第一話「前夜」
村で唯一の郵便屋を出ると、辺りはすでに暗くなりはじめていた。
陽は西に傾き、その光が山々の稜線をなぞるように、うっすらと影の輪郭を描き出している。
風は以前より冷たく、田畑の収穫を間近に控えた時期特有の、かすれた匂いがした。
土の匂い。
故郷も、今頃は同じ風が吹いているはずだ。
中天に浮かぶ雲は、オレンジと水色の混ざった空のなかで、所在なさげに浮かんでいる。
まどろみの夕暮れだった。
どこかで、鳥が鳴いている。
田畑の先にあるいくつかの家に、ぽつぽつと明かりが灯りだした。
村人たちの変わらぬ日常。
ぼくは少しだけその風景を眺めると、地図に記された村のはずれにあるはずの宿屋へと向かった。
道中、王都の記録課へと送った「アルガス戦記」のなかに不備はなかったか、頭の中でもう一度チェックする。
誤字脱字はないか。
客観的であり、公正であったか。
歴史を形どる上でイレギュラーとなるような、歪んだ記述はないか。
観察者としての役割を果たしているかどうか。
頭の中にある、賃金を得るに値するだけの職業的チェック項目をひとつひとつクリアする頃には、その街道沿いの宿屋に辿りついていた。
「アモルの宿屋」と看板に記されたその宿は、村の生い立ちを身守ってきたかのように古い。
太い丸太で組まれたその宿は、夕暮れの陽の中で静かに佇んでいた。
壁にところどころ虫食いが見られる。
おそらくは各部屋に取り付けられているのであろう小さな窓は曇り、長年の風雨の痕跡を残していた。
屋根に、枯れた木の葉がわずかに乗り、秋の風にそよいでいる。
そのアモルの宿の向こうには森へと続く道があり、先にはアルガス地帯へと続く山々が息を潜めている。
濃い染みのついた木戸を開くと、正面のカウンターに店主が座り、頬杖をついて、壁にかけられた一枚の絵を眺めていた。
絵には田園風景のなか、種をまく農夫たちが描かれていた。古い絵だ。
「こんばんは。一泊できますか?」
そういうと、店主はこちらに気づき、椅子の上でくるりと身体を回転させ、ぼくの方へと向き直った。
顔を覆う白いひげの中心にある唇が、にっ、と歪み、
「今日はじめての客だ。歓迎するよ!」
と笑う。
店主はもと農夫のようだった。
長年陽に焼け、肌はシミだらけだった。
シワの寄った服の袖はまくられ、そこから太い腕が伸びていた。
腕の先には、長年力仕事をしてきた者特有の、節くれ立った指がある。
この地方の宿屋は、基本的にはスマートな出で立ちをし、できるだけ客の要望に応えようと、紳士的な立ち振る舞いをする。
しかし、彼にはそれがなかった。
「一泊60ギガだ。どうする?まあ俺としちゃ、泊まってくれた方がありがたい。助かるよ」
そういって彼は笑った。
どんぐりのように大きな目は、笑うと線になり、くしゃくしゃのシワになった目の周りは、人の良さを表していた。
ぼくはうなずくと、腰に巻きつけてた布袋から金を取り出し、カウンターの上に置いた。
その金額は、この地方の相場よりはずいぶんと安い。
60ギガといえば、勇気を出した少し豪勢な食事と変わらないくらいの値段だ。
「アモルさんですか?」
とぼくが言うと、彼は大きくうなずき、「いかにも!元農夫にして、旅人の行く末を見届ける者、アル家の三男、アモルといえば俺のことだ!」
と叫んだ。
その声はまるで、錆びた鐘を鳴らしたように荒々しかった。
「ずいぶん安いですね」
と、ぼくが言うと、彼はさらに笑って、
「当たり前だろう!このへんぴな村で、正規の値段を取ってたらどうなる?俺はいつでもな、神様に怒られない値段でしか仕事は引き受けないよ」といった。
ぼくはうなずいて、宿の台帳に身元を記していく。
古い様式のペンは字を書きづらかった。
字はかすれ、無駄な力がいる。だが、旅先にはまだまだこういうペンが多く存在する。
記帳をのぞきこんだアモルの目が、一瞬光ったように見えた。
「あんた、王都から来たんだな。その胸のバッジ、もしかして(記録者)かい?」
彼はそう言った。
第二話「アモルとの会話」に続く