7
霧の小島に 女王は眠る
千年の 都は夢の彼方なり
いにしえの神が守りし御陵は さざめく波の水底に……。
カナンは、でたらめな詩を口ずさみながら舞う。けれど、ただ語るだけで美しい調べになるのはなぜだろう。
「カナーン……!」
乳のような濃い霧が流れる湖面。この島の周囲は一日中濃霧に閉ざされ、岸辺が見えることがなかった。
カナンは今、湖の中で魚を追っている。おれは水打ちぎわでカナンを呼ぶ。あまりにも長い間、カナンの姿が見えないので。
かすかに水音がした。それは徐々に近付いてくる。やがてカナンの泳ぐ姿が見え、ほっとした。
「トールは寝てなくちゃいけないよ。ごはんのことは心配しなくてもいいよ、ほら」
カナンは腕の中の大きな魚を見せながら、水からあがった。素っ裸のあられもない恰好のまま、魚をおれの鼻先に得意満面で差し出した。
かわりにおれは苦笑しながら布を手渡す。カナンはどうも羞恥心に欠けるようだ。こちらが目のやり場に困っているのに気がつかないらしい。
「ずいぶん遠くまで泳いで行ったのか。全然見えないから心配したぞ」
乱暴に髪のしずくを拭いながらカナンは霧の彼方を指さした。
「そうでもないけど、晴れているのはやっぱりここだけみたい。岸は見えなかった」
そうか、とおれ。カナンもひとつ頷く。
どう説明すればいいのか。
あの晩、もがきながらたどり着いた岸辺は、バレリの城塞の掘りばたではなく、ここだった。どうやらここは湖に浮かぶ小島らしかった。
ここにあるもといえば殆ど崩れた城跡、かつては煉瓦や大理石を敷き詰めていた床は割れ、天井は破れてわずかに骨組が残るのみ。長年、風雨にさらされ荒れるに任せていたと思われる。もちろん人がいる気配はみじんもなく、ただいくつもの壊れかけた美しい女性の像があって、夢のようなほほ笑みを浮かべているだけだ。
夢のようー。
霧は晴れることはなかったが、何故か島にだけは明るい初夏の日差しが降り注いだ。霧は生き物のように感じられなくもなかっが、それは決して不快なものではなく、むしろこの島を守っているような安心感さえおぼえた。
生い茂った木には甘い実がなり魚も豊富で、飢えることもなかった。突然襲い来る敵もいない場所で、おれは受けた傷を癒した。カナンはカナンで夜のあいだは島を歩き回り、昼間は寝ていた。
そんなわけでおれとカナンの生活する時間にはかなりのずれが生じ、わずかの間しか顔を合わせることがなくなっている。
「カシャスは元気になったか?」
「ううん。まだ落ち込んでいるみたいでめったに話もしてくれない」
カナンは大きく伸びをすると、ことりと草のうえで眠ってしまった。夜、どこまで歩いているのか知らない。たいして広くもない島だ。泳いだりもしているのだろうか。かなり疲れるらしく昼間はほとんど眠っている。
カシャス法皇はここにたどり着いたとき、一度だけ出てきた。ひどく辛そうで、いつもの法皇ではなかった。
果すことができなかった使命。彼はここに残った人々を次の船に導くためにいたのだ。何百年という時間、代々の巫女の中に存在し続けながら。
カシャスは肩を落とし言葉すくなに語った。
『御使いはおっしゃった。
――この地に留まることは本来許されないのだ。我ら尖耳族とこの星の民人は相入れない存在なのだから――
あれは、今を予言していたのかもしれない。事実、我らは狩られている。理由はどうあれ、尖耳族が異質なものであるということを本能が知らしめているのではないか』
野蛮で粗野。無教養な齋民人と誇り高き尖耳族を同列に扱うでない、と普段はおれを見下す言葉を吐くカシャスからは信じられない。
カインを救えなかった悲しみは、一族全体を救えなかった悲しみなのだと思う。
けれど、どうにも妙だ。あの夜以来、カナンはなぜかおれに親切だ。かいがいしいと言っても良いくらいに。
体の傷もさることながら、おれは狂いかけているような気がする。見えるはずのないものが見え、聞こえるはずのない声が聞こえる。それも、もうこの世にはいない人物ばかりのものがだ。
過去の記憶はあやふやになり、自信がもてない。
今はただ、もどかしい。自由にならない体も、記憶も。
眠るカナンの横に腰をおろし霧を見つめる。うずくまるおれに誰かがささやく。
『すべての元凶である尖耳族を殺せー』
霧の彼方から聞こえる声は、おれを惑わす。けれど、もうひとつの言葉にならない声も聞こえるような気がする。
『いけない』と。
カナンの眠る横顔。髪は紅蓮のようにもえあがり、白い素肌と美しい調和をみせる。最後の尖耳族、これを始末すればすべての煩わしさから解放される……きっと。
いつの間にかおれはカナンの細い首にそっと手をかける。すぐだ、すぐにすむから。苦しませはしないから……。
「トール!」
ほんのわずかに指が首に食い込んだとき、熟睡していたはずのカナンはカッと目を見開いた。かすかに宝珠が鳴った。
身をよじったカナンはおれの手からするりと抜け出した。しばらくの間、おれは自分の手を見つめ続けた。まただ、またやってしまった。
「これで何回目だっけ、かれこれ三回にはなるわね」
脱ぎ散らかしていた服を着ながら言ったのは、タミアらしい。その口調には非難は感じられず、むしろ哀れんでいるようだ。
「カナンには黙っておきましょうね」
柔和な笑みを向けられると、許されたような気がして少しばかり心が軽くなった。
カナンの人格は最近めっきりと代わらなくなった。常連だったカシャスはそのとおりだし、セルキヤはおれが怒らせてしまったからだ。
タミアは手櫛で髪を整えながら、おれの瞳をのぞきこんだ。
「ますます色が変わってしまったのね。右目ー。もう私たちと同じ黄金色に」
変調の原因は瞳の色にあるような気がしていならない。イレアーズの言葉はこのことを指していたのだ。
このことを一番相談出来そうなセルキヤは、あれ以来出てくれない。そもそも、瞳の変化を見つけたのはとうのセルキヤだった。
それはここに着いて間もないころ、傷口の手当をしていたセルキヤが頭の包帯を取り替えようとした手を突然止め、おれの目を見入ったことに端を発する。
「いつのまに……、目は痛くありませんか。どこかにひどくぶつけたとか」
イリアーズの剣に飛ばされて壁にぶつかったが、頭や目を特別うちつけた覚えはなかった。
「いや、なかった。どうしたんだよ」
ひどくうろたえて聞いてきたので、こちらまでつられてしまう。
「あぁ、目が右目が金色に変わっています!」
まさか、と思ったがもとより神殿の導師だったセルキヤは嘘をつくような性格ではない。一瞬にして放心したイリアーズの顔と言葉がよみがえった。
『きさま、尖耳族』
……その後、セルキヤは薬草を代わる代わるためしてみたが効果は一切なかった。どちらからともなく口にしたのは、魔術の領域ということだった。
「いいですか、力を抜いて。気持ちを落ち着かせて下さい」
術をかけた者を、探ることができるかも知れない、とセルキヤは言った。右目から術師までさかのぼることできるかもしれないと。セルキヤはおれの右の瞼に軽く指先を触れながら、自身も目を閉ざした。
そのとき、瞼の裏に浮かんだのは行軍のようすだった。
生まれた山間の村から遥か離れた海辺の都市を襲撃したこともあった。あるいは草の海。あれほどの平地を見たのは初めてだった。多くの天幕が張られ、中央には覇王と彼女のものがあり、おれは一人用のものを支給されていた。
夜毎かぼそく響く歌声。琴をつまびきながら歌う彼女の歌詞は意味は分からなかったが、胸を締めつけるようなせつない旋律を帯びていた。
「この女性は?」
突然セルキヤは声をあげた。誰のことかわからずに、おれは答えられなかった。
「そんなはずは……けれど」
断片的な言葉のはしばしに、セルキヤの驚きが感じられる。
「誰です? なぜそこに、このときに尖耳族がそこにいるのですか!」
とたんに、セルキヤの指は何か強い力で弾かれて。
「どうしたんだ、大丈夫か」
セルキヤは怒りをこめた視線でおれを睨みつけた。弾かれた指は真っ赤になっていたが、顔色も見る間に朱に染まった。
「あなたは隠しておられたのですね、軍のなかに尖耳族がいることを!」
語尾が怒りのためにふるえている。いつもの彼らしくない態度におれは狼狽した。
「あれの名前は?」
冷たい声で更に詰め寄った。
「タティア……」
彼女の名はタティアといった。幕屋のなかに閉じ込められた軍師、覇王によって捕えられその力を地上制覇のために利用されていたのだ。
「……術は解けません。あれはもう我らと同じ氏族ではありません。なにか【禍つもの】になりかわっています」
いくぶん怒りは収まり、こんどは悲しげに眉を曇らせた。思わずおれは彼女を弁護した。
「禍つものではない。彼女は覇王に利用されていただけだ。いつも悲しげで、泣き暮らしていた」
セルキヤはひたとおれを見据え、それから溜息を吐いた。
「それですよ。術がとけない最大の理由は。あれへの執着をお捨てなさい」
「執着ではなく、おれは彼女を愛していた、だからこの手で殺した!」
殺して欲しいと、彼女が願ったのだ。囚われ、覇王に責められる彼女が唯一自由になれる方法。だから、おれは……。
「過去形で話す必要はありません。タティアは生きています」
耳を疑った。イリアーズに続いてセルキヤまでそんなことを言うとは。セルキヤは呆然としたおれに。いくぶん優しげに、しかしきっぱりとした口調で諭した。
「ご自分でよく考えてご覧なさい。まずは術をかけられているということを自覚しなければ。それが出来なければ、わたくしの手だてはひとつもありません」
最後の言葉は決然として聞こえた。
「どんなことを覚えているの。タティアはどんな人なの」
タミヤがいつまでも思い沈んでいるおれに声をかけた。いつのまにかきちんとした恰好で座っている。首からさげている宝珠はふたつに増えている。
「カナンはおれのことを嫌っていないのか。タティアのことを話さず、ここにきてから何度もおれに殺されかけたりしているのに」
「どうして? あなたはよくしてくれているわ。そんな怪我までして、カナンのことを守ってくれている。それに術がかけられているなら、しかたないとうことぐらいあの子は理解しているし、ましてやそれをかけたのが並の人物でないことを察することが出来るくらいになったのよ。たとえあなたのいきさつまで分からなくてもね」
……カナンはカインと出会ってから、急速に大人びた顔をするようなった。その顔自体は、カシャスやセルキヤのときで見慣れてはいたが、カナン自身だと知ったときは驚いてしまった。おれには少しも理解できないが尖耳族の巫女としての力に目覚めたようなのだ。
「タティアは、戦略に長けていた。覇王の作戦はすべて彼女の能力だった。けれどそれは自らすすんでしていたことではなく、覇王におどされてしていたにすぎない」
ときおりうなずきながら、タミアは口を挟むことなく耳を傾ける。彼女にはかたくなな心をとかすような物腰が備わっている。
「覇王は捕えた尖耳族の巫女を、わざと彼女の目の前でなぶり殺しにして見せたりした。脅していたのだと思う。逃げたなら、どうなるのかと」
紗幕の向こうで彼女は悲鳴をあげ、気絶した。そのころはまだ、なぜ王がわざわざそんな事をするのか分からなかった。軍師を直に見たものはほとんどいなかったから。よもや、軍の指導の中枢に尖耳族がいようとは想像だにしなかった。
「初めて彼女を見たのは腕を折って陣営に腰を据えていた時だ。手がすいているものがなくて、彼女の食事の世話をしたときだ。……驚いたよ」
憂いを秘めた瞳、赤い巻き毛は長く額を銀の輪でしめていた。覇王は彼女には惜しみなく物を与えているらしく、野外の天幕のなかとは信じられないほど豪奢なもので溢れていた。
「彼女は日々思い悩んでいた。覇王は特種な力をもつ尖耳族が外の者の手に落ちることを警戒し、逆に独占するために狩っていたから。心ならずも、仲間を殺す手助けをすることが耐えられなかった」
いつしか心を通わせそして、彼女の最初で最後の願いは……。
「どうかあなたの手で総てを終わらせて下さい……。そう言った。彼女はおれに殺されることを望み、おれは逆らうことができず、確かにこの腕の中で息絶えたはずなのに」
「けれど彼女は生きていて、あろうことかあたなの追討令まで発した」
タミアはそこでおれの言葉をひきとり続けた。
「じゃあ、ルドヴとやらを手にかけたのも同じ日だったの?」
「ああ、ルドヴをおびき出して…」
タミアは顎に指をあて首を傾げる。おれもふと思い返してみる。なにか変だ。
「ルドヴを始末して、血まみれのままタティアを訪れたの。物凄く目立ちそうね」
そう言われると、とたんに自信がなくなる。あの夜の出来事は忘れるはずがないと、忘れられるはずかないと信じていたから。
過程は思い出せず、ただ二人を殺したのだという結果だけが頭を占めている。何かが邪魔をしているようなのだ。
「あせらないで。きっと思い出せるわ。それより熟睡していないでのしょう? 目の回りが隈になっている。カナンも心配しているわ」
「ビルカの約束の日に遅れると?」
「そうじゃないわ、あなたの健康を気づかっているの!」
姉が物分かりの悪い弟をたしなめるようにタミアは言った。
「わからない? カナンはあなたでよかったと思っているの。ラバァタさまの采配に感謝しているのよ」
なぜ、おれだったのだろう。カナンと出会ったのが。別の、尖耳族とはかかわりあいのない奴であってもおかしくないのに、よりによって因縁浅からぬおれだったのだろうか。そんなことを考えているうちに、タミアも眠ってしまった。
ここを早く出なければ。約束の日に間に合わなくなってしまう。
カナンは船に乗り、多くの仲間に会えるだろう。やがて大人になったらきっとカインとよく似た若者と結ばれるだろう。
おれは、岩谷の王国で……どうなるのだろうか。
カナンの将来のことは簡単に想像ができるのに、自分のこととなると五里霧中だ。まるで、ビルカから先にはないかのように。
――まだ死にはしない。
ではいつだろう。どんな死にざまなのだろう。焼死、水死、転落死、病死? いやきっとどれでもない。
カナンは眠る。輝かしいばかりの命の光を放ちながら。
過程はわからない、けれど結幕はわかっているよ……カナン。
直しが多すぎる。漢字を開きまくる。