第一話 世界は其方が思う以上に善意に満ちている
僕の祖父母の家の畳張りの一室で、三四半世紀以上を生き抜いた一人の老人が床に伏していた。
僕のおじいちゃんである。
「結城、忙しいだろうに今日も来てくれたのか」
「大丈夫だよ。課題も最近は少ないし、部活も大会が終わって休みが多い時期だから」
おじいちゃんが僕の学校生活に支障が出ていないか心配したので、すかさず偽りの理由をつけて否定する。
本当は課題もけっこう時間がかかるし、部活は写真部と料理部だから活動は緩いけど、それだって休みながら来ている。
なぜかというと、おじいちゃんだけが何の疑いも偏見も持たずに僕の人とは違う部分を受け入れてくれたからだ。
「どうじゃ、学校は楽しいか?」
「······」
「そうか」
おじいちゃんは沈黙を答えと受け取った。
実際そうだ。楽しくない訳じゃないけど、僕は学校のみんなには言えていない秘密があるから、罪悪感とか様々な気持ちに苛まれて心からは楽しめない。
「死に臨んだ老人の独り言として聞いてくれ」
おじいちゃんの言葉は僕の心を突き刺した。
死んでほしくない
「死に臨んだなんて言わないで。もっと生きてよ!」と言おうとしたが、おじいちゃんの息を呑むような、魂の輝きのすべてを詰め込んだような雰囲気に圧倒されて声が出なかった。
同時に僕は嫌でもおじいちゃんの死期が迫っているんだと実感させられる。
そんな僕を置いておじいちゃんはゆっくりと病魔に侵されている体を起こして口を開いた。
「昔々、あるところに一人の青年がおった。青年は旧家の出でな。大学に行くだけのお金もあったし、成績も悪くなかったから自分が何かになるために大学に行った。入学当初は何の志もなく、ただ抗議を受けているだけじゃったが、青年は政治に興味をもってな。政治家になるために法律や政治学、地質学その他多数の学問に打ち込むようになった。青年だけでなく教授も学友も誰もが政治家となることを疑わぬほどになったのじゃ」
おじいちゃんは息を整えるために話を中断した。
その間、僕は困惑していた。おじいちゃんが何を僕に言いたいのかが皆目検討もつかなかったからだ。
しかし、その後の話でおじいちゃんの本当に言いたかったことを理解することになる。
「結城は安保闘争を知っているか?」
「え?あ、うん。歴史の授業で聞いたことあるよ」
確か日米安保条約に対する反対運動で、市民によるデモ以外にも、東大の安田講堂のように大学生と機動隊の武力衝突も起こったはずだ。
「青年の生きた時代は正にそのときだった。青年もその運動には反対側として学生たちに賛同していてな。デモ隊の一員として参加していたのじゃ。しかしな、彼は武力でぶつかることに忌避感を抱いていたんじゃ。ゆえに、政府の要人との話し合いで合意形成を図るために生家の伝手を利用して交渉していた。途中までは上手くいっていたんだよ。流石に閣僚クラスを引き出すことは出来なかったが、そこそこ高い地位の与党議員との話し合いの場所を準備してもらえることになったのじゃ。あの時はとても嬉しかったなあ」
その言葉とは裏腹におじいちゃんは虚しげな笑顔を溢していた。間違っていたと思っている様子ではないけど、後悔の念が見てとれる。
「今でも正しい選択をしていたと思うし、嘗ての仲間も賛同してくれた。だが、その直後に青年の感じた達成感は灰塵に帰したのじゃ」
おじいちゃんは青年の所業を口では称えつつも嘲るように嗤った。
「話し合いの当日に、青年とその親派の数人が事前準備のために大学の講堂から離れたときにそれは起こった。何が起こったのかは聡い結城ならとっくに知っているじゃろう?」
「警察機動隊の突入?」
僕の呟きにおじいちゃんは静かに頷く。
「青年たちはその議員に騙されていた。正確に言えば青年の生家がそう仕向けたのじゃ」
「どういうこと?」
僕が小さく尋ねると、先程の口調よりも衰弱した語調で説明してくれた。
青年の生家は旧家、つまり元大名家の華族だったが同時に明治時代以降商売で成功した一族でもあった。
一時は衰える時期もあったものの、GHQによる財閥解体を何とか切り抜け、学生闘争が起きていた当時には押しも押されぬ大企業かつ華族時代の交遊関係も相まって政界への影響力も持っていたらしい。
当然、その大企業の有力な後継ぎ候補が学生運動で逮捕されることになればその企業に加えて、後援を受けていた議員数名の立場も危うくなる可能性があった。
また、両親の一人息子に汚名(前科)を背負ってほしくないという親心もあったらしい。
それを避けるために議員と青年の生家が結託して青年を現場になっている講堂から引き離すために画策したのだという。
「だから、青年は逮捕されずに済んだが、仲間たちはその多くが逮捕された。結城、青年はその時何を感じたと思う?」
「生家への恨み?」
理由はどうあれ結果的には裏切られて仲間だけを逮捕させたのだから、普通は恨むのが当然だと思ってそう答えたのだが返答は違うものだった。
「多少はあったかもしれないが一番ではない。青年は自分の無力感を感じたのじゃ。自分の力で不必要な怪我人を少しでも減らせると考えていたのだから当然よな。自惚れを自覚したのかもしれぬ。結局は自分は花咲の家門と父親の権威に縋って力を持っていた、いや違うな。持たされていたのだと理解したのかもしれない。もしくは、自身には碁盤上の局面を変えるだけの才覚も人望もないと悟ったのかもしれぬ。何はともあれ、その日以降政治に携わろうとすることはなく、青年は親の会社を手伝うようになった」
大望を諦めた代わりに地位も名誉も財産も手に入ったがな、と吐き捨てるように言った。
「今では嘗ての青年は先も長くない一介の夢破れた老人に成り果ててしまった。それでも、今でも思い返すそうじゃ。あの時、講堂に留まっていたらどうだったか。もし、できなくても政治の世界を諦めることなく内部からの改革を図っていたら。外部の民間団体に所属して主張を続けていたら。大学に残って政治の専門家として後進の育成に当たっていたら。後援していた議員たちと討論をして主義主張を言論の力で戦わせていたら。もっと自分を強く持てていたら、もう少し後悔のない人生を遅れていたのだろうか。結城、この老いぼれの話をどう思う?どう行動していたら、イマヌエル・カントのように、死に際して"これでよい"と言えたと思う?」
ああ、おじいちゃんは態々自分の過去を晒してまでこれを聞きたかった、これを言いたかったんだなと直感した。
「少なくとも政治の世界に足を踏み入れていた方が青年は幸せだったと思う。今みたいに地位も名誉も財産もなかったかもしれないけど、後悔することはなかったのかな?」
おじいちゃんは無言のまま頷いた。それは物語に対する共感性のそれではなく、もはや本人の体験談の域だった。
「そう、それが答えじゃ。儂はな、もっと素直に生きていればよかったと後悔しておる。妥協してしまったのじゃ。そのせいで政治への熱意にも、志を共にした友人にも、最後まで味方でいてくれて政治の世界の扉の鍵を託そうとしてくれた教授にも、全てに後悔を残し続けることになってしまった。それに気づいたときにはもう遅かった。青年の体力も活力も溢れた心身ではなく、お金と地位と名誉を持ちながらも老いぼれて体力も寿命も気力もほとんどを喪失した哀れな老人に成り下がっていた。皮肉なことよな。青年時代に夢を叶える近道として欲していたものを、夢を諦めて後戻りできなくなった老人となって手にするなど」
「そんなことっ!」
わたしはおじいちゃんのことがどうしても悔しくてならなかった。確かに政治の世界は諦めたのかもしれない。だけど、商業の世界でおじいちゃんが頑張ってきたことも事実だ。
そんなことを胸に秘めつつ、おじいちゃんの言葉を否定しようとした私だったが、おじいちゃん本人に遮られる。
「あるのじゃ。儂はもう駄目じゃ。この身が堪えられるとは到底思えぬ。自分に嘘をついたことを覆すほどの気力もない。じゃがな、結城。結城はまだ間に合うじゃろう。正直に生きなさい。女性として生きたいなら、そう言いなさい。儂は当然、家族はみんな受け入れてくれたじゃろう」
そう、わたしは体の性は男でも心の性は女性という所謂トランスジェンダーだ。
その事を打ち明けた時、おじいちゃんはだからといって態度を変えることなく、他の家族が受け入れてくれるように然り気無く話題を振って、理解を促してくれた。
そのお陰で今の椎名家の家族がある。
最初は偏見ある時代に生まれたためか嫌悪感を隠そうともしなかったおばあちゃんは肯定してくれるようになったし、多様な性の存在を認識していてもどこか自分とは離れたことのように考える節のあったお父さんも今では善き理解者になってくれた。
でも、家族が受け入れてくれることと、学校のような公の場で受け入れられるのとはハードルが段違いに高いのだ。
おじいちゃんのように支えてくれる人がいるとは限らないし、悪意を持った人たちだっている。
そうでなくとも、大抵の人はLGBTQIA+という単語を知ってはいてもそれが自分の周囲にあるとは本当の意味で信じていないと思う。
「でも、怖いの」
椎名結城という存在が否定されるだけならばいい。友達はいなくなるかもしれないけど、元々はいなかったわけだし、本当のわたしを知って離れていく人を友達だとは思えない。それに、今では家族が理解者となってくれているから。
何より恐れているのは、理解して受け入れてくれた大切な家族が謂れのない差別や悪意の眼を向けられ、嫌悪されること。
人の所為で僕が傷つくことは許容できても、わたしの所為で大切な人が傷つくことは許容できない。
「結城よ、世界は其方の思う以上に善意に満ちている。無理をする必要はない。本当に駄目だと思うなら家族に頼りなさい。政治家の根回しのように、少しずつ相手の理解を促すこともひとつの手だ。だが、この世界には結城と同じような境遇にある、同志がいることを忘れてはならぬ。失敗を恐れて動かなければ、いつの日か後悔することになるぞ。この老人のように」
"世界は其方の思う以上に善意に満ちている"
この言葉がわたしの心の扉の前に張り巡らされていた積もり積もった蜘蛛の糸を吹き飛ばした。
僕は先入観と偏見の糸に囚われて友達を信用しなかったことを恥じた。人には散々言っていながら、確かめもせずに他の人がこうだと決めつけていた。
わたしってば、最低だ。
ひととおり自分の矛盾を責め立てた後、わたしは覚悟をおじいちゃんに宣言する。
「おじいちゃん、わたし決めたよ。わたしの秘密をみんなに打ち明けてみようと思う」
「そうか、······おじいちゃんは、ずっと、結城の味方だ。たとえ、この世に、干渉することが、できなく、なろうとも、どこかから、必ず、見守っている」
おじいちゃんは息も絶え絶えになりながらわたしに言った。何となくこれが最後の会話になる気がした。
「おじいちゃんありがとう。おじいちゃんが何処にいても、ずっとずっと大好きだよ」
おじいちゃんはもう答えない。胸は上下している。恐らく、疲労から眠ってしまったのだろう。
わたしは零れてきた涙をハンカチで拭うと、部屋を静かに退出した。
その一週間後、おじいちゃんは家族全員に看取られながら静かに旅立った。為すべきことを為して、この世の未練を断ち切ったかのような穏やかな表情で。
一話完結型の物語ですが、一話はあと少し続きます。