
「混乱すれば、そうならないように考えるのが政治家の役目です。国民が無知であることで円滑に作動する社会は、本当の民主主義国家ではないと思います」
「それはまあそうですね。国民は選挙の時に寝ていてくれればいいと言った政治家もいましたが」
「それと並行して、デイベートの時間を授業の中に設ける必要もあると私は考えます」
「ディベート? 討論を学ばせるんですか?」
「はいアメリカの学校にはディベートの時間があります。これはグループ間や、個人間で行われるものですが、この授業で子供たちは社会問題をしっかりと学んでいきます。自分の主張をエビデンスを交えて発言し、相手の発言に対して論理的に反論する。これができないと従属的な人間になり政治にも無関心で社会に対しても何か貢献をしたいという意欲もわきません。日本では沈黙することが『寡黙で実直な人』と賞賛の対象になりますが海外では逆に自分の意見も語れない無能な人材としかみられません。そんな人が指導者になったら国益すら害します」
「日本人は反論が苦手だからな。留学先でも相手の子がレイシストだったり日本に悪い感情を抱いていて間違ったことで責められても日本の子供が反論できないことがある。そういうのと対抗するには有効かもしれんな」
とまた堂谷が口を挟んだ。
「言っておきますが、ディベートを学ぶ目的は他者を論破することではありません。語り合って相互理解を深めるためのものです」
蔵沢は少し強い口調で言った。
「昔は没個性化を図り、皆が一丸となって何かをやり遂げるということが理想的な教育だったかもしれません。ですがそれは工場で品質の揃った商品を大量に製造すれば儲かった時代の話です。これからは一人一人が頭で考え、創造的な商品を開発していく以外に生き残る道はありません。現代において子供の画一化教育はマイナスでしかないと私は思うのです」
「なるほど。ところで藏沢さんはアメリカで教育学を学ばれたということですが、あちらの授業で、発言できなかったとかそういう経験に基づいて、日本の子供たちにもディベートを学ばせなければいけないと思ったわけですか?」
「確かに私自身の経験から感じたこともあります。しかし私が強くそう思うようになったのはNHKで放送された、ある番組がきっかけでした。「ハーバード白熱教室」というタイトルで、マイケル・サンデル教授の授業風景を撮影したものです。この教授は『それをお金で買いますか』とか『これから正義の話をしよう』など数多くの著書も執筆されているのですが、多比余さんもご存知でしょうね?」
「ええ、もちろん。わたくし一月百冊以上の本を読んでおりますので」
「そうですか。で、その教授と大学生達の論争に私はすっかり見入ってしまいました。その中で大学生がどんなに強烈な反論をしても教授はこれを一撃で論破してしまうのです」
「この番組は私も観ていましたよ。すごく面白かったですね」
真奈美がそう言って相槌を打った。
蔵沢は話を續ける。
「あの番組は大反響を呼んだらしく後日、NHKはサンデル教授を日本に招き、この国で最もランキングが高いとされる某大学で講義をしました。私はここでもハーバード大学と同じように白熱した論争が再現されるのかと期待をこめて観ていましたがそうはなりませんでした。日本の大学生たちは教授の話をおとなしく聞いているだけで、たまに質問のようなものもありましたが、激しい討論にはなりませんでした。私はこれがハーバード大学との違いなのかと愕然としたものです」
「それで日本の子供たちも小さいころからディベートを学ばせなければならないと?」
「実はもう一つあるんです。これは知り合いから聞いた話なんですが、その方は昔、大学生の頃、自分自身も大学生であることを隠して、他の大学の生協で英会話の教材を販売するアルバイトをしていたそうです。その教材は英会話の実力に応じて細かいレベル分けがしてあったため、無料のテストを実施して自分に合ったレベルのものを選んでもらうようになっていたとか。ある時T大学でそのテストを実施したところ、参加した学生たちは極めて優秀で、さすがはT大学と感心したそうですが、あまりにも素直に説明を聞く様子に違和感を覚えたといいます。次にあまり偏差値は高くないH大学で同じテストをやらせてみると成績の差は歴然だったのですが、テストの後の商品説明の際の鋭い質問にタジタジとなったとか。その時、彼は思ったのだそうです。将来外交官になる人は、おそらくT大学の出身者だろうが、本当に外交官に向いているのは多少英語の成績が悪くてもH大学の学生の方だと。つまり彼が言うのは外交とは相手の腹を探って会談し、案件を自国に有利な方向に誘導しなければならない。それなのに素直な思考しかできない者では相手の思惑通りに動かされてしまって日本が被害を被ると」
「う~ん、確かにそういうのは学力だけでは判断できませんからね」
「世界に国家が一つしかないのなら、素直な人が上に立って国民を指導するのもいいでしょう。けれど190か国以上の国が生き残りをかけて鎬を削っている現状では、しっかりと日本の意見を言えないと危ういことになります。日本では先生の言うことをおとなしく聞いて反論しない子が良い子とされていますが、それではダメなんです」
「先生の言うことをよく聞く素直な子が良い子に決まってんじゃねえか」
堂谷がボソッと呟いた。
「なるほど蔵沢さんが知事になられた場合には、学校教育を見直していくということでよろしいですね。政策はよくわかりました。といったところで、次はナツカゼ……」
「我が名は夏風夏夏と書いて『かふうなな』。覚えておいて頂こう」
俺の左隣にいた女性が立ち上がった。