表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ドリーム・イン・カー

作者: 永尾佳鈴

車との付き合いは彼是三年になると思う。

私は、通勤のため、と肩書で車の免許を持つ女性ドライバーだった。

製造業の仕事場まで、片道六十分程度。

家は片田舎で、両親と三人で住んでいた。結婚の兆しは階無。それでも居心地のよい日々なのである。

私は何の不満もなく、親に一定の収入を収め、食べさせて貰って居る身だ。


何の不満も在らねどもとはいえ、とても平坦でもあった毎日の、唯一の刺激物と言われれば、それは私の愛車である自家用車の通勤である。

それ以外、何があるのだろうか、私は、車が好きだった。

運転の作業も、独りで乗る時間と空間も、景色が移動していく一瞬一瞬をくまなく目で追いながら走るという事も、最高の至福のひと時であり、至福の幸せなのだ。

そして、その空間に浸りながらさながらな思いに心置きなく考えを巡らし、空想を膨らませ、好きな音楽をセレクトしてBGMを掛けるのが史上最高、何事にも代え難い貴重な経験なのだった。

車は、最高にいい乗り物で、これ以上のものが他には、ないのではないかとさえ思うのだ。

通勤の行きかえりは最高の贅沢なので、できるだけじりじりと時間稼ぎをしながら少しでも長く乗っていたい。それでも、残念な事に片道六十分は、大体いつもタイムリーにやってきた。走行距離と時間の関係はかなり的確にできているのだから。それに抗うことは、まあ理科学的に難しいに等しいらしいのだ。

そんなこんなで時間が来、今日も、朝から至福を味わうべく通勤のため車に乗った。

盛夏なので、激暑だ。蝉がわんわん鳴いてる。クーラーを入れて、快適を味わおう、とエアコンをオンにする。汗は流さず移動できる。こんなに便利で理に適った事はないではないかと、車のありがたさに畏敬の念をいだきつつ、ドアを閉めて。今日も、夢の箱に入ってレッツゴー。

今の私は、車さえあれば、それが何よりの生きる糧であり生きがいなのだった。

車人生、三年目の夏。盛夏。



彼氏も、結婚もなく、毎日が淡々と過ぎて行く。

仕事だけしている。のこりは、ご飯を食べたり、お風呂に入ったり、するのはこの二つだけ。

隙間時間に、ストレッチをし、スマホでユーチューブを垣間見る。

毎朝、七時に起きて、八時に出勤。九時に勤務。六時に終わって、帰宅。

帰ると、配膳の手伝いと、家族が食べた後の食器洗いを任せられる。

そんな、日々が淡々と平穏に通り過ぎて、今年も夏になった。一年の半年が過ぎた。

私は今年で三十になる。そんな訳でか、お風呂から上がるとスキンケアに、ドライヤーと、日頃の手入れは美しくなろうと一応精一杯の努力を試みる。結婚前なので、まだまだ現役で居なければ。私、まだまだ心は乙女だ。

体重計には毎朝寝起きにトイレを済ましてから、乗っている。習慣化している事だ。一キロ減っている日はラッキーデー。増えた日はアンラッキーデーだが、それにはあまり理由が存在しないと思うので、無駄なネガティブ感情だと思ってはいるものの気になってはいた。

車の免許を取ったのは、三年前だから二十七の頃。高校を出てすぐに比べると結構後かも。

それまでは、近くのパン屋さんでアルバイトをしていたので、徒歩だった。

運転での冒険は出来ればしない方で、割と地味というか。できれば変化のない日常の何気なさを由々しく思っている。


私は、都会の電車やバスが良く呑み込めないし、利用の仕方も慣れもしていないが、それで困らないのでそれでいいのだと思って生きていた。そもそも、子供の頃から縁がなかった乗り物だったのだ。親は二人とも車を持っていたので、それは今も変わらずだが、必要な時は連れて行ってくれた。それでも、子供の頃から大人になっても、交通手段はもっぱら徒歩と自転車さえあればなんとかなってきたので困らず済んだものだ。なので、そこは非常に車がなくても、恵まれているのかもしれなかった。

もう少し大人になると、知らない土地にも興味がわく。というか、住み慣れた土地に飽きてくる。せっかく免許を所得してるのだから、休日なり、会社の帰りなり好きなとこに行けばいいと、日ごろから思ってはいるのだが。でも、そもそも電車やバスの利用の仕方さえ呑み込めない私に、知らない道をたどって目的地に着くなど不可解なことには手をだそうとも思えず、ナビを使ってみるのも慣れない事には手を出す気になれないし冒険心も欲もそんなに持ち合わせていなかったので、無理はしないというスタンスを崩す余地はなかった。不慣れなことはしないという性格もあったと思う。子供の頃からずっと変わらない田舎で暮らしていると、変化を思いのほかどこかで嫌ってしまう。いつも、同じ暮らし、同じ風景を好ましく思い同じものを食べ続け同じような生活スタイルの中で普遍的な幸せに誘われると、どうにもそこに落ち着いてしまい、変化を期待する影すらも生まれてこなかった。

母は、近年パートをやめて、糖尿病のため朝の十時ごろから昼ごはんと夜ご飯の心配ばかりしているらしい。父と私は出勤組なので、日中は母一人で家に居ている。兄はいたけど、結婚して家から出ていってしまった。

会社から家に帰ると、母娘が台所に立っていても別段しゃべることもなく、これどこに置く?とか、なんか暑くない?とか、あれ温めたっけ?とかの会話しかない。生きていくことに必要な最低限の言葉しか生まれてこなかった。それでも、愛車での通勤の時間は楽しく密度の高い満足度が生まれる。私から通勤=車内での時間を取り上げたら何が生きがいで生きていたのだろう。それなりになんとなく生きて平穏を好んで来たとは思うけど、満たされ具合は違ったと明らかにそう思う。視野の狭い片田舎の独身女で、免許が取れたのは感謝であり、奇跡でしかなかった。

私は、あまり恵まれたことは持ち合わせていないが、今私は、唯一交通手段だけは非常に恵まれてたといえるだろう。

車も、普通にあるどちらかと言えば安い方の軽自動車だった。だから、機能も見た目もあまり充実感はない。買った目的がそもそも通勤しなくてはいけなくなったからだったし、安くお得に選んでいた。つまり、当時の私はこだわりもなく、お金もなかったのも大きかったのだ。

それでも、小まめにレンタルショップに出入りしCDを入手しだして三年。私に快適と喜びや幸せや楽しみを味わうことが毎日の日常となって実現した。それは日常にしてみれば大きな変化をもたらした。まだ乗り出して三年。毎日がとても幸せな些細で大きな冒険となった。しばらくはこれで十分生きていけると思った。何も期待しなくても満ち足りるのだから。

外は、激暑だった。救急車が、時々サイレンを鳴らしながら突っ込んでくる。

そんな中、私は、クーラーを狭い車内に循環させて、砂漠のオアシスで水を飲むラクダのような心境になれた。こんな時、命の危機とは縁遠くいられる。有難さをしみじみと感じられて幸せだなぁと思い、潤った車内環境を身につままされる心持で有難いと感じ入るのだった。車から見る風景は日が容赦なく焼き尽くす砂漠のようで目もくらむほどに眩しい。すごく明るく感じるけど、車内なので日焼けの心配が大幅にしなくて、免れた。こんな時ほど、助かった、の一言に非常な重みを感じる。車に乗れていることに思わず、感謝している自分がいる事をつくづく何度も確認する。つくづく、車って、慎重にも貴重だと思わざるおえない。非力な女性である私は、車に頼らないと生きていけない生き物でもあるのかもしれなさそうだと思う事も、然り、あるのかもしれなかった。長い人生、これから先も、車がないと、未来がよく見えてこないものだから、車ってそれ相当の存在価値が高いもので在るといえる。

そんなこんなで、私の車生活は人生と共存しつつある。

生活に、車の運転が在るだけで満ち足りる幸せ、という一見なんの変哲もない境遇に多大なる存在価値を見出していた、三十の夏。それが、その頃の人生すべてにおいて成り立っていた。

今日も、定時刻。出勤時だ。毎日ギラギラと照りつける真夏の太陽が容赦ないので、私は出社に車内で飲むためのマイボトルを持参するのだが、これが結構ハマる。地味なのだが、ツボなのだ。

熱中症と叫ばれる世の中で、炎天下の下、運動もせず、車内で涼みながら冷たいお茶を優雅に飲んでいられるのは、唯一自分の車の中だけだからだ。この、ドリームタイムというひと時を、ほかの何に勝ると言えるのだろう。最高の快楽と快適さを最高の境遇で味わうことが、暑い夏には何物にも代えがたい贅沢の極みだ。同じクーラーの中といえど、家でお茶を飲むより、より極上の演出とも言えるのであって、これ以上の至高はないと思っている。映画館で、映画を見るより、条件がよくて運転作業も快適で楽しく、手の届く範囲内で全て操作が可能で、刺激的な空間なので、言うことない。

母は、お弁当の具だけ、いつも用意してくれていた。お弁当箱に詰めるのは私の役目。これを、会社の昼ご飯に大事そうにいつも食べている。お昼ご飯は、有ると無いとでは全然違う大切な存在だから、とても存在意義がでかい。そもそも、ご飯を食べるということ自体、とても大事な事なんだけど。いつも作ってくれる母には感謝しながら有難く頂いている。お弁当、様様なのだ。買わなくていいから、仕事が終わると直で食べられるのは、とても助かり、有難かった、しこれが結構手軽で、いかにも助かる。本当に、母の存在は神に等しい。しかし、母本人は、毎日が日曜日なようなものなのに、私と父の出勤のために毎朝早起きしてもらって、頑張ってくれるのが悪いようで気を使ってしまう。お金を家に入れて住まわせてもらっている身なので何かと少し遠慮がちに生活していたりしているのも事実だ。そのうち、本当に一人で引っ越すか結婚かしなければならないのだろうかと、焦りはしないものの年々気になっている。そもそも私には、気を使わない場所など、家の中には百パーセント存在していないかもしれなかったし、ずるずる親の家に住み続けても、きりがないのかと思う時があるのだ。それが、はっきりしない。今の私にとっては、肩身の狭い我が身にとって、少なからずも百パーセント存在価値の許される思いがある最高の居場所が、やはり車内になってきていて、そこは自室より断然居心地がいい。寝泊まりしてしまいそうなほどだ。結構ハマりやすい。意外と、居心地がいいのだ。それでも、家のガレージに車を止めてじっとしてるとクーラーも切れてしまうし、いつまでも車内に居る訳にはいかなくなるので、仕方なくドアを開けて降りなければならないのだった。そうやって私はいつもひと時の夢から覚めることになる。ドリームタイム終了=仮住まいのスィートホーム下車。家のガレージに着くと、毎日いつか終わりが来る。もともと、私は田舎暮らしの田舎育ちなわけで、この刺激のない田舎にいるという事は、まだ若者の類に入る私の唯一の刺激を求める何かがあるとしたら、車以外ないともいえるのだった。若者は、刺激が欲しくなる年頃なのだから、それは、求めても致し方ない事だし、必要不可欠なとても必要な事かもしれなく、若者のうちから、ボケてなんかいられないのだから、必然的だし仕方がない。そんなこんなで、つらつらと書き続けてきたが、私にとって、車が如何に必要不可欠で大切か、しみじみと良く分かってくれたと思う。




朝から、雨が降っている。


今日の、運転は水彩画の風景の中、ワイパーをフル稼働させながらの一日だった。

連日、唸る様に響いていた蝉の鳴き声も今日はピタリと止み、過ごしやすい気候で涼やかだ。マイナスイオンを含んだ空気が体を潤してくれる。

しかも三十にもなると、雨の日は気持ちが落ち着いて独身女性の大人心にしっくり馴染んでくるのがしっとりと心が落ち着いていい感じに馴染める気がする。三十の独身女としては、尚更染み入るものもある。私、年齢を生きてるなぁ、としみじみ思いい入り感慨にふける。しっとりといい女に雨の日はいられそうなんだけど。そのうち、結婚もして所帯を持てば、歳を取るにつれ滲み出るようなものがあるのかもしれないが、結婚もしていない今の私は、自分の中で収められてしまえるようなものしか持ち合わせてないのだろう。レインボウ、という名の付いた流行り歌は、昔から沢山在る。そのくらいの値打ちが、雨、というだけで溢れでている。雨には、感情的に感じ入る部分が沢山ある。こんな日は、特別な日限定の贅沢を味わいたい。

雨、という歌にちなんだCDを私はダッシュボードからあら探しをした。詳しくは、雨に纏わる歌。しっくりくるのがいい。かといって流行り歌は安っぽすぎるし、クラッシックは重過ぎるしで、その中間・・・。ジャズにしようか?雨の日を遊んじゃおうか?雨に纏わるジャズ・・・、「雨に唄えば」は、よく知らないし手元にないが、有名なだけに、そんな気分を味わいたい。

私は、ダッシュボードの中を一応引っ搔き回してみた。が、結局、無駄な行為だと邪推した。本当に聞きたい音楽なんていうのはそう簡単には現れはしない。音楽は、私の心そのものがあれば、自分の心は自分が奏でるから、必要ない。予め誰かにより作られ、用意された音楽とやらを聴きたいわけじゃないかも知れないのだから。それは、誰かの意識や考えによるものだから、自分世界の旅がしたいだけなのだったら、百パーセント自分世界に浸りたい。よって自分以外は邪魔であった。どんな音楽家と言えど、今の私にとって完全にお邪魔な存在になったそれは、ひとまず却下することにする。今の私は自分の全てで満たされたかった。雨はそんな私を外の世界から遮断して素敵な世界を演出してくれていた。それでも、窓ガラスに叩きつける雨音と雨の雫が私の意識を海底から浮かび上がらせる。私は、こんな時、独りを実感し、静寂にふけった。心地よい波しぶきが車外では吹き荒れる中、私は独り、海の底に漂っているような感覚が私をすっぽり包んだ。そこは、完全な孤立世界だった。孤独という名の不思議に満ちた異世界だった。

雨足が強まってくると、いよいよ海底に潜り込んでいくような錯覚を、掌で感じ取れるほどになるのを覚えることができる。童心に帰って年甲斐もなく暫し無邪気に喜んでみる。心が勝手にはしゃいでいるのを誰も止められはしない。完全に子供であり、遊んでしまっていた。それに、雨音が激しくなるにつれて気持ちが高鳴り絶頂期に向かって登っていく感じが何ともいえない。最高潮を感じ入る、乙の領域、聖域に入っていくのが手応えでわかる。なぜ、そこで手応えと思うのかは分からない。もしかして、天気を操っている気でいるからかもしれない。人間は、簡単に自分を神様だと誤認できてしまうもので、どんな場所でも境遇でも不可能を可能にできるとどこかで簡単に信じている人もいる。

方向指示器を出して、今日も仕事場の駐車場に入っていく。そこそこの定時刻だった。異世界探検は、一旦ここで終了。続きは、仕事が終わって一日が過ぎてから。待っていてね、車。私は車内から渋々下車して傘をさして、のろのろと会社に向かった。




別の日は、晴れだった。


気温が三十四度と表示されてある。熱く灼けるようなアスファルトがじりじりと熱気を帯びている。

朝から、定時刻。いつもの朝、にしてはやけに眩しい。今日も、激暑だ。

蝉が盛夏を煽ってわんわん鳴くので少しうるさいのには目をつぶって、BGMにして行こうと思う。夏の風物詩だと、無理やり思う事にする。

運転に丁度いい、青空と入道雲と蝉の声。

夏満喫。毎年夏は譲れない。三十路の夏も期待で胸一杯だ。蝉の音にうっすら、気持ちを重ねたくなった。

私はハンドル片手に、燃え盛る盛夏の蝉の音に夏気分で酔いしれた。今日は独身らしく、帰りはお酒でもコンビニで買って酔いしれてみようか、縁側で夕涼みでもしながら気分で外でも眺めてみようか。真夏の夜の夢に翻弄されたい、今日この頃。毎年この季節になるとユラユラと夢に現を抜かしだすのだ。大なり小なり、いい気分で翻弄されるのが、夏の宵の醍醐味。宵のせいにしてなんかいい事ないかな?

うーん、出来れば、ぜひとも三十の青春を飾りたい。何とかして一夏の夢を謳歌できないものか?

三十。三十路。何も気にしないが何も感じないわけではない。三十路はそれなりにお年頃だと思うし、それなりの年齢でもあると思う。特別、期待してる訳ではないものの、何かあってほしいのだ。

それは、いうなれば変化だった。期待しているのが二十歳。三十路は、望んでいる。蝉の声が主張して、こだましていく。自分の心と重なって少し重たい。明るく元気になれた二十代とは明らかに違って聴こえる蝉の音。年々、どこか鬱々としてきて重みを感じるように思えるのは気のせいではない。

茂重と、聴くようになったものだ。いつの間にか、パワーの源には感じなくなっていた。そのうち、気だるげな夏の風物詩として投影され、歳を取れば陽炎かノスタルジーの様に思えてくるのだろうか。三十路に何を望むのかは、あえてはっきりと見えて来ないのだから、結構分かりづらい。何がしたい、ではなく、何もしないのか何もしたくないのか、どっちでもいいので、日常を生きることが何かしたいのかという結論に出てしまう。結構めんどくさくなるのか、どうなのか。なにもなくていい年頃になれたという方が本当なのだろうか、それでいいのだろうか。そんなもので、今日は帰りにどこも寄らずに帰ってもいいし、いつもの日常に変化がない日々が私の三十路の青春。変化のない心地いい日々が三十代の青春だと思ってしまっっても良かったのかも。変化を望まないでもいられるのが、大人の入り口かも知れない。二十代はまだ遊んでいたい変化を求めて元気で居られた。そういえば、三十からは、遊びから離脱し、足を洗って小瀬らしくなる年頃でもあるのかもしれなかった。取り合えず、極端に変化を求めなくなったと、それだけは言える。それが、言うなればこの歳で求めているものかも知れないものだろうと思う。それでも、やっぱり夏なのでお酒ぐらい帰りに買おう。ちゃっかり夢は見ていたい三十路の乙女でもある。そりゃ、やっぱり現役がいい。出来るなら、いつまでも在り続けたいものだ。結婚しようが子供がいようが独身だろうが、一生乙女は乙女で居たいのが本音なのだろうし。

さあ、今日も定時刻。方向指示器を出して仕事場に到着。駐車場に入って行く。

日差しが灼けるように眩しい。




そんなもので、私の三十の夏は、過ぎ去っていく車での日常を謳歌していた。

仕事は、汗だくで厳しいし、結構な重圧だ。

そんな中、車で帰るときの快適さと言ったらなかった。

私には、これぞ十分に満ち足りた夏だ。

今日も、車に乗り、ドリーム・イン・カー。この夏の醍醐味である、車内での

夢のような時間を楽しむべきハンドルを握る。


いつか、海辺の高速道路を母でも連れて走ってみよう、などと思いながら。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ