9
目まぐるしいいちにちだった。カナンは感情を爆発させたためか、ぐったりと疲れて眠っている。代わりにといってはなんだが、タミアが今おれの話し相手をしてくれている。
ぽかりと丸くあいた上空には満月と星が見える。ささやかな焚火をまえに、タミアは歌を口ずさみながら軽やかに舞った。湖の女王を材にとった歌だ。
一差し舞いおわると、タミアはたった一人の観客に向かって優雅にお辞儀をした。
「さすがだな」
「法皇さまの前で舞いを奉納したこともあったのよ」
タミアは誇らしげに胸をはった。本人が言うにはネの国いちの踊り手だったとのことだ。それもあながち嘘ではないだろう。
「カナンは毎晩なにをしていたんだ。ここをうろついていたらしいが」
「自分の……」
と一言しゃべるとタミアは言葉に詰まった。顎に指をあて首をかしげるいつもの仕草で言葉をさがしているようだ。しばらく間をおいてからようやく続けた。
「うまく説明できないわね。まあ、カインに出会ったこととこの地を治めている者たちに感化されてきているようだけど」
ここは、いにしえの神が宿る島と言っていた。シャトラーという名の神が眠りについた女王を守っているのだと。
「カナンのなかにはとてつもない量の記憶が宿っているの。法皇さまはもちろんだけど、こうしてあなたと言葉を交わした者以外にも多くの人の記憶がその人格ごとあるの。だから、カナンがその気になればなんにだってなれるわ。薬師や博士、舞い手だろうが神官だろうが……。でもね、カナンはそれ以外の何者でもなく、『カナン』になろうとしている」
相変わらず、尖耳族の言葉は理解できない。同じ言葉を使っていながらまるで違う言葉で話しをしているようだ。けれどもう深く考えるのはよそう。カナンは確実に成長しているのだから。いまのおれはそれを見守るのがせいぜいなのだから。
「カナンは初めて自分の運命を選びとったってこと。トールもできるだけ早く忘れたことを思い出せればいいわね」
ああ、とおれは頷いた。けれど思い出せるのだろうかと不安になる。いや、忘れてしまっている事の中に、知りたくない事実が含まれているような気がする。
タミアは小さく歌を口ずさみながら、焚火に木をくべていたがその手を止めた。不穏なものを感じとっておれも顔をあげた。
まわりの様子が変なのだ。さっきまで騒いでいた鳥や獣の声がぴたりと止んでいる。月がかげり始めた。天空を見上げると、月を覆っているのは雲ではなく霧だった。いままで、けして岸から侵入することがなかったしっとりと水気を含んだ霧が島を漂い始めているのだ。
同じくまわりを伺っていたタミアと目が合った。そのとたん、雷鳴が轟き光が炸裂した。
次いではげしい突風が襲って来た。急激な天候の変化? 思わずカナンを抱きしめうずくまる。木々の葉が飛ばされ、枝がきしる。砂にまざって石までもつぶてとなって体を打ちつける。
体を守るのが精一杯で、何が起こったのかもわからず、ただカナンを庇った。カナンは息をこらししがみついている。いつしか大地までもすさまじい勢いで揺れ始めた。
地面に亀裂が走る。
逃れるすべもなく奈落の底へと落ちてゆく!
あーっっ……!
見開いた目は暗黒の虚空からそらすことができず喉から悲鳴がほとばしる。
「目を覚まして、幻覚に惑わされてはいけません!」
声に驚き一度まばたきをすると様相が一変した。とたんに風も雷鳴もぴたりとやみ、そこには地割れなど存在せずただ木葉が散っているだけの場所になった。腕のなかのカナンはおれを押し退け、立ち上がった。
「大丈夫、大半は幻覚です」
それは久々に聞く、セルキヤの声だった。おれは額をつたう汗を拭いながら改めてあたりのようすを伺った。恐ろしいほどの静寂だ。風の音さえ聞こえない。霧はますます濃くなり、おれたちを取り巻いた。
セルキヤは鋭い目つきで、身の危険を嗅ぎ分ける獣のように顎をくっと上に向けた。
セルキヤの肩がぴくりと動いた。何かが近付く気配が漂う。
散った葉や枝を踏みしだきながら、それは剣呑な雰囲気をまといゆっくりと霧のむこうからおれたちに近づいてくる。
喉はいつしかからからに乾き、手の平は冷汗で濡れた。逃げ出したい衝動を、セルキヤの厳しい視線がおしとどめた。セルキヤの唇がかすかに動くと、わずかながらすうっと霧が消えた。そして、それを透かしてちいさな人影が浮かびあがった。
「ひどい……」
「アイラ!」
もう現れることもないと思っていたアイラがそこにいた。ああ、おれはカナンに許してもらう都合のいい夢を見ているだけなのか。アイラは怒りの形相でおれを睨んだ。
「あたしのことは守れなかったのに、そのおねえちゃんは守れるの?」
アイラは守れなかった。助けられなかった
アイラに薬を与えてなお熱は下がらなかった。痩せて骨と皮ばかりになったアイラは苦しみぬき、どす黒い血を吐きながら息絶えた。おれはなすすべもなく、ただ手をこまねいてみているしかできなかった。もっとよい薬があれば、病が広がる前に村を捨てていれば……。アイラはきっとそのことを責めているのだ。
いくら剣をつかえるようになったからといって、他人より多少弓の扱いがうまいからといって、こんなおれにカナンを守れるはずがない。
アイラの言葉はおれを切り刻む刃のようだ。後悔の涙が頬を伝う。両耳をふさいでおれはうずくまった。
「死者の名を語り利用するは、神と死者への最大の冒涜」
凛とした声が響いた。いつのまに入れ代わったのか、それはセルキヤではなくカナン自身の声だ。はっとおもてをあげると、肩をそびやかしアイラと対峙している。そしてそっとおれのほうを伺うと、言を継いだ。
「あれの言っていることは、トールの妹への後悔を探り出して言ったにすぎない。けして、アイラ自身の言葉ではない。トールは苦しまなくてもいい」
そうなのか、あれはアイラではないのか。指摘されるとアイラの顔がぐにゃりと歪んだ。唇が耳まで裂け、目が吊り上がった。あまりの変貌におれは吐き気を覚えた。
「神への冒涜? お前の言う神はラバァタのことか、あの名ばかりの最高神。実在もせぬ奴をいまだ祭るとは愚かな民人よの、尖耳族とは」
アイラはいや、それは高らかに笑い声をあげ、体を宙に浮かせた。霧はそこだけ赤黒く染まり輝きはじめた。アイラはもう元の姿ではなかった。ばらばらと髪が抜け落ちると背中が大きく曲がり、手足は不釣合いなほど細く伸び、膚はにぶい銀色になった。
「まやかしの神を祭り、誠の神の名を知らぬとは哀れなものよ」
奴の口から鋭い歯がぞろりと並んでいるのが見える。
ざわり、とカナンの髪の毛が逆立ったように見えた。いつしかカナンの握りしめた拳に光が宿りはじめた。いや、体のまわりで細かな泡のような光が幾つもはぜている。それが腕に集中していくのだ。
「きさまのように醜い、たかが使い魔ごときから辱めを受ける筋合はない! わが一族を、一族の神を侮辱した罪はおまえの死をもってしても贖いきれないぞ」
「なにができるというのか、覚醒すらしていない半人前に!」
カナンの手の中に直視できないほどの光を発した雷が生まれた。たまばゆいそれをカナンは槍のように奴に投げつけた。うなりと風を巻き起こしながら一直線に奴めがけて雷は闇を切り裂いた。
奴の体は瞬時に炎に包まれ、中空で燃え盛った。カナンは額に汗を浮かばせながらも、獲物をしとめたことに恍惚としたように、憑かれたように炎を見つめる。
いつのまにこんな力を身につけたのだろう。おれは美しい狩人の横顔をただ眺めた。
「右腕ぐらいはくれてやろう。しかしその程度の力、我が君とは比べるまでもない」
木立の中から声が聞こえた。まさか、という思いでおれたちは振り返った。そこには右腕を付け根からなくした奴がいた。なぜ、燃えたはずでは……。慌てて見た空にはなんの痕跡も見いだせなかった。
けれど、腕一本無くしても痛みすら感じていないようだ。体を大きくゆすりながらゆっくりとした歩調でおれたちに迫って来ている。
緊張の糸がぷつりと切れたようにカナンはその場にへたりこんでしまった。
「私じゃ駄目、カシャス……」
そのままカナンは気絶した。カナンを抱きよせることはできたが、足に力がはいらない。まるで腰が抜けたようだ。立ち上がることもできずにおれは奴を睨んだ。生身の人間ならば、剣や拳で対抗できよう。しかし、生まれて初めて見るあやかしの生物とどうやって戦えばいいのだ。カナンのような不思議な力などおれにありはしない。
「他愛もない。我が君がこやつを恐れるのかわかりかねる」
ひとこともらすとおれのことなど眼中に入らないとでもいうように、残され腕でカナンに触れた。カナンを渡すまいとおれは腕に力を込めた。しかし、おれとは比べものにならない力でカナンを奪おうとする。
わずかの間だが、おれは化物とカナンを取り合った。突然まるで皮膚が破けるようなかすかな音が聞こえた。
反射的にカナンから腕を離したとき、カナンの目がかっと見開いた。同時に奴の四肢がちぎれとんだ。耳をつんざく叫び声をあげて奴は散り散りになった。
「だらしがない。二人とも」
いまいましげに手首に取りついたままの奴の腕をもぎ取りながら眉をひそめた。
「カシャス……」
大きく息を吐きながらおれは肩から力を抜いた。久し振りの法王カシャスはまだどこか憂いをふくんだ表情だった。けれどいつものように眉間に皺を寄せ、おれを睨んだ。
「やたらと気弱になったものだな、トール。ぐずぐずしてはいられぬぞ。シャトラー神の結界が破られた。ここは、もはや安息の地ではない。一刻も早くビルカに旅立つのだ」
カシャスは立ち上がり自分が片付けた魔物を見た。ばらばらにされたそれは、しかしまだ動いているではないか。奴はまだ死んではいない。
おれたちのすぐそばに落ちた首がゆっくりと形を変え始めた。頭の上から植物の芽のような腕状のものが四本伸び、まるで蜘蛛のようにかさかさとおれの方へと動き出した。
「リーデルゥガの使い。あやつが復活したというのか」
立ち上がろうとするおれを制し、カシャスはつぶやいた。顔は小刻みにゆれながら別の顔を浮き上がらせつつあった。整った目鼻立ち。最後は耳の先端が鋭く尖った。紛れもないタティアの顔だった。
「トール、お願いよ。誓いを破らないで……」
タティアの声でそれはささやいた。まるで蛇に睨まれた蛙のようにおれの体は凍りついた。顔や声は彼女そのものだ。それだけで十分だった。彼女を思い出すには。
タティアの紅く濡れたような唇がゆっくりのとひらいた。
「わたしと交わした約束を覚えているでしょう? 逃げよ」
「地の果てまで……」
なぜか唇が勝手に言葉を紡ぐ。おれの答えに満足げにタティアはほほ笑んだ。この場面を以前どこかで一度見たことがある。タティアのほほ笑みはいつも悲しげなものだった。決してこんな計算高い娼婦のような笑いを見せる筈はない。なにかが違う。なにかが……。
「伏せろ!」
カシャスの鋭い声がとんだ。目の前でタティアが熟れすぎた果実のように木の枝で圧し潰された。
「タティア!」
思わず延ばした腕をカシャスが打ちつけた。カシャスの足元から青白い光が地を走ったかと思うと、ばらばらになった奴の体が溶けるように燃え始めた。
「邪神の復活か……。どこで見入られたのか知らぬが厄介なものに恨まれているのだな、トールは」
慰めとも諦めともつかないことをカシャスは溜息とともに吐き出す。魔物は青い炎をあげながら溶けて大地に吸い込まれていく。
最後の一片が消えるまでカシャスはその場を凝視していたが、すべてを見届けるとぼんやりとしているおれの背を乱暴に蹴りつけた。
「さあ、さっさと荷物をまとめてゆくぞ。夜明け前に湖を渡らねば、人目につく」
「渡る? どうやって。船も筏さえない」
「それは大丈夫だ。とにかく荷物をまとめろ」
考えたいことは山ほどあるのだか、カシャスは寸暇を惜しみせきたてた。わずかばかりの荷を持って岸についたときは空が白みかけていた。対岸がわずかに見えた。霧が散ってしまったからだ。しかし、船がなくてはどうにもならないように思える。泳ぐにはあまりにも距離があるからだ。
しかしカシャスは立ち止まることなく、湖の上へとそのまま進んだ。泳いで行く気だ、と思ったとき、カシャスは湖面に立っていた。まるで氷の上に立つように。足元にわずかに波紋が広がる。
唖然としているおれを尻目にカシャスはおれを呼んだ。
「どうした、早くしないか。カナンの体力がなくなる前に岸につかねば残りは泳がなくはならなくなる」
誘われるまま恐る恐る水に足を乗せた。結果はカシャスと同じだった。信じられないことにおれまでも水面に立てたのだ。それを確認してからカシャスは歩き始めた。おれも後に続く。歩くというよりは、滑っていくような感じだ。確かに足も動かしているのだが、それに滑降の度合が加わる。普通に歩くよりも数倍速い。
カシャスはただ行く手を見ていた。いつものように雄弁ではなく、静かに、どちらかというと思い詰めたような表情をしている。湖の中程まできたとき、おれは思い切ってカシャスに尋ねた。
「ひとつ聞いてもいいか」
「何を?」
カシャスは振り返らずに聞いた。
「リーデルゥガとは何者だ」
「邪神。かつてお前の氏族が祭っていた神の名だ」
吐き捨てるようにカシャスは答えた。
「おれはそれの呪いを受けているのか、ではリー・ジー王がそのリーデルゥガなのだな」
それなら納得がいく。リー・ジー王として大陸に自分の王国を築こうとしているのだと容易に想像がつく。一人合点しているおれの思いをカシャスが一蹴するかのように鋭く言った。
「馬鹿者」
カシャスは肩をいからせて振り返った。あまりの権幕におれのほうが鼻白んだ。カシャスに怒鳴られたのは初めてだ。
「どこまで馬鹿なのだ、お前という奴は。あの使い魔が姿を変えたのはタティアだろう。記憶が途切れた原因も、おまえの追討を命じたのもタティア! 幼子でもその中枢にいるのが誰かわかるだろうに、まったく。おまえが愚かなのか、タティアというリーデルゥガの術が巧みなのかどちらだ?」
そう胸倉をつかみかからんばかりの権幕で一気にまくし立てた。カシャスの言葉が頭のなかで空回りする。カシャスの怒りがどこからきているのかわからずに。
「まさか……彼女は王に囚われの身だった。いくら彼女が特種な力を持つ尖耳族でも……」
「トール、おまえがしっかりしないから……」
言いかけてカシャスは大きな溜息を吐いた。そのままおれに背を向けてしまった。まるで説得するのをあきらめるように。
「お前には世話になっている。結局ここまで来ることができたのも大半はお前のお陰だ。しかしトール、お前は考えなくてはいけない。タティアのことを初めから、なんの思い入れもなしに冷静に分析しなくてはならない。余りにも大きな力がお前を完全に搦め捕るまえに。リーデルゥガに対抗できるものは中つ国の女王だけだ。その女王もしない今、奴を封じ込めることのできる者はおそらくいない。わしがカナンの能力を有効に使ってさえ相打ちになればいいほうだ。だから……」
最後まで言い終わらないうちに突然カシャスとおれの体は水中に没した。カナンの体力が尽きたのだ。
岸まではあとわずか、という地点だ。くしくも島にたどり着いたときと同じようにおれはカナンをだきかかえ泳ぐはめになったのだ。
考えなくては……タティアのことを。
湖に浮かぶ島にまたゆっくりと霧がかかり姿を消してゆく。対岸で日の出を迎えながら、おれは考え始めた。